梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

咄嗟から出るもの

2022年04月30日 05時44分12秒 | Weblog
予期できないことが起こった時、どう対処・対応するのか。自分自身の身に降りかかること、目の前の他者に起こること。対応や対処に時間を掛けられないこともあります。突然に何かが起こり出てくる行動は、その人の覆い隠せない素かもしれません。これからお伝えするのは、他者に起こったことですが、私自身の身の危険も感じた出来事でした。

その日は外出して、帰宅途中、電車から降りて歩いてる時でした。夕方5時半頃のことです。運動の為と思い、最寄りの駅の一つ前で降りて、線路の脇を歩いてきました。踏切に差し掛かった時です、ちょうど警報が鳴り出しましたが、私は既に反対側を歩いてましたので踏切を渡る必要はありません。車も通る踏切ですが、この場所はさほど車の行き来はありません。

遮断機が下りてくる、その線路内で見えた光景でした。男性が線路内に取り残されていました。その男性は自転車もろとも転倒して、立ち上がれない様子でした。私側の遮断機の前には、私の他一人の男性。反対側の遮断機の前には、一人の男性と一人の女性。私から見て右手方向から電車が通過する警報ですが、まだ電車が近寄ってくる気配はありません。するとその向こうの女性が遮断機を上げて、線路内に入り、その男性を支えて立ち上がらせ、自転車を踏切の外に持ち出します。

てっきりその男性は、女性の後について踏切から出てくるものだと思いました。しかし、なんとまた倒れてしまいます。今度は線路と線路の間の砂利が敷かれている間に倒れ込んでしまいます。そして、自力で立ち上がれないのです。この時点でその男性に異変を感じ、何か体に支障があるのかお酒に酔っているのか、いずれにしても不可解です。その男性はマスクをしていますのでよくは分かりませんが、おおよそ60~70歳位です。

「大丈夫ですか~」、その時私は大声で叫んでいました。しかし反応はありません。すると状況を判断したのか、私側の男性が緊急停止ボタンを押してくれました。停止ボタンが押された現場に居合わせるのは、私は初めてです。電車がどのように感知して、徐行したり停止したりするのか見当もつきません。がしかしその男性を放置できず、一刻を争う問題です。すると遮断機の反対側の男女が、果敢にも踏切内に入り、二人はその男性を引っ張り上げ抱きかかえるように、踏切から無事救出しました。

目前で繰り広げられた1分位の出来事でした。正に危機一髪でした。暫くして通過する電車が最徐行して目の前を通りました。その後、反対側から来る電車も徐行して通ります。後続車も徐行して通るのでダイヤの乱れは何分にも及んだことでしょう。普段から踏切の警報機が鳴って、電車が通過するまで長い時間に感じていましたが、いざこんなことがあるので、緊急対処を想定しているのでしょう。

結果、私は声を掛けただけで、線路内に入りその男性を助けたわけではありません。私は足が悪いので、自力で立てない人を一人で助けられる自信が無く、足がすくんだのも正直なところです。自分の身の危険を感じ、自分を守ろうとしたのです。しかし私は、その場に私の他誰も居なかったらどうしていたのでしょうか。

新聞やテレビで、水難事故で溺れかけた人を救おうと助けた人が命を失う報道があります。目の前の突然の事故に遭遇して、見るに見かねて助けようとする使命感や正義感からです。しかし浅瀬ならまだしも、溺れている人は死に物狂いで救助者にしがみつくといわれていて、水泳の技量がある人でも、特別の訓練を受けていなければ危険であるとの話も聞きます。

あの東日本大震災の大津波で、多くの人たちが犠牲となりました。その中には本来なら助かっていた人がいます。一旦は安全な場所に避難したとしても、残された身内を救おうとまた危険な場所に戻ってしまって、津波にさらわれた人です。そんな教訓から、「津波てんでんこ」という言葉が見直されされました。つまり、家族が一緒にいなくても気にせず、てんでんばらばらに高台に逃げ、先ずは自分の命を守れとの意味です。
 
今回の私の咄嗟の行動は、頭で考えたのでなくほぼ無意識からのものです。無意識の世界からは、「まだ死ねない生きたい」と声を発していたのでしょう。   



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一年を経て(その3)

2022年04月23日 03時47分47秒 | Weblog
和田医師の認知症についての見解です。認知症は必ずやってくる。何故か、答えはシンプルで、それは年を取るから。ただし高齢になってから発症する認知症の多くは、とてもゆっくりと進行する病気である。発症の20年前から進行しているが、殆んどの人は気付かない。そして発症後も進行は続き、止めることができない。多数の遺体を解剖して分かったことは、癌と同じように85歳を過ぎたほぼ全員の脳に異変が見られた。死ぬまで認知症にならなかった人もいるが、それは認知症になる前に亡くなったから。もう少し長生きしていたら発症していただけのこと。

