カヤックと過ごす非日常

大人は水辺で子供に返ります。男は無邪気に、女はおバカに。水辺での出来事を通してそんな非日常を綴っていきます

785.風の日の過ごし方 ― 志摩から鳥羽へ

2016年03月30日 | Weblog

漕ぎの予定の前の日、明日の風予報を見ていた人が

「7とか8とか・・」と言う。風速7メートルとか8メートルとかの予報が出ているというのだ。小さな入り江の中なら8メートルの風ではうねりもないし白波も立たない。しかし突風と言う風が吹く。漕げない風ではないがこんな日には漕がない。

翌朝、昨日漕いだ海に風が走り足跡が残る。やっぱり今日は漕がない。

 

 静かな様に見えていて

 本当は風のブレイクダンス

 あっちでクルリ
 こっちでサササー

 こういう風も沈するのです

 

 

 

サミット会場まではほんの一漕ぎ。もうじきこの辺りの警備も厳重になるだろう。こんな風の日にあえて海に出ると「職務質問」にあうかもしれない。それはそれで面白い?

        いや、警察のお仕事増やしてはいけないな

と言うことで、今日は陸漕ぎとする。

小さな岬の先端は、知る人ぞ知るのビューポイント。

ドローンを持った人がいた。この辺りならきっと素晴らしい景色が撮れるだろう。しかし、景色だろうか、警備だろうか、それとも・・

この日から何日かして、この辺りでのドローン飛行は禁止となる。その前の駆け込み撮影だったのかもしれない。

 

久しぶりの道を通って初めての海辺から懐かしい景色を見る。

 

 アオサの網が干してあります

 この海のアオサは
 もう収穫が終わったようです

 きっと香ばしく生まれ変わって
 いることでしょう

 

 

 

 

向こうに見えるのは渡鹿島。去年巡った岸、あの大きな建物も懐かしい。その島を臨むこの岸には初めて来た。あの島を漕いだ時、必ず見ていたはずのこの岸を、全く思い出すことができない。

「見れども見えず」、そんな事がどれだけあるだろう。「行けども思い出せず」、そんなことも多くなってきた・・・

山の路を走る。山とは言っても山中ではない。見晴らしのいい、スカイウェイの道だ。途中に路肩の展望所やレストランのある展望台もある。眼下には白波立つ太平洋、地球が丸いと知る水平線が広がる。

そしてこんな景色が現れる。

海のあおさ、空のあおさ、山のあおさ、木々のあおさ。 青、藍、碧、蒼、紺、それぞれの「あお」にはどの字が相応しいのだろう。際限のない色の数に当てはめるには字が足りない。

高台の展望所は飛ばされそうに強い風。その風が白波となって飛び跳ねる。向こうに見える島のむき出しになった山肌から煙のように土埃が舞い上がる。風が唸る。

更に道を進むにつれ、あちこちに「牡蠣食べ放題」・「カキ詰め放題」・「かき定食」・「かき・・」
と看板。それで初めてこの地が牡蠣の産地と知る。

牡蠣? それは食べなくては! と、今日はカキフライ定食に焼きガキのランチ。

 

 ジュ、ジュワジュワ~
 いい匂いがしてきます

 おまけがたくさんついて

 おじさん、
 どうもありがとう!

 

 

 

 

店のあるじが解説しながら焼いてくれる。このカキも今月で終わりとのこと。最後の良い時期に来た。口の中に、喉の奥に、カキのとろりとした感触がいつまでも消えない。

そんな余韻を残して、車を進めると、こんな神社が見えてくる。

 

 

 浦神社

 そびえ立つ大岩を屏風にして

 海辺に建つ神社です

 鳥居の奥の階段には
 草履があります

 ここは下足禁止の神社なのでしょう

 

 

 

 

 

 時々あるが、社の前の石段に草履が置いてある。こういう時は「この先は、素足あるいはこの草履で行くように」と言う意味だ。私たちも靴を脱ぎ石段を上る。上がった先には小石が敷かれ、歩き始めは足裏を突く小石が気持ち良かったがじきに、あいたたっ!と声が上がる。 

