カヤックと過ごす非日常

大人は水辺で子供に返ります。男は無邪気に、女はおバカに。水辺での出来事を通してそんな非日常を綴っていきます

925. 別れと出会い ― お疲れさまとよろしく

2019年08月29日 | Weblog

つい先日行ったばかりの海へ、「まだ見に行きたい所を残していたので」と言う名目にして、また、その海に漕ぎだした。もう、当分は行かなくてもいい、と言う海を漕いだ日の記録。

 

前日の晩は、久しぶりにテントを張った。いつもは屋根付き、エアコン付きの建物で寝るのだが、このところ夜はめっきり涼しくなり、海辺のテント泊も快適な気候となって来た。それならば、と久しぶりにテント泊にした。

                       

夜、小雨が降ったがテントに当たる雨音も優しい子守歌のようで、快適な一夜を過ごした。

 

夜明け前に起きようと思っていたが、ぐっすり眠った朝は気がつけばすでに明るく、モヤもだいぶ晴れていた。

 

靄(もや)、ガス、霧、それらひっくるめた気象用語もどきの判別は専門家に任せるとして、ここの海と山と木が雨上がりの白い綿に覆われる様子は誰をも一端の写真家にする。そんな光景に出会うため早起きしようと思っていたのだが、テントの誘惑に負けて、寝坊してしまった。私としたことが・・

まぁ、それは良いとして、今日は今年最後となるかもしれないシュノーケリングをしようと、海中公園のような水辺に行くことにした。

したのだが、さて移動の時になり何と、相方さんの車が不調の事態。動くことは動くのだが無理はしない方が良いので、ならば、「また!」この湾となった。

また、とは言うものの、前回も前々回も行きたいと思いながら行かず終いの所があるし、だいぶ前に行ったきりで久しぶりに行きたい所もあるし、「また」の海も良い海だと漕ぎだす。

ほんの一漕ぎで最初の目的地に着く。


どこにでもある、ありふれた浜。ここにいったい何があると言うのだろう。この海を漕ぐカヤック乗りは大勢いるが、ここに上がる人はおそらくいないだろう。誰もが知っているが、誰も知らない秘密の浜。

アマゾンの密林を思わせるハマゴウの藪。こんな藪に分け入る人がいるのだろうか。いや、ここにいる。相方さんと密林攻防のルートを探り行けば、あ、見えてきた!

 

2年ぶりの懐かしい石碑。藪の奥は少し開けた林。覚えておいでだろうかこの石碑。昔、神社がここにあったと言う記録の石碑。

 

私が初めて見たのは6年前だが、この石碑が立てられたのは大正3年とあるので100年以上前の物。神社はさらに昔にここにあったようだ。最寄りの集落からもだいぶ離れ、ここに来る道も今は定かでないが、林の奥には鳥居跡かと思われる礎がある。

どうってことのない、地元の古老でさえ知らないどこぞの神様の神社跡。これもまた大切な古い友人である。静かな眠りを邪魔しても悪い、そっと挨拶をしまた来ますと振り返りながら後にした。

 

林からは、今漕いで来た、先日漕いだ、何度も漕いでいる、お馴染みの海が見える。多くのカヤックがこの岸を通るが、この林から突然手を振ったら、驚くことだろう。あの石碑を知ったら、さぞかし驚くだろう。

と、

思うのは私だけのようだ。他の人に話しても、誰も興味を持たない。もったいない話だと思うのだが、かえって私だけの秘密の宝にできて、良いのかもしれない。郷土史研究家が詳しく聞きたい、と言うのであれば、明日にでも飛んで行ってお話しするのだが。

灯台の見える岸から灯台を目指し、これもまた久しぶりに真下から見上げ、次の目的地へ。そして「塞の神」

 

小さく祀られた神様だが、入り江の入口に、これ以上はっきりとした場所はないと言わんばかりの岩場においでになる。どうぞ、港の、町の、海の災いを塞いでくださいと手を合わせる。

シュノーケルをしようと目指した岸は、外海に近い割には水が濁っている。おかしいな、と言いながら湾に戻れば、あちこちにウニの大群。

 

正しくはこれがウニなのか、ガンガゼなのかわからないが棘が短いのでウニだろうか。いずれにしてもウニの仲間であることは間違いない。しかし小さい。 ウニやサザエ、アワビなどは勝手に獲ると密漁となるが、その場所にもよる。以前、とある河口で橋脚に付いているウニについて地元漁協に聞いたことがある。食べられないことはないが身が少なく、食べても美味しくはない。だから漁師は獲らないのでほしかったら持って行って良いとのこと。この海はどうだろう。これだけうじゃうじゃいると言う事は、やはり誰も食べようとは思わないようだ。

