1974年に発売されたYAMAHAの一連の総合アンプ(レシーバー)CR400,CR600,CR800,CR1000は最安値のCR400が5万円台、最高値のCR1000は18万円台という価格帯の広さと分かりやすい格付けがされたラインアップだった。レシーバーとはプリメインアンプにAM/FMチューナーを内蔵したものでスピーカーをはじめ全ての周辺機器が接続されたセンター部分。合理的な発想をする人が多い(と思うが)欧米では広く普及したがこだわりの愛好家が多かった日本では単品としてはあまり人気がなかったと思う。当時はA社のプリとB社のメイン、C社のチューナー、、どの組み合わせがベストかなどといった記事が雑誌を賑わせていた。それ以前にもモジュラーステレオというカテゴリーのプレーヤーまでも一体化した卓上三点セットがあったがさすがにここまで詰め込むと高性能は望めずどうしても簡易的な位置付けだった。
現在まで続くYAMAHAオーディオは70年代は(特に1974年)今では考えられないほど華々しく話題の製品を次々に発表してオーディオ界を席巻していた。日本の家電メーカーも独自のオーディオブランドを持っていた時代でYAMAHAはどちらかといえば後発組だった。そのYAMAHAが海外展開も見据えて一挙に4機種発表したレシーバーはYAMAHAオーディオを象徴する白木のキャビネットに収まった輝くような意匠のものだった。CR1000以外はほとんど一緒のデザインで出力や回路構成で差別化した。フラッグシップのCR1000だけはサイズも大きくパネルデザインも全く異なっていた。このシリーズは製品のランクはそのままで2桁目の数字の変更で何世代か続いていたようだが日本で発売されていたかは知らない。
海外オークションでYAMAHA CRシリーズを検索すると多数ヒットするがほとんどが北米からの出品でやはりアメリカが輸出の主力だったよう。中でも1978年のCR3020
https://en.audiofanzine.com/hifi-stereo/yamaha/cr-3020/medias/pictures/
160W/chの出力で重量は30kg以上という巨大なレシーバーで廉価バージョンからの振り幅に当時のYAMAHAオーディオの懐の深さが偲ばれる(まだ生きてるが)。このジャンルの需要があったのもアメリカらしいが白木のキャビは海外では受けなかったみたいでほとんどがローズウッド調になっているのも興味深い。白樺や北欧への憧れは日本独特のものだったのかもしれない。アメリカでのライバルはやっぱりMcIntoshだったのだろうがこのシリーズはどの程度売れたのだろうか?
YAMAHA CR600はミドルクラスのレシーバーで価格は95,000円
メーカーカタログより
北欧デザインの影響を感じるキャビネットは額縁が薄くオーソドックスでスマートで上品、日本的な生真面目さも感じるデザイン。機能はハイ、ローカットフィルターやマイク入力(カラオケ用?)まで備えたもので1列に並べるツマミやスイッチの数としては限界に近い。YAMAHAのプリアンプはC1で多機能化の限界にC2では簡素化の限界という製品を発表して非常に話題になった。レシーバーのデザインはその中庸ともいえるもので使い勝手を追求したものになっていた。
縁あってやって来たYAMAHA CR600は45年前の製品というのが信じられないほどの美品で昨日の工場出荷か!と思わせる(ちょっと盛)。
早速JBL L75 MENUETを接続してFM/AMを受信すると残念ながら右chの音が小さく音もちょっと割れている。さすがに中身までは新同とはいかない。早速回路図を探すとすぐに見つかった。
(出典:https://www.manualslib.com/manual/888762/Yamaha-Cr-600.html)
ダイアグラムを見ると