そうした事実から導かれる正解は、やはり今のうちにどんどん好きな事をして楽しく生きる。代わり映えのしないつまらない生活してると脳の働きは鈍り、ストレスの多い生活によって脳はダメージを受ける。反対に新しい事や好きな事をすると、脳は刺激を受け活性化する。これによって認知症を遅らせることは可能だと考えられる。60代くらいまでなら、節制や運動などの無理や我慢は、効果があることかもしれない。しかし高齢者にとっては、間違いなく心と体に負担となる。小さなダメージが積み重なると、確実に寿命まで縮める結果となる。医療の立場から、生き方に踏み込む氏の言葉には説得力があります。

前回書きましたが、最近私達夫婦の間で、会話が噛み合わないことがあります。言ったこと言われたことを覚えてないことがあり、後日聞き直したりすると「相手が少しボケたのではないか」と、互いに感じてしまうのです。これはボケが悪いことであり、認知症になりたくない不安があるからです。自分では気付かないまま、20年前から進行しているとなれば、私達は認知症の前段といっても過言ではありません。「高齢になれば(老化)、認知症は誰しも通る道」と素直に受け止めれば、互いに許せて気が楽になるのでしょうが。

しかし世間では、まだまだ認知症への偏見や誤解があるようです。例えば家族に高齢者がいて、ボケの症状が現れると、何もかも分からなくなったとレッテルを貼ってしまい、あれもダメこれも危ないと、できることまで取り上げてしまいます。人間の尊厳を奪ったり人格否定をしたり、身内においてもそのような傾向は否めません。もの忘れするようになったけれど、昔より人との相談事はうまくなるとか、孫を育てさせたら親ほどカッカとしないので上手くやるなど、ある意味新たな力もついてくるように思います。それまでの人生経験によって、生きる知恵のようなものを習得して、より総合的な判断ができるとのことです。記憶力は失うものの得るものもあるはずです。

認知症への誤解については和田医師も指摘しています。認知症には段階があり、多くの場合はもの忘れから始まるといわれます。もの忘れ→失見当識→知能低下となります。もの忘れはいうまでありませんが、失見当識とは場所とか時間の感覚が悪くなり道に迷うとか今の時間が分からくなるという現象、知能低下とは人の会話が分からなくなるとか本を読んでも読めないテレビを見ても意味がわからない症状だそです。認知症は軽度から重度まで幅のある障害であり、残存能力をキープしてほしいと氏は話されます。

そして和田医師は、認知症は遅らせる方法があると教えてくれます。今の医学の現状では少し効くかもしれないというレベルの薬しかなく、早期発見しても医療の力ではどうすることもできない。では認知症を遅らせるにはどうしたらよいか。その最良の方法は、家に閉じこもらないで、頭を使ったり体を動かしたりし続けることであると明言します。前頭葉は人間の脳で一番大きな場所なのに、実はほとんど使っていない。だからこそ、80歳からでも鍛えれば機能が上がることは十分考えられる。脳は無数の細胞がネットワークを構築していて、使わないとそれが消失し、逆にくり返し行動すれば何歳になってもあらたなネットワークを新設できる。これは私達高齢者に安心感を与えてくれます。

歴史を語る会を8人前後で、隔月毎に長年開催してきました。年齢層は70代後半から80代前半です。この会をコロナ禍でも、集まる場所は浅草で継続してきました。つい最近ですが、その中のお一人が亡くなられました。既往症はなく、奥様は4年前に先立たれ一人で暮らしていて、室内で転倒して頭を打って出血多量が原因でした。同年齢でも体型、性格、生活環境、家族構成も違いますが、全ての人に共通しているのは、老いることと、やがて全員死んでいくことです。病ではなく事故でお一人が亡くなられたのはまことに残念ですが、年を取っても家に閉じこもらず人との交わりを大切に、頭を使い体を動かし続けることが、この会の原動力であると痛感しています。
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一年を経て(その2)

