梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

高齢者運転(その1)

2023年07月29日 05時55分53秒 | Weblog
今年5月千葉県公安委員会から、70歳から74歳までの運転免許の更新には高齢者講習を受講して下さい、との案内のハガキが届きました。私の免許の書き換えは、今年の誕生日の一カ月後までとなっていますが、それまでに、最寄りの指定自動車教習所で高齢者講習を受ける義務があるとのことです。この高齢者講習とは、具体的には実車指導を受けることでした。

高齢者の運転免許については近年法令が変わって、私にもしかるべき通知が来るとの認識はありましたが、この歳で自動車教習所に行くのだとの思いです。運転免許を18歳で私は取りました。以来運転は生活の一部となり、違反はありましたが事故を起こしたことはありません。最寄りの自動車教習所に予約して、6月の下旬高齢者講習を受けることにしました。

駐車場もあるとのことで、その日教習所には車で行きました。受講は午前9時から、受付は8時30分からです。教習所には7時45分に着きました。8時20分くらいになると、それらしき人が続々と車で来て駐車場に停めて事務所に入っていきます。遅れてはならないと、私も車から降り事務所に向かいました。受付で、講習手数料(6,450円)や持参したもの(お知らせのハガキや運転免許証)をまとめて袋に入れていたのを、カバンから出そうとしますが見当たりません。

車に戻り探すと運転席と助手席の間に落ちていました。慌てて降りたので、チャックが締まってなくカバンから落ちたのです。再度受付に戻り袋を取り出すと、手数料のコインがジャラジャラと子袋から音を立ててこぼれ落ちてしまいまいした。このような様子を見て、受付の人(女性)は口には出しませんが、やっぱり高齢者はこうなんだと思ったことでしょう。

その時間帯高齢者講習を受けに来たのは、私を含め6名でした。座学及び運転適性検査が60分と実車指導が60分、二時間の講習でした。二人の教官が対応し、6名を二手に分け、一方が座学・運転適性検査をやっている間にもう一方は実車指導でした。9時前に全員が揃っているので、年輩の教官がタメ口混じりで固くなっている我々をほぐしてくれます。教官と我々が雑談をしている中で、私が一番若いことを知ります。

講習がスタート。我々のグループは先に実車です。事務所の脇に置いてある教習車を教官が運転し、受講者が乗り込み、教習コースの一番端まで行きます。前方には段差があるところで、そこに乗り入れて、止まってから、バックして車を停める。模範を教官がやってみせます。後は教官が助手席に移動して、運転しない受講者二人は外に出て、一人がやってみることになります。

私が最初でした。前進しますが、緊張しているのか中々段差を乗り越えられません。ようやく乗り入れ停止してバックします。すると突然教官がブレーキを踏みます。後方確認をしていないとの指摘でした。昔の教習所の厳しい情景が蘇ります。次に二人が交代してそれぞれ行いますが、一人はスムーズに終わり、もう一人は何回もブレーキを踏まれていました。

それが終わり、教習コースを回りました。仮免スタイルで、先ず教官が手本を示し、交代し運転する受講者それを後部座席で見ている受講者、四人一緒に回ります。信号機交差点、踏切、一時停止、見通しがきかない十字路、直線で30キロ以上を出す個所等々、三人が一通り終わりました。私は教官にブレーキを一回踏まれました。一旦停止が甘く、完全にタイヤが止まっていないといわれました。

段差乗り入れ・バックでスムーズに終わった人は、コースでは特に注意されませんでした。この方は二種免許を持っていて、今でも臨時で観光バスを運転している人でした。もう一人は何回もブレーキを踏まれ、車を数分停められ教官からダメ出しをされていました。運転は普段あまりしていないようです。気になったのは、教官が声高で口調が厳しくなっていることでした(もっともその人は教官とのやり取りも少しピントがずれていたことも事実です)。

一時停止が甘かったことは深く認識し、改めなくてはなりません。長年の自分の運転に過信して、傲慢さが出ていたのかもしれません。そして教室に戻り、我々のグループは座学及び運転適性検査を受けることになりました。   ~次回に続く~ 

 教本
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教団に学ぶ(その6)

