尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「ナラタージュ」、原作と映画

2017年11月04日 21時02分06秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画「ナラタージュ」をそろそろ見ないと、上映スクリーンが少なくなってきた。行定勲監督、松本潤有村架純の主演で作られた恋愛映画。主演者の名前で見る人が多いんだろうけど、僕にとっては島本理生(しまもと・りお)の原作が好きだから見たい。だから客観的な評価は難しいので、雑多に感想を書くことにする。松本潤、有村架純というのは、これ以上ないぐらいのベスト・キャスティングという感じだけど、それでも原作のファンにはなんとなく違和感が残るかもしれない。

 映画の話を簡単に書いちゃうと、東京の話を富山に移している。あれ、海が見えるよ、電車もあるから江ノ電かななどと思うと、半分を過ぎると車のナンバーに「富山」と出てくる。えっ、日本海だったのか。ラストにうまく使われている電車は「万葉線」というんだそうで、これが効果抜群。運河沿いの建物なども生きている。学校が出てくる映画は、どこかでロケすることになる。学校そのものを大々的なセットで作るのは無理だから、どこかで借りることになって、地域の空気感が出てくる。
 (ラスト近くの万葉線シーン)
 その意味で、富山に移した映画作りは成功しているように思った。卒業間近の海辺の散歩など、ムードが出ている。冒頭で大学2年生になった工藤泉(有村架純)のケータイに葉山先生(松本潤)から電話がかかってくる。卒業以来の連絡で、一瞬心が止ってしまう。高校時代、居場所を失っていた自分に、演劇部という場所を与えてくれた先生。今年の演劇部は3人しかいないので、文化祭公演に卒業生の手助けが欲しいというのである。原作と違って、ここはシェイクスピアの「真夏の夜の夢」をやるという設定。これが意外にもセリフと状況がリンクして、効果を挙げている。

 僕は島本理生(1983~)の原作が2005年に出た時に、すぐに読んで参ったなあと思った。作者は2001年に「シルエット」で群像新人賞優秀作、2003年の「リトル・バイ・リトル」で芥川賞候補になったわけだが、その時点で都立新宿山吹高校に在学していた。新宿山吹高校というのは、日本で初めて作られた単位制高校である。僕は当時夜間定時制高校に勤務していたから、この島本理生という作家に関心を持って読んでいた。そのころ綿矢りさも高校生で作家デビューしていたが、東京を舞台にしている島本作品の方により近しいものを感じて、出るたびに読んでいたものだ。

 中でも「ナラタージュ」は初めての書下ろし長編小説で読みごたえがあった。だけど、出来栄えの問題以前に、高校の社会科教員で演劇部顧問という設定に参った。しかし、そういうのは「物語を推進する仕掛け」だから、まあ僕と似ているからと言って気にするほどでもない。でも、中に出てくる映画談義にはうなった。作者が繰り出してくる映画の題名が、ことごとくツボにはまるのだ。葉山先生の家には「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のDVDがあったが、「先生、この映画嫌いだったんじゃないですか?」「それは妻のだよ」。深い事情あって別居している妻が先生にはあった。

 一方、ヴィクトル・エリセの映画もよく出てくる。小説では「ミツバチのささやき」が印象的に使われているし、映画では「エル・スール」の映像も出てくる。たまたま映画館で同時に見ていた。その映画館では「エル・スール」と「マルメロの陽光」をやっている。僕も「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は好きじゃないけど、ヴィクトル・エリセは大好きだ。葉山先生は奥さんとではなく、泉との方がうまく行くんじゃないですか。コアなアート映画ファンにそう思わせる仕掛けが効いてる。

 だんだん判ってくるけど、二人はともに心に大きな欠損を抱えて生きている。工藤泉が葉山先生に惹かれたのは、居場所がなかったときに生きる意味を見つけられたから。一方、失意と混乱を抱えて別居して学校を代わった葉山にとっても、工藤泉の存在が教師としての存在確認になっていく。その意味で「相互依存」とも言えるような部分もある。映画の中で泉が成瀬巳喜男監督の「浮雲」を見る場面があるのが、監督の批評でもあるだろう。(ちなみに、エリセ特集をやってた映画館で、今度は「浮雲」「流れる」「女が階段を上る時」の成瀬監督三本立てをやってる設定。)

