美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

神代の文字(戸上駒之助)

2012年11月06日 | 瓶詰の古本

   須佐能男尊の時代に於ては、西亜には、楔形文字が既に存在してゐたのであるから、我が国に西亜の言語と文字が尊の渡来に伴ふて渡来すべきは当然である。神傳によれば、檀君種族は同系の西亜種族である。故に上古にありては日韓の言語は今日に於けるよりも、遥かに近似せるものであつたらうと思はれる。乃ち所謂神統に使用せられた文字と言語がありしものと想像せざるを得ないのである。今日我が国に於ては、或学者は吾人祖先は天地と共に日本の地に発生したものであつて、日韓交通の開始によつて、我が国に初めて文字が入り来つたのであるから、其の以前の時代に我が国に文字がある筈はない。神世に燦然たる文化があつたといふのは後人の作り話であり、神代文字の如きは一笑に附すべきものであると曰ふ。然るに昔の学者は神代の文字を信じたるものゝやうである。今の学者がこれを認めぬのは面白きコントラストである
                   
神代の文字
   山崎篤利は其の著、古史徴に於て論じて曰く、
『神世の字は、梵字といふ字に似て、横行の字体なりしと聞ゆれば、読がたかりし故に、或は其の字未明と有りと云へるならむ。此等の書は、漢字の仮名を用ゆる世になりて神世の字の中に、まゝ漢字を借交へて記したる物になむ有りけむ。竪行に書くことあれど、横行を正とし、横行に右行と左行とあれども、右行を正とすと或人いへり。但し梵字に似たりと云ふを惡ふ人も有るべけれど、上に云へる如く、梵字の体すなはち神髄なる道に符へれば、然しも惡ふべきことにあらずかし。聖徳太子始以漢字附神代之字傍と有るなど、上古に文字なしと云はれしは廣成宿禰の誤なり云々』
   これによるも、神代文字には右行あり、左行あり、又縦に読む字もあつたのである。聖徳太子時代にはサンスクリツトも渡来したであらう。西亜にては、アルフアベツトの発明となりて以来、楔形文字は頓に廃滅に帰して、アルフアベツトの時代となつた。西域方面と我が国の交通は長年月に亘りて行はれたものと見なければならぬ。故にアルフアベツトの渡来するのは怪しむに足らない。従つて左行あり、右行あり、種々の型あるべきは異とするに足らない。右行のアルフアベツトにして梵字に似たるものと云へば、我々はヘブリウの文字を想起せざるを得ないのである。大陸渡来のアルフアベツトには種々の型がなければならない。

(「日本の民族」 戸上駒之助)

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