2022年04月16日 05時41分57秒 | Weblog
85歳を過ぎた遺体を解剖すると、ほとんどの人に癌がある。つまり高齢者になれば誰でも癌がある。癌もその一つ、本人が自覚しないまま最後まで気が付かない病気である。癌の病巣は早期発見や早期治療すべきとされるが、年を取ると癌の進行が遅く放っておいても生活に支障がない癌もある。この事実を知ってもらいたいと、主張する医師がいます。その医師が務める病院で、毎年100人程度の遺体を解剖した確かな検証です。これから導かれる選択は何か。高齢者になったら我慢しない。例えば好きな酒やタバコを抑えるより、やりたいことをして気楽に生きる方が、免疫力が高まり癌の進行を遅くする。

癌というと闘病のイメージが強いが、そもそも自分の細胞が変性して癌化したもの。自分が生み出したものに、「お前に負けないと」息巻いても闘いようがない。特に高齢者の場合はそうで、体の中に癌細胞が沢山あり、一つ倒せても次がある。癌と闘うには、手術や抗ガン剤が必要で、体へのダメージは甚大で他の病気を引き起こすこともあり、自分を苦しめてしまう。闘うのではなく共病、病気を受け入れ、手なずけ共に生きる。癌で苦しまない方法を教えてくれる医師がいます。

高齢者専門の精神科医として、約35年間臨床現場で過ごしてきた、現在61歳の和田秀樹さんです。診察した患者は6000人を数え、介護の場や講演会など病院以外も含めると1万を超えるとのこと。老年医学のプロフェッショナルを自負しています。氏が書かれた『80歳の壁』の本を読みました。私が定期検診を今年限りで終えようと判断したのは、この方の本を読んだことにもよります。

その方がやはり健康健診についても書いていました。高齢者になったら健診はしなくていい、と。日本人の平均寿命が初めて50歳を超えたのは昭和22年、その頃の男女の差は3歳ほど、今ではそれが6歳に広がっている。会社で受ける男性が多いのに 健診が長生きに寄与しているとは言えない。健康診断信仰に陥っていないか。健診で示される正常値も、個人差もあるのだからうのみにせず、疑ってみる必要がある。数字は見るが患者は診てない医師が多い。

私が長年受けてきた健診は、最後に医師による問診があります。当日検査した血液や尿など数値結果が既に出て、過去のデータの異常なども医師は把握しています。ベッドでお腹を触診すると指示を受けますが、聞き取りにくく聞き返すと、突然大きな声を出し続けます。高音で難聴ぎみの私のデータを見たからでしょうか、まるで老人扱い(老人ですが)です。椅子に座ると、「貧血気味だ!食事か酒によるものだろう。今回は大丈夫だが、去年肝臓系の数値が悪かったので、酒の飲み過ぎじゃない⁉」。再検査では正常で異常は一回限りでした。実はその人は、去年本体の総合病院で食道のポリープでしつこく精密検査と手術を迫った医者でした。正に数字は見るが患者は診てない医師の典型、と感じました。

その医師(50歳半ば)から見たら我々は確かに老人であり、何かにつけ節制しなくてはならない年齢と捉え、異常があれば薬を投与し治療する対象なのでしょう。しかし高齢者の患者と長年向き合った、老人医学のプロの和田医師の見方は違います。明らかな症状が無くても、高齢者は体に複数の病気の種がある。医者の不養生というが、薬や健診は寿命を大きく延ばすものでないことも、経験的に知っている。検査をしたり薬を出したり、現代はそれが当然の医療。健診や通院にしても「もう年だから放っておきましょう」といえないので、本人が選択するしかない。悪い部分が次々現れるのは年を取ること。その中で自己決定すしかない。

一年前友人の医者にも相談して、癌と疑わしき食道のポリープは、それ以上の処置をしませんでした。一年経って特に自覚症状はありません。この判断は後悔しません。勿論日常に支障をきたせば、また考えようと思います。つまりむしろ、この判断は絶対ではないけれど、高齢になったら生き方も変え、病気であってもそれを受け入れ、手なずけ共に生きるようにしたいと思っています。

最近私達夫婦の間で、言い争いとまでいかなくとも行き違いがあります。互いに耳が遠くなり滑舌も悪くなったこともありますが、前に言ったこと言われたことを覚えてないことがあります。互いに脳の衰えもあるのですが認めたくなく、まして相手から言われたくないのです。年を取り多少ボケると分かっていても、素直になれないのです。このような日頃の体験もあり、和田医師の認知症についての見解は腑に落ちるところがありました。その内容は次回に譲ります。 ~次回に続く~


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一年を経て(その1)

2022年04月09日 05時49分00秒 | Weblog
4月に入り早々に、会社として申し込んでいる定期健診を受けました。それを今年限りで終えようと思います。その理由は、去年定期検診を受けて引っ掛り再検査を行った時感じたことと、最近読んだ本の内容にともなっての判断となります。その本については、次回お話しします。