非常にシンプルな上にPRE OUTとMAIN IN端子が出ているのでここを切り離して(スイッチ)MAIN INに触ると左右ch問題ない。次にTAPE A P/Bに触ってみると左右差あり。これで原因はプリアンプ部ということが分かった。
プリアンプ部の回路図と基板図
ここで初めて分解、いやケースから取り出してみる。
隙間はあるがチューナーのフロントエンド、EQ基板は中に沈んでいて(ノイズ対策かとおもうが)アクセスはやっかいそう。ボリューム類やトグルスイッチは基板付けされている。各基板間はコネクターではなくハンダ付けのワイヤーで繋がっているので故障時に気安く基板交換する現代とは異なる様相。上部に放熱の穴があるので内部にはさすがにホコリが溜まっている。 さてどうしたらいいのか? まず掃除でもするか。。
基板図がちょっと不鮮明なのだがプリアンプ出力(RO,LO)を触ると両ch同じレベルのノイズが出るが入力ボリュームのセンターを触ると(入力のランドマークになりやすい)やはり右chのレベルが低い事を確認。続いてトーンコントロール後にあるVR504ラウドネスボリュームのセンターを触ると右chのレベルが低い。これで問題はTR505からTR508周辺らしいということがわかった。全てのTRは懐かしい2SC458 (CかD)が使われている。
不具合のRchのプリアンプ終段はTR506-TR508なので各々のB(ベース)に低周波発信機を繋いでみるとやはり問題ありそう。
2SC458届きました。送料込みで1個32円くらい。
早速TR506とTR508を取り外してアナログテスターで調べてみるが、、問題ない。。ナメてました。最初からやり直しだ。TAPE入力から低周波発信機入れて信号をオシロスコープで追ってみる。。するとTR506で途絶えていてもう一度取り外して交換、これで復帰した。
しばらくFMなど聴いてみる。多分出力も出ているだろうし周波数特性なども優秀なのだと思う。しかし何か物足りない。。これが本来の音なのだろうか?まじめだがちょっとさみしい音。何故だろう?信号が通るコンデンサーを全交換すれば(多分しないけど)少しは変わるのだろうか?安易な評価は避けなくてはならないがかといってとことん付き合う気にもなれない。いつも息を呑むような、、音楽再生ばかりではないわけで姿の美しさは十分感じるので活用方法はあると思う。
退職してMacの前にいる時間が長くなり常にらじるらじるか音楽がかかっている。内臓の小さなスピーカーからだがBGMとしてはさしたる不満はなく大きなスピーカーや高性能ヘッドホンでなくても問題ない。ニアフィールドで聴き疲れせずに邪魔にならない。70年代当時生活の中で気軽に音楽に触れたいと考えた時にレシーバーという選択もあったと思うしその後のステレオラジカセにも繋がっているかもしれない。ネットオーディオが主流になってCDの時代も終わりに近づいている現在、音楽が聴ければ装置の存在感はなるべく消したい、物には価値を見出さない人が増えてきたようだ。つくづく自分の趣味は時代の流れに逆らっていると思います。
お読みいただきありがとうございました。
後日談
先日お嫁に行きました。見合い写真だけだったので気に入ってもらえるかちょっと不安でしたがとてもミントコンディションと喜んでいただけてほっとしています。やはりYAMAHAオーディオは愛でる要素も大きいと思う。
追記1
(オフィシャルHPから)
退職してよく映画を観るようになりました。老人割なのとMOVIXは6本観ると1本が只という特典もあるので1本あたり約1000円で鑑賞できる。この映画は今日も観に行ったのが4回目で新記録。恩田陸さんの原作もなかなか読み応えがあったが自分としては原作を上回っていると思うしそう感じたのは「容疑者Xの献身」以来かもしれない。ホントに緻密に丁寧に作られていて役者もよく応えている。ストーリーは原作とかなり異なるが全く正解だと思う。本選前のリハーサルでのマエストロとの衝突は原作にはなかった部分で音楽をともに作り上げる最後の演奏に結実していて緊張感と深みを増した。