梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

社長交代(その3)

2019年09月28日 09時49分36秒 | Weblog
前回書きました通り、私の社長30年は平坦な道のりではありませんでした。新社長も入社以来営業一筋で歩んできましたが、功績を収めたかと思ったら大失敗をおかす、登ったらどん底に落とされるという、正に波瀾万丈の24年間でした。

新社長には、社長の持っている波動やエネルギーがあります。私には私の出逢いや縁がありました。新社長には社長の新たな出逢いや縁がこれからあります。

17年前わが社のメインの素材販売先が破綻して、その会社を吸収合併しました。その社員20名程をわが社で雇用したものの、現在残ってくれているのは4人だけです。引き継いだ顧客も、今ほぼ残っていません。しかしその統合は、わが社に加工事業をもたらし現在は収益の宝となっています。時代の変化は今後もっと激しくなると思います。 

近隣が都市化した葛西から、18年前浦安に会社を移転しました。葛西の土地売却はスムーズでした。土地の取得の判断が甘く、半年ほど遅れていたら、現在の浦安に移れなかった危険性がありました。先の企業統合とは別線で動いていた、この浦安取得が無ければ、吸収した溶断工場受入れは不可能でした。綱渡り的な、何か不思議な経験をしました。
 
社長は、詳細を全ては分からず、自ら手も出せず、最終決断を迫られます。しかし会社の失敗は全責任をとり、場合によっては自ら身を切ることもあり、間尺に合わない役割を求められます。それでも社長職は、会社や社員にとって、絶対必要な存在です。

新社長は、社長になってから緊張と怖さを感じ、寝られない日々が続くようになったと言います。先代が不在となり、社長になった時の私の30年前を思い出します。新社長は私の気持ちをおもんばかり、忖度し過ぎて、自分を押さえてしまう傾向があります。私の路線は気にしないで、“創造的破壊”を一つの大きな仕事として欲しいと願っています。

今回社長交代に際し、ある人は「英断ですね」と言って下さいます。むしろ、社長交代は何時か何時やるのかと、その決断を迫られていたようにも感じました。社長であり続けたら知らなかった、見えなかった世界が在ることを、実感しつつあります。 

私は突然社長になって、新社長と同じように、会社経営に漠然とした不安を感じるようになりました。朝誰よりも早く会社に行くようになり、そして土・日曜日も出社は当たり前になってしまいました。不安は会社に行けば解消される気がする、会社に長く居る事が仕事となりました。そのようなことが、20年ほど続きました。

この度私は会長となり、出社・退社時間を大幅に変え、その時間の束縛からは解放されました。新たな会社の部屋で、社員との新たな距離感で、時間帯が違う会社への行き来で、家庭で多く過ごすことで、新たに見える視界があります。

親しい勉強仲間から、「会長になって、梶さん暇でしょ!」「暇だったら付き合いますよ」、と何回か電話が掛かってきます。気に掛けてもらいとても有り難いことですが、今の所、それ程時間を持て余している訳ではありません。

社長の後継者を任命して終わりでなく、新社長としばらく伴走し、何かあれば相談役としての仕事もあります。私は突然のバトンタッチを体験しているので、社長交代は、少なくとも気力・体力がある内にとの思いもありました。

無我夢中に走ってきた30年間から少し離れ、その中で何かが生まれると思っています。ただし一方で、燃え尽き症候群に陥る危険性は、自分でも感じています。会長なりの使命がありそうですので、何が使命か模索しながら会長を務めてまいります。

寺越譲 社長 
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社長交代(その2)

2019年09月21日 05時27分44秒 | Weblog
私は社長になってからの30年間で、会社を二度引越ししています。先代が江戸川区葛西に建てた社屋を解体して浦安に新たに営業拠点を移したものの、しばらくは同じ葛西で、賃貸の事務所を借りて本社及び総務経理部門を残し、そこに私は居ました。その葛西の事務所も閉鎖して、そして浦安に全てを集約することになりました。

従いまして、葛西から葛西で一回目、葛西から浦安で二回目の引越しです。今回は同じ浦安の建屋内での移動ですが、私にとっては引越しに匹敵します。二回の引越しで、その都度荷物を半分くらい整理・処分しても、その後また物が溜まってしまいます。

社長室から移った部屋は、以前は社員の休憩の場ないしタバコ部屋として、現在は第二応接室として利用していました。スペースは社長室の約半分です。当然物を置く場所も十分ではありませんし、保管していた物も改めて見ると不要な物があり、今回思い切って処分しました。

処分と残った物の移動、そして社長室の明け渡し。その間10日ほどでしたが、ホコリにまみれ、えもいわれぬ疲れを感じました。資料などを見ながら、整理処分していると、社長であった30年間とあたかも対峙しているかのようでした。

