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死刑廃止への招待(第13話)

2011-11-05 | 〆死刑廃止への招待

死刑廃止は死刑存置を望む国民世論に反し、ひいては民主主義を損なうものではないか?

 「国民世論」は、日本政府が国連をはじめとする国際社会からの死刑廃止勧告に対して、決まって持ち出す論拠として定着しています。ここで言う「国民世論」とは、政府が自ら定期的に実施してきた死刑存廃に関する世論調査結果のことを指しています。
 その直近のもの(本稿執筆現在)は、すでに一部ご紹介した2009年度実施の「基本的法制度に関する世論調査」に収められた調査で、そこでは死刑制度を支持する人が85.6パーセントと過去最高に上ったとされています。

 政府による同種の調査は、1956年以来2019年まで11回実施されていますが、その結果を順に示すと次のとおりです(数字はパーセンテージ。カッコ内は廃止を支持する回答の割合)。

56年 65.0(18.0)
67年 70.5(16.0)
75年 56.9(20.7)
80年 62.3(14.3)
89年 66.5(15.7)
94年 73.8(13.6)
99年 79.3(8.8)
04年 81.4(6.0)
09年 85.6(5.7)
14年 80.3(9・7)
19年 80.8(9.0)

 さて、こうして数値を並べてみて特徴的なのは、75年に死刑存置の回答が50パーセント台と過去最低を記録した後(逆に、廃止の回答は過去最高の20パーセント台)、おおむね80年を境に死刑存置の回答が回を追うごとにグングン上昇していって、2000年代に入り、ついに80パーセント超え(逆に、死刑廃止の回答は99年から一桁台に激減)を記録したことです。このまま“順調”に行けば、「死刑支持率」が90パーセントを超えるのも時間の問題かという観もあります。
 この間の世界の情勢をみると、ちょうど1980年の国連総会に、当時の旧西独などが中心となって死刑廃止条約案が初めて上程され、国連レベルでの死刑廃止論議が本格化しています。この動きが89年の国連死刑廃止条約に結実し、今日に至っているわけです。
 ところが、日本の世論調査では全く正反対に、1980年を境に、「死刑支持率」が急上昇し始め、「国民の圧倒的な大多数が死刑に賛成している以上は、死刑を廃止することはできない」ということが事実上の公理にまで至ってしまっているのです。