一年前のブログにも書きましたが、その経緯の話を致します。去年の定期健診のバリュウムによるX線検査で、再検査として指摘されたのは、「食道中部粘膜下腫瘍」でした。つまり食道にあるポリープのことです。実はこの箇所は数年前から引っ掛かっていましたが、判定ランクも低く、自覚症状もないことから放置してきました。今回の判定は「要精密検査」とありました。仕方なく定期検診を受けた健康センターと連携(共同運営)している総合病院を訪れます。

担当となったのは消化器内科の医師です。要精密検査とは予期していた通り内視鏡検査でした。結果によっては食道癌も疑わなくてはならないと脅かされ従いました。検査を受け、後日結果を見た担当医師の見解です。生検結果では悪性は認められないが、明らかに大きなポリープがある。今回採取した細胞は表面のもので、上皮内は検査できていないので更なる精密検査を行い、併せポリープの除去手術を薦める。矢継ぎ早に、大学病院を紹介するので行きなさいとのことでした。

疑わしきものは全て手を打つ、医者の使命としては理解出来ます。しかしこれから先は患者の意志も尊重されるべきと思ったのです。私の知人で中学校から同期の医者がいます。私の足の怪我の後遺症も相談に乗ってもらってきた医者です。担当医師に知人の医者に相談したいと伝えると、あっさり了解しました。知人の医者を訪ね、内視鏡の写真や検査報告書を手渡してから、私としてはこれ以上何もしたくないと伝えます。

実は当時私の身近で、癌に罹って手術をした人がいました。仮に私が癌だと言われ、手術をするのか自分ならどう判断するか想定していました。答えは、極力手術は避けるでした。そんなことがあり、これ以上何もしたくないと知人の医者に話したところ、同意してくれました。彼も何か自覚症状があったら別だが、10年来定期検診はしていないそうです。癌が判明したところで、再検査のわずらわしさ、手術の成否の心配、放射線や抗がん治療など気が重いとのことでした。

私が40代50代で癌だとしたら手術をしたかもしれません。既に私は70歳を迎えようとしています。一年後、その間の一年を振り返って、後悔しないようにと思いました。場合によっては一年を経たず、突然病床に伏したり不慮の事故で動けなったりするかもしれません。自由に動けない自分を、振り返って、あれもしておけばよかったこれもしておけばよかったと、うらやみたくありません。やりたいことを先送りせず、今ある自分の日々を大切にしよう。一年前、そう考えるようになりました。

今年限りで会社での健康診断をしないと決めましたが、問題はないのかです。会社は対象となる従業員に対して、労働安全衛生法上、健康診断を実施する義務を定めています。義務を怠ると、罰金を課されます。会社の健全な運営には、従業員の健康が欠かせません。従って会社だけでなく、従業員にも会社の健康診断を受診する義務が課されていて、従業員は受診結果を会社に提出しなければなりません。

健康診断の対象となるのは、常時使用する労働者とされています。常時使用する労働者の条件は「1年以上使用する予定で、週の労働時間が正社員の4分の3以上」である者です。上記に該当している場合は、アルバイトやパートも実施が必要です。勤務時間が少ないアルバイトやパートには受診させる義務はありませんが、これらの条件を満たさなかったとしても、週の労働時間が正社員の2分の1以上の時は、努力義務となります。

会社の役員も従業員ですが、健康診断の対象になる役員とならない役員がいます。常務取締役兼任工場長のような労働者性のある役員は実施対象となりますが、代表取締役社長等の事業主は対象外です。役員の受診については、労働者性の有無で判断されるようです。義務がないとはいえ、役員の健康状態を管理しないと実務上のリスクが高まり、経営への悪影響を軽減するためにも受診してもらうのが望ましとされています。

現在私は一線を退いた役員であり勤務時間もわずか、つまり会社の健康診断は対象外者でよいとなります。これからは、地元のかかりつけ医的な医院で定期検診を受けようと思います。    ~次回に続く~

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日本人が知らない歴史(その4)

2022年04月02日 04時37分24秒 | Weblog
前回、本郷和人氏の著書『歴史をなぜ学ぶのか』を取り上げました。日本史の教科書が無味乾燥で面白くない。歴史的事実には因果があるのに、それを無視して事実だけを羅列する。だから暗記するしかない科目になってる。本郷氏は、若い人たちの日本史離れを憂いていました。氏は教科書の執筆者に選ばれた時、新たな取り組みをしようとしたが高校の先生に無駄が多過ぎると反対され、教科書を作る情熱が萎んでいくのを感じたと嘆いていました。

