梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

新たな仕事(その8)

2023年10月27日 07時09分06秒 | Weblog
2016年7月26日未明、相模原市にある県立の知的障害者施設で、入所していた人たちが次々と刃物で刺されて19人が殺害され、職員を含む26人が重軽傷を負いました。事件の直後、施設の元職員の植松聖(犯行当時26歳)が近くの警察署に出頭して逮捕され、その後起訴されました。植松死刑囚は逮捕直後から、「障害者は不幸しか作らない」とか「意思疎通できない障害者は殺そうと思った」などと差別的な主張を繰り返しました。

2020年3月の判決で、横浜地方裁判所は、「施設での勤務経験から重度障害者は不幸であり、その家族や周囲も不幸にする不要な存在であると考えるように至った」と指摘しました。そのうえで、「19人もの命を奪った結果は他の事例と比較できないほど甚だしく重大だ」として死刑を言い渡しました。弁護士が控訴しましたが本人が取り下げ、死刑が確定しました。

現場となった津久井やまゆり園では事件当時、重度の知的障害がある人たちおよそ150人が暮らしていました。事件のあと殆んどの建物は解体されました。県は当初、同じ規模の施設に建て替える方針でしたが、障害者団体などからは「地域に根ざした小規模な施設にすべきだ」といった反対意見が寄せられました。一方、利用者の家族からは「地域で受け入れられないので施設にお願いしている」とか、「同じ規模で再建してほしい」といった声が上がりました。

再検討の結果、現地と横浜市内の2カ所に以前の半分以下の定員およそ60人の施設を再建することになります。施設の再建に際しては、やまゆり園を運営している社会福祉法人かながわ共同会の支援のあり方も議論になりました。事件の後、県が行った有識者による検証で、一部の利用者について「見守りが困難」という理由で、外から施錠した個室に長時間拘束していたことなどが明らかになり、支援の改善を求められました。

同事件をモチーフに描かれた映画『月』が、10月13日に全国ロードショーとなりました。主演は宮沢りえ、辺見庸氏が書いた同名小説が原作です。私も障害者の方を預かっている施設で働くことになり、その題材にとても興味を持ち、先日妻と二人でT・ジョイ PRINCE 品川でその映画を観ました。次の映画の解説は、T・ジョイのサイトの作品案内を引用しました。

深い森の奥にある重度障害者施設。ここで新しく働くことになった堂島洋子(宮沢りえ)は“書けなくなった”元・有名作家だ。彼女を「師匠」と呼ぶ夫の昌平(オダギリジョー)と、ふたりで慎ましい暮らしを営んでいる。施設職員の同僚には作家を目指す陽子(二階堂ふみ)や、絵の好きな青年さとくん(磯村勇斗)らがいた。そしてもうひとつの出会い、洋子と生年月日が一緒の入所者、“きーちゃん”。光の届かない部屋で、ベッドに横たわったまま動かない“きーちゃん”のことを、洋子はどこか他人に思えず親身になっていく。しかしこの職場は決して楽園ではない。洋子は他の職員による入所者への心ない扱いや暴力を目の当たりにする。そんな世の理不尽に誰よりも憤っているのは、さとくんだ。彼の中で増幅する正義感や使命感が、やがて怒りを伴う形で徐々に頭をもたげていく。そして、その日はついにやってくる。

観るものにこの作品は挑戦的でもあり、観終わったあとズシリと残るものがありました。因みに映画のさとくんの主張は、実際に相模原の障害施設で連続殺人を行った植松聖(さとし)の主張でもあります。堂島夫婦には過去に子供がいましたが、生まれつきの病があり、手術により脳に障害が残り一言も言葉を発することなく3歳で亡くなっていたのです。このことを契機に洋子は小説が書けなくなったのです。一方、坪内は小説の才能がないことに苦しみ、酔っぱらって、洋子の過去の小説に対し真実が書かれていないと批判します。

重度障害者施設を街中から遠ざけ、「まるで障害者がいないかのような社会」にし、「その施設を低賃金・過労働で維持している現実も変える必要がある」と、この映画は訴えてくるのです。そして生産性を伴わない障害児になるであろう子供の堕胎を認めている我々に対し、「あなたは、さとくんを説得する言葉を持っているか?」と問いかけてくるのです。