2023年07月22日 05時44分13秒 | Weblog
毎週一回約50分の一対一のズーム講義を、6回受けてきた講師と対峙することになりました。その方は、仮称「親鸞聖人に学ぶ会」で長年講師を務めた方でした。その教団の正式名称が○○会であり、実態が分かったのは、ある本を読んだからです。『なぜ人はカルトに惹かれるのか/脱会支援の現場から』と題して、○○会の講師部の専従者として多くの人を入信させ、そして入信後12年目に脱会した方が書いた本でした。

個別ズーム講義は、講師からの説話と教団で作成している動画によるもので、ほぼ一方的なものでした。7回目の講義の直前に、私の方から質問があると伝えました。当日は講師から、私の質問を受けることから始めますとのことで、以下のやり取りとなりました。

私:この会は、正式名を伏せていますが、○○会ですか。講師:はい、そうです。私:○○会の私たちに対しての、最終目的は何ですか。講師:はい、世間で誤解されている教えを正すことです。例えば歎異抄と同じ趣旨です。私:それはどのようなことですか。講師:師の親鸞の教えが誤解されて、弟子の唯円(歎異抄を著わした)がなげき、それを正そうとしたのです。親鸞の弟子でさえ、勝手に異論を唱えたのです。

講師:今生きている現生の救いを説かず、死んだら極楽来世がお助けになると、言い出したのです。現在の伝統的な浄土真宗系宗派でもいえることです。戦前は、お寺に檀家たちを集め、住職が説法をして、お布施をもらっていました。しかし戦後はそのようなこともせず、檀家の誰かが死んだら、葬儀代がどうだとか戒名が幾らだとか、そのようなことばかりしている。○○会は元の精神に戻そうとしているのです。

私:この本(前出)を知っていますか。講師:知ってますが、どんな本ですか。私:○○会に入信して、最後はカルトの怖さを知り、脱会した方が書いた本です。講師:嘘が書かれています。私は梶さんには、親鸞の事しか話していませんが、梶さんどう捉えますか。おかしな話が出てくるまで、続けたら如何でしょう。

講師:勿論、その本を書いた方は知っています。彼は後輩でした。○○会とは違ったことをとなえ出したのです。阿弥陀仏は存在しないと言い出した。浄土真宗で、それはマズイでしょ。根本を否定してしまったのです。梶さん、それどう思いますか。私:その事実は知りませんし、すぐには判断付きません。しかしそれが真実だとしたら、マズイですね。

講師:私は彼のそこしか見ていません。彼がどんな人物なのか関心ありません。仮に著しく逸脱すれば、しかるべく行政が取り締まってくれると思います。彼は人を攻撃しました。彼には自身への期待もあり、自分が変わってしまったことは、これは理解できます。私は梶さんが親鸞の教えを正しく分かってくれるかどうか、だけなのです。私:それは伝わっています。

講師:○○会として、お金はあくまでもお布施として受け取っています。文化講座の形で行っている講習も、会費は取っていません。過去若干の会費をもらったことがありますが、無料が一番多く参加してくれます。会場費や講師の報酬を考慮してくれる聴講者が、多額の寄付をくれることもあり、それは気持ちのあらわれとして受け取っています。私:分かりました。次回もこの講義の日時は決まっていますが、続けるかどうか明日返事したいと思います。講師:はい、分かりました。 

翌日、講師に出した私のメールです。「昨日もありがとうございます。この講習を続けるか正直迷っています。しかし後は自分の勘に頼るようになりますが、中断させてもらいたく思います。本を読んで、過去○○会がカルト的な行いをしたことが頭に残ってしまいました。確かに現在は親鸞の教義の流布のなにものでもないことは、理解はしています。また当会に対して、個人的な批判や非難はありません。多くは書けませんが、私には拘束力が強いある会に入り中々脱会できなかった過去のトラウマもあります。『正しさ』について、自分自身で苦悶してみます。貴殿の卓越した人格をもっての誠心誠意の指導は伝わり、深く感謝しています」。

それに対する講師からの返信メールです。「梶様承知しました。後生の一大事ですから、いつでもお待ちしています。仏縁念じています」。

本書を読まなかったら、止めていなかったかもしれません。頭から決めつけてはいけないと考えつつ、最後は自分の価値観(私の拘り)で決めたのではとの思いも残りました。六回に亘り「教団に学ぶ」のテーマで書いてきました。思いもよらず、このような展開となりました。
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教団に学ぶ(その5)