その先に岩から滴る水。「目薬の水」とのこと。ご利益やいかに。

伝説、民話、もっと昔の神話。「水質検査」など言う言葉が存在しなかった昔には「ご利益」と言う言葉がこの水の効能を保証するものだったのだろう。 化学分析機器が発達した今でもその神がかり的な言葉に惹かれて人が訪れるのは、薬学では説明のできない不思議な効能があるからか、そうあってほしいと願うからか。

それは神の領域なのだろう。私が立ち入る所ではない。 私はただ手を合わせ「今回の旅も無事に終わりますように」と、お門違いのお願いをする。

 

良く晴れた風の強い日、こんな日には空も海も一段と青くなる。

今日見た海はいつか漕いだ海でありこれから漕ぐ海でもあった。陸から見た海を海から見る日までしっかり記憶の引き出しにしまっておこう。

 

今日の最後の出し物としてオオシマザクラを見に寄った。このところの暖かさ、きっと咲いているに違いない、と期待していったのだが、大木に数輪が開くのみだった。あと3日後ならきっと見事に咲いていただろうに、と残念至極だった。

          あぁあ、また来年か・・

残念桜の前で今日のイベントは解散となった。 家路の途中、海辺の喫茶店に入る。何度も通ったが時間が合わず、ずっと気になっていた店だった。 今日はまだ陽も高い、ちょっと偵察がてら寄ってみよう。

一風変わった、と言っては失礼だろうか。しかし店のあるじが「よく入れましたね、怖くなかったですか。初めての人は入るのをためらった、と言うんですよ」と言う。

そう言われれば、そうかもしれないが、私好みの、ちょっと秘密の隠れ家的な店だった。 「廃校になった小学校の机」を思い起こさせるテーブルで、あるじが私のためにかけてくれた曲に聞き入って貸し切りの時間に浸った。「秘密の隠れ家」、また1つ増えた。

 

朝、向こうの湾で暴れていた風は、夕方、この入り江の中にも押しかけている。

 

 右往左往している風

 見えないと思ってか 
 好き勝手に暴れている

 

 丸見えですよ、風さん

 

 

 

 

そう言えばこの道、前にも通ったことがあるなと言う道、
こんな所にこんな道があったとは、と初めて通る道、
知っていはいたけれど、勇気が出なくで通れなかった道、
まさかこんな道、通る車はいないだろうと思われる秘境道、
両側の枯れ枝が車体の横をシャーと鳴らして行く極細道、       
       まぁ、いいっか、すでに傷だらけだし・・

今日も又いろんな道を行った。4年で10万キロを走った「マロン」にはもはや怖い道などないのだろう。 

あ、片道3車線以上の道と、ジャンクションが続く道と、車線変更できなかった道と、右左折専用レーンに入り損ねた道と、横から合流のある道と、踏切の手前に上り坂がある道と、

そんな道は、さすがのマロンでも、苦手なようだが・・

 

いい日だった。 風の日の海辺の過ごし方、こういう過し方もカヤック旅。

 


784.いろんな顔にご挨拶 ― 英虞の海の住人たち

2016年03月28日 | Weblog

KW-A-16

久しぶりのKWシリーズ。1ヶ月半もお留守になってしまった湾漕ぎに、腕が鈍ると出かけた日の記録。

桜の便りも聞かれ始め「あそこ」の桜はどうしているだろう、と気がかりな「あそこ」がたくさんある。海辺の街に向かう途中、早咲きの桜が1本、2本と花をつける。 帰りに遠回りしてでも気になる桜を見て行こう、と行きの道中で算段する。

 

海辺の集合場所には山桜がほんのり紅色を披露する。若い頃見ていた山桜はソメイヨシノが終わると咲きだしていたと思うのだが、最近はソメイヨシノの前に咲くものの方を多く見る。海辺で見ることが多くなったからだろうか。

出艇地からKW-A-16のスタートポイントまで入り江を一気に漕ぎ、さて、このポイントから出発、と漕ぎ始める。

陸には桜だが、水中にはこんな物

「気持ちいが良い」とは言えないが、冬には見かけなかった物だ。存在しなかったのか、私が見つけていなかったのか、レンコン模様のカメゴノリや脳ミソ模様のマンジュウボヤや、アメフラシや、春の海は賑やかしくなって来た。