そう言えば、何かに似ている、何だろう。そうか、「まっくろくろすけ」にそっくりだ。まっくろくろすけは食べられない。

ここのガンガゼは大きい、今までにない程大きい。食べ応えがありそうだ。ガンガゼも意外とおいしいと言うが、それもまた、「食べた」と言う話を聞かない。毒針の危険を冒してまで食べる価値がないということか。

それにしてもここのガンガゼは威勢がいい。目(私は目と言っている光る点)がギンギン・ガンガン光るだけではない。赤や青の光がチカチカ点滅し、いや、ぐるぐる回り、まるでパチンコ店の看板のようだ。これは動画に撮らなくては。とカメラのスイッチ入れようとしたが・・

ここで重大事件勃発! 愛用のカメラが作動しなくなった。せっかくのガンガゼが。その後のシュノーケリングの時には、熱帯魚のようなカラフルな魚の大群もいたのだが、全くもって残念なことになった。

漕ぎ終わり、何度もスイッチを入れてみたが、やはり動かない。おまけにバッテリーも抜けなくなった。そして修理代がべらぼうに高いと知った。

 

4年ほど使ったGPS付きGショック防水カメラ。ちょっと重いが使い慣れたカメラ。カヤックの軌跡にも水中撮影にもこれがないと非常に困る。後日、思案して、中古だが同じ機種を手に入れた。

 

その機能を使いこなせていなかったが、落としても海に浸けてもタフなカメラだった。本当にお世話になった。古いカメラに、これまでありがとう、お疲れさまでした。 新しい?カメラに、これからがんばってください、よろしく。と言って記念写真を撮る。

別れと出会い、いろいろな場面であることだが、今回はちょっと高くついた。さて、次はどこで撮ろうか。


924.ここにも熊野古道 ― 荷物を運ぶ峠道

2019年08月26日 | Weblog

台風も過ぎ、世間で猛暑猛暑と言う割には意外と涼しい海辺に来て、よっしゃ、漕ぐぞ! と意気込んでいたが・・ 何がどう転んだのか、峠歩きとなった日の記録。

 

マンボウが空を泳ぐ峠道、熊野古道を通り何度もお世話になっている海辺へと目指す道。「案内人」の言う事には、蛇の潜む藪はないはずで、歩くのもほぼ下り道とのこと。それなら行ってみようと出かけた。

このところ天気は安定せず、突然の雷雨と言うのも珍しくない。今日はどうだろう。距離は短いので昼にはゴールできるだろう。まぁ、濡れても凍える事はないだろう。スタート点にはしっかりした案内板があり、車も止められる。以前は車では何度も通った峠道。最近は新しくできた道が走りやすいのでその方を利用するようになった。しかしこの峠道は熊野の海へ行く時の、「お楽しみ」な事がたくさんある道だ。今日は歩いて古道を行く。山道に入って程なくし、こんな物が目に付いた。

 

マンホールは丸いがこれは四角い鉄板。取手があるのでこれを開けると中に「重要なあれ」があるのだろう。水準点や三角点には等級があるが、これは何の違いによるものなのだろう。今の時代、何でもネットで調べられるが、同類の答えばかりが多く、求めている的確な答えに当たることが少ない。

      私は、そんな事を聞いていない! 
      人の質問をよく理解してくれよ!
      講釈はいいから、一言で言ってよ!

お役所に直接尋ねると、意外と(?)親切に教えてくれる。それにしても「建設省」の文字が鉄板の

錆た時間を物語る。人目に付く道路沿いの標識は、改正された部分が新しく書き換えられているが、めったに人の来ない峠道には懐かしい文字として残っている。

暫く行くと、突然に水が流れだす。どうやら目指すゴールの海に注ぐ川の源流のようだ。

 

川は、幾つもの支流を集めて育つので、「源流」と言っても特定しにくい。正しくは「源流の一つ」、と言うのが良いのかもしれない。以前、「木津川源流」探しをし、「まさにここが源流地です」と言う標識に出会ったことがある。

川の生まれる所、無垢な滴の流れ。海がどこかを知る仔亀のように、山の水もまた、海への道を進む本能を持つ。 いってらっしゃい、またどこかの海で会いましょう。

峠道とは言っても意外と人の暮らしに近くある。時々車の音が聞こえたり、こんな物が見えたりする。

 