 この「腐れ縁」を描いた傑作映画を補助線に使うことで、監督は二人の関係を表しているのだと思う。お互いがお互いを必要としたのだから、これは「美少女がイケメン教師に憧れた」といった「禁断の恋」ものではない。だけど、それは同時に行き先がない道筋でもあった。教師と生徒だとか、妻との問題とか、そういう問題を離れて、少なくとも「物語」としては二人には幸福な結末は用意されないのではないだろうか。「先生に呼ばれた気がした」という名シーンが原作にも映画があるが、そのような一種スピリチャルな結びつきがこの二人にはあったのである。それはよく伝わってくる。

 「ナラタージュ」とは「映画などで、ある人物の語りや回想によって過去を再現する手法」である。映画でも、一番最初は映画配給会社に勤める泉が、懐中時計に触れて過去を追想することで始まる。回想された大学2年時から、さらに高校時代が再回想されている。この二重の時間の仕掛けによって、過去はそれぞれにとって改変されていくだろう。そのように回想された過去は誰にでもあると思うし、「本当の愛」があるとすれば、そういう場の中にしか存在しないのではないだろうか。

 その意味で大事なのは、高校時代の工藤泉の描き方だと思う。有村架純があまりにも魅力的に描かれてはダメなのである。実際はいかにも居場所を失ったといった虚ろなまなざしを、案外ブサイクな感じで演じている。こういう演出がうまいと思う。今回髪を切ってボブにしたと言ってるけど、今まではどんなだったっけと映像を探してみると以下のような感じ。最初が「ビリギャル」の金髪、次が「何者」の就活用写真、ついて「ひよっこ」が終わった時の写真。なるほど、いつもロングだ。
  
 行定勲(ゆきさだ・いさお)監督は、21世紀初頭の「GO」や「世界の中心で愛を叫ぶ」が有名だけど、僕はどっちもあまり好きではなかった。むしろほとんど評価されなかった「ロックンロールミシン」や「きょうのできごと」なんかが好きだった。久しぶりに本格的な長編映画を見た気がするけど、手腕は見事。来年公開の「リバーズ・エッジ」にも期待が高まる。脚本は堀泉杏。撮影は福本淳

 ところで、演劇部の活動を描いた映画としては、平田オリザ原作の「幕が上がる」がある。部活的リアル感では、そっちになる。というか、そもそも部活としてはおかしい。ほとんどの高校で、文化祭の出し物は演劇部の地区大会の演目でもある。だから、先輩が出演するなどありえない。(高校野球の予選に、選手が足りないからといって大学生の先輩を出せるわけがない。)大体、3人なら3人でもできる演目がないわけじゃないし、泉も3年で葉山先生がスカウトしてきた。照明や音響を誰がやってるのか知らないけど、要するに葉山先生も含めて「工藤泉に久しぶりに連絡するための仕掛け」と理解すればいいんだろう。大体、見てるときにはそんなことは考えないし。

 「社会科準備室」(高校から「社会科」がなくなってもう久しいのに、いまだに全国的に「社会科準備室」なんだよな)に、誰もいないのも不思議。理科の先生は、物理室、化学室、生物室なんて一人ずつ特別教室があったりするが、社会科系はまとめて一室だから、常にだれか他の先生がいる。面談もできやしない。そんなところに毎日行って、誰にも会わないのはおかしい。まあ、どうでもいいんだけど。それと葉山先生は担任ではないと言われている。だけど、成績は知ってるし、進路の相談に乗ってくれるという。物語の中の教師って、ほとんど校務分掌が出てこないけど、葉山は進路指導部プロパーだったのかなとそんなことも思った。
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