岸沿いに行くと、いつかは泊まってみたいと思っていた宿が見えてくる。雨戸は閉まり人影もない。今の時季は営業していないのだろうか。海を目の前にしたお宿、いつかは泊まってみたいものだ。

 

面白い形の岸だ、まるで「クジラのしっぽ」。洒落たホテルのパーティー会場にある、フルーツを盛り上げた脚付きの器の様でもある。 さて、この器に盛るのはブドウにバナナにリンゴにミカン・・

思いつくのは庶民的なものばかりか。

この辺りの海は展望台から何度も眺めていた。朝もやの時にも夕日の時にも。どれが島でどこが半島なのか区別のつかない岸を見ながら「見えている海を漕ぐのはいつだろう」とその時を待ち望んでいた。

で、その時になったのだが、淡々と岸をなぞって行くと散々に散らばっていた島々も「対岸」、の一言で片づけられてしまう。この岸と向こうの岸と、その間の海。それだけになってしまう。上から見た海とは別の海になっていた。

砂州のような浜がある。

岸まで車で乗りつける、と言うことができない浜なので、これはやっぱりカヤックで行くのが一番楽な方法だろう。夏には海水浴客で賑わうと言う。こういう所は水泳シーズンを外して来ないと落ち着かない所だ。今は誰もいない。

その先にちょっと気になる防潮堤がある。

アーチ型に積まれた石が崩れ、中の水が流れ出ている。これは山から流れこんだ川水なのか、満潮時に入りこんだ海水なのか。今思えば味見をしておけば良かった。ちょっと舐めたからと言って死ぬこともないだろう。

この広い平地をいったい何のために用意したのだろう。田んぼなら、米は何俵取れるのだろう。崩れた石積みは直されることもなく、陸になるでもなく、海になるでもなく、田畑になるでもなく、人が住むでもない。こんな「無法地帯」がなんと多い事か。戦国時代の負け戦の城もこんな風だったのだろうか。

砂州の南側にもきれいな砂浜が伸びる。貸し切りの岸に上がり昼食とする。

 

 良く晴れた空

 今日のゴールが見えてます

 でもくねくね岸を巡るので
 あそこに着くのはまだまだ先

 

 

 

 

アオサの網が浮かぶ。海苔網は潮位計ともなる。海苔網がだんだん現れる時は引き潮、次第に消える時は満ち潮。その繰り返しを何十回、何百回繰り返し、アオサは私のお椀に入る。

これだけ見ると、流れ着いたボロ布がひっかかったようでもあるし、幽霊船の破れた帆の様にも見える。そんな姿をさらしながら、香ばしい海苔に変身する日を待っている。波に洗われるのは現世の姿、黒く乾いて袋に入ったのは来世の姿。人も現世で楽しみ、来世で楽しませる、そんな生き方をしたいものだ。 いや、「人も」ではなく「私も」だろう。

 

多島海と言ってもいいだろうこの海域、岸から、海辺の宿から、展望台から、こんな海が存分に見える。

 

          え~っと、

          それが島で、ここがさっき漕いだ岸で、 あれは去年行った島
          ほら、今いるのはあそこの岸          
          お~ぃ、ここにいるのが見えるか~ぃ 

私が地図を持っていても役に立たないと言うのは周知の事実だが、今時の文明の利器にはGPSと言う物がある。そのおかげでピンポイントで自分の位置がわかる。 「使わない能力は使えなくなる」、と言われるが、元々ない能力、「地図を読む能力欠損症」の私でも、見上げる私と見下ろす私の場所がわかる。(たぶん)

 

漕ぎ進む岸に山桜が咲く。

桜の開花宣言が各地で聞かれ、桜祭りの案内もあちこちから入る。その殆どがソメイヨシノだが、古来、花見はこの山桜だったとか。小さな入り江の小さな岸で、一足お先の小さな花見ができた。

その桜の岸に上がって見る。やっぱりなヌタ場だ。そこにこんな木がある。

 

 この傷跡は誰の仕業でしょうか

 鹿? 猪? 