ちょっとわかりにくいが鉄橋が眼下に現れる。この鉄道に乗ったことはない。一度乗ってみようか。「上からも下からも」はカヤックに限ったことではないだろう。電車の私は、見上げた山の木々の間から手を振る私に気が付くだろうか。

こんな見晴らし台もある。

 

曇り空と霞む山。晴れていればどんな景色が展開されるのだろう。このところ、せっかくの眺望が残念に終わる日が多い。もっとも、天気が悪いのでカヤックをやめて山に来る。と言う背景のせいでもあるのだが。

よく整備された道。標識もしっかりついていて迷いようもない。ローマ字表記も随所にあり、外国人向けの配慮だろうか。「国際化」の一端が、こんな古道でもうかがえた。

 

別の古道でもあったが、「江戸道」と「明治道」。それぞれの時代に作られたのだろうが、明治道の方が歩きやすい。当然我らは(私がいるので)明治道を進む。

株立ちの木の根元に小さな表示板。うっかりすると見過ごしてしまいそうだ。

 

かつて、ここに茶屋があったとのこと。その名前からしてどうやら「長八さん」が営んでいたようだ。西国巡礼や伊勢参宮をする人々の休憩所としても賑わい、かつて峠は人力車の中継基地でもあったとのこと。鉄道の開通と共に姿を消したと言う。100年近く前の事だろうか。

道が下るにつれシダが勢いを増す。

 

北海道では蕗の茂みの中にコロボックルが隠れていると言うが、熊野の古道のシダの中にはどんな妖精がいるのだろう。東北の古い家に座敷童がいるように、なにかその存在を追及してはならない暗黙の了解の中で生きている不思議な存在、それを期待するのだが、見たことはないし聞いたこともない。

となれば、「作る」と言う手もあるか・・

それはまた別の日にすることにして、のんびり旅の先を進めよう。柔らかい枯草の道もあればこんな道もある。

 

木の根道。平坦な所では歩くに邪魔になるが、坂道では階段のようで滑り止めになり助かる。つまずいて膝をすりむくのは、根っこのせいではない。

どこの山でも必死に力強く生きる木々に会う。その姿は時に滑稽であり、時に壮絶である。

 

この木は何を願って天を目指しているのだろう。植物学、なんて面倒な事には縁がないが、「混乱根と奇態幹」なんて講座があったら顔を出したい。

峠の道もほぼ下った頃、心配していた雨が降り出した。ポツっポツっ、ボトボト、ザザザー!

しかし、何と運の良い事か、目の前に良い具合に東家が現れる。

 

本降りの雨をこの屋根の下で凌ぐことができた。山の神様に感謝する。

 

今回歩いた道の他に、険しいルートや鉄道工事の際に使った道などがある。当時の行き交う様子は表示板の文字の中でしかわからないが、炭焼きに行く人、行商の人、魚を運ぶ人、祭りに行く人・・ そんな暮らしを想像させる峠道だ。

 

もう山道ではない。車の轍も見える。

切通しや立派な猪垣が続くともう里に出る。道端にこんな物がある。

一里塚。今の小学生は億なんて当たり前、兆とか、京とか、さらには無量大数なんぞと言う訳わからん事まで知っているが(ゲームのおかげ?)、「一里」という単位を知らない。車の走行メーターでは感じられない遠い距離への憧れや不安や安堵を一里塚に託していたいにしえびとの心に近づく石仏だ。今日は何里歩いただろう。民家やスーパーの大きな看板が見えてきて、ゴールとなる。

峠道、とは言っても今回はほぼ緩い下り。距離も4キロ程。達人にはおやつ前のちょい歩きだろうが、私にはちょうど良い、絶妙な峠歩きだった。

 

大きな地図で見るとほぼ一直線に描かれている古道もそこは山道、そんな訳はなく、右往左往して歩いていたことがわかる。

 

荷物を運んだ坂の道。荷坂峠の熊野古道、無事終了。 さて、次は漕ぐか、歩くか・・

 


923.お馴染みの池で ― ゆるゆるカヤックの広告塔

2019年08月20日 | Weblog

真夏のカヤック、今日は池編。「チーム・気まま」のメンバーにぜひとも見せたい海と池があるのでここに来た。今日は熊からさんとそのメンバーもご一緒する。

 出艇はお馴染みの岸。無造作に積まれたタイヤ。

 

