梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

家訓を破り(その2)

2018年07月28日 09時44分18秒 | Weblog
25年ほど前(先代は既に他界)、当時の江戸川鉄栄会の会長から、サポート役で副会長を受けてくれないかとの声が掛かってお断りしたのは、それなりの理由がありました。先代が自社の商売の将来も考え、地区鉄鋼団体である当会に入会したものの、役員を引き受けて外の会に出て行くことはもともと嫌っていました。

「先ずは自分の商売に専念することが大事」「自分の頭の上のハエも追えないのに、外の団体に出て行くな、それも“長”となって」、という意味でした。それは祖父からそうで、先代もそれを守り、私にも言っていましたので、私は家訓として受け入れました。

そのような理由で会長には、副会長には“長”が付いているのでとお断りしたのです。暫く経って会長から、「梶さん、書記という役職を新たに作ったので、何とかお願いできないかなあ」と、再三話がありました。考えたあげく、長が付いていないから家訓は破らない、との解釈で書記の役をお引き受けし、その会長の下で3年間働かせてもらいました。

3年目最期の年は、当会が創立30周年行事を行うことになっていました。無事それを終えた直後、その会長は退任しました。実は会長の会社は詐欺まがい問題を起こし、一部会員にも損害を与え、退任せざるを得なくなったのです。私は、会長の見栄の為に利用された形になりました。

私に人を見る目がなかった。そう言われればそれまでですが、しばらく人間不信になり、私も退任させてもらいました。そして、一般会員が参加する行事にも殆ど参加せず、また当会から距離を置くことになります。その後に就いた会長は、結局5期10年会長をされることになります。長期在任になったのは、その会長の人徳もありましたが、次期会長の引き受け手がいなかったこともあります。

その会長が3期6年を過ぎた頃から、私に会長職を引き受けて欲しいとの依頼がありましたが、家訓の話も伝え断り続けました。その会長の時代から副会長は2名に増やしたのですが、遂に5期が終わる半年前くらいから、是非とも私に次期会長を受けてもらいたいと、正副会長3名が揃って何回か来られようになりました。

そこで懇意にしているある方に相談しました。家訓もあり、私はそのような器ではないと。するとその方は「確かに、梶さんは器ではないかもしれない」と、あっさり。しかし、「その器を造る今回チャンスではないですか。頼まれた時がチャンスですよ」とも言われ、その瞬間私の中で何かスッと腑に落ちるものがありました。

同時に、次のような考えも浮かんでいました。江戸川鉄栄会に入会したのは何か会から得るものがあったから(権利の行使)、でも入ったからには何か会の為に恩返しすることも(義務の励行)、人としての道ではないか。家訓であると断り続けることも可能でしたが、敢えて家訓も破る勇気も必要かもしれないと思うようになりました。

結局私も前会長と同じく、5期10年当会の会長職を務めさせてもらうことになりました。そして2年前に、後任がやっと現れバトンタッチをしました。地区団体の上部団体である、東京鐵鋼販売業連合会があります。9地区の会長は、在任中はこの東鉄連の常任理事となり、その中で正副会長が選ばれます。常任理事4年目に当時の正副会長に引っ張り上げてもらい、東鉄連の副会長を7年間務めさせてもらいました。

長が付く外部の団体に出て行くことになり、家訓は破ってしまいました。しかしながら会社だけでは経験できない、多くの体験をさせてもらいました。器ができたとは思いませんが、長の役職を与えて下さった皆様に感謝しています。
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家訓を破り(その1)

2018年07月21日 08時53分37秒 | Weblog
江戸川鉄栄会の下部組織「江戸川鉄栄会若手会」が、7月上旬、新潟・富山一泊研修旅行を開催したことが業界紙に載りました。若手会は今まで定期的に会合を開き、メンバー相互の親睦を深め、親会をサポートする活動など行ってきましたが、一泊研修旅行は今回が初めてでした。

11名の一行は、1年半前に大火にみまわれた新潟県糸魚川市の、その被災現場を訪れ、市に見舞金を手渡しました。次に富山県高岡市に在る400年にわたって継承されてきた技術を持つ鋳物会社(錫製品)を視察し、北陸随一と名高い「金太郎温泉」に泊まり懇親を深め、翌日は富山市内に移動して和漢薬種問屋を見学し、市内観光後帰途に就きました。

この若手会の一泊研修に、私の息子が参加しました。去年わが社に入社した息子が、若手会に参加したのは今回が初めてとなりました。北陸新幹線での往復そして一泊と、道中お酒も入り、先輩の皆さんとも一気に打ち解け、有意義な研修会だったようです。