 そう言えば
 今日は猪を何匹も見ました

 

 

 

 

 

 

 

この木にこの傷を記したその者は、これが彼(彼女)が存在した証となっていることなどこれっぽっちも思ってはいないだろう。しかし私は、ここに自分が足を入れた証としてこの1枚を撮る。

ストローのような狭い入り江、そんな岸にも滴を落として進む。 と、不思議な一角が現れる。

錆びた鉄杭がかろうじて浅い海と浜との境を作っている。捨ててあるのか、ここに片づけてあるのか、積み上げられた浮きとわざとらしく広がる小さな広場。 ここに鉄杭を打って作った浜で誰が何をしていたのか。あの林の中に、ちょっと一服している誰かがいるかもしれない、そんな不思議な岸だった。

 

地図では綿棒の先のように見える小さな入り江も、カヤックで漕ぎ出せば大きな海となる。八重に重なる山々が墨絵のように連なる。遠くに霞むのは御座の岬だろうか、その先は五ケ所? 熊野? 

 

さて、お次はどんな岸が待っているのだろう。と、進んだ岸はこんな岸。

長閑な光景が続いたあとの荒々しい岩場。岩のほんのわずかな隙間から生える木の力強さ、生への執着心に感心する。 通り過ぎようとした時、誰かの顔が見えた。誰だろう、たくさんいる。

  
尖った顎とこけた頬の老婆    キッと目をむいて叫ぶ長老     目を閉じた魔術師

     
わしゃ今年で500歳じゃ、ふがふが・・    おやヤギさん、何を笑っているのですか   

この岩には他にも大勢おいでになって、ほんに賑やかしいことだ。まだいろんなお方をご紹介したいのだが、先を行く人の姿が見えなくなったので追いかけなくては。

             皆様方、今日はこれにて失礼いたします
             またお会いできますように

 

さてさて、ここまで来ればゴールの岸は目と鼻の先。ランドマークのこの灯台、このシリーズで見るのは何回目だろう。

ゴールの岸は目と鼻の先ではあるが、終わりとする前に、もう一つ入り江が残っている。くまなく、くまなく、巡らなくては。

小さな入り江にニキビの穴のようなちいさな窪み。小さな防潮堤の先がやけに開けている。何だろう、あの先にはけっこう広い土地があるようだが。気になる所はどこでも行こう、と上がってみる。

 

 猪さま御用達のヌタ場

 鹿さまもおいでになるようです

 人さまは?
 
 私たちの足跡以外、
 何もありません

 前人未踏の地?

 

 

上がった岸の奥にはヌタ場が広がる。午前に見た沼もそう思うのだが、ソーラーパネルを並べるために緑の山を切り開くより、こんなヌタ場、干上がった荒れ地、誰も見向きもしない海辺の泥田にこそ、置いたら良いのではないかと思うのだが。干拓された干潟の多くが荒れ地となって放置されていると言う。実際、防潮堤の中に広がる沼はいくらでもあった。

この泥濘の土地に設置する費用より山の木を切った方が安くできるのだろうか。土地の有効利用とは何を言うのだろう。

 

本当に穏やかな日だった。入り江の中は更に静まかえり、鏡のような水面が続く。

牡蠣の筏、真珠の筏、釣りの筏、作業小屋の筏。いろいろな筏があるが、生きている(活用されている)筏は見るだけでも楽しい。糸の先には何が隠れているのだろう。水面と言う蓋を開け、海の中の箱を覗きたい。

          おっと、あまり覗き込むとひっくり返ってしまう

 

今日まわった岸には廃屋が少なかった。その少ない廃屋の一つに山桜が咲く。

 

 もろともに

 あはれと思へ 山桜

 花よりほかに 知る人もなし

 

 

 

 

 

この廃屋もそんな気持ちでいるのかもしれない。 儚い色の桜と消え入りそうな廃屋、春の切なさが胸に痛い。

 

そんな桜を見ている内に、本当に今日の最終ポイントに来た。さぁ、これで今日のなすべき漕ぎは終了した。たいして疲れもしなかったが「お疲れさまでした」と言って解散した。