ずいぶん活躍した後ここで余生を過ごしているようだ。夏草が絡みつき、『つわものどもが 夢のあと』、そんな生涯なのだろうか。離れて一つぽつんとあるタイヤも、賑やかしく積まれたタイヤも、どれもこの海辺を語る語り部だ。

さて、にぎにぎと漕ぎだせば、あっという間に目指す浜に着く。昼食にするには早すぎるので、ちょっと先まで漕いでみよう。

 

湾の中はとろりとした眠気を誘う静けさだが、湾の入口(出口?)に来ると緩いうねりが出て来る。ゆっくりと、ハンモックでうたた寝をするような緩いうねり。うねりを楽しむには物足りないが、慣れない人にとっては「船酔い」を起こすことがある。 

岬を越えると熊野の山々が見えてくる。良く晴れた日には墨絵が重なるように奥深く続く神懸った姿が見られるのだが、今日は霞んで曖昧な山となる。残念だ、初めてこの海を漕ぐチームのメンバーに、思わず息を飲むような惚れ惚れする山並みを見てほしかったのだが、海が荒れなかっただけでも良しとしよう。

 

穏やかな岩間を抜けて、座佐の浜を目指す。あの池はどれ程に水位があるだろう、錆びたエンジンはどうしているだろう、二つの池が水路でつながっていると良いのだが。運が良ければ池から海に水が流れ出ているかもしれない、そうであってほしい。いろんな思いを込めて上陸する。

 

池は、池はけっこう水かさが増している。あと数メートルで海に開きそうだった。惜しい!

砂の跡を見ると、どうやら昨日あたりは海に流れ出ていたようだ。残念! この池には十数回来ているが、水が海に流れ出ているのを見たのは7年前に一度だけ。その時は海から漕ぎ上がって池に入った。

必ずしも池の水位が上がっている必要はなく、ただ、池と海とを隔てる浜が堤防を作ってさえいなければ、池は海と一体となれるのだが。

その数メートルをカヤックを運んで池に浮かぶ。真っ先に行くのはあのエンジン。

 

友人がいるからあそこへ行く。あそこへ行けば友人に会える。そんな「あそこ」、そんな「友人」があることは、そこへ行く楽しみ、張り合い、あるいは目的、を際立たせる。私の「あそこ」、私の「友人」。小さな池のほとりの錆びた塊に慈しみ程の愛着を抱く。

         また来ましたよ。 今日は沈船状態ですね          
         懐かしい海の味がしますか?

メンバーのほとんどはこんなことはしない。

 

枝くぐり。カヤックの楽しみ方にはいろいろある。激流に揉まれてクルクル回りながら流されるカヤック、揺さぶる波と風を突き破って1日で100キロ近くを漕ぐカヤック、1分・1秒に凌ぎを削るスピードカヤック、1ケ月分の食料を積んでキャンプしながら1000キロを進むカヤック(これはカヌーか)、盗賊や猛獣に襲われながら異国を漕ぐ冒険カヤック、人魚か乙姫様に遭遇しそうな南国のファンタジーカヤック・・

血沸き肉躍るカヤックの映像を見て、ある人は憧れてそこに近づこうとし、ある人は恐れおののいて遠ざかる。多くの人にカヤックの楽しみを伝え、底辺を広げる。底辺が広がれば頂点が高くなる。オリンピック選手もそこにいるだろう。 頂点を高めることに精力を傾ける人もいるだろうし、底辺を広げることに努める人もいるだろう。

私は・・

私は、力を入れない、根性や苦痛を伴わない、木漏れ日の森での昼寝のような、そんな「枝くぐりカヤック」の魅力を伝えたいと思う。「動く広告塔」としての宣伝媒体になる用意はとっくにできているのだが、未だにオファーがない・・

自分の好きな事について語ると、誰かが止めてくれないと、延々と続く。ここらで自分で止めに入らねば。

 

池は、いつもと変わらない佇まいで、今は更に夏色を濃くしている。ぐるっと一回りして、南北水路(と私は言っているのだが)に入る。浅いながらもここはまだ通れる。

 

前回来た時は完全に水路が開通し、南北の池は自由に行き来できていたが今回は、ほんの数メートルが浅くなり、一度下りた。あと15㎝水位が上がっていたら全くの一つの池となったのだが。砂漠状態の水路を見ることが多い中で、これ程に水が続いたいたことをありがたいと思わなくては。

 

水路を抜けると更に広い池。あの向こうは海。まだ軽く塩味を残す池には小魚が群れて泳ぐ。海から取り残されて幽閉されたのか、それともあまりの居心地の良さに浦島太郎の道を選んだのか。