 しかし、ここで不可解なのは、なぜ国際社会で死刑廃止への流れができ始めた1980年以降になって、日本の世論はまるでそれに逆らうかのような反転現象を示してきたのだろうかということです。日本人は、生来的に「死刑愛好」のサディスティックな(?)民族なのでしょうか。
 決してそうではない証拠に、75年度世論調査では死刑存置の回答は6割を切っていたのでした。この70年代前半から中頃という時期には連合赤軍事件とか連続企業爆破事件など、後に主犯者の死刑が確定したテロ、リンチ事件も相次いで発生し、80年代以降よりもずっと殺伐としていました。
 実は、80年代以降の国際社会における死刑廃止の流れに最も頑強に抵抗してきたのは、一般国民ではなく、法確証イデオロギーで固まった法務省及び死刑を体制維持の道具として利用してきた政権与党であったのです。
 先の世論調査結果の数値はこうした国策とあまりにも見事に一致しているので、さほど疑い深くない人でも、世論調査ならぬ「世論操作」の疑いを抱いてしまうのではないでしょうか。
 この点、先の世論調査結果の推移をよく見ると、94年度調査が一つの転機となっていることがわかります。この調査は89年の国連死刑廃止条約採択後最初のもので、なおかつこの調査で死刑存置の回答がその時点での過去最高を記録しているのです。
 このような調査結果が出た一つの要因として、質問方法を変更したことが考えられます。それ以前の調査では、おおむね「どんな場合でも死刑を廃止しようという意見に賛成か反対か」という質問を立てていたのですが、94年度調査では新たに「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と「場合によっては死刑もやむを得ない」のいずれかを選択させる方法を採用しています。そして、先の73.8パーセントという数値は、このうち「場合によっては死刑もやむを得ない」を選択した人の割合であったのです。
 しかし、「場合によっては死刑もやむを得ない」というのは、ストレートに「死刑を支持する」ということとは明らかに違います。それはまず、「場合によっては」という形であいまいな限定句が付されています。ここで「場合」とは果たして有事とか治安が悪化した時といった状況的限定のことなのか、それとも殺人罪といった罪種的限定のことなのか全く不明ですから、厳密には回答不能な選択肢です。
 そのうえに、「やむを得ない」というのも、積極的に支持することとは異なり、「良くないけれどもやむを得ない」という含みのある消極的な容認の論理にすぎません。
 要するに、73.8パーセントという数値はあいまいな限定付きの死刑容認論の割合を示したものにすぎず、積極的な死刑存置論の割合を示したものではなかったのです。そして、94年以降の調査ではいずれも同様の質問形式が踏襲されており、2004年度調査で初めて80パーセントの大台に乗ったのも、このあいまいな「限定付き死刑容認論」の数値でした。
 ところが一方では、「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた人に「将来も死刑を廃止しない方がよいと思うか、それとも、状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよいと思うか」という追加質問を向けてもいます。その結果、09年度調査では「将来も死刑を廃止しない」と答えた人の割合が60.8パーセント、「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」と答えた人の割合が34.2パーセントとされています。
 この「将来も死刑を廃止しない」という回答こそ、真の意味での死刑存置論なのですから、この数値をこそ前面に出すべきで、これと「将来的には、死刑を廃止してもよい」という「将来的死刑廃止論」の回答―ここでも、「状況が変われば」というあいまいな限定句が問題ですが―をひっくるめて、先のあいまいな「死刑容認論」の数値をはじくのはミス・リーディングです。こういう統計処理をすれば、当然大きな数値が表示されるわけです。
 日本政府はこうして自ら実施する世論調査の質問方法や統計処理を細工することによって、水増しされた数値をもって、死刑廃止を勧告する国際社会に対する反論材料としてきているのです。
 とはいえ、死刑廃止条約が採択された89年以降はきっちり5年ごとに実施しているこのような「世論調査戦略」とでも呼ぶべき日本政府の企ては国連に受け入れられておらず、かえって「人権の保障と人権の基準は、世論調査によって決定されるものではない」と一蹴されてしまっています。

 それでも、国内的には毎回の世論調査で水増しされた数値がメディアを通じて公表されるつど、数字は一人歩きし、死刑廃止は一部少数の私見にすぎないという空気が醸成されていきます。
 それによって、死刑制度に疑問を感じていた人も自信を失ってしまい、しだいに「やむを得ない」の方へ同調していくのです。死刑制度に関する政府世論調査とは、国内的にはそうした同調圧力の手段でもあり、回を追うごとに「やむを得ない」の割合が上昇していくのはその結果でもあると考えられます。
 この点、フランスの社会学者ピエール・ブルデューによれば「世論調査の根本的効果とは、全員一致の世論があるという理念を作り出し、その結果、ある政策を正当化し、基礎づけ、可能にする力の諸関係を強化すること」だといいます。
 日本における死刑存廃に関する政府世論調査はまさに、死刑存置に関して全員一致に近い世論があるという理念を作り出し、死刑存置政策を正当化し、基礎づけ、可能にする力の諸関係を強化することを目的とし、それ自体が死刑存置政策の一環に組み込まれた手段と言っても過言でないでしょう。
 もちろん、世論調査のすべてがこのような政策の手段なのではなく、特定の問題に関するその時々の一般社会における意見分布状況を見るうえで有益な資料となる場合もあります。 
 しかし、そのためには、政府から独立した専門の中立的な世論調査機関が正当な方法で公正に実施した調査であることが条件です。この点では、特定の問題について独自の社論を持つ新聞社、免許を通じて政府ともつながりのあるテレビ局の世論調査も中立性や独立性の点で、また専門性の点でも十分でありません。
 また、調査が公正であるためには、回答者が的確に回答するうえで必要な重要情報が予め与えられる必要があります。死刑問題では、とりわけ国連死刑廃止条約や世界における死刑廃止・執行停止の動向です。日頃、死刑廃止をめぐる国際報道自体がないに等しい中で、こうした情報はほとんど知られていませんが、死刑廃止が国際関心事となった今日、死刑の存廃を的確に判断するうえで、こうした前提情報は必須です。
 そこで、世論調査の質問の中でも、例えば、条約の存在と内容を簡単に説明したうえで、条約についての知/不知を問う前提質問を置くといった方法が採られるべきでしょう。

