カヤックと過ごす非日常

大人は水辺で子供に返ります。男は無邪気に、女はおバカに。水辺での出来事を通してそんな非日常を綴っていきます

977.非日常の本懐とは? ― 海辺のデッキ泊

2022年05月31日 | Weblog

いつものお人からお誘いがあった。お誘い? 断る理由がないでしょ!。 行く行く!と心躍らせ、久しぶりの、懐かしい海を漕いだ日の記録。

 

今回は桜漕ぎをご一緒した人との3人漕ぎ。久しぶりと言うことと、高速道路の工事と言うこともあり、ナビ予測より1時間早く着く設定で家を出た。ずいぶん前からやっている工事、たまに通るたびに様子が変わっていて戸惑う。あてにならないナビと、読み取る前に通り過ぎる道路の標識と、何より根拠のない直感とが合わされば何とかなるものだ。間違えることなく集合場所に着いた。「三人寄れば文殊の知恵」とは言うが、三と言う数には不思議な力があるのだろうか。

あれやらこれやら段取りし、久しぶりの海へと漕ぎ出した。暑いと言う予報だったが水の上は心地よい風。申し分ない漕ぎ日和。それに水がきれいだ。何か茶色の物が、ゴミかと思えばホンダワラだ。

久しぶりの海、どこへ行っても良いのだが、あまりガッツリ漕ぐ気分ではなかったので、「まさか、(湾)横断はしないよね?」と釘をさし、とりあえずは岸に沿って行く。

岩の上にしがみつくように立つ木々。松だろうか。こういう木は結構いろいろな所にあるが岩の割れ目の僅かな隙間の土に根を張り、潮風に立ち向かう姿は「凛としている」というに相応しい。和歌山の海に私が『火焔土器の木』と呼ぶ小さな木がある。海の中にある岩の上にちょこんと生えている木だが、火焔土器に相応しい厳かさを感じる木だ。もう何年も会っていないが、今も元気にしているだろうか。

少しばかり岩抜けを楽しみ、もっとあの岩も、この岩もくぬらせたいのにと思いつつ、先へ行く人の背中を追う。 この辺りではよく見るこんな廃屋。作業小屋だったのだろうか。

廃屋は私のコレクションの一つだ。意気揚々と建てられた日と、活気にあふれて働いていた日と、次第に廃れていく寂しさを堪えていた日と、ここでの仕事を断念した無念の日と、そしてそんな記憶さえ消えた廃屋の日と、そのどの日・どの時・どの場面にもそれぞれの話が生まれる。

廃屋を、怖いとか気持ち悪いとか言う人がいるが、想像の宝箱である廃屋を楽しめないなんて、何て可哀そうな人なんだろう、と思う私は変人なのだろうか。お次はこんな宝箱。

これも久しぶりに見たが年々朽ちていく。いや、変化し成長し、新しい昔話を発展させていく。この台座が支えていた物が暮らしを潤していた時代に、私は何をしていたのだろう。

小さな岸で昼休憩をしたが、まだ時間は早い。ならば、「まさか渡らないよね」と言ったまさかを実行し、とある島へ上陸する。

南国風の木々が迎える浜。以前来た時には洒落た民宿があり、対岸の明かりを見ながら粋な食事をした。今はその宿もなくなったとか、また来たいと言いながら来ずに終わる所が増える。

ゴールの岸を目指しながらもここの仏様にもご挨拶に寄る。

仏様と言ったが、鳥居が導くのは別の神様のようだ。私たちが目指すのはこちらの仏様。

こちらの仏様、潮が引いた時にお出ましになる潮仏様。今は残念なことに満ちた潮の中に隠れておいでになった。岸からまじかに拝むことができるのだが、意外と小さく質素ないでたちで、いわゆる仏像の形はしていない。隣に立つお地蔵様を「潮仏」と間違える人も多いというが、さもありなんと思う仏様だ。

漕ぎ日和、と言って漕ぎだした日だったが私にとって悪戦苦闘の漕ぎだった。いつもはFRP艇に乗るのだが、今日は久しぶりにポリ艇だった。これがくせ者で、抵抗が大きいので漕ぎが重く、さらに大した風でもないのに風の影響が大きく、方向が定まらない。修正するのにかなりの労力を使った。しかし、正直な話、ポリ艇のせいではなく、私の体力・技量が落ちただけなのかもしれないな。

やっとのことで今日のお宿に着いた。何度もお世話になっている所だが、今日はなぜかエアコン付きの部屋は却下してデッキでのテント泊。 

実は、以前からこのデッキでテント泊をしたいと思っていた。前回来た時もテントを持ってきたが、雨が降ると言うのでテントは諦めた。今回は星も出て良い夜を迎えたのだが・・

星が出ていたことに浮かれ、うかつにも夜中の天気を確かめていなかった。そんな時に限って、夜半の土砂降り。地面に立てた時ならテントの中が濡れることはないのだが、今回はデッキに溜まった雨が、ジンワリと進入して来て・・

まぁ、マットの上までは濡れなかったのでヨシとした。しかし考えれば、こんな事を楽しんでこそ、『カヤックと過ごす非日常』の本懐ではなかったか。

本懐を遂げた(?)いい日だった。こんな非日常を楽しませてくれる全ての事と人にありがとう。