梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

不思議な引き寄せ(その1)

2021年05月29日 04時53分32秒 | Weblog
前回お話ししました日本の歴史や文化を学ぶ会は、長く参加していたもので、定期開催される勉強会や集まりの一つです。同じく長年継続してきたもので、今後続ける意味があるかどうか悩みましたが、去年の12月退会した勉強会があります。もっとも続けようとする他の会でも、このコロナ禍で会自体が現在お休みとなっているものもあります。

わが社で私は会長職となって、一年九ヵ月が経ちました。会長に退いても毎日出社していました。ただし以前より遅く出社し早く退社して、会社に滞在している時間は5~6時間ほどでした。後継の社長と二人だけで話し合いをする時間を毎日設けてきました。しかし二週間前から、会社に行かない日を週1~2日つくり、社長と話すことも週2日間だけとしました。

社長のバトンを渡してからも、一年九ヵ月の間は現社長と私は伴走する形をとってきましたが、今回その状態から一歩退きました。社長のリーダーシップを邪魔しない必要性を感じたからです。後継社長にとって最も気を使う存在は会長になった私です。全社員参加の週一回の昼礼も、今週を最後として、今後出席しないことを決めました。

長年継続してきた勉強会を見直したり、会社で行う仕事を整備したり、これは自分の生き方を少し変えることに他なりません。私の居場所としては、会社、自宅、それ以外(外での会合)と、以前と変わりありませんが、会社に行かなくなった分、時間的拘束が少なくなったのは事実です。反面、外部の人との交流(社会性)が希薄になるのは避けたいと思っていました。
 
そのような中、山の友人からある会に誘われました。彼とは大学時代同期の山登り仲間で、自宅が互いに近く、社会人になってからも交流は途切れることはありませんでした。彼自身もその会のメンバーではないけれど、親しい人に誘われ、ゲストとして一ヵ月前から週一回の早朝会に参加していました。

長い付き合いの友人からの誘いなので、どのような会なのか詮索せず、またその会に私のことを知っている人もいるとのことなので承諾しました。その会は『葛飾区倫理法人会』でした。倫理法人会は一般社団法人であり、会員数は全国で6万8千社、経営者の自己改革を目指し企業を活性化する目的で、今から70年以上前に創設されたようです。

葛飾倫理法人会の会場は私の家からも近く、開催は毎週木曜日の朝6時30分からです。初めてその会に参加し、私を知っている方にお逢いしました。江戸川区で昔スクラップ業を営んでいた会社の役員の人で、私は初対面でしたが、スクラップを扱っていた私の父の時代を良く知っている方でした。山の友人は、しばらくゲストで参加してみるとのことです。

そのような会に参加した矢先、また別の知人からのセミナーの誘いがありました。同じく日本の歴史や文化を学ぶ会に参加されていて、私より二つ年上の方からの話しです。経営者対象の勉強会だそうで、詳しく内容を伺わないまま、開催日の夜は空いていましたので申し込みました。

後日その知人から案内が送られてきて、『千代田区倫理法人会』主催の経営講演会でした。偶然にも同じく倫理法人会で、その知人は既に会員になっています。千代田区倫理法人会では早朝の定例会とは別に、外部の人達も自由に参加できる、倫理に基づく経営講演会を年に何回か企画しているようでした。

この会に参加する前日、日経新聞に広告があり、私は著者を知っていたのでその本をAmazonで注文しました。著者の彼は、高校の時の同期です。公認会計士となり、多くの税理士や社会保険労務士や行政書士を抱える、総合コンサルタントグループ会社のトップです。“中小企業の「事業継承」はじめに読む本”のタイトルと彼の名前が目に入ったので、買い求めていたところです。

話しは戻り、当日千代田区倫理法人会に参加し通された席に着いていました。前の方からゲストに名刺を持って挨拶している人物がいます。マスクをしていますのではっきり判りませんが、見覚えのある顔です。その人物が前に来たので、「もしかして藤間⁉ 私梶です」と私。「え、え、梶!」と彼。「藤間の本を注文したとろ、ここで逢うとは実に奇遇!」と私。彼とは20年ぶりの再会でした。   ~次回に続く~ 