「事件」と「映画」とで見えてくるものは、「利用者(障害者)とどこか一線を画しているのではないか」と感じる私です。私の勤務している施設は、映画のような重度障害者施設(入所)ではなく、利用者の方々は家庭やグループホーム※からの通所です。それでも、この紙面では語り尽くせない映画からの多くの問い(挑戦状)は、今の私の仕事を考えるチャンスとなり、『月』を観れたタイミングの不思議さを感じました。   ~次回に続く~

※ 身体や知能、精神に障害がある人が援助を受けながら共同生活を送る施設。その利用者は年々増加している(2021年で約5万人)。国の審議会では、「実績や経験のない事業者の参入が多く障害特性や障害程度を踏まえた支援が適切にされていない、など質の低下が懸念される」、との問題が指摘されている。私が勤める施設では二人の利用者が、このようなホームに入居。

映画『月』
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新たな仕事(その7)

2023年10月21日 06時44分49秒 | Weblog
新たな勤務先は、前にも述べたように特定非営利活動法人=NPO法人です。この非営利活動の言葉に惑わされてしまうと、営利活動もしない、納税の義務も無しととってしまいます。NPO法人の「非営利」とは、「利益を構成員(関係者)に再分配をしない」という意味です。もちろん、利益を再分配しないと言っても、従業員を雇い労働の対価としての給与は支払われます。

例えば、一般的な営利法人の株式会社では利益が生じた場合、その利益を役員、株主に分配することができます。しかしNPO法人では、利益が生じても、その利益を役員・会員等に分配してはいけないのです。つまり、利益はNPO法人の活動のためだけに使用しなければならないのです。

またNPO法人は運営や活動について情報公開しなければなりません。そして収益事業からの所得に対しては法人税などの国税や地方税が、収益事業に関係なく法人住民税が課せられます。特定非営利活動に係わる事業であっても、法人税法上は収益事業とみなされるのです。このようなことも、働き出して初めて知ります。自分でもNPO法人や介護事業について調べてみました。

介護事業を始めるにあたり、先ず法人格の取得が条件となり、介護事業を立ち上げる多くは一般営利法人ではなく、NPO法人の法人格の取得を選択します。何故NPO法人を設立しようとするのか、その理由は下記のようです。社会性・公益性の高い事業であるため、営利法人よりもNPO法人の方が事業を展開し易い。お客様(要介護者・要支援者)が事業者を選ぶ際、営利法人よりも社会性・公益性の高いNPO法人を優先する。都道府県・市町村が業務を外部へ委託する場合、営利法人よりも圧倒的にNPO法人への依頼割合が多い。

阪神・淡路大震災に端を発し、市民によるボランティア活動が盛んになりましたが、任意団体では契約等の事業活動に限界がありました。そこで、ある一定の条件を満たせば法人格を付与する制度として、特定非営利活動法人が設立できるようになりました。NPO法人は、国をはじめ都道府県においても、行政との協働を期待されて、NPOの支援に力を入れ始めます。国がこの非営利団体に法人格を付与したものがNPO法人なのです。

さて介護事業(介護サービス)は、「介護保険制度」と「身体障害者認定制度」の区別に則ってなされています。前者は要介護認定を基礎とする介護保険制度であり、後者は指定医師の判断のもとで行われる身体障害者認定制度(障害者手帳付与)です。因みに介護保険制度は、40歳以上の全ての人を対象とし、40歳になると自動的に被保険者となり、介護保険料の負担が発生します。要介護認定を受け介護サービスを受ける時は、利用者の自己負担は1~2割となります。残りは介護保険料と税金から支払われます。

私の勤務した事業所は、身体障害者認定制度のもとに行われる介護・福祉サービスの提供です。主に身体障害のある方や知的障害のある方が対象となります。この介護・福祉サービスの内容としては、日常生活の介護支援や自立生活へ向けた支援と、就労・訓練支援の、二つがあります。当施設は、日常生活の介護支援や自立生活へ向けた支援がメインとなり、二十代から六十代歳まで20名を超える登録者がいます。利用者の自己負担は原則1割となり、残りは税金から支払われます。

この税金は、介護・福祉サービスを実際に提供した事業所に入ります。つまり、事業所が毎月決まった期日内に、国民健康保険団体連合会を通じて市町村に請求し、支払審査を受け、給付金として受け取ります。私は運営者ではありませんので詳細は分かりませんが、行政への届け出の煩雑さや制度の縛りもあるようで、かなりの苦労があるはずです。

このように見てくると、NPO法人として身体障害者認定制度のもとで行われる介護事業は、やはり合理的で必然性があります。無償のボランティア活動の限界をカバーし、儲け主義の営利企業の安易な介入を許さない、公共性があるNPO法人の得意な分野だといえます。