         いい日だった         
         
         英虞の海で出会った住人は、皆、凛々しい顔立ちだった

         明日はどんな人に出会えるだろう

 

 


783.赤い鳥居に見送られ ― GH出立の岸

2016年03月22日 | Weblog

GH2の日の記録

開幕の勢いに乗って、今日は漕ぎの初日。見事なまでに晴れ渡った空、これは幸先が良い。

 

漕ぎの初日はここから出発。澄んだ水は浅く遠く広がる。この先の浅瀬は潮干狩りで賑わうとのこと、「カヤック漕いで潮干狩り」そんなツーリングも面白い。 しかし今日は先があるのでアサリ汁はお預けとなる。

             立派な鳥居の弁天様

             今度あなたのお住まいにもご挨拶に行きますね

             今日はここから失礼します

 

この辺り、注射器の先のように細くなった水路から太平洋がピストンを押して海水を押し込み、そして引く。そのため複雑な流れとなるとの事。それに小型の漁船の往来も多い。ちょいと鳥居の近くまで行き、漁船の来ぬ間にさっと通り抜ける。

水路に入ってほっとすると、目の前に釣り糸が現れ、ここは油断がならない。 やれやれ、と思っていると、わ、わっ、わぁ!

             わ、新幹線だ! カメラ、カメラ!

新幹線など、家から100メートル行けばいくらでも見られるのだが、こんなに近くで見られるのはめったにない。年甲斐も無く?、ちょっと興奮する。 新幹線で出張していた頃、ここを通っても、この下にカヤックがいるかもしれないなんてこと、思いもよらなかった。 もしかするとあの時にも、やはりカヤックが新幹線を見上げていたのかもしれない。

過ぎ去った時間にいた自分に、遅ればせながらの手を振る。 

            あの時に窓際にいた私へ、

            今の私は、ここにいますよ、ほら窓の下、海の上!

 

穏やかな水路を行くと見上げる道端に小さな社と鳥居が見える。鳥居は水路に面してある、と言うことは水路側からお参りに行く、と言うことなのだろう。今はコンクリートの高い岸となっているが、この神様が祭られた当初は小舟で乗り付けてお参りができたのだろうか。 そばに1本の松の木がある。この松も、昨日見た神社の松と同じ樹形をしている。枝を張らない種類の松なのだろうか。 故郷の松や、今住む街の松とは一味違った松が多い。

しばらく行くとまた幾つかの橋が重なって現れる。 その中の1つが気に入った。

 

 珍しい形の橋脚です

 これは最近の橋とは違う気が
 するのですが・・

 

 

 

 

 

後で調べるとやはりこれは80年以上前にできた橋のようだ。今は歩道橋となっているとのこと。なるほど、今の橋には見られない装飾的な遊び心が見え隠れする。この時代にできた橋で、寄木細工のようなレンガの模様の橋脚や、透かし模様のような欄干など、土木遺産となっている橋をいくつか見た。 この橋は古き良き時代の遺産とはなっていないのだろうか。

私のコレクション、「橋」の中の「土木遺産・相当」のフォルダに入れておこう。

また別の水路に入る。雲一つない空に風も息を止め、見上げる橋には春の陽がこんな模様を描く。

橋の長い一生の中で一瞬だけ出会える光を、私の人生の中で共有できるとは光栄なことだ。二度と会えない光に、「こんにちは、ありがとう、さようなら」、と言う僅かな時間さえもない慌ただしさのようでいて、なぜがまどろむ長閑さがある。

埋め立てられた島と島との間は水路となり、多くの船が係留されている。

 

 きっちり並んだ杭

 船を係留する所です

 

 

 

 

 

 

この杭、いったい何の意味があるのかと思ったが、係留場所の区割りのためのようだ。ちょっと違和感があったが、駐輪場の柵と同じと思えば納得できる。

 

