梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

傾聴(その6)

2022年02月26日 05時56分45秒 | Weblog
今年1月に東京で開催された三日間の傾聴サポーター養成講座は、私の体調不良で一日だけの受講となりました。同じ講座が2月大阪で開催され、12日と13日参加し無事補講を終了しました。一ヵ月をかけて三日間の受講を終えたわけですが、その間関連する本もじっくりと読め、三日間の詰め込みも回避でき、それなりに意味があったと思っています。

何故「傾聴」について関心を持つようになったのか、振り返りです。社長職を退いて自宅に居ることが多くなった私が、身近な家族の話をしっかりと聴けているのかでした。会長職となり後継社長からの相談(報告・連絡・相談)に応じますが、私の過去の経験則で暗に指示・命令をしているのではないかでした。そのような動機で調べてみて、傾聴の普及を目指す協会を知り、その講座を受講し、傾聴カウセリングの先駆者であるカール・ロジャースの本も読みました。

三日間の講座を修了して、『傾聴サポーター認定証』をもらいました。認定や資格についての私の見解は次回にします。前回までのブログは東京で行われた第一日目で終わっていましたので、大阪での講義の二日目からの話しをします。大雪で新幹線が遅れることを想定し、今回体調なども万全を期し、大阪のホテルに前泊からスタートとしました。

会場は天満橋駅(大阪市のほぼ中央)から歩いて6~7分。同駅から2分のホテル京阪天満橋に予約をしました。ホームページを見ると部屋が狭く建物も古く感じられましたが、料金が安く会場から一番近かったので、そこに決めました。宿泊の二週間前ホテルから突然電話連絡が入り、コロナまん延防止措置が延長になり、その日は当ホテルを閉めることになり、他の場所のホテル京阪に振り替えてもらえないかとのことでした。

振り替え候補はホテル京阪京橋グランデ。天満橋駅から一つ目の京橋駅で、駅と直結のホテルで、天満橋と同料金とのことでやむを得ずそこに決めました。結果的には天満橋よりグレードが高く、京阪デパートの食品売り場へはホテルのエレベーターから行ける最良の場所でした。勉強に専念するためにも二日間過ごすホテルの環境は大切です。コロナ下でもあり、ホテルの部屋も快適で、夕食はデパ地下で食料を買い込んで、二日間ゆっくり過ごすこができました。

本題の講義の二日間です。講師は東京の初日と同じ協会の会長で、他の参加者はサブ講師で女性の方でした。サブ講師の方は他に何人かいるようで、傾聴サポーター養成講座を経て、講師への講習を受けて資格を取得し補佐しているようです。サブ講師の方も、たまに会長の講義を一般の受講者と共に受けるシステムのようでした。つまり今回は先生二人に受講者私一人。頻繁に行われるロールプレイングでは、サブ講師の方との掛け合いとなり緊張の連続となりました。

講義の内容としては、レッスン3までは既に東京で受けていますので、レッスン4からレッスン9までを二日間で学びました。因みにレッスン毎のテーマは以下となります。レッスン4:傾聴で聴きはじめる/あいづち、レッスン5:気持ちを聴きとる/くり返し、レッスン6:気持ちをたずねる/質問、レッスン7:気持ちを共有/伝え返し、レッスン8:もう一段深い共感/感覚の理解、レッスン9:傾聴で聴き切る/まとめ。

三つのレッスンで“気持ち”が重複されていますが、それだけ相手の気持ちを優先し受容することが要点です。例えば話し手が「ディズニーに行った」と言うと、これは“事実”だけで気持ちは表われてはいません。しかし「やっと、ディズニーに行った」とか「ディズニーに行った、んだけど」となると、「やっと」や「んだけど」の形容詞に気持ちが出てきたことになります。会話は“事実”と“気持ち”の二つから成り立っている。その気持ちのワードに焦点を当てて、相手の発する意味や価値を深く傾聴することになります。

気持ちのワードに焦点を当てる手法で基本となるのが、うなずき、あいづち、くり返しとなります。うなずきとあいづちは、ちゃんと聴いている姿勢を伝える目的があり、対話するために必要な二人のタイミングをつくる効果があります。くり返しでは、話し手が使った言葉を、言いかえせずそのままくり返し、言いかえたくなる自分のフィルターに気付くことが大切です。つまり考えて返すとおかしくなり、応答の正解を考えるのではなく、感じさせてくれた言葉を相手に同調してくり返すことになります。

次のステップで、難しかったのは伝え返し、意外だったのは質問でした。   ~次回に続く~ 

 28時間過ごしたホテルの部屋
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レストラン「ドイツ亭」(その2)

