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死刑廃止への招待(第12話)

2011-11-03 | 〆死刑廃止への招待

死刑制度は日本も含むアジア地域の文化的な価値に根ざすもので、死刑廃止は専ら西欧的な価値観の押し付けではないか?

 第5話で、欧州評議会議議員会議が同評議会オブザーバー国の日本(及び米国)に対して、オブザーバー資格の見直しに絡めた死刑廃止の強い要請をしたことをご紹介しました。その過程で評議会代表団が来日して死刑問題に関する準公式の国際会議が開催され、その席上、当時の森山眞弓法務大臣が波紋を呼ぶ発言をしました。
 その要旨は、日本には「死んでお詫びする」という慣用句に表わされる罪悪に対する独特の感覚があるため、死刑制度は文化的にも根付いているというものでした。

 この発言の内容自体は文化というよりも第7話で論じた贖罪に関わるものですから、大臣の発言は論点の取り違えとも言えます。実際、死をもって償うという感覚が日本独特のものとは限らない証拠に、米国コネティカット州で4人の少女を殺害した罪で死刑を執行された米国人男性は「私が殺した娘たちの遺族の痛みを止めるには私が死ぬしかない」というコメントを残しています(『年報・死刑廃止2006』(インパクト出版会)p227)。ニュアンスに差はあれ、これも「死んでお詫びする」という趣旨と理解できます。
 むしろ、森山大臣の発言で注目したいのは、その内容より形式の点です。つまり、死刑廃止を求める西方からの政治的外圧―そう政府が認識したであろうもの―に対して、「日本独自の罪悪感」という文化相対主義の視点から死刑存置政策を正当化してみせようとしたことです。
 このような態度は、従来からアジア諸国ではよく見られるものです。中東のイスラーム諸国がイスラーム教の聖典コーランの掟を援用して死刑存置を正当化するのはその典型です。例えば、アラビア半島南端のイスラーム教国オマーンは、国連死刑廃止条約案の審議過程で「死刑はイスラーム法の不可分の一部である以上、いかなる犠牲を払おうとも維持されなければならない」とまで力説していたほどです。
 たしかに今日、死刑存置国の大半がアジアに集中し、毎年の死刑執行件数の大半を中国を筆頭とするアジア諸国でのそれが占めており、日本を含むアジア地域は地球上における「死刑ベルト地帯」を成しています。

 それでは、死刑制度とはアジア的な文化価値に根ざすアジア固有の法文化の表れなのでしょうか。
 歴史を振り返れば、全くそうではないことが直ちにわかります。今日、「死刑廃止の伝道師」といった観のある欧州諸国もすべて例外なくかつては死刑存置国であったという事実が、その何よりの証拠です。
 しかも、それは決して遠い昔のことではなく、西欧でも死刑廃止が進展し始めたのはせいぜい第二次世界大戦後のことです。中でも、人権思想の祖国であるはずのフランスでは1981年まで死刑が存置されていました。東欧地域での死刑廃止に至っては、ちょうど国連死刑廃止条約が採択された1989年の「ベルリンの壁崩壊」をきっかけに社会主義独裁政権が次々と倒れた1990年代以降のことにすぎません。
 ちなみに、世界で初めて死刑廃止を提起したのは、12世紀の南フランスに興ったキリスト教セクトのワルド派であると言われています。この派は「汝殺すなかれ」とか「敵を愛せ」といった寛容・慈愛を説く聖書の文言に依拠しつつ、死刑制度に異議を唱えたのですが、当時のキリスト教会主流はこうした考えに耳を貸そうとはしませんでした。それどころか、教会当局はワルド派のような異端派を弾圧するために残虐な死刑の適用もためらわなかったのでした。
 しばしば死刑廃止はキリスト教精神に由来するもので、非キリスト教圏には浸透しにくいとも指摘されますが、実は今日でもローマ・カトリック教会は明確に死刑廃止を打ち出してはいません。例えば、1995年に出された当時の法皇ヨハネ・パウロ2世の回勅「いのちの福音」でも、死刑廃止の望ましさをにじませつつ、死刑はそれが「絶対的に必要な場合、すなわち他の手段では社会を守ることができない場合を除いては適用すべきでない」とする死刑限定論の立場にとどまっているのです。*2013年に就任した法王フランシスコは、より踏み込んで死刑廃止の必要性を明言しており、その影響が注目されます。
 一方、死刑廃止は押し付けがましい西欧啓蒙思想の表れだとも言われます。たしかに、史上初めて世俗的な社会思想・刑法理論として死刑廃止を提唱したのはイタリアの啓蒙思想家・法学者のチェーザレ・ベッカリーアでした。
 彼は有名な主著『犯罪と刑罰』(1764年)の中で、死刑廃止論を展開したのですが、彼の理論上の先駆者である啓蒙思想の祖ルソーはベッカリーアの主著の二年前に公刊したより有名な主著『社会契約論』の中で、「社会の法を侵害する悪人は、公衆の敵として、死によって(社会から)切り離されなければならない」と高調した強固な死刑擁護論者でもありました。このように、社会契約論を共有し合う西欧啓蒙思想家の間でさえ、死刑存廃の見解は分かれてきます。
 さらに言えば、大量死刑政策を断行したナチス・ドイツは、同時代に同様の政策を採ったソ連のスターリン体制とともに、欧州の文化的土壌から立ち現れた凶悪な政治体制でもありました。