ここの海は浅い、非常に浅い。漁船が通る所は航路が確保されているがそれ以外はパドルが着くどころか、こんな陸も現れる。

ちょっと上がって小休止。島と言うにはあまりにも平坦で、何だか裸でステージに立つようで落ち着かない。 途中の橋でカメラを構える男性がいた。欄干の上に乗り、明らかにこちらを撮っている。(と私は思っているのだが)、場所を変え、カメラの向きを変えて撮っている。

今時のカメラは小型でもとんでもなく性能が良い。遠く離れていても毛穴の数までわかってしまう。彼は私たちの写真をいったい何に使おうと思っているのだろう。 桜の八幡堀や水郷の菜の花水路で「プライバシー」なんてお構いなくいいカモにされるように、この海でも「肖像権」なんて叫んでも、海の砂の一粒ほどに無力なものなのだろうか。 あえて横を向く。

           このヤロウ! 勝手に撮るな! 名を名乗れ!

と言えない自分が不甲斐ない。

 

そんな憤慨もこんな一コマで心落ち着く。

 

 座礁しそうに浅い海

 こんな浅瀬をあえて漕ぐ

 でも、水が澄んでいるので
 意外と水深があるのです

 

 

 

 

 

小さな浜に上がって昼食とする。前日のグルメランチに比べれば何とも質素な昼食だったが、「外で食べると何でもおいしい」 のドレッシングをかければ、パンとコーヒーも立派なランチとなる。

今日のコーヒーは山の湧水を汲んできたと言う「天恵水」で頂く。ちょっと変わったお茶も淹れてくださる。水も茶も、違いが判らない私を、甲斐が無いと思ったことだろう。

 

岸の砂をちょっと掘ってみる。意外とすぐに掘り当てる。今日の収穫を並べてみると・・

アサリ、バカガイ、ウミニナ、アマモ。素手で砂を掘っただけだったのだが、2,3分でこの収穫。これを多いと言うのか少ないと言うのか。 この海に、この岸に生きる者たちと出会っただけでも大収穫だったに違いない。

 

降り注ぐ春の陽に遥か彼方の山々が朧にかすむ。

 

 霞んでいるけれど

 ずっと向こうに

 雪の富士山が見えています

 

 

 

 

 

毎年、「雪の富士山を見て漕ぐ」のカヤックをしていた。今年もその意気込みで出かけたが、あいにくの空模様でとうとう見ることはできなかった。 それが、ここに来て思いがけずに雪の富士山とご対面となる。富士五湖で見る富士山と比べれば、少し見劣りがするが、雪の富士山に違いはない。これで今年も「雪富士カヤック」ができた。やれめでたしの日ではないか。

 

ゴールの岸に向かう途中でまた小休止。この海の魚や植物の説明があり、びわ湖と似た事、違う事、同じ水辺でも違う水辺であると実感する。

 

終日晴天で、シリーズのオープニングを飾るに相応しい日だった。まったりとした潮がこれからずっと続きますように、と願って舟を降りた。

 

家路への途中のサービスエリアで沈む夕日に追いつく。この岸に、あの岸に、そして向こうの岸に、どんな水辺にどんな暮らしが待っているのだろう。

 

「一つの完結」を手に入れた日に、弁天様にお参りに行こう。

        

 

 


782.新シリーズ開幕 ― ぐるっと回って水辺の暮らし

2016年03月21日 | Weblog

HG-1の日

「百の未完のことより、一つの完結したことを」

そんな偉そうなことを言って始めたことが幾つかある。カヤックでのシリーズも、まだ道中半と言うことが ひぃ、ふぅ、みぃ・・

それだと言うのにまた新しいシリーズを始めてしまった。移り気と言うか、懲りない性分と言うか、探求心に溢れている、と言うか、

駄々っ子がおもちゃ売り場で床に転がって、欲しい欲しいと駄々をこねている姿に似ている。どうしても行きたい!、ぐるっと行きたい! そんな、もはや「日常」となったカヤックに新しいシリーズを起こし、さっそくに出かけた日の記録。

 