2022年02月19日 05時53分31秒 | Weblog
レストラン「ドイツ亭」の舞台で扱われた、アウシュヴィッツ裁判は実在しました。その芝居ではヒロインを通し、ドイツ人自らが行ったホロコーストを見つめ直すことがテーマとなりました。実際のアウシュヴィッツ裁判では、自国の史実や法律を考え直す切っ掛けともなりました。舞台には主人公がいますが、アウシュヴィッツ裁判にも実在の主人公がいました。

その主役は裁判で原告団を率いたフリッツ・バウアー検事長(舞台にも登場)です。ドイツとユダヤ人夫婦の間に生まれ、ナチス政権下でユダヤ人の排斥政策のあおりを受けデンマークやスウェーデンへと亡命、戦後西ドイツへ戻り1956年からフランクフルトの検事を務めます。この裁判起訴への発端は59年彼のもとに届いた1通の封書です。差出人は新聞記者であり、中に入っていたのは1人の生還者が持ち帰ったとされるアウシュヴィッツ強制収容所の殺人記録でした。バウアーはこの証拠書類を連邦最高裁判所に提出し、裁判を開く許可を得ます。

裁判が開かれる前の60年、ユダヤ人根絶計画の実行責任者、あの悪名高きアドルフ・アイヒマンがイスラエルの諜報機関モサッドによって、逃亡潜伏地アルゼンチンで拉致されます。この事件には、前述のバウアーが先に居所を突き止め、訴追と身柄送検に必要な手続きを要請したがドイツ法廷で却下されたため、イスラエルのモサッドに流すというドラマチックなプロローグがあったのです。アイヒマンは、後イスラエルの地で裁判にかけられ絞首刑となりました。

当時のドイツには、司法内部にはナチ党員の活動歴を隠す裁判官や検事が数多く存在し、政治中枢も国内での裁判を望まなかったのです。『アイヒマンを追え』との映画(2015年ドイツ)があります。バウアーが戦後のドイツ社会に法と正義を取り戻すために、ナチスの犯罪人を司法において徹底追及する姿が描かれている映画のようです。私は映画を観ていませんが、機会があれば観たいと思っています。

裁判でバウアーは、強制収容所における大量殺人は、一握りの狂人によって実行されたのではないと主張。推計で150万人を超える人間の殺害は、収容所における高度に組織化された能率的で効率的な分業と協業なしにはありえなかった。関係者の個々の関与行為がなければホロコースト全体は成立しえなかった。その行為のいずれもがユダヤ人問題の最終的解決の実現に向かって協働したホロコーストの一部であり、かつ全体であった。バウアーはこのような根拠で、その全員が謀殺罪(故意による殺人)を共同して実行したと弾劾しました。

現在の歴史家はこの裁判をドイツ社会のターニング・ポイントだったと評価しています。ドイツ人の歴史認識を変えたのは勇気あるバウアー検事の多大な貢献だった、と。バウアーは、肉体的・精神的な疲労が重なり、タバコとアルコールによって健康が害され、1968年7月自宅の浴槽で溺死しました。彼は決して特別な存在ではなく、普通のドイツ人であり、その普通のドイツ人が過去の歴史と向き合い、その暗闇と闘っている姿が浮かび上がってきます。

どこの国にも多くの史実があります。その歴然とある史実は、私達が知らないものも沢山あります。それを物語として私達に伝える橋渡しをしているのが、小説や映画や演劇です。作者の脚色もあるでしょうけれど、歴史書よりも物語に仕立てたほうが鮮明に伝わります。アウシュヴィッツ裁判は、忘れ去られようとしたドイツの闇にスポットを当てたもです。レストラン「ドイツ亭」の芝居も、私にとってはその闇にスポットを当ててくれました。

レストラン「ドイツ亭」の芝居に立っていた、劇団民藝の役者さんと5年前知り合いになりました。とある居酒屋さんで偶然隣り合わせとなり、会話が始まり盛り上がり、出演している芝居に誘われました。以来その方が出ている芝居はほとんど観させてもらっています。偶然とは奇縁なもので、私は芝居には全く縁が無かったのですが、今では芝居にとても興味があります。

民藝がとり上げるテーマは、実在する社会問題が多くあります。民藝の一つの役割は埋没している物語を、知りたい人へ知らしめる代弁者の役割を担っているように思います。特に今回の芝居の舞台である、アウシュヴィッツ強制収容所(ポーランド)に5年前に行ったことがある私、現地を見ている私にとって、ヒロインへ投射する形となって、更に知りたい意欲を掻き立てるものでした。