2023年07月15日 05時58分43秒 | Weblog
私が一カ月半前から講義を受けてきた、親鸞の教えを伝道している、この教団の実態が浮き彫りになりました。ネットの検索で、真宗大谷派のあるお寺の発信しているブログ(HPの)で、「カルト問題」と題した記事を見つけ、この教団の実名が浄土真宗○○会と判りました。このお寺の勉強会の講師として招いた方が、『なぜ人はカルトに惹かれるのか/脱会支援の現場から』とのタイトルの本の作者でした。

作者の瓜生崇(うりゅうたかし)氏も、現在は真宗大谷派のお寺の住職です。氏は大学在学中にその○○会に入会、講師部の専従者としてとして多くの人を入信させ、そして入信後12年目に脱会します。脱会後はカルトの脱会支援活動に尽力し、大学や高校や寺院などで、カルト問題啓発のため講義をしています。真宗大谷派青少年センターのスタッフも務めています。

本書は、いわゆる「カルト」と言われる教団に入っていく人に、どうして私たちが向き合っていくべきかを課題にしている。最初に私自身浄土真宗○○会という新宗教での体験とそこで感じることを書き、そしてそこからカルトとはそもそも何か、どうして人はカルトに入るのを考察し、最後に脱会支援に関わる中で考えてきたことを書く。と、作者は冒頭で述べています。

志望した大学は全て落ち、唯一受かった大学に入る。仲間もできず孤独と喪失を感じる。キャンパスで偽装されたサークル活動に誘われ、○○会に入る。○○会の学生部に新しい本部長が派遣され大躍進が掲げられ、過酷な入会者の勧誘を強いられる。他の大学の学生部員が過労死で倒れる事件も起こる。大学を中退し○○会の講師部に入る。これは一生涯布教に捧げる決意をして、思い出すだけで胃が痛くなるような、恐ろしい研修を受けてなるものだ。と、入信の経緯を語っています。

どうしてそんな道を歩んだのかと問われても、いまだに納得のいく理由を思い出すことができない。とにかく、そうなってしまったのだ。別に誰かに強く勧められたわけでもないし、ずっと行きたいと思っていたわけでもない。驚くほどその道を自然に進むことを選んでしまった。あえてその時の自分の気持ちを思い出してみると、大学生活のほとんどを○○会の活動に打ち込む中で、そうすることでしかその四年間を意味づけることができなかったからかもしれない。と、心境を吐露しています。

そして瓜生氏は北陸にある教団の研修施設に入居し、上司(トップは会長)の命令に絶対無条件服従を強いられ、考えることを放棄させられます。そして教団の期待される人間になっていきます。月に何回かアニメビデオ頒布の行もあり、一本一万五千円の○○会制作のビデオ(全巻で十万円)を坊主頭の怪しげな若者が戸別訪問して売り歩くもので、当然厳しい断りの連続。また、一人当たりきついお布施集めも課せられます。

その後、これらのノルマは制度改革があり緩和されたとのこと。氏はこの頃布教の任を解かれ内勤となり、秘密の任務としてインターネット対策を命ぜられます。ネット普及により○○会に批判的な情報が簡単に見られるようになり、脱会者が続出していたからです。この仕事が脱会のきっかけとなります。○○会を誹謗中傷する人と対話する機会がもて、思いのほか対話できる人達であることを知ります。会長の著作はある人のパクリであるとの書き込みを見つける。そしてパクリ元の人の著作を読んで確証を得て、そこから探し求めたカルトの書に真剣に向き合うことになります。

ウイキペディアにはこうあります。○○会は昭和33年に発足。当会は新宗教と呼ばれるのを好まず、自らを浄土真宗の宗派の一つであると主張し、今日の本願寺は親鸞の教えから逸脱していると批判。一方、伝統的な浄土真宗系宗派は教義の解釈の違いから、当会を異端とみる。主として、組織的に偽装した布教方法を批判され、カルト問題と関連付けて議論されることがある。元浄土真宗本願寺派僧侶である△△氏が設立し会長を務める。同会の会員数は約10万人ともいわれ、△△氏が著した歎異抄の解説本は現在65万部を突破したとされる。