先代の相続、過去の決算書、不良債権、その訴訟、社員採用、人事評価、社員旅行、経営方針、鉄鋼メーカー折衝、輸入材買い付け、扱い商品の変遷、企画・投資稟議書、土地移転、浦安新社屋建築、企業統合(溶断会社を吸収)、創立60周年式典、業界紙記事、業界団体、勉強会関係、など等が保管資料でした。

わが社は45年程前、それまでの製鉄原料関係の事業から、鋼板販売の事業に転換していきました。その業態変化は、先代の夢であり執念でもありました。昭和40年代や50年代は東京江東地区には多くの中小の溶断業者が存在し、そこへ安価な発生品の鋼板を在庫販売したわが社は重宝がられました。

わが社の扱う鋼板も、国内電炉メーカーや外国から輸入した製品にシフトしていき、扱い量も増加していきます。当時高炉メーカーは市中の溶断業者に材料を供給する責務が無かったので、時代の流れが追い風となったのかもしれません。しかしそこに大きな落とし穴がありました。それは販売先から代金回収が出来なくなる、不良債権の発生です。

製鉄原料の事業をしている限り、仕入れも販売も締切日や入金日は設定しますが、現金決済です。鋼板販売の事業となると、販売先は現金では買ってくれず、大方手形決済となってしまいます。鋼板の仕入れも手形決済で買えましたが、業態変化は手形商売への移行を意味しました。

現金決済とは違って、手形のサイトの分だけ債権額は膨らみます。鋼板素材販売ではわが社は後発で、売りたい販売量を上げたいとの一心で、与信管理の甘さが露呈します。先代からバトンタッチして10年から20年の間は、その不良債権が多発しました。

そのような不良債権先の個々克明な経過や、中には訴訟を起こした記録などが、資料として大量にあります。今回保管しあった資料はある程度処分したとしても、起こしてしまった過ちは繰り返してはなりません。

他にも会社の危機はありましたが、社員の協力によって、外部で関わった皆様によって、苦境や困難を乗越えることが出来て、今日のわが社があります。どれも私一人の力では解決できないことでした。

処分した後は、気持ちもすっきりしています。今後私の保管する物は、恐らく減ることはあっても増えることはないでしょう。社長室の明け渡しは、自分や会社を見つめる絶好のチャンスになりました。  ~次回に続く~
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社長交代(その1)

2019年09月14日 10時25分12秒 | Weblog
わが社と取引がある関係先の皆様には既に挨拶状をお送りしていますが、9月2日を以って私は社長職を後任に譲り、会長となりました。新しく社長に就任しましたのは、役員で会社を統括してきた実質ナンバーツーの社員です。

新社長と私で9月2日から、金融機関や主だった仕入先の鉄鋼メーカーや商社へ挨拶に伺ってきました。訪問先の皆様の反応ですが、一様に驚いておられました。わが社には二年前に入社した息子(26歳)がいます。私が10~15年は続投して、息子へ直接バトンタッチするものと想定していたようです。私に健康上の問題があっての交代ではないかと、懸念されるところもありました。

社長交代は、私の中では誰に絞り込むかは別として、5~6年前から考えていました。前回のブログでも書きましたが、私は先代(父親)の急逝によって、37歳で社長を引き継ぎます。がむしゃらに突っ走ってきた感がありますが、今年でほぼ30年が経過しました。30年が一つの社長業の区切りと考えていました。

社長の最後で最大の仕事は、社長職の後継者へのバトンタッチであると思います。人の命は限りありますが、企業は永遠でなくてはなりません。そうであれば当然のこと、社長の交代がスムーズに行なわれなければ、企業の継続・存続はありません。

30年前、先代経営者の息子つまり私が会社にいたので、未熟ながら急遽社長を引き継ぐことも可能でした。私がいなくても、社員で引き継ぐ者がいれば会社は存続します。いずれもいなければ、梶哲商店は倒産や廃業の道をたどったのかもしれません。

自身の体験から、後継者へのバトンタッチが、社長の重要な仕事だと私は考えるようになりました。有り難くも、私は今特に健康上の問題は抱えていません。バトンタッチは気力・体力がある内にとも考えてきました。このようなことが、この度の社長交代の経緯となります。

後継の新社長は、27歳の時にわが社に入社して24年が過ぎました。営業一筋の道を歩み、わが社では誰よりも勤続年数が長くなりました。わが社のこの30年間は決して平坦な道のりではありませんでしたので、私と苦楽を共に戦った同志ともいえます。

共に代表権を持っての交代ですが、最終決定権は誰にあるかとなれば、社長にあります。会長になっても社長と同じ権限を持っていれば、社長を交代して、私が会長になった意味はありません。私は、会長の役割である会社の相談役になろうと思います。

その会長と社長の権限の話しを挨拶先でしますと、会長職に退いた形でも社長の仕事をしている会社が、実際多いとの声が聞かれました。そのような会長は無意識の内にそれを行なっているとのことです。会長職の私はそれを肝に銘じなくてはなりません。