 さて、そのように適切な世論調査が改めてなされたとして、どういう結果が出るかといえば、やはり過半数は「死刑存置に賛成」ということになると予測できます。なぜなら従来、死刑廃止国のほとんどがそうであったのであり、この点で日本だけが例外であると予測できるいかなる理由もないからです。
 例えば、西欧では最も遅くまで死刑を存置していたフランスで1981年に死刑が廃止された際の民間世論調査では62パーセントが死刑存続に賛成と出ていましたし、これより先、1969年に通常犯罪につき原則的に死刑を廃止したイギリスでも当時の民間世論調査で実に85パーセントが死刑存続に賛成と出ていたのでした。
 こうした結果にもかかわらず、当時のイギリスやフランスの議会は死刑廃止法案を可決したのです。では、これらの諸国の国会議員たちは国民世論に反する暴挙を犯したのでしょうか。
 これは民主主義の理解のしかたに関わる問題ですが、議会を中心とする代議制民主主義にあっては、何よりも議会(国会)の決定こそが国民的最高意思決定とみなされることは言うまでもありません。
 そのときに、「議会の決定は国民世論と合致していなければならない」ということは一般論・原則論としてはそのとおりでしょうが、このことは、議会の決定ないしそれを導く個々の議員の表決がその時々の国民世論に拘束されるべきことを意味していません。
 この点、ドイツ憲法には「ドイツ連邦議会議員は、・・・・全国民の代表者であって、委託及び指令に拘束されることなく、その良心にのみ従う。」といういわゆる自由委任原則をうたった規定があります。日本国憲法にはこれほど明確な規定は見られないものの、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」(43条1項)という国会の組織構成を定めた規定が同時に自由委任をうたったものと理解されています。
 もちろん、この自由委任とは全くの白紙委任ではないのですが、国会議員は国民世論との合致をめざしながらも、その時々の世論に拘束されることなく、言わば将来の世論を見越して、または世論の変化を期待して行動することが許されているということが、この自由委任原則の最も正当な意味です。
 この点で、先のイギリスで国民の圧倒的多数が死刑存続に賛成というデータが公表される中で死刑の原則的廃止に踏み切った当時の所管大臣、ジェームズ・キャラハン内相(後に首相)が「議会は時に世論に先行して行動し、それを指導しなければならないことがある」という趣旨のコメントを残しているのは、まさに如上のような自由委任の理念を政治的に表現したものと言えます。
 この「将来の世論の先取り」ということこそが、当座の国民世論に反してでも議会が死刑廃止を決断する最大の正当化理由となります。
 そして、このことには現実的な根拠もあります。前述したように、1981年の死刑廃止当時の民間世論調査で62パーセントが死刑存続に賛成していたフランスで、死刑廃止からちょうど25周年の2006年に同じ調査機関が実施した世論調査によると、死刑復活に反対が52パーセント、賛成が42パーセントと逆転し、過半数の人が死刑廃止を支持するようになってきているのです。
 とはいえ、死刑廃止から四半世紀を経てもなお四割を超えるフランス人が死刑復活を求めていることも事実で、これは一般大衆の間ではいかに応報観念とか犯罪抑止力への信頼が根強く残されているかを示唆しています。

 しかし、フランスの経験から言えることは、死刑廃止に関する限り、「世論は後からついて来る」ということです。「世論が反対するから」ということを、少なくとも国民代表である国会議員は死刑廃止を先送りすることの言い訳にすることはできません。そういう言い訳は、何ら選挙を経ておらず、従って国民代表を名乗る資格のない政府官僚にこそふさわしいものなのです。


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