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初めての体験 

2021年05月22日 04時40分31秒 | Weblog
日本の歴史や文化を学ぶ会に、20年ほど前から参加しています。会員は10人前後で、メンバーの中で講話者を決め、隔月ごとに浅草で会を開催してきました。私以上の年齢の方がほとんどで、代表幹事(以下K氏)がいらっしゃいますが、私はその方のサブをさせてもらっています。

集まりは日曜日の午後3時から、浅草の天婦羅屋さんの会議室を借り2時間半ほど勉強会をして、その後食事をとります。このコロナ禍で去年の4月から閉会となって、9月に再会しましたが、今年の正月からまた閉会となりました。4月下旬K氏から、「今後の会の運営について話したいのでお昼の時間帯に会いませんか」との連絡が入りました。

会の運営に熱心な方をもう一人(以下S氏)誘い、3人で5月上旬、東武練馬駅の改札で集合することになりました。K氏は80歳を超えていますが、1年半前に奥様を亡くされ息子さんは新潟に住んでいるので、現在は一人暮らしです。K氏の自宅が近いその駅で集合して、近くで一緒に食事をする予定でした。

当日の集合時間12時前に私は駅改札に着いていましたが、少し遅れたS氏が着いて10分経っても、肝心のK氏が現れません。実は私にS氏からその朝電話が入り、K氏に本日の確認をしたのだか電話に出なかったとのことでした。その時は、予定通りで間違いないとS氏には答えましたが、K氏が時間に現れないことで不安がよぎります。

K氏は携帯電話を持っていません。駅から電話しますが繋がりません。幸いS氏がK氏の年賀状を持っていてK氏の住所が分かり、ともあれ自宅に行ってみることにします。スマホで検索し駅から10分、その住所のマンションに辿り着きます。三階の部屋に向かいインターホンを鳴らしても人の気配を感じません。中で倒れていることも考えました。

年賀状の住所には無かったマンションの名が分かりました。最悪を想定して、管理人に頼んでドアを開けてもらうしかありません。駅に戻り二人で食事をしながら、マンション名を手がかりに管理人を探し出そうとスマホを駆使しましたが、結果分かりませんでした。食事も早々に、しかたなく最寄りの交番に駆け込みました。

交番で事情を伝えますと、警官からのアドバイスは現地に行って110番通報をして下さいとのこと。S氏と二人再度マンションに向かい、そこから私は110番します。電話口に出てきた人は女性で、冷静沈着。「施錠したドアを壊し中に入る可能性があり、警官と消防も同行します。あなたはそのマンションの前で待機して下さい」との指示でした。

マンションの前で待つこと13分、サイレンが聞こえ、消防隊到着。ほぼ同時に自転車に乗った警官二人(先ほどの交番の人ではなく)が合流し、消防隊員は7~8名の数です。階段も廊下も狭く、その半数を私が三階へ案内します。やはりインターホンの反応はありません。私が警官に事情聴取を受けている最中に、隣の住人の方がドアを開け現れます。私達が最初に出向いた際表札がなかったのですが、隣に住人がいたのです。

その住人の話しを間接的に聞いていると、三日ほど前K氏が室内で転倒して民生委員を呼んで、病院に緊急搬送された様子です。良かったと私達は安堵しますが、下にいた消防隊員は裏手へ回り、外壁をよじ登り三階へ上がりベランダ側のガラス戸が開いたので中に入り、本人がいないことを確定していました。警官は民生委員とも連絡が取れ、病院を聞き出し本人の入院も確認しました。

警官も消防隊にしても色々想定して、念には念を入れるとはこういうことなのだと感心しました。警官に病気名を尋ねましたが、「申し訳ないですが、教えられません」との返答です。本人から待ち合わせに行けない連絡が私達に入らないのは、携帯電話も持っていないので当然のことで、先ずはK氏の安否確認が取れてなによりでした。

“一朝緩急応ズルノ覺悟アルヲ要ス”とは、日露戦争の日本海海戦で勝利した後に、連合艦隊を一旦解散するに際しての東郷平八郎の辞の一節です。「この戦争で収めた成果を永遠に生かし、国運を盛んにするには平時・戦時の別なく外の守りに対し重要な役目を持つ海軍が、常に万全の海上戦力を保持し、“一度事あれば直ちにその危急に対応できる構えが必要である”」との意味となります。