 こうしてみると、死刑制度は決してアジア地域の専売特許的な文化ではなく、それを文化と呼ぶならば、歴史上死刑制度を持ったことのない国家はおそらく存在しないという意味で、全地球的な文化と呼ぶことさえできます。
 全地球的な文化ということを言い換えれば、すなわち「文明」となるでしょう。死刑廃止へ招待しようという人間が死刑制度を「文明」と称賛するのかといぶかられるかもしれませんが、歴史的に見る限り、死刑制度は文明的進歩の証しでした。なぜなら、先史時代以来の血讐とかリンチ、あだ討ち等々の私的報復慣習に比べて、国家が司法制度を通じて犯罪事実を吟味したうえで、犯罪者を殺す死刑は格段に公正で、秩序立った方法であったからです。
 しかし、その後、文明の時計が一回転して、今度は死刑制度を廃止することが文明的進歩の証しとされるようになってきたようです。その原動力となったのは、広い意味における「人権」の思想であると言ってよいと思われます。

 ここで振り出しに戻って、結局、その「人権」とやらが西欧的な価値観念であって、アジア的価値観には適合しないという文化相対主義の反論に遭遇することになりそうです。
 こうした反論には、たしかに「アジア的」と呼び得る一つの文化的な背景が潜んでいるように見えます。といっても、それは森山大臣が述べたような意味での「文化」ではなくして、より政治的な風土に関わる文化(政治文化)です。
 日本を含むアジアに共通する政治文化があるとすれば、それは人権よりも国権を優先する権威主義的政治文化です。「欧化」著しいとされる日本でも、憲法上はなるほど明らかに西欧的な基本的人権の原理が打ち出されていながら、死刑制度を基本的人権の侵害とみなす意識は希薄で、ともすればかえって国家は死刑制度を通じて国民の安全を守ってくれているとして受容する傾向が強いのではないでしょうか。
 第6話でも見たように、憲法の番人たる最高裁判所からして、憲法の人権条項を逆さに読んで、「憲法は明らかに社会防衛の手段としての死刑制度を是認している」と断じてしまう始末でした。
 要するに、権威主義的政治文化とは、国民が国家に服従する代わりに、国家は国民を守ってやるという服従‐庇護の文化なのです。
 ちなみに、「イスラーム」とはアラビア語で「服従」を意味するといいます。この場合の「服従」とは神(アッラー)への服従を指しており、国家への服従とは位相が異なるのですが、政治的な面ではアッラーに導かれたイスラーム共同体への服従と引き換えに庇護が与えられるとされる点で、これも権威主義的政治文化の亜種と言えるでしょう。

 こうしたアジア型権威主義的政治文化は、素直に服従する者にとっては大変居心地良い褥を提供してくれる一方で、服従しようとしない者に対しては苛烈な抑圧の温床を作り出してきました。そのことは、程度の差はあれ、自由な言挙げの余地を狭め、市民の活発な言論と社会的行動を通じた内発的な民主主義の発展を自ら阻害する要因ともなっています。
 このように自らにとっても有害な政治文化から脱却することは、日本も含めたアジア地域にとって共通の内発的な政治課題と言うべきではないでしょうか。
 死刑廃止はそうした内発的な政治課題の中の代表的な個別課題と位置づけることが可能です。そう考えれば、西方からの死刑廃止の要請に対して「外圧」と消極的・被害的に反応するのではなく、内発的政治課題への一つの刺激と肯定的に受け止めたうえで、自ら率先して死刑廃止へのプロセスを進めていくべき時機が到来しつつあると認識してもよいと思われます。

 ちなみに、東アジアではまだ死刑廃止国は出ていませんが、中国、(北)朝鮮、台湾、そして日本が死刑執行を継続する中、モンゴルは2012年に国連死刑廃止条約を批准しました。*モンゴルは、2017年に死刑廃止を実現しましたが、同年に就任したバトトルガ大統領が残酷な殺人等での死刑の一部復活を提起し、動向が注目されます。 
 韓国では10年以上にわたり死刑執行が停止されており、モラトリアムに入っています。こうして、死刑に関してはアジア地域でも最も保守的な東アジアでも死刑廃止へ向けた胎動は確実に始まっているのです。


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