瓜生氏の本に戻ります。脱会した元信者は、騙されて虚偽の宗教を盲信した可哀そうな人ではない。人生の意味を問い、真剣に真理を追い求め、人によっては人生をかけて求道し、人を救いたいと伝道し、そしてそこまで信じていた教義や教祖を疑い、脱会できたのだ。すごい人たちではないか。だから信頼して見守ってほしい。と、あります。カルト体験も人生のかけがえのない一ページ、だと本の最後で氏は語ります。

さてこの本を読んだ後に、私が一カ月半前から講習を受けてきた○○会の講師と、対峙することになります。   ~次回に続く~
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教団に学ぶ(その4)

2023年07月08日 06時31分17秒 | Weblog
親鸞の教えについて、個別ズーム講習そしてオンライン動画講座を受講して一ヵ月が過ぎました。この二つの講座を続けてきて、私自身何を理解したか、何が判らないのか、感じたことも併せお話します。更に最近この教団について判明したことも、お伝えしなければなりません。

親鸞の教えは親鸞独自の教えではなく、お釈迦さまの教えです。「珍しき法をもひろめず、如来の教法(お釈迦さまの教え)を我も信じ、人に教え聞かしむるばかりなり」と、親鸞は明言しています。親鸞は、お釈迦さまの仏教を信じ切って、真髄を忠実に人々に諭したのです。

その仏教を踏まえ、親鸞が説いたのは「平生業成」となります。意味は簡単にいえば、「生きている今、人生の大事業が完成するから、早く完成しなさい」となります。「平生」とは、死んでからではなく現在ただ今。「業」とは、国を改革するとかの大事業ではなく、人生の大事業。これ一つ果たすために人間に生まれてきた、これ一つ果たせたらいつ死んでも後悔がないとの大事業で、「成」とはこれを完成させるとのことです。

では人生の大事業とは一体どんなことなのか。親鸞は、これを「絶対の幸福」になることだと説きます。幸福といっても、お金、名誉、地位、結婚・家庭、趣味などによるもではなく、仏教ではこれを「相対の幸福」として対峙させます。今日は幸福でも明日は分からない、はかない幸せが相対の幸福です。人は同じところを回り、行けども行けどもゴールが無い流転輪廻の中にあるともいえる。なぜか、それは「無明の闇」にあるから。

無明の闇とは、「なぜ生きる」「私とはいかなるものか」「死んだらどうなるのか」とのことです。無明の闇が晴れた時、悠久の過去から流転輪廻させてきた根源が断ち切れるので、私たちの永遠の生命が大満足させられる。その時、人間に生まれてきてよかった、生きてきてよかった、人間に生まれてきたのはこれ一つのためだった、とはっきりする。

三つの無明の闇。これは古今東西全ての人が抱えている闇。これが人生苦しみ色に染める根源。闇といっても心の闇であり、仏教では智慧を光明という。この心の闇は、反対の智慧のない真っ暗闇である。しかし仏様の智慧の明が、一念で破って、明るい心にしてくれる。その時無明の闇の三つの疑問が晴れる。この明るい心が、絶対の幸福になれたことなのである。親鸞はこれを人生の大事業が完成した、平生業成と仰っている。

凝縮すれば、これが講習・講座の主内容ですが、他全てを私は包括できていません。しかし、仏教の目的といえば、「苦を取り除く」ものだと解釈しました。親鸞自身、煩悩具足の凡夫(煩悩以外に何もない人)と自認していました。当時の僧侶からしたら肉食・妻帯は異端に見られましたが、そんな人間臭い親鸞が身をもって、ずっと続く・変わらない・崩れない、絶対の幸福の仏法を説いたのです。

絶対の幸福は頭で分かっていても、無明の闇が完全に消えた訳ではありません。これが今の私のレベルです。誰もが絶対に避けられない死は、勿論認識できます。明確になったのは生と死を分けてはいけないということです。生死一如です。その死について考えることは、生きているうちに、死の準備をすることなのかもしれません。仏教は死んだ人のものではなく、今生きている私たちのためにあると思えてきました。

そんなさなか、親鸞の教えを伝道しているこの教団の新たな情報に触れることになります。一か月半前に知った、この教団で開催していた地元の文化講座で気になっていたことです。日にちが違う二つチラシの主催名が、「親鸞となぜ生きる」となっていたり「親鸞聖人に学ぶ会」となっていたりしたからです。つまり主催者の統一した表記がなく、何かを伏せているともとれたのです。