権限を譲る上で、逆に形が大事だと思い実行することがありました。私の従来の会社での居場所や出社時間についても、挨拶を終え、暫くゆっくりしてから変えようとしていましたが、9月の第一週のうちに早々に変えました。

わが社には社長室兼応接間があります。当然ここが長年私の居場所でした。直ぐ隣には、営業・業務・経理総務の社員が居る、大きな部屋があります。社長室のドアを開けておけば、そこからの声は大方聞こえますので、電話の鳴り具合や訪問者の気配は分かります。この社長室を新社長へ明け渡し、私は別の部屋に移動しました。

社長の時の私の出社時間は、朝8時から夕方5時まででした。会長となっても毎日は出社しますが、午前10時から午後4時までとしました。これも暫定とします。それらに伴って、私の生活のリズムが一気に変化してきました。  ~次回に続く~
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健康とストレス(その2)

2019年09月07日 09時47分24秒 | Weblog
平時は快適な大和の艦内も、一旦戦時になると急変し、兵員は強いストレスを受けることになります。「その表れが虫垂炎だった」と、“戦艦大和 男たちの健康”の番組に出てきた元軍医の証言です。つまり盲腸であり、頻繁に盲腸の手術をしていたとその軍医は語りました。強いストレスを長く受けると、大腸の一部である虫垂に炎症が生じ、硬い便の詰まりやウイルス性の感染症などで、虫垂炎になると言われます。

話は変わりますが、前回私は30代の頃長期に亘りストレスを受けて健康を害したとお伝えしました。その症状とは、喉の痛み(喉の詰まりによる)です。そのストレスの原因は、当時携わっていた仕事によるものでした。

45年前私は梶哲商店に入社して、2年後に現場で怪我をして、手術とリハビリで1年半を費やしましたが後遺症が残って、先代は現場がつきものの鉄鋼業へは、私の復帰は暫く無理だと判断し、そして興したのが運送取り扱い業の会社でした。関東地域に主に東北地方から上ってくるトラックに、帰り便としてその地方へ発送する荷物を斡旋する仕事です。つまり青ナンバーの自社便を持たずに、首都圏の荷主と地方の運送会社を仲介させる、電話だけでやり取り出来る情報産業でした。

私はその運送取り扱い業の会社の社長となりましたが、先代の描いたビジネスであり、当初は先代の指示のまま運営していましたので、実質は先代の会社。私の感覚ではその仕事の責任者でした。またそれに当時の私は特別な抵抗もありませんでした。

一見電話で簡単な商売にみられますが、問題は、地方の運送会社が順調に上り荷を降ろし空車になって、私達の斡旋した荷主の会社に無事に積み込みに入るかでした。天候異変や道路事情やトラックの故障や事故、起こり得るトラブルは種々ありました。

それを回避する為に、前日までに地方の運送会社には仕事の内容は連絡しますが、当日運転手さんからも必ず昼の12時まで、わが社に電話連絡をすることを徹底していました。仕事を受けておいて、欠車(荷物を積みに入れない)は、取扱い業者であっても信用を失います。しかし初期の頃、私の判断の甘さで何回か欠車を出してしまいました。

そこで先代の下した判断は、地方の運送会社でも状況が分からず、午後3時までに直接運転手から電話が無ければ、梶哲商店の自家用トラックを何とか手配するので、その緊急依頼をするようにとのことでした。梶哲のトラックが荷主から荷物を引き取って来て、わが社で積み替えて、その地方のトラックに積ませたことも度々ありました。

しかしそれが私にとってみると親会社に負担を掛けてしまうと、無意識の内に、いつしか大きなプレッシャーとなっていたのです。手配した地方の運送会社の運転手から連絡が無いままに、午後の3時が刻々と迫って来る。そのような事が重なり、トラブルが無くても、喉が詰まった感覚が常態化し痛みが取れなくなりました。

一時は癌を疑い、有名ながん研病院まで行き精密検査を受けますが、悪性でも何でもないとのこと。それでも痛みが取れずに、数週間会社を休んだこともありました。結果としては、先代の言っている信用問題を十分理解してからか、いつしか痛みは消えました。

私の仕事上のストレスによる体の異変など、戦時中での生死に関わる兵員からすれば、比較にはなりません。しかし自分で解消出来ない限り、ストレスは厄介なものとなります。今回の番組を観ていて、ストレスを受けた自分の過去のことを思い出しました。

先代が急逝して、当時37歳の私は社長を引き継ぎました。それからしばらく経って、十二指腸潰瘍を患いました。その重責のストレスを受けたのです。平静を装ってみても、体は正直だとも言えます。前回も書きましたが、生きている以上人間はストレスを無くすことは不可能です。ストレスを感じている自分を、もう一人の第三者的な自分から観察すれば、ストレスは意外と軽減されると現在の私はそう考えています。
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