このところ記録がご無沙汰している。カヤックに全く縁がなかった訳ではなかったし、予定は幾つもあったし、はるばる出かけた海もあったのだが、

天気が悪かったり、風が強かったり、風邪気味だったり、気分が乗らなかったり・・と漕ぎ出す日がなかった。 しかし桜の便りが聞かれる頃となり、新しい季節に新しいシリーズも「開花宣言」と相成った。 新しく始まる水辺は近江の淡海より遠い海。 

高速道路を3時間は、それだけで楽しめるドライブだ。

夜が明けるのがずいぶん早くなった。先月はこの時間にはまだ暗かった道がもう明るくなった。春分も過ぎ、陽が早く昇る事も何の不思議もない。

 

待ち合わせの浜には久しぶりの御仁。今回、ご一緒下さるのは「HINAKA」さん。初めて会ったのは4年前の夏の海辺だった。 ちょっと風があり、うねりもあった海で、白い泡が渦巻く洞門に果敢に挑戦していた姿が印象に残った人だった。それから何度か会ったような、会わなかったような・・ 

と言うことで、よろしくお願いします! と旅のお供となった。私がお供をするのか、HINAKAさんがお供をするのか、まぁ、一緒に漕ぐと言うことに違いはないのでその辺の詮索は泡に包んでおこう。

 

さて、新しいシリーズ、何と出会え、何を経験し、何に感動するのか。 私のカヤックはいつも、自分が漕ぐ水辺を陸からも体感する、と言う漕ぎ方。 ならば、新シリーズでも当然事前漕ぎに出かけなくてはなるまいて。

と、エンジン音響かせて水辺の探索へと出かける。

 

 街の至る所に咲くこんな花

 ローズマリーでしょうか

 薄紫色はWWW号の色

 こんな色に癒されます

 

 

 

 

洒落た名前の料理によく使われる植物だ。西洋では魔除けとしても植えられるとか。何でも、ダイエットも期待でき、精神の安定・集中力向上の効果もあるとか。我が家の庭にも1本、いや、生垣として植えたいものだ。

 

  

この水路とその先の太平洋、このシリーズではここは漕がない。ここを漕ぐのは私にはまだ10年早いようだ。 漕がないが、この海がつなぐ海を漕ぐ。その出口、入口としての海を見るためにやって来た。

遠くまで続く砂丘。子供の頃の故郷の光景に似ている。いや、故郷の砂丘にはグミ原が続いていた。今は砂丘が減りグミ原はなくなった。この街の海と浜はどんな変化をしてきたのだろう。 自然の力による変化、人の力による変化、街の暮らしが近いほど人の力が強くなる。この街ではどんな力が働いているのだろう。これからの漕ぎのキーワードとなりそうだ。

 

漁師町の氏神様へ行った。津波が来たらこの神社へ逃げるように、と伝えられていると言うその神社、さほど高い所にある訳ではない。と言うことは、この町にはそんなに大きな津波は来ない、と言うことなのだろう。

境内に祀られるこんな物。

 

 大国主命の命を奪ったと言う
 赤い大石

 絶命した命を蘇らせたと言う
 二人の貝の女神

 

 

 

 

 

遠い神話の国の神社にも、みことの命を奪った赤石があるとのこと。神代の話、生き返るも生き返らせるも物理の及ばない超時空が在るのだろう、いや、在ったのだろう。

御神木の大きな松の木がある。 御神木とは、「神が宿る木」なのか、「木そのものが神」なのか。同じことと言われそうなそんなことへのこだわりが強くなった。 気になる。

何という種類の松だろう、高く伸びた幹の割には枝の張りが小さい。

 

高さを良しとする松もあり、枝の張りを良しとする松もある。この御神木の松は、ご自身の意思でこの形を選んだのだろうか、それとも人の都合でこの形になったのだろうか。あるいは、何百年後かにこの形となる木を先人が植えたのだろうか。 そんな、人と神とのつながりをこの町の海から聞いてみたいものだ。

 

ではお次の調べ物は・・

 

 脇本陣

 いつぞやの世のお殿様が
 お座りになったのです

 

 

 

 

 

 そのお殿様がお越しになった時、この岸でお出迎えしたとのこと。 

 

 

 雁木(がんげ)

 史跡となっている船着場

 舟から降りた殿さまは
 ここからお籠に乗り換えて

 