ネット情報をずっと検索していて、真宗大谷派のあるお寺の発信しているブログで、「カルト問題」と題した記事に出合いました。この教団のことが書かれていました。そこから、ある本の存在を知ります。『なぜ人はカルトに惹かれるのか/脱会支援の現場から』とのタイトルの本でした。 (このブログを投稿した前日、安倍元首相が銃撃により倒れて一年が経過しました。この事件をきっかけに旧統一教会をめぐる問題が噴出しました。数々のトラブルを起こした教団であっても解散させることは容易ではないようです)    ~次回に続く~ 




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教団に学ぶ(その3)

2023年07月01日 06時03分35秒 | Weblog
この一つ前のテーマは「親鸞展」でした。今年は親鸞聖人の生誕850年にあたり、記念して開かれていた京都国立博物館で親鸞展に、5月に行ってきたことを書きました。その親鸞展に行くことを決めた一つの理由は、直前に歎異抄に関する地元(市川市)の文化講座にたまたま参加したからでした。

参加した講座は、「なぜ生きる/親鸞聖人と『歎異抄』」との題目で、副題は「苦しくとも生きねばならぬ理由は何か?」でした。その案内が新聞の折り込みチラシとして入っていて、受講料も無料で、事前申し込みも不要とのことでした。講座に行ってみると、参加人数は14~15名ほどで、年齢層はほぼ70歳以降でした。私も含め、これからの生と死について自問自答している人たちではないかと思われました。

講座は以前から継続的に開催されていたようで、三回受講しました。講師は三~四人が持ち回りで、いずれの方の話も分かりやすく、歎異抄の解説書にはない新たな切り口を発見できました。無料でこのような講座を主催している団体にどのような背景があるのか、まだハッキリ分かりません。怪しげな組織かと疑う気持ちもありますが、しばらく続けてみようと思います。

と、ここまで紹介しました。その後、少し形を変えて学びが続いています。カルトやいかがわしい教団ではないようです。教えそのものが親鸞の歎異抄をベースにしているからです。その団体にはホームページもなく、正直実態はいまだに判っていませんが、800年続いた親鸞の教えを掘り下げています。講師や世話役を含め複数いますので、団体・組織であることは間違いありません。親鸞の教えを今日に広める一つの教団であることは確かです。

その後形を変えてとは、個別ズーム講習(時間指定)と、そして一般向けオンライン動画講座(いつでも可)を受講しています。冒頭に書いた文化講座では、毎回初めての人も来るので、中々その先に進みづらいので、ズーム講習希望者には個別対応するとのことでした。個別ズーム講習をスタートして、次に一般向けオンライン動画講座を申し込み、一ヵ月経ちました。

個別ズーム講習の講師は、文化講座を受け持っていた一人が担当してくれました。週一回時間を決めて、50分ほど行います。担当講師による講習が三分の一、三分の二は用意されている動画による講習です。この講習は無料です。何人も受け持っている様子で、それぞれの人の進捗度合いによる講義の管理も、講師は大変だと思います。

その講師から勧められたオンライン動画講座です。五つの違うテーマで各10~12編あり、それぞれ一コマ約15分のビデオが流れます。こちらは有料でした。月々1000円で、6ヵ月の間は何時でも何回でも視聴が可能です。代金は、最初クレジットカード決済(先方引落し)としましたが、念のため振り込み(当方が決済)に切り替えてもらいました。一ヵ月前はそのような警戒心もありました。

五つの違うテーマのタイトルは、『はじめての正信偈(しょうしんげん)』『はじめての親鸞聖人』『はじめての仏教』『○○先生』『△△先生』となります。浄土真宗では、熱心な信者は朝晩お仏前で正信偈を拝読しますがその説明です。親鸞聖人90年の生涯をアニメ映画にしたものを解説付きで聴講できます。その他仏教についての初歩知識や、二人の講師から後悔しない人生とはなどについて学べます。配信されてから毎日二コマずつ視聴しています。

この二つの講座を続けてきて、私自身何か変わったのか。難しいまとめとなりますが、何を理解したか、何が判らないか、私が今感じることも併せ次回お伝えしたいと思います。   ~次回に続く~

 アニメ映画「世界の光・親鸞聖人」
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