今回普段体験できないことを目の当たりにし、有事の時公務に就く人たちの心構えと使命感を実感しました。「本調子ではないけど家に戻り、大変心配を掛けました」と、その一週間後K氏から連絡が入りました。
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双方向の情報共有(その2)

2021年05月15日 04時42分19秒 | Weblog
「教育」の意味を調べると、「知識や技術を教え授けること」「人を導いて善良な人間とすること」などが出てきます。英語の教育(education)は、「内在する素質や能力を外に連れ出す」の語に由来することは知られています。日本において、「おしえる」の語源は「愛(を)しむ」であり、また「そだてる」の語源は「副立(そいた)つ」であり、どちらも幼子をいつくしむ情感が込められた日常語だったようです。

同じく「指導」の意味を調べると、「ある目的に向かって助言を与え導くこと」「組織団体の方向などを決定し成員を導くこと」などが出てきます。なお指導は指示・命令とは異なり、被指導者には必ずしも指導された内容を実施する直接的な義務はなく、指導は相手によって受け止め方が異なり、それを踏まえてその人に合わせて導いていくことの大切さも含まれることが分かります。

とはいえ、わが社においても一方通行的な教育・指導は行います。入社間もない新人には、知ってもらわなくてはならない仕事のやり方ビジネスの基本など、最初は教え導くことは必要です。しかし相手の習得度合いを見ながら、押し付けるだけでなく、徐々にやる気や自主性を重視しなくてはなりません。結論を急がず、長い時間を要することは覚悟すべきです。

ここで、丹羽宇一郎さん(伊藤忠商事前会長)の言葉を引用させてもらいます。「経営者に必要な条件は、自分は何も知らないという自覚です。無知で未熟な存在だと思えば、学ぶべきことが沢山あることに気付きます。トップにいるから偉い。社員は自分より無知で、ものごとをよく理解していない。そんなふうな感覚を持っているトップは経営者失格です」。【同氏著書“人間の器”より】

「実際に現場の社員たちと少しでも深い会話をすれば、自分が知らなかったことを沢山知っていたり、斬新なアイデアを以っていたりすることに気付くはずです。ときには頭を下げて、社員に教えを乞うことがあってもいいのです」と、氏は明確です。現在総合商社で一番の利益を上げている伊藤忠商事ですが、23年前丹羽氏が社長になってから行った大改革が奏功した成果です。それでも社員に対しては謙虚で、トップの在り方として学ぶべきところが大です。

わが社でもいえるのは、実際携わっている役職社員の方が、社長よりその仕事を熟知していることです。役職付きへの昇進は、その分野で努力が実り評価された結果です。しかし役職者が、部下の管理掌握とか、他の部署との連携とか、会社全体の運営とか、最初からそれらの能力が備わっているわけではありません。だからこそ早くから発揮できる場を与え、判断・提案・修正しながら、実践の積み重ねが大事です。会社は失敗するリスク(損失)を負っても、任せることが先決です。
 
そのような事を会社で心掛けるに際し、「教える」と「指導する」の他に、「伝える」の視点を持つことが不可欠だと私は思います。「教える」ことが避けて通れないこと、そして「指導する」ことが指示・命令とは異なることは前述しました。教えるが「知識」を共有してもらうことであれば、伝えるは「意識(心)」を共有してもらうことです。相手の心に語りかけ、思いや気持ちを分かってもらうために、伝える必要があります。

指導することは指し示し導くの意であれば、「ベクトルを示す」と言い換えることができます。更にいえば、「意味や意義(目的)」を指し示すことかもしれません。知識を教えるだけで、人は簡単に動けるものではありません。意識(心)を伝えて、ようやく動けるものだと思います。その動く力(行動力)に、ベクトルを示す(指向性)を加えて、やっとゴールが見えてくるものだと考えます。そんな視点の重要性も、今回色々調べてみて発見しました。

あくまでも仮の話しですが、私たち二人が海外出張に行って航空事故で共に会社に居なくなったら、わが社は回っていくのだろうか。現社長と私はこのような話をしたことがあります。それでも会社は存続して欲しいが、二人の願いでした。会社は何を求めるのか。社員の従順さか自主性か、会社の一過性安泰か継続的盤石か。トップは社員全員の成長を支援しながら、その仕組みに取り掛かる使命があります。