あれから変わったことはないかと偵察し岸辺を観察する。するとあった。そろそろこの花が咲いているだろうと思って探していると、見頃を過ぎてはいるが、緑一色の灌木の中に優しい色が群生している。

 

ヒオウギ。水辺で見る花だ。2,3年前に気が付いた。あそこに行けばきっと会えるに違いない、と訪ねて行った先に、やっぱりここに居てくれた。嬉しい。それは人であろうと物であろうと、景色であろうと『再び』を味わう事であれからの互いの無事、変わりない事を確認して安心するのだろう。このヒオウギも、やはりここに居てくれた。どうってことのない再会が、なぜか愛おしく沁みて来る。

さて、そろそろランチにしよう。日陰に陣を取ったが気が付けば日向になっている。そんなにゆっくりしていたのだろうか。

 

穏やかな夏の海辺。どこの海にもありそうな山と岩と草と枯れ木と。ありふれたパーツの組み合わせの海だがこの景色は、この浜の、この池の、この場所だけの無二の構図。私は「海辺百選」に登録したいと願う景色だ。そんな岸にこんな木がある。

覚えておいでだろうか、この大きな流木。以前は浜を越えた池の中にあった。初めて見たのは7年前、最近まで池の中にいたのだが、池と海とを隔てる土手が崩れ勢いよく水が流れ出た時に一緒に出されたのだろう。 それにしてもずいぶんささくれてきた。7年の歴史だろうか。次に大波がきたら、太平洋に引き込まれるかもしれない。それはそれで海の旅を楽しんでもらいたいが、船にぶつかっては困る。小型の船がぶつかったら大破、あるいは転覆させるくらいの力はあるだろう。ずっとここに居てほしいと願うのみだ。

浜にはこんな物も流れてきた。

 

長さ15㎝程の青い浮き。私が見る物は中国浙江省のもの。それも「桃渚」の物が殆どだった。今回「温州」と言うのは初めてではないだろうか。大利の文字と魚らしき模様。魚にしてはちょっと変わっている。カメ? それにしてはしっぽが違う。 見知らぬ街の見知らぬ港、誰が使ったかわからない浮きだが、遠い異国を身近に感じさせる。不思議な浮きだ。

のんびり過ごした浜に別れを告げて、それでもまだ時間は早いと寄り道しながら元の岸に戻る。

 

少しうねりのある磯に白波が輪郭を描く。侮る訳ではないが、この位のうねりは輪郭線も細い。どれだけ太い線となったら、どれだけ近づけるか・・。 そんな事を試したりはしないが、想像はする。1メートル上がり、1メートル下がる。上下2メートルのうねりが見せる岩はどんな様子なのだろうかと。

そんな岩は見なくとも、別の岩にはこんな物。

 

ソフトコーラル、これをきれいと言うか、気持ち悪いと言うか。私は「きれい!」という。チーム・気ままのメンバーはかつては磯のカメノテが大の苦手だった。何度か海に出るようになり最近は、まぁそこそこには近づける。しかしこの赤は気持ち悪いと言う。弾力があり、水面から出ている部分を押すと水を吹く。ホヤの変種だと思えば美味しそうにも、見えなくはない。(食べられるのだろか)。

「チーム・気まま」の県外遠征、今日も楽しんでもらえただろうか。その内私のガイドとなってくれる日を期待しているのだが。

                                                                                           

良い日だった。いい海といい池だった。 ゆるゆるカヤックの定番の漕ぎだった。次はどこでくつろごうか。

 


922. 恥ずかしがり屋のお不動さま ― 奥伊勢のダム湖

2019年08月14日 | Weblog

このところパソコンのご機嫌が悪く、叱咤激励から宥めすかしまで、いろいろ手を変えてみるが、無視されている。そんな日々でも、思い出したようにふとご機嫌が良くなり、今だ!とばかりに記録を記す。

 

今は暦の上では もう秋。とは言っても記録的と言うより災害的猛暑。カヤックの達人がこの猛暑の時季にはカヤックはしたくない、と言うのはよくわかる。しかし今回のフィールドは清涼感溢れる、「感」だけでなく、実際涼やかな風の吹く水辺。

びわ湖をメインゲレンデにしている「チーム・気まま」のメンバーのたっての希望でこのダム湖に来た。

私は、春に秋に冬に、何度か来たことがあるが真夏の時季は初めて。滝は幾つできているだろう、お不動様はお元気だろうか。

 