 

 

 

カヤックにも具合良さそうなスロープだが、しかしここは史跡。勝手に使って良いのか、事前の許可があれば良いのか、上陸禁止なのか。駐車についての御触書はあったが、カヤックについては何もない。この岸には、カヤックはまだ想定外の部外者のようだ。

時々あることだが上陸に都合の良い岸があるので上がってみて、ふと気が付くと、浜から海に向けて、「この浜からの一切の船舶(手漕ぎも含む)出入り禁止!」、そんな立て札を見ることがある。浜からは見えるので、知っていればここからの出入りはしない。しかし海から漕いで来た者にはこれは上がってみないと分からない事。

          悪気があった訳じゃないのでごめんなさい

と、心の中で謝ったことが何度かあった。 「この港、カヤック乗り入れ全面禁止!」 そんなお触れが出ないよう、やはり漕ぎの前の陸上探索は重要な事項だ。

 

今日のランチはウナギ狙いだったので朝は少なめにしておいた。香ばしい匂いに腹の虫が鳴く。

 

 この街にきたら当然のウナギ

 身の厚さに感激し

 焼きの程良さに感激し

 その旨さに感激し 

 

 

 

 

「HINAKA」さん、お勧めの鰻屋でちょっと贅沢ランチ。1匹のウナギを家族全員で切り分け、別売りのタレをたっぷりかけて食べる「我が家のうな重」と、「産地のうな重」の違いを思い知った。 「漕ぐ海の幸を知る」、大義名分の付いた贅沢ランチだった。

 

お腹も満足し、さて、と午後の探索に出かける。 岸辺にこんな木が植えられている。

 

巨大なパイナップルのような木。所々に黄色の房状の花?が見える。 これはもしかして、夏の終わりにオレンジ色の甘い実が成る木ではないだろうか。 英虞湾でも長州の海でも見た小さな枇杷のような実。 これは確かめなくては。実のなる頃、またこの岸に来よう。

 

更に進むと賑やかしい浜に来る。

何かイベントでもあったのだろうか、カヤックはいないようだがウィンドサーフィンやサップの人たちで浜が大賑わい。 この浜にはカヤックは上がって良いのだろうか。この海を漕ぐ日はいつになるだろうか、その日にはあの赤い橋を渡ってみよう。

 

こんな巨木のある神社へも寄る。この神社には大きなクスノキが何本もある。

 

 御神木の大楠

 樹齢  500年
 根回り 16メートル
 枝張り 55メートル

 

 

 

 

 

 

 

木は、大きいから御神木とされるのか、長く生きているから御神木となるのか。人は、年を取るほどに敬われているだろうか。 人の生きざまに関わる現場から離れて久しいが、木や岩や地層の生きた時間に比べ、人の一生の時間の何と短い事かと、感じ入る。 その短い時間にどんな生きざまを残せるだろうか。

劇的ではなく、驚愕でもなく、絢爛でもなく、華麗でもなく、感動させるでもなく、名も残さず、いつしか忘れられる存在であっても、自分が生きた証をこっそりと残しておきたいと思うのだが。 さて、私は何を残そうか・・

 

途中の無人販売の店でこんな物を手に入れた。バカでかいミカンだ。

「安生柑」とのこと。500円玉と比べるとその大きさがわかる。後日恐る恐る食べてみると、程良い酸味の、八朔に似た物だった。そしてこの大きさの理由は分厚い白い綿?の部分。そんなに厚く必要なのかと不思議に思ったが、安生柑には彼(彼女)なりの主張があっての厚さ、大きさなのだろう、と受け入れた。

 

幾つかの神社、郷土資料館、出艇の岸、小さな野草、巨木、みかんの丘と探索は続く。1日スッキリしない天気だったが暑くなく寒くなく、これから漕ぐ水辺の街の探索はそろそろ終盤。最後にこんな展望台へと行く。

これが私がこれから漕ぐ海。いや、ここに見えていない、ずっと向こうの水辺も漕ぎ進もう。

        浜名湖、「陸と水との接点・水辺の暮らしを訪ねて行く」のシリーズ、

        本日開幕!