私はと言いますと、二年前に役員を退任したこともあり、江戸川鉄栄会のオフィシャルの行事に出る機会が少なくなりました。去年江戸川鉄栄会創立50周年記念で海外研修旅行の台湾には同行しましたが、その他の行事は中々タイミングが合わず、当会から少し遠ざかっています。

息子が参加したことで、江戸川鉄栄会とは親子三代で関わることとなりました。当会に加盟したのは先代の時で、昭和51~2年だったと思います。当会の発足は昭和42年、素材販売や加工を主体とした会員がほとんどで、その頃わが社は鉄でも発生品を扱っていましたので、江戸川地区ではわが社の存在認識は薄かったようです。

ところが、わが社が鋼板の端材の商売を昭和50年から始めましたので、当時の会長が入会の勧誘に、わが社に来られたのです。実はその会長の会社は溶断業であり、また端材を前々から扱っており、後発といえどもわが社はライバル的な存在です。先代は、頭を下げ入会を依頼しに来られた会長を、「太っ腹な人物」だと評していました。

先代はどちらかというと、一匹オオカミです。徒党を組まず団体などにも属さないで,
誰にも制約を受けず、自分のしたいことをするタイプでした。端材を江戸川地域のお客さんに売るためにも、そのような会長からの勧めもあり、当会に入ることを決めたのでしょう。

入会して間もなく、会計担当役員をしてもらいたいとわが社に依頼があり、先代の命令で、私がその役を引き受けることになりました。実質当会に引っ張り出されたのは、父親の会社に入って間もない私でした。しかし一年も経たないうちに私は現場で怪我をして、長期会社を休むことになり、私の後を引き継いだのは弟です。

弟も何年か経って、会計担当の任期を終えます。私はその怪我で長い入院生活を終え、復帰して新たに起こした運送会社の仕事に従事することになりましたので、私は江戸川鉄栄会とも関係が途絶えることになりました。

怪我をして13年後、私は梶哲商店に戻ります。そしてその一年後に先代が亡くなります。それから2~3年後、わが社を当会に誘ってくれた会長の、二代後の会長が私に役員になるように、それも副会長になってもらいたいと声が掛かりました。私が40歳の時です。しかし私はお断りします。
~次に続きます~
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求人難問題(その2)

2018年07月14日 06時00分05秒 | Weblog
“ちば若者キャリアセンター”によって、わが社は12名の企業訪問を受け、その後どうなったかの本題に入る前に、求人難問題に関して次のようなお話を紹介いたします。

「すみません、思った会社と違うので辞退させてください」。20代前半の女性が面接当日その会社の事務所の玄関で、そう言うと面接もせずにそそくさと帰っていったというのです。「息子を辞めさせて欲しい。そのような仕事をする為に育てたのではない」。入社したばかりの10代の若者のお母さんから、その会社に掛かってきた電話だそうです。

この二つは、今から26年前、自動車解体業の会社で実際にあった話です。私の勉強仲間で、山形県にある社長の会社で、当時新たに中古車部品のリサイクル部品を扱う事業へ進出をしようと、求人をしだした時のこと。自社は典型的な3Kだと分かってはいたが、今でも鮮明に残っているショックな出来事だったと、その社長は回顧します。

この自動車解体業の会社は、その後リサイクル事業も起動に載って、5年前工場兼新社屋を新設しました。その業界には似つかわしくない、大きく、明るく、とても綺麗な建屋です。長年抱いてきた業界のイメージを払拭したいとの社長の夢を、形に表しました。現在は、地元の高校から毎年数名の新卒者が入社しています。

その会社は社員も50名ほどに増え、定期的に新卒者を採用できる強みもあるかもしれません。しかし多くの若者を採用できるのも、過去のショックな出来事を乗越えて、何事も諦めずに、自社で色々な手を打ってきた証左です。

さてわが社の話に戻りますが、12名の企業訪問を受けた若者の中で、2人が後日改めて面談に来社しました。その内の1人がわが社を志望し、わが社も入社して欲しいとの事で採用とさせてもらいました。23歳の彼は、7月9日から出社の運びとなりました。

わが社が作っている溶断加工製品には、切断後バリが付着します。そのバリを、ディスクグラインダーを使い、一枚一枚手作業で削り取らなくてはなりません。材料や製品の搬入・搬出、機械のオペレーション、切り上がった製品の後片付けとこのバリ取り処理、どれも大事な仕事です。