教えるは、一方通行の情報共有。伝えると指導するは、双方向の情報共有。双方向で情報の共有ができるのは、相互の信頼関係があってこそです。上位とみなされている者は、相手の立場に如何に立てるかが鍵となります。
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双方向の情報共有(その1)

2021年05月08日 04時49分45秒 | Weblog
会社において「教育」とか「指導」という言葉は、ごく普通に使われます。社長は社員に対して、むしろ無意識に使っています。この言葉を少し分かりやすく、強い口調に置き換えるなら、「私の考えを理解していないので、教育します」「あなたの間違っているところを、指導します」と、なるでしょう。

『職場の教育』とのタイトルの小冊子を、知人から何回かもらうことがあります。会員数も多く全国的な組織で、ある社団法人が毎月刊行しているものです。この団体は、経営者の自己改革を目指し企業を活性化する目的で創設されました。社員に対し社会人としての行動指針を示し、人間関係での心の持ち方に対処するため、この冊子は朝礼で活用されているようです。

私は、その団体の主旨や冊子内容に批判的なのではありません。しかし「教育」とか「指導」の言い回しに隠されている真意を、掘り下げてみる必要を感じています。リーダーの判断や考えが絶対ではありません。リーダーは、「自分は正しい」との固定観念に陥りがちです。それが根底にあることも疑わず、抵抗も無く言葉を使っている点に問題があると思います。

“三国志”とは、中国の後漢・三国時代(184~280)に中国統一をめざし群雄割拠していた興亡史をまとめた、書物の名称になります。三国とはいうまでもなく魏・呉・蜀のことで、魏の曹操や、蜀の劉備や諸葛亮などは日本にも馴染み深い人名で、戦史を通しリーダーの哲学や在り方を人物中心に書かれたものです。時代や国を超えて、現代のリーダーシップ論として学ぶヒントが凝縮されています。 

諸葛亮は力で抑えることの限界を知っていて、無理強いするのではなく気付かせることで、蜀の国の中での内乱者や異民族を平定しました。「心を攻める」ことで、つまり相手にやましさや憐憫の情を抱かせ、戦意を失わせ心腹させ、味方に引き込んだといわれます。また諸葛亮は組織内でも、力の劣る者であってもそれなりに活かし、誉れ高い優れたリーダーとして後世に語り継がれています。

話題は変わりますが、孫娘のことです。二歳半になる孫娘が母親(私の次女)に連れられて、連休中に数日間、私達の実家に来ていました。彼女は、大よその会話はできるようになりました。食事の時は私の隣に座るので、こちらの都合や気分で彼女に介在するのではなく、しばらくはじっと観察ながら、私に問い掛けがあったら応えていました。するとある時から、私の手を触ったり私にちょっかいをかけてきたりするようになりました。

家内は「孫娘は犬より猫だね」といいます。犬は社会性を持ち群れる習性があり、フレンドリーで個人や家族に従属する傾向で、独りで過ごすことは苦手で、自分が注目されることに強い欲求を持っている。対照的に猫は孤独な狩猟型で、よそよそしさすら感じるが、相手にしてくれる人も認識していて、犬ほどではないが時間とともに飼い主に深い愛着を持つようになる。私は犬も猫も飼ったことはありませんが、調べてみるとそれぞれの特性が分かり、家内はそのような違いを言っているのです。

動物の習性はともかく、人間の大人からみれば、孫の年齢では知恵は劣ります。それだけで明らかに上下関係がついてしまいます。しかし目線を同じくしなければ、孫が発している情報は入ってきません。それも孫が私に関心を持った時に、私が反応を示さなければ、孫の心が開かないものだと今回感じました。孫から教わることも多くあります。

優れた武将の例にしても幼い孫の例にしても、共通点は、双方向の情報共有ではないでしょうか。相互の情報を交換するならば、まして心を通わせるのであれば互いにフラットの位置にいなくては難しい、とそのように思いました。会社において、一方的に上から下に諭そう・伝えようとする「教育」とか「指導」は、どうしても無理があると言わざるを得ません。わが社での具体論について、次に少し触れてみます。  ~次回に続く~
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分かれ道は(その4)

