カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

正義の殺人というのはあるのだろうか   三度目の殺人

2017-09-26 | 映画

三度目の殺人/是枝裕和監督

 供述をころころ変える強盗殺人犯の弁護に手を焼いている知人の弁護士の手助けのために、敏腕弁護士が助けに入る。殺人は自白しているうえに、過去に自分の父が裁判官をしていた事件で殺人の罪で長く刑務所にも入っている男である。争点として死刑を免れたら弁護士の仕事として点数があがる、というような懸案かもしれない。しかしながら弁護をするうえで話を聞くうちに、この事件の背景にある殺人の合理性のようなものに、弁護士の立場でありながら段々とその主張そのものにのめり込んでいくことになっていく。
 長崎県出身の日本を代表する二大俳優が出演する話題作である。当然見なくてはなるまい。さらに是枝監督作品だ。個人的にお腹の調子が悪くて苦労して観たのだが、なかなか単純に収まらないミステリ作品だった。演技合戦としては素晴らしいと思ったのだが、法廷ミステリの演出のために、やはりいくつか疑問の消えない問題があったように思う。司法の批判のための映画ということであれば、それは確かに司法は一般の常識を逸しているダメさ加減はよく分かるのだが、しかしそれは必ずしもうまくいっていない感じもする。ミステリ作品として犯人の心情を忖度する弁護士の苦悩という視点でいっても、それであれば敏腕弁護士としてはそもそもどうなのか、という疑問が消えなかった。面白い映画であるとは思うが、是枝監督の特徴である人間ドラマと商業性があまりうまくいってない感じもする出来栄えなのではなかろうか。何か現実問題の深い問題性が、結局のところ掘り下げられる前に消えてしまう中途半端さも感じてしまった。まあ、他の日本人監督の中途半端さよりは、さすがにレベルの違う水準の高さであるとしても。
 個人的見解としても、死んでもよいという人間はいるのは当たり前だと思う。それくらいくだらない人というのは居るものである。しかしながら、それを裁くために殺していいのか、というのは、実は別問題だ。それは人間としての裁量を超えるものである。殺人犯のすべてがそうであるとは言えないが、罪を背負うということであるのであれば、私刑として殺人をする裁量は、実は現実の中で選択可能である。犯人はそれを実行した人であるのかもしれない。司法では当たり前だがそれは認められないことである。しかし、死んだ人、殺された人の人格などは、司法の社会では、そもそもあまり問題にしていないのではなかろうか。殺した人が悪いのであるから、その前の人間としての許しがたい罪の追及は、とりあえず問題外になってしまうのであろうか。たぶん、そういうことがテーマであるはずなのだが、そういうことはうまく伝わらない映画だったのではあるまいか。ちょっと惜しい感じかもしれない。
 しかしながら、それでもやはり面白い映画である。考えさせられるし、繰り返すが演技合戦の見どころも多い。特に長崎県人が北海道の人のようにふるまうことの俳優の演技力は、面白いものがあるな、と思った。考えてみると高倉健が、北九州の人間なのに北海道臭さがあったような、そんなことを思い出したりしたのであった。
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