びわ湖5周目の18日目の記録。
先日、桜があちこちで咲き始めたと話題が広がった日、風がなく時季外れに暖かかった日、そして霞がかかったように煙った空の日、
また、「チーム・気まま」でびわ湖を漕いだ。 前回、まさかと言うほどびわ湖を漕いでいなかった日から何日も立たずに、立て続けにびわ湖漕ぎとなる。まぁ、人生もカヤックも、割り切れる予定が立たないところが面白いのだろう。
そんな日の出艇場所はこんな所。急に暖かくなった水辺には黄菖蒲の芽が、待ちきれないと顔を出している。
ここは私(達)のいつもの場所、「占有地」とは言わないが、言えないが、気持ちとしては「我らが所有地」と思っている。 まぁ、他の人が使っても良いけど・・ の感がある。
もう、何年も前、初めてこのチームでこの岸をゴールとした時、上がる場所を20メートル程行き過ぎて藪漕ぎをしてしまったことがある。ヨシや藪草の茂る中をカヤックを運びながら、こんなバカげた事を、いや、こんな楽しい事をやるのは私たち位だね、と笑っていたことを思い出す。 ちょうどこの辺りだ。懐かしい。
岸には鯉釣りの人が何本もの竿を並べている。日向ぼっこをしながら、昼寝をしながら、釣れるまでの時間をのんびり過ごすことを楽しみとしているとのこと。貴重な時間を追いながら生活を送る人が多い中で、「湯水のように時間を流す」、そんな暮らしを楽しむと言うのはこの上ない贅沢ではないだろうか。さりげない身なりのおじさんではあるが、「とんでもないセレブ」なのかもしれない。
セレブおじさんの邪魔をしないよう、ソロリソロリと漕ぎ出そう。今回は前回漕いだコースのちょうど対岸になる。お向いさんの岸に手を振って行ってきますの挨拶をする。
その先は枝くぐりの岸。今はまだ枝だけの木々もじきに緑のトンネルとなるだろう。今はまだ透かし模様の枝を広げている。見通しの良さを楽しんでくぐる。
じきに大きく開けた所となる。
ヨシを波から守る柵。岸近くで所々に施されている。このようにヨシを守ってはいるが、守られて育ったヨシはこのように毎年枯れて朽ちて湖中に沈む。この循環もまた水質浄化のサイクルに適っているのだろうか。いつも考えてもわからない。
箱入り娘のヨシもあれば、自由奔放に遊ぶ放蕩息子のヨシもある。
そんな所ではカヤックもヨシと一緒に遊ぶ。時々カヤックに驚いて跳ねる魚や水鳥にカヤックも驚く。その水音が消えると後は静寂。びわ湖でカヤックを漕ぐなら、こんな光景を楽しんでこそ「びわ湖カヤック」ではないだろうか。
長閑な田舎の風景から都会のにぎにぎしい光景と続き、ふと見れば遠くにびわ湖大橋が横たわる。
それにしても美しい流れだ。約1400メートル。近江大橋と共に、びわ湖の最も細い部分に架けられた橋。「びわ湖横断」と言うと大そうな事に聞こえるが、この橋の下を行けば立派に「びわ湖横断」となる。そう言えば久しく横断をしていない。
遠くに見えていた橋がいつの間にか目の前に来る。
橋上で工事をしていた。作業する人の声が聞こえたが、彼らは自分の足の下を人が通っていることに気が付いただろうか。
1車線がメロディーロードになっている。この位置では曲は終わっているので聞こえないが、西詰めの下では車に乗っていなくても、通った車が奏でる曲が、湖上に居ても聞こえる。カヤックで湖上に浮かびながらびわ湖大橋が歌う「琵琶湖周航の歌」を聞く。これもまた「びわ湖カヤック」の楽しみだ。
橋を過ぎると小さな砂浜が現れる。夏にはここでシジミが獲れるとのこと。しかし私はまだここでシジミとりをしたことがない。次に来る時は熊手を持って来ようか。浜を上がるとショッピングモールがある。焼きたてパンもアイスクリームも調達自在。流行りの服からアウトドア用品の足りない物も手に入る。
しかし我らはこのすぐ先の別の浜でランチとする。 さてさて今日はどんなランチとなるだろう。
こんなランチ
「流氷カレー」!
と野菜サラダ
詳しく解説すると・・
相棒が一年前に期限が切れた非常食米があるので・・と持って来た米は、十分に食べるに耐え得る物だった。1年まえの期限切れには驚かなかったが「流氷カレー」なる物には驚いた。群青のルーは北の海、白いルーは流氷を意味する物だとか。 なるほど・・
私は庭に生えていた「ヤブカンゾウ」を持って来た。それを茹でて流氷の海に浮かべ、「ジャイアントケルプ」に見立てた。セロリの漬物はラッコ。 にわかにびわ湖の水辺が宗谷の海になった。後で考えると、流氷の宗谷の海にジャイアントケルプがあるかどうか、ラッコがいるかどうか疑問だったが、まぁ、そのいい加減さが「チーム・気まま」の良さだろう。
1年まえに期限が切れた米にはジャイアントケルプがちょうどいい。
波音を聞きながらコーヒータイムを過ごし、この浜に来たなら見て来なくては、と腰を上げる。
遠目にはまだ黄色い絨毯を敷き詰めたように見えるが花の殆どは折れて首を垂れている。この花も長い間鮮やかな黄色を楽しませてくれた。もうそろそろ今年の任務も終わりのようだ。ご苦労様でした、と労を労い別れた。
この位置から見るこの光景は、私には特別な意味がある。私が「訂正の岸」と名付けた岸だ。
間違いは誰でもやる。しかし間違いと指摘されて訂正しないのは、それは「噓」になる。自分の間違いを訂正する事を恐れてはいけない、と発信する場所である。
自分に正直であり 人に誠実であり
自分に臆病者にならず 人に卑怯者にならず
そんな思いを背中にして漕ぎ進めば、冬の日に白鳥を見た川や気の早い鯉のぼりが泳ぐ岸や、おや?さっきも車で通った道なのに、あんな建物、あったかな? の岸が流れていく。 そして気が付けばもうゴールの岸に着いた。
対岸の岸はかすんで見えず、水平線の彼方は太平洋かと見紛う大海原のびわ湖だった。カヤックを積んでスタートした岸に戻ると、もう鯉釣りのおじさんはいなかった。なぜだが残念な気持ちになった。「ただいま」と言いたかったのかもしれない。「釣れましたか」と聞きたかったのかもしれない。水辺を同じくした人はみな友人のような気がしてくる。
比叡の山も障子越しの虚ろさだ。こんな比叡もまた春らしいと言うのだろうか。
今回は風も波もなかった。暑くなく寒くなく、カヤックを漕ぐには良い気候となった。思いがけずに桜の時季に流氷に出会ったびわ湖だった。
これで遠くまで見通せたなら申し分のない日だったのだが。