2021年05月01日 04時49分26秒 | Weblog
ヒトラー・ナチスの体質で、今の我々にも通じる組織や集団の恐ろしさについてです。分かりやすくするために、新興的な宗教の教団に例えます。そこには教祖がいて、教義があって、信者が存在します。ナチズムにおいては、教祖はヒトラーで、信者はドイツ国民です。その教義とは、国家社会主義ドイツ労働者党(ドイツ語での略が「ナチス」)の党首となったヒトラーの思想と政治となるしょう。

ナチズムは、民族を軸に国民を統合しようとする国民主義と、マルクス主義や階級意識を克服して国民を束ねる共同体主義とを、融合したものです。国民主義と、共同体主義という意味での社会主義の融合であることを示すために、「国民社会主義」と称したとされます。民族主義的な政権によって、全面的に統制しようとする運動となり、全体主義やファシズムと言われます。

このような、あらゆる活動を拘束し義務づける法則は「強制的同一化」とも呼ばれます。一人の指導者が権力を掌握して、一つの民族を、一つの国・一個の世界観であると定義し、社会全体を「均質化」しようとする思想です。その根底には、ドイツ民族のこだわりである自分たちは最も高貴とする、選民信仰が強かったといえます。これによって民族主義の具現化を図ったのです。 

ヒトラーは、人種の上位は自分達アーリア人種で、中でも雑種化していない純粋民族であるゲルマン民族が最も上等であるとしました。アーリア人種、ゲルマン民族は唯一文化を創造する能力を持つ「文化創造者」とし、ユダヤ人をこの対極にあるとし「文化破壊者」として、ユダヤ人を経済活動から排除しました。つまり『生贄』をたて、強迫観念を煽り、ナチズムは更に強固になろうとしました。

“生贄探し/暴走する脳”という本を読みました。中野信子(脳科学者)さんとヤマザキマリ(漫画家・随筆家)さんの対談もある、二人の共著です。「体内に取り込まれた異物を排泄するがごとく、集団は異物な者をどうにか排泄しようとあがく。人は放っておけばそういうことをしてしまう生き者である」と、『生贄探し』をしてしまうと本の前書きにありました。

「幸せそうにしている人を見るとモヤっとする」「相手が得をすると損した気持ちになる」、そんな負の感情が連鎖しやすい傾向こそ脳の特徴である。「抜け駆けする人が痛い目に遭うのは当然」「お前だけを特別扱いにできない」、日本人は実はよその国の人よりいじわる行動をする。本ではこのように看破しています。

この本を読んでいて、ナチスがユダヤ人を生贄とした論理構造がよく分かりました。「幸せそうにしている、得をしている、抜け駆けしている」と、宗教上の問題や経済的な偏見によって、選民意識が強い当時のドイツ国民にはそう映り、「痛い目に遭うのは当然、お前だけを特別扱いにできない」と、罪がないユダヤ人が生贄にされたと推察ができます。

人間は、自身が正義を行っていると信じているとき(正義中毒)には、どこまでも残酷になれるものであり、そこ(群れ)に権威の存在があればなおさらであり、組織や集団に生じる凶暴な安心感を、その中だけにある解放感を、本書は警告しています。だからこそ、異論は興味深く面白い現象と受け入れ、知性で他者の多様性を認める必要を説きます。

幼稚園や小学校に通わせる子供たちの母親は、仲間を作り、共有できる考えを持ちたがります。しかし、その考えに異論をとなえる母親が現れると、陰に陽に一斉にバッシングが始まります。その母親の異論が、心の中では正しいと思っていても、多勢に無勢、自分たちの考えが正しいと仲間外れ(いじめ)に走ります。このようなことは、私たちの身近で起こります。

人間は動物であり、群れることは動物の本能です。しかし人間は理性的な動物です。他の動物と人間は、そこが分かれ道となります。それが分かっていても、歴史の過ちは繰り返され、閉鎖された群れで起こる危険性は未だに研究のテーマとなります。自分の正義にしても、偏った思い込みはなか、再確認する機会としたいと思います。


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