尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

メリトクラシーの昔といま-「ゆとり教育」論⑤

2016年09月12日 23時23分26秒 |  〃 (教育行政)
 「ゆとり教育」論も長くなってきたけど、もう少し。前回の「ゆとり世代」の話は、実はもう少し続きがあったんだけど、なんだか疲れてしまって「少子化」ファクターだけでやめてしまった。まあ、またいずれ続きを書きたいと思う。さて、今回は「メリトクラシー」(meritocracy)に関して書くことにする。

 21世紀になって、教員免許更新制もそうだけど、一体何を考えているのか、従来の考え方からすると全く理解できない教育政策が続々と実施されていった。(まあ、教育だけでなく政策全般がそうかもしれないけど。)そこで様々の教育関係の本、教育社会学とか教育史などを読んでみたことがある。その結果、「ヒドゥン・カリキュラム」とか「ショッピングモール・ハイスクール」とか、面白い言葉を知ることができた。「メリトクラシー」もそんな中で知った言葉である。

 「メリトクラシー」というのは、日本では簡単に「能力主義」あるいは「業績主義」と訳すこともあるらしいけど、もう少し奥が深い言葉である。「メリット」(業績、長所)と「クラシ-」(支配、政治)を組み合わせた造語で、むしろ「メリトクラシーの弊害」を訴えるために作られた言葉だったらしい。「生まれよりも能力で支配者が決まる社会」のことだけど、若い世代が社会に出る前は「試験による選抜を経た学歴」しか判断材料がない。だから、「学歴階層社会」という意味合いも出てくる。

 もっともヨーロッパ、特にイギリスなんかは今もかなり階層社会的な要素を残している。貴族制度も残っているし。一方、日本では親が名門だとか大金持ちだとかいう場合でも、子どもは「それなりの大学」を出ていないと評価されないと思う。一族が支配する同族企業なんかなら、お手盛りで役員の末席ぐらいは与えられるかもしれないが。大体、世界の中で東アジアが一番「受験戦争」が激しいと言われる。中国で昔あった「科挙」が社会に影響を残しているのかもしれない。今は日本よりも、中国と韓国の受験競争が非常に激しいとよく問題にされている。(なお、日本は中国の律令制度を受け入れたが、科挙は取り入れなかった。)

 世界中で前近代社会は「身分社会」である。ある時代までは、人間は「家族」や「一族」を通して世界を理解していたから、「親の職を子が継ぐ」という方が誰でも納得できる。能力がある人は、身分の高い人に仕えればいいのであって、身分が低いものが高い地位についても誰も納得しない。そういう社会が近代になって大きく変わる。「身分制」そのものが「不正義」と思われるようになり、貴族や金持ちに生まれても「本人の能力」を示さないと、それなりの地位には付けなくなる。

 その理由としては、近代社会をかたち作る「工業」とか「軍事」という世界が、「能力」を必要とするということが大きいと思う。無能なトップを戴くと、会社はつぶれる。会社ならともかく、軍隊だと戦争に負けてしまう。それは困るということで、世界の各地で軍隊から「メリトクラシー」的な世界が確立されてくる。アジアやアフリカの国の中には、「軍事政権による開発独裁」が民主化を置き去りにしながらも「工業化」を成功させたケースがある。近代日本も同じような場合と考えることができる。陸軍は長く長州藩閥が影響力を持っていたが、「陸軍大学校」卒業の軍事エリート(永田鉄山、東条英機ら)によって藩閥が崩されていった。(しかし、その結果成立した「軍事エリート支配」こそが、大日本帝国を破滅させてしまった。)

 戦後になると、東京大学卒(正確には「東京帝国大学」時代の卒業)の官僚が、政界、財界に多くなった。一般的に東大や京大、あるいはそれに準じる有名国立、私立大学を出ると、国家公務員(上級)や有名大企業、あるいは弁護士、医師等の安定して社会的評価も高い職業に就ける可能性が高いと思われた。昔ほどではないだろうが、今も大きな傾向としては、それはあるだろう。そうすると、逆算して、有名大学進学者が多い高校にまず入った方が有利である。さらに中学や小学校、幼稚園…と親は果てしなく考えることになる。親も子も、将来を考えての行動のはずが、「とりあえず有名大学」入学に全力を傾ける。そういう「学歴社会」が成立したわけである。これが日本における「メリトクラシー」だと考えられるだろう。人間を卒業大学で判断する傾向は、今も高齢層を中心に根強い。

 そういう「学歴信仰」みたいなものが、日本で根付いた理由はどこにあるだろう。ある時代まで、日本の近代化が「欧米に追い付け、追い越せ」が目標だったということが原因だろう。日本の学問そのものも、あるいは日本の産業そのものも、欧米のものを受け入れ、日本に合わせてこなしていくということが中心だった。そういう時代には、「学校で教える知識」をもとにしたテストで選抜し、合格した大学生を官界、産業界に送り込むことに「合理性」があったわけである。

 今の話はエリート層の問題だが、世の中を支えている中堅層でも同じような構造が成立していた。中学で真ん中や少し下の層も、職業高校や中堅の普通高校に入学して、マジメに学校の勉強を行う。部活や行事も大事だけど、まず勉強をやってないと、学校での評価が高くならない。そうしてマジメに高校生活を送ったことにより、学校推薦でそれなりの会社に就職できる。工業高校に進学した男子生徒は、在学中に多くの資格を取り、それを生かして大企業の高卒社員になった。それは「終身雇用」が保証されたものだった。女子も商業高校で珠算やタイプの資格を取り、一流企業の事務職に就いた。そんな世界がほんの一世代前まで存在したのである。今はもう、そんな高卒求人はないだろう。モノつくりは外国に移り、事務職は派遣社員がパソコンで行う。

 エリート層でも同じだ。大企業に勤めさえすれば、一生が保証されるという時代は、もうだいぶ前に終わってしまった。そして、そのような「雇用の流動化」は政府が進めたものだった。IT化、グローバル化の中で、大企業が生き残るために、今までのような雇用慣習は変えられていった。そうすると、有名大学を出れば、あるいは中堅高校でマジメにやれば、一生の仕事が見つかるということで成立していた日本の学校はどうなるのか。学校でマジメに勉強しても、人生に何の意味があるのか。これが「日本の教育を変える」理由だったのだろう。このままでは、日本の学校は社会的な存在意義を失ってしまうのではないか。そういう危機感の中で、20世紀後半の日本で実施された「ゆとり教育」(=「生きる力を育む教育」)というものが、構想されたと考えられるのではないかと思う。
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