ここ半年の間に、65歳前後の2人の高齢者を採用しました。主にこの後処理の仕事をお願いしてしいます。2人とも前職で定年退職となって、現場でまだ働けるとのことで、パート社員として雇用させてもらいました。社員の若返りも図らなくてはなりませんが、若者の労働者減少の中で、働く意欲がる高齢者手助けしてもらいたいと思っています。

長期に亘り企業側の若者の求人難が続き、若者の求職者は引く手あまたとなれば、中には仕事を選ぶとか高給を望むとかの、仕事に対する意識変化があるのは仕方がないことです。しかし企業側も、この時にこそ外の社会現象だけで後片付けるのではなく、もっと社内面の改善や改革に力を傾注しなくてはなりません。

件の自動車解体業の会社は、何事も諦めずに継続して、若者を確保されています。前出の同業者は、同じ労務問題で行き詰り会社を畳みました。この対比において学ぶべきものがあります。
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求人難問題(その1)

2018年07月07日 09時28分24秒 | Weblog
東北地方に在る、わが社と同じく厚板溶断業の会社が廃業するとの情報が伝わりました。理由は工場の作業員が3名辞めて、長らく募集をしてきたが、全く採用の目処が立たず、遂に会社経営自体を断念したとの話しです。元々は鉄鋼商社の東北支店の溶断加工部門を分離独立する形で設立され、その後地元のオーナー会社を吸収統合して、業容を維持してきた社歴35年に及ぶ会社です。

20名強の総勢で、内現場職は10名。その現場職3名が欠員となり、長期に亘り補充が出来ず、工場が回らなくなったとの経緯です。同業者で規模もわが社と変わらない会社で、労務による破綻が起きてしまっている事実を知り、驚きを隠せません。

わが社も、特に現場職での若者の確保は最大の課題です。増員の必要があったり欠員がでたりすれば、従来は中途採用で、年齢にはあまり拘らず社員を募集してきました。しかし将来を考えたら、現在中堅の社員も確実に高齢化を迎えるわけで、どこかで若手を採用しなければ技術の伝承も出来ず、会社は立ち行かなくなります。

そこで5~6年前から、若手を採用する試みを重ねました。地元のハローワークが主催する、高卒や大卒の新卒者対象に企業合同面談会があることを知って、何回かエントリーして、この期間で、ようやく4名を採用することができました。

また3年前、千葉県若人自立支援機構という団体と出逢いました。家庭で諸事情があり児童養護施設で共同生活をしながら高校まで通っている若人に、社会人として自立させるべく、就業支援活動を行うことを目的とした組織です。この団体のシンポジウムに参加したり高校生のインターンシップを受けいれたりして、現場職採用まではいかずとも、新たな取り組みをしてきました。

しかし残念ながら、ハローワークでの合同面談で折角入社した若人も、ここ2年半の間に2名の退職者を出してしまいました。辞めて行った社員自身の理由はありますが、それ以上にわが社が彼らを引き止められなかった、会社の魅力の無さに原因があったと捉え、この苦い経験を活かさなくてはなりません。若者が入社するかしないか、会社存続の尺度と真摯に受け止めています。

現状では工場は手が足りません。今年の初めから募集活動を行ってきましたが、新卒者の採用のタイミングは過ぎていることもあり、全く反応がありませんでした。特に4月は多くの会社は新年度、新入社員としてスタートする月でもあり、一年で最も転職者が少ない時期にあたります。

それでも駆けずり回り、6月の後半になり、千葉県地方公共団体が運営する“ちば若者キャリアセンター”なるものの存在を知りました。その公共団体とは、公益財団法人千葉県産業振興センターであり、中小企業の経営や革新に関して支援することが主な活動で、その中に若年者向けの就職支援サービス部門があったのです。

学生やフリーターおおむね30歳代までの若者求職者に、個別指導や、セミナーや、イベントなどで支援しているのがその部門です。イベントとは、一箇所の会場で定期的に、複数の求職者に企業数社が会社説明を行い、後日求職者はその企業を訪問するという内容です。6月21日にわが社は会社説明会を行い、25日に、何と若者12名の企業訪問を受けました。そこから求職者は、興味ある会社に個別に企業面談を進める取り組みです。

万策尽き果てたと諦めるか、まだ可能性はあると継続するのかで、物事の成否は変わってきます。さて12名の企業訪問を受けた、その後のわが社の話です。 ~次回に続きます~ 
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