介護・福祉サービスでは、先ずは要介護者・要支援者を安全に預かる任務が生じ、またその利用者の可能な自立を促す努力も必要です。自ら選んだ職種ではなく、たまたま採用された職場がこのような事業だったと後から知らされる思いですが、見習職員としての私はしっかり認識しなくてはなりません。   ~次回に続く~
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新たな仕事(その6)

2023年10月14日 06時16分48秒 | Weblog
5月17日、その事業所への初出勤日です。他人に仕えることも、タイムカードを押すことも初体験です。私以外の職員の方は午前中から勤務していて、私だけが午後1時からの出勤です。施設の一日の流れです。朝8時半から利用者さんを迎えに行って施設に戻り、午前はストレッチ体操や入浴などの時間です。午後はリクレーションや課題作業などの時間です。午後3時からが利用者さんを車で送る時間となります。

初日、セレモニーがありました。職員新人に対する質問コーナーでした(恒例になっているようでした)。利用者さんには、既に30近くの質問が書かれた紙が渡され、一人ひとりの問いかけに私が答えることになります。例えば、「好きな食べ物は」「好きな音楽は」「旅行したいところは」「もし100万円あったら何に使いますか」。いきなりの質問に、必死に即答します(本心が出ます)。それが初めて利用者さんとの対話となりました。 

具体的に午後から施設で行うことは、次のようなものです。四季の壁紙作り、時節のイベント準備・開催(例えば夏祭り・ハロウィン)、ボーリング、射的、ボッチャ、風船バレー、模擬駄菓子店(実際のお金で買う訓練)、歌の練習、カラオケ、近くの公園散策、季節の果物を買いに郊外に出掛ける、等々一ヵ月単位で事前にスケジュールが組まれています。利用者さんが熱心に参加できるよう、長年培った企画・運営に感心しました。

新人の私としては、先輩の職員の行うことを見よう見まねで、後からついていくしかありません。従って私の当面の課題は、教わることと覚えることになります。何よりも先ずは、職員の方や利用者さんの名前を覚えなくてはなりません。職員の月間勤務シフト表をもらい、利用者さんの名簿をもらいましたが、名前と顔が一致するまでだいぶ時間が掛かってしまいました(職員13名、登録利用者23名)。
  
一方利用者さんを送るドライバーの私としては、その方たちを送っていく場所を覚えなくてはなりません。車での送迎は、ドライバーと補助要員との二人が当たります。二台の送迎車があり、日ごと利用者さんも変わり送る方面も違ってくるので、つど二台に振り分け配車します。約一ヵ月の間、前半は代表に運転してもらい私は補助をしながら道を教わり、後半は私が運転し代表に確認してもらいながら道を覚えました。

二ヶ月くらい経って、ルーティン・ワークが見えてきて、意識しなくても身体が動くようになりました。だたし、午後からの出勤の私は、施設の午前中の流れに乗れないこともあります。副代表から、真新しいことを行っている時は説明がありますが、自分から一気にインザムードにならないと、気おくれを感じてしまうこともありました。

それでも利用者さんと一緒に長い時間作業をしていると、没頭している自分がいます。折り紙、ぬり絵、型紙切りなど、利用者さんの中にはサポートしないとできない方がいますので、私が代わって行うことがあります。会社人間一筋だった頃、自分の子どもにもしたことが無い経験をさせてもらって、ふと「職場が変わったのだ」と我に返る瞬間がありました。

通勤は歩きも含め電車を乗り継いで4~50分です(歩数では往復8000歩を超えます)。6月までは緊張感もあり、午後から半日週4日ほどの新たな仕事なら、体力的に自分でもこなせると思っていました。しかし、7月に入り身体に変調をきたします。一見風邪の症状、熱は37度を超え、喉がかすれ痛みがあり、夜中熟睡したかと思うと咳が出てきました。

仕事柄コロナに感染していたら大変ですので、病院に行きます。PCR検査の結果は幸い陰性でした。その後倦怠感もピークとなり、仕事は三日間休みました。今年の猛暑に身体は悲鳴を上げていたのでしょう。それから体調不良は一ヵ月続きました。無理せず今後は、今の自分に付き合っていかなくてはなりません。

「梶さんはそこまで身を挺して、新たな仕事をやる必要があるのですか?」。親しい友人に近況を漏らしたところ、返ってきた言葉です。私を思ってくれての助言でしょうが、その言葉に戸惑いました。うがった見方をすれば、「もしかして、お金の必要性もあるのでは?」。他人にはそのよう映ったのでしょうか。