教科書の見直しも含め、高校生の歴史の学び方が今年大きな転換期を迎えています。学習指導要領が改定され、2022年度から高校での歴史科目が変わります。18世紀後半以降の世界と日本の歴史を横断的に学ぶ「歴史総合」が新設されたのです。必須科目であり、これが歴史のイントロダクション的な役割を果たします。より詳しい歴史は選択科目である「日本史探究」「世界史探究」で、2年生以降に発展的に学びます。

現行の学習指導要領では世界史だけが必修で、日本史を学ばないまま卒業する生徒も多かったのです。「日本史と世界史を並行して学ぶ歴史科目が必要だ」という声は、以前から歴史研究家や教育関係者の間で上がっていたようです。これまでの歴史教育が暗記に偏りすぎているとの指導を踏まえ、歴史総合では、資料を活用し、生徒が問いを立てて主体的に学ぶことを重視する。歴史の出来事や変化に対し、「なぜそうなったか」といった問いを大切にし、文献やインターネットで調べたり、教室で話し合ったりして、歴史の理解を深めようとしています。

新設された歴史総合の、世界史と日本史との融合とは、近現代史をグローバルな視点で捉えるとのことで、また生徒が調べ考える「探求」型の学習の重視とは、詰め込み型から自ら歴史を科学することになります。今東欧で起こっている紛争も、高校生に限らず現代社会に生きる我々も、これらの観点で俯瞰しなければ理解できないのかもしれません。
 
高校生の歴史の教科書に出てくるといえば、日本の終戦に大きく関与した「ヤルタ会談」があります。そこには、ルーズベルト、チャーチル、スターリン、の印象的な写真が載っていました。ヤルタ会談とは、1945年2月に米英ソの三国首脳がクリミア半島のヤルタで、ドイツ処理の大綱、秘密条約としてソ連の対日参戦などが決められた会談です。戦勝連合国軍同士が対等に話し合い、敗戦国に対し突き付けようとした条約の協定をしたもの。昔の教科書ではそう解釈してしまいます。

今回のテーマ(その1)で書いた『日本人が知らない近現代史の虚妄』の著者、江崎道朗氏に再び登場してもらいます。ヤルタ会談の上記の通説を、氏は次のように見直しをしています。「秘密協定『ヤルタの密約』で、ルーズベルト大統領はアジアをソ連に売り渡した。ヤルタ会談は、ソ連に対する英米の、歴史上例がない外交的敗北だった。ルーズベルト率いるアメリカの外交団は親ソ、もしくはソ連に知識のないメンバーで構成されていた。その一員である、ルーズベルトが直々に指名した人物は、ソ連の工作員であり事実上外交団を仕切っていた」、となります。

1942年以降アメリカは、あらゆる省庁に共産党員が浸透します。それは 米ソが対独戦争で同盟国になり、アメリカ政府はむしろ積極的に共産主義者を受け入れたからです。そして、ヤルタ会談を迎えます。ソ連の台頭を歓迎するルーズベルトの健康状態は、最悪でまともな外交ができる状態になかったのです。会談の最終日に、ルーズベルトとスターリンとの間に、ドイツ降伏から三カ月後、ソ連が対日参戦(アメリカに加担)することを引き換えに、ソ連にアジアの莫大な領土と権益を与えるという「ヤルタの密約」が交わされました。

しかしルーズベルトはヤルタ会談の二カ月後1945年4月急逝します。この密約分書はホワイトハウスの金庫にしまわれ、戦後1946年2月に公開されるまで国民はその存在すら知りませんでした。ヤルタ会談後ソ連はアメリカを操り日本に無条件降伏を迫り、日本が承諾できないことを知っていてドイツ降伏5月8日から三カ月間長引かせ、8月8日対日戦に参戦します。翌9日から日本がポツダム宣言を受諾した14日までの僅かな間でソ連は、外モンゴル、南樺太、千島列島の支配権を手に入れました。なおソ連は日本が降伏したにもかかわらず、8月22日まで対日戦争を続けました。北方領土の不法占拠はこの時に起こったのです。敗戦後の日本の運命は、ソ連共産党が決めたともいえます。

このような見直されるべき史実を、我々はどこまで知っているでしょうか。過去のインテリジェンス活動(秘密工作)や機密文書の公開によって、近現代史の歴史観も180度変わります。これらは教科書では教えられません。私たちが歴史を学び直す意味を大いに感じています。

 ヤルタ会談
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