4人の人物像に絞ったのが良いし背景やコンテストの裏側がよく描かれている。風間塵の描き方が足りないという意見があるが私は役者のおかげで十分に「異次元の人」を感じることができた。プロコフィエフは最近のピアノコンクールでは人気らしいのでこれからますます聴く機会が増えそうだ。ロードショーも終盤になると上映回数も少なくなりスクリーンも小さくなっていきシネコンの部屋によって音響もかなり異なる。今回ほど映画館の音響の大切さを感じたことはなかった。間違いなく今年見た映画の中での一番であろうし(まだ2ヶ月あるから)ひょっとすると今までの邦画で一番になるかもしれない。監督は石川慶。長編2作目ということで上田監督もそうだがすごい人が出てきたと思う。
追記1の追記
映画「蜜蜂と遠雷」は今日で当地の上映を終えた。ちょっと迷ったが今日も鑑賞に出かけた。40日間の公開中盤は小さなスクリーンの部屋だったのだが上映最終週になってまた大きなスクリーンに戻ってきてそれに伴ったいい音響設備で鑑賞したかったのも昨日、今日と出かけた理由。どうしてここまでのめり込んでしまったのか自分でも不思議だがもうこの先映画館で上映することはないだろうし最後まで見届けたいという想いはあった。この間に恩田陸さんの小説も再び読み返してみた。映画と原作はやはり根本的に異なった内容だと感じる。石川監督は小説を一旦分解して新たなシーンを加えて再構成した。原作とは演奏曲目やインスパイアされた演奏も違う。台詞は結構忠実なのだが異なった登場人物が発する。小説では大きな存在だった栄伝亜夜の親友とピアノ教師の不在、加えられた要素として7年前に亡くなった母親(母親と亜夜の連弾の記憶は幼馴染のコンテスト勝者のマサルにも影響を与える)、本選の指揮者など。第一次予選は演奏シーンはゼロ。第2次予選の課題曲は宮沢賢治の「春と修羅」をモチーフとする作品、そのカデンツァにしぼる。そしてこれが最大の相違点だと思うが栄伝亜夜は本選の演奏直前まで母親の死によって抱えていたトラウマ、そこから放たれるカタルシス。原作は最初の予選から天才3人の演奏はすでに天才の本領発揮だった。天才同士が刺激しあってより高みに昇っていくわけだが天才を描写する文章は足が地面から浮いてしまって顎が上がってあっぷあっぷで溺れそうだ(私は恩田先生のファンです。すみません)。唯一こっち側の人間代表の松坂桃李演ずる高島明石が奮闘して激励賞と作曲家賞をうける。本選前に電話で受賞の知らせを受けるこのシーンは原作の中でも人気の場面だが映画では本選後の字幕のみにカットされている。またエンドロールにはカースタントチームのクレジットがあるので多分母親は交通事故で亡くなったと推測するが撮影はしたがカットされたのかもしれない。雨音、ギャロップの黒馬と対面する子供の栄伝亜夜のシーンも(いずれも原作にも無い)。極限までエピソードを削ぎ落として大胆に再構成して映画として最大の効果を上げる要素を詰め込んだ。そして音楽。音楽映画は多々あるが音楽そのものでここまで観客を圧倒した作品はいままであったのだろうか?「春と修羅」作曲者の藤倉大氏は原作を分析し尽くして4つのカデンツァを書き上げた。それを具現化した4人の演奏家諸氏への惜しみない賞賛。個人的に好きなシーンは 冒頭の栄伝亜夜の鏡に向かって死んだ目で作り笑いをする、「春と修羅」のカデンツァでピアノに映る幼い日の自分と亡くなった母親をみつけてそっと微笑む、高島明石の「どうしようもなく自分はピアノが好きなんだな」を受けて「私は、、私は、、」と号泣する、平田満演じるフロアマネージャーの戻ってきた亜夜の震えている指先への優しい視線、もう弾けなくなってしまっていた幼い亜夜に穏やかに声がけする「栄伝さん、時間です、、」、ずっとトラウマだった過去を振り払って輝いた本当の笑顔で舞台に向かう、そしてプロコの3番の演奏。すべて松岡茉優がらみのシーンになってしまった。全ての要素が高い次元でかみ合っていてあっという間に経過する幸せな時間でした。