 アウシュヴィッツ強制収容所 
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レストラン「ドイツ亭」(その1)

2022年02月12日 05時43分10秒 | Weblog
1963年、ドイツのフランクフルト。通訳の仕事をしているエーファはレストランを営む両親と看護師の姉との4人で暮らしている。恋人ユルゲンを家族に紹介する大切な日に、急に仕事が舞い込んだ。裁判での証言を控えたポーランド人の通訳だった。他のドイツ人同様、戦争のことなど知らずにいたエーファだが、この仕事をきっかけに裁判に没頭していく。周囲の無理解、そして恋人との反目。くじけそうになるエーファの遠い記憶の中から、思いもしなかった家族の過去が呼び覚まされていく……。

芝居のパンフレットの「ものがたり」に、そう紹介されています。“レストラン「ドイツ亭」”と題した芝居を、新宿南口にある紀伊国屋サザンシアターで観ました。2月の上旬から10日間連続公演しているもので、二日目の午後観に行きました。シアターのキャパは約450席ですが、当日はその7割位の観客でした。私はこの劇場で「劇団民藝」の芝居を何回も観劇しましたが、今回は「てがみ座」との合同公演でした。

この芝居はドイツ人が描いた原作がベースとなっています。作者はアネッテ・ヘス(1967年生まれの女性)、テレビや映画の脚本家として活躍しており、本作は初めて著わした小説です。小説とはいえ、原著は350頁を超えるどっしりした本のようです。原題は“Deutsches Haus:ドイツ亭”、2018年にドイツで発表後ベストセラーになり、22か国で翻訳され、“ドイツ亭”は本邦初演のみならず世界初の舞台化となります。

1945年5月、ヒトラー率いたナチス帝国が崩壊します。アウシュヴィッツ強制収容所で行われたホロコーストは今では知らない人はいませんが、戦後しばらくその実態をドイツ人ですら知らない人が多かったといわれます。「図書館に行っても、アウシュヴィッツに関する図書などほとんど無かった」「たとえ新聞にアウシュヴィッツの記事が載ったとしても、100万というガス殺の死者数を印刷ミスと思い込んでいた」と、劇中の主人公エーファは言います。1963年から行われ、ホロコーストに関わった人々をドイツ人(ドイツの司法)自ら裁こうとしたのが、実在したアウシュヴィッツ裁判です。

一方、有名なのがニュルンベルク裁判です。ドイツのニュルンベルクは1945年から1946年にかけてその裁判が行われた場所です。連合国(英国、フランス、ソ連、米国)の裁判官の下で、22人の主要戦犯の審理が行われ、12人のナチス高官に死刑判決が下りました。判明した範囲で殺戮などに直接関与した者が重い刑罰は受けましたが、ホロコーストで主要な役割を担った他の人々は、短い禁固刑または処罰なして釈放されました。もっと多くの犯罪者がいましたが、彼らは裁判に掛けられることはありませんでした。

ニュルンベルク裁判は、戦勝国の正当化を押し付けた国際軍事裁判でした。つまり、敗戦国が侵略戦争を行った責任を追及する名目でした。ニュルンベルク裁判は法的には全く根拠を欠いた裁判で、それは裁判ではなく戦勝国の政治行動だったともいわれています。この裁判はコモン・ロー(不文法)あるいは憲法の装いの下で罪人を裁いたのであり、いかなる戦争においても敗戦国の指導者は戦勝国によって処罰されねばならない、という命題を抱えているとも指摘されています。

さて芝居の流れは‥‥。歴史にほとんど関心のなかったエーファ(24歳)は、ポーランド語の通訳者として裁判に参加するうちに、かつて多くのドイツ人が殺害に加わっていた事実を知って衝撃を受ける。恋人のユルゲンは婚約者でもあり、将来の妻は夫に従うべきだという考えで、通訳の仕事を辞めさせようとする。ユルゲンに愛想をつかし、婚約破棄に至る過程が一つの山場だが、彼女は歴史をもっと知りたいと意志を貫く。

何回か裁判に立ち会うエーファ。収容所到着後の非情な選別(生死の)、拷問の実態、双子の生体実験や注射器での殺害など、怒りを込めて証言する人びとを前に、自分は知らなかったと言い放つ被告人の元親衛隊の男たち。エーファはいらだつ。終戦前エーファが幼い頃、彼女の家族はポーランドに住んでいた。裁判を通して、実は父が昔アウシュヴィッツで調理人として働いていたことを彼女は知る。次第に優しい父母のそして幼少期の姉と自分の、悔やんでも悔やみきれない過去までも裁判は明らかにしていく。‥‥おおよその芝居の展開です。

