近頃は身体の調子が落ち着かず、古本屋や古書市への遠出ができにくいので、欲しい古本に出会う機会がほとんどなくなりつつある。これはもはや古本運が尽きたのか。時代劇で悪運もここまでと台詞が吐かれるのは、敵役の斃れるときと決まっている。つまり、古本病者が食指の動く古本と行き会えなくなるというのは、即ち、古本病者の精神的生理的な終末が訪れることにほかならない。
どうやら、命数の尽きなんとする古本病者の周りからは、いかなる天の配剤によるものか、魂を揺るがす古本が見る間に干上がってしまうらしいのだ。手に入れたいと望む古本が影を払うのと、古本病者当人の命の炎が消えるのとは表裏一体の現象であり、どちらが因でどちらが果であるかをわざわざ詮索する必要はないのである。
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