これからの自分の居場所を探し、新しく働ける場所に出合いました。私には、「雇ってくれた感謝」しかありません。続ける覚悟が出来、ようやくブログに書く気持ちになりました。次回以降、その仕事についてもう少し詳しく書いてみます。   ~次回に続く~

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新たな仕事(その5)

2023年10月07日 05時50分54秒 | Weblog
HWのインターネットサービスの検索を続け、面談までたどり着き、採用となった今の職場の話しをします。その事業所は特定非営利活動法人、いわゆるNPO法人でした。所在は市川市で、自宅からの通勤は電車の乗り継ぎはあるものの片道45分ほどでした。同じ事業所で、「生活支援員」と「送迎ドライバー」の職種での求人です。

「生活支援員」の仕事内容は、身体・知的・精神障害の方のサポート。その利用者の日中活動の支援や談話相手、車椅子の方の介助(入浴・排泄)、レクレーションを開催し参加援助、などです。「送迎ドライバー」の仕事内容は、利用者の車(車種:ハイエース)による送迎、送迎車の管理、などです。介護職員初任者研修修了者やホームヘルパー2級などの、免許・資格は、あれば尚可でした。

HWを訪れ、相談員から事業所に電話してもらい、面接日を決めて紹介状をもらいました。面接には当然、履歴書や職務経歴書を持参しなければいけません。私はこの歳で初めて履歴書を書きました。これまで梶哲商店で社員を採用する際は、面談者の履歴書を受け取り、採否の判断をする側でしたので、今回は全く逆の立場になります。書いてみて、これが私の過去の経歴なのかと、感慨深いものがありました。

さて、いよいよ面接日です。事業所は、最寄りの駅から歩いて10分、住宅地の一角にありました。三階建てアパートの一階で、外から見た目、そのような施設があるとは気が付かないくらいです。一階全部が、その事業所用として改築したようです。建物の脇には駐車場のスペースがあり、そこに車椅子ステッカーが貼ってある送迎用のハイエース二台が停まっていました。

施設の中に入ります。15人程の利用者さんが、テーブルを挟んで向かい合い、何か作業をしています。広々としたフロアで、片面全部がガラス窓で、明るい日差しが注いでいます。私を見ると、初対面でも利用者さん何人かが挨拶してくれました。第一印象は、明るい職場でした。職員の方に声を掛けると、代表がいる部屋へ通されました。

代表は50歳前後、はきはきとものを言われますが、とても礼儀正しく穏やかな方でした。高齢者の再就職を理解してもらっているようで、スムーズに面談は進みます。履歴書に、私の特技は「他者に共感でき相手の話を聞ける」、本人希望には「特になく、その企業・団体の条件に極力合わせます」と書きました。前職などについて、細かく聞かれることはありませんでした。

その事業所は、日・月曜日が休日で、火曜日から土曜日までが勤務です。私はパートとして、午後からの勤務で、週4日位の出勤を申し入れしました。午後1時からの出勤で午後5時の退勤(実動4時間)となります。「生活支援員」としての仕事が3時まで、後は5時までが「送迎ドライバー」要員との扱いで、採用を検討してもらいました。

面談は水曜日、代表は週内の幹部との話し合いで諮り、返事は週末までにしますとのことでした。しかし、土曜日まで待ちましたが返答がありません。年齢不問と言いながら、はやり採用を見送ったのではとの思いが先行しました。それにしても採否の返事はもらいたいものです。また一から出直しをしなくては、と思いました。

諦めかけていた翌週の月曜日、代表からの電話があり、採用してくれるとのこと。代表は「その前の週末まで検討したい」、私は「その前の週末まで返事をくれる」、との行き違いだったかもしれません。就活を決意して二ヶ月半、ともあれ再就職の職場が決まりました。採用された喜びと同時に、そこで順応するためには今までの身に付いた経験・知識は一旦捨てて新人として勤めるのだ、との拮抗する複雑な心境でした。

NPO法人とは、市民を主体として市民の発意により活動する市民活動団体の総称のようです。調べてみると、その主たる活動内容は特定非営利活動促進法に定められた、20種類の分野に該当する活動に限られ、不特定多数の者の利益の増進に寄与することを目的としています。その20種類の分野、最初の項目に「保健、医療または福祉の増進を図る活動」とあります。今まで会社経営に関わった私にとっては、福祉は未知の世界でした。そして、初出社を迎えます。    ~次回に続く~



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