演劇を観終わってから、自分で色々時代背景を調べてみて、立体的に浮かび上がってくるものがありました。     ~次回に続く~ 


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傾聴(その5)

2022年02月05日 06時22分10秒 | Weblog
心理学者の大家であり現代カウンセリングの礎を築いた、カール・ロジャースに関する本を読み終わりました。同じく心理学者であり長年ロジャースの研究をされている、諸富祥彦氏によって著わされたからこそ深い内容の本になったのだと思いました。本だけで傾聴をマスターできたわけではありませんが、傾聴の奥深さ大切さはとても伝わりました。読み終わり一週間経っていますが、いまだに内容の余韻が残っています。

ロジャースの後期、彼を支えた弟子のリチャード・ファーソンは、ロジャースを「静かなる革命家」と呼びました。心理療法やカウンセリングのみならず、教育、福祉、結婚、親子といったあらゆる場面での関係性の転換によって、一人一人が自分の持つ可能性を最大限に発揮できるような関係性の探求をした。その基礎づくりをした「現代の重要な社会革命家の一人」として、ファーソンの著書でロジャースを称えています。そのような功績が実際に評価されて、ロジャースは死(85歳で死去)の直前にノーベル平和賞にノミネートされました。

61歳のロジャースは、長年勤めていたウィスコンシン大学の教授職を辞しています。以降、個人カウセリングからエンカウンター・グループの運動(集団対話で互いの経験・考えなど共有)に没頭し、そして晩年、人口問題、人種差別やマイノリティの問題など、社会問題に取り組みます。対立する人々の立場を解決するために世界各地を訪れ、他者を制御しようとする関係から、他者をその内側か理解し受け止めるワークショップを数々行います。静かなる革命が、人間関係の変革から始まる革命とも言われている由縁です。ノーベル平和賞の候補になったということは、「傾聴の力」で平和賞も取れることを示唆したものであると、私は受け止めています。

ロジャースがまだ40歳代の頃、シカゴ大学で新設されたカウンセリングセンターの所長として誘われ入所します。彼の全盛期はこのシカゴ大学時代と言われていますが、この時期も臨床家であり続けカウセリング面接や研究を長時間行いながら、センターの運営・発展にも寄与し、センターは世界にその名を馳せていきます。そんな中センターに最大の危機が訪れます。同大学の医学部精神医学科長が「カウセリングセンターは医師の資格なしに医療行為をしている」と批判して、センターの閉鎖を学長に要求してきたのです。

その結末はロジャースの勝利でした。彼はあらゆる証拠を持ち出して徹底抗戦しました。政府機関が自分をメンタルヘルス分野のトップと認めていること、カウンセリングはすでに精神医学の分野で承認されていること、事実名だたる財団から助成金を受け取っていること。この勝利は、後の心理臨床の地位向上にとって大きな意義を持つようになります。つまり現代カウンセリングが台頭する中で、彼は一歩も譲らず既存の権威・権力と戦ったことがはっきりと浮き上がってきます。

医学の世界において、医者は患者の病を治さなくてはならない使命があります。しかしその使命ゆえ一概にいえませんが、身につけた知識や学理を頼りに結論を決めつけて、患者の自然治癒力や内面の対話を無視して、外科的治療や投薬を優先してしまう危険性をはらんでいます。ロジャースは得に精神的な病は、極力医療行為を行わず、権威による強要もしない、個人の成長を援助する新しい心理療法を誰よりも明確にイメージしていたのです。

ロジャースの革新は、対面する相手を、医療の世界ではペイシェント(患者)としたのに対し、カウセリング的な心理療法の観点でクライアント(来談者:自発的な依頼者)としたことにあります。従来の医学的な心理療法のように病者と決めつけてしまうと、その指示的なやり方はクライアントに不必要な抵抗を生み出し、依存を助長し自分で解決する力を奪ってしまう。本来健常者と病者は区別がつかないと、ロジャースは主張します。

ロジャースの後半は、権威や既存勢力に対する戦いであり、自分らしく生きる挑戦だったのかもしれません。大学を去りエンカウンター・グループの運動に没頭した結果、人との関係性の深さを知り、よりリアルな自分自身であることの喜びを学んでいったといわれます。エンカウンター・グループで参加者全員が一つとなり、宇宙意識の一部であると感じる神秘的体験を度々したと回顧しています。ロジャースが晩年スピリチュアルな次元に目覚めたのも、自分を掘り下げ、なによりも自分自身への傾聴を継続し、自分らしく生きた帰結だったのだと私は受け止めました。    ~続きますが次回は二月中旬の予定です~

 カール・ロジャース
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