さっそく浮かんだ湖面は夏の木々を映し出し深い緑に沈む。いつ見ても引き込まれそうな翡翠色をしている。入り江と言えないほどの小さな窪み、ちょっと覗いてみれば秘境感溢れる水辺となる。

 

澱みは深い淵の藍。流れは明るいせせらぎの翠。晴れていると「天気が良い」と言うが、この秘境感を映すには小雨で煙る鬱蒼感も良い天気と思うのだが。

お馴染みとなった橋。

 

湖水の深さか、湖底の石や砂の関係か、あるいは温度によるプランクトンの発生の違いか、同じ湖水の同じ緑でも、突き通す緑もあれば、笹濁りの緑もある。ブラックオパールと言っても黒ではない。その中に赤や青や黄色や、数限りないグラデーションの色を持っている。エメラルドは色とりどりの賑やかしいマーブル模様は作らないが、数限りないグリーンと言う種類を持っている。湖水の色も人の好みに合わせて色見本を用意してくれているのだろうか。

あそこは渋くこの色・#006400。 向こうはちょっと明るくこの色・#3cb371。 意外とこんな色も良いかな・#008b8bとか・・

何百とある色カードと、その合わさった色と、それらのグラデーションと、色は空も水も無限の色見本を持つ。選ぶのは神の業だ。

 

このダム湖には流れ込む小さな滝が多くある。最近は暑さが強調されているが、夕立が多いのだろうか、意外と滝の水量も多い。轟音轟くと言う滝はないが、夏の涼しさを演出するには十分な水音を立てる。

今回、このところの暑さでダム湖の水位は下がっているだろうと思って来たが、いやいや、これまで来た中で一番水位が上がっていた。小さな入り江の奥のお不動様はこんなふうになっていた。

 

祠の天井がかろうじて見えていたがお不動様はすっかり水中に沈んでおいでだった。以前、水位が下がっていた時には台座の下の岩まで見えていたのだが・・

そしてこんなお不動様にお会いできたのだが。今回、初めて会うメンバーがいたので恥ずかしがったのだろうか。

 

ダムの貯水量や放水量を記載したサイトがある。リアルタイムや1週間前までの数字はすぐ見つけられるのだが、1ヵ月前、1年前の数字を探したい時、以前調べていたサイトが見つけられない。お不動様がすっかり露に見えていた時の水位はどの位だったのだろう。今より1,5メートル位低かっただろうか。

「不動ダム水諸量一覧」記録をして後世に伝える、と言うカヤックもシリーズ化できそうだ。

 

この地方は紅葉する木が少ないが、これ程の木々に囲まれているのだから紅葉したならどんなにか見事な錦絵となるだろうに。と緑を、赤に黄色にオレンジに塗り替えを想像して楽しむ。これは金のかからない、贅沢な遊びだ。

この橋脚もお馴染みとなった。どこかの桟橋でもなく、どこかの鉄橋でもなく、夏草に埋もれた古い橋脚。時々カヤックやサップの人を見かけるが、ここをくぐる人は、そう、めったにいないだろう。あまり知られたくない、しかし自慢したい秘密のくぐり所。

水辺に白い花が群れて咲く。

 

センニンソウかと思うのだが。この花が仙人のヒゲになる頃には猛暑も収まっている事だろう。

元々きれいな水のダム湖だが、上流に行くほど水は澄んでくる。そして佇む湖水から川の流れを感じる頃には、水底が浅く見えているのに意外と深いと驚く。

 

こういう澄んだ水に映る影を見るとあの人を思い出す。ずいぶん昔となったが、極上に澄んだ川で、まるでカヤックが空を飛んでいるような写真を撮ってくれた人がいた。「ソース顔」のその人は今も元気で活躍中とのこと。久しぶりに会いたくなった。

            

次第に狭まる両岸には名もない(私が知らないだけかもしれないが)小さな滝が幾つも落ちる。いつ来ても途絶えることなく流れている。その水源はどこなのだろう、降った雨をしっかり蓄えておく地質なのだろうか。こういう滝が多いからダム湖の水がきれいなのだろう。

山の水が集まり湖となり、ダムを飛んで川になり、そして海に注ぐ。滝の白が磯に打ち付ける波の色となり、浜に寄せる波の色となる。水は旅の道を変えても同じ色を綴っている。 

 

夏の一日をゆっくり過ごし、お不動様の意外な在り様を知り、「チーム・気まま」の久しぶりの県外遠征の日が終わった。いい日だった。いいダム湖だった。

お不動様、次は恥ずかしがらずにお出まし下さい。