地方発送している荷主をどのように開拓したかの話しの前に、売り買いされた際の物の配送について少し説明させてもらいます。商品を出荷する売り主とそれを受け取る買い主が、当然存在します。しかし、売り主が運送会社を手配して買い主へ持ち込むケースと、買い主が自ら運送会社を手配して売り主の置き場に取りに行くケースがあります。前者を持ち込み渡し、後者を置き場渡しと言われています。
例えば飼料や肥料などは、地方の農協の依頼で地元の運送会社が、首都圏のメーカーに引き取りに行くのが大半で、つまりメーカーの置き場渡しとなります。上り荷を積んで東京で降ろしても、地元の買い主の引き取り依頼もあるので、帰り荷が全く無いわけではありません。どこからの依頼でも、長距離運送会社は往復の荷物は確保して、片荷で走ることはありません。
中距離であれば日帰りは可能で、片荷でも採算が取れます。長距離で車中一泊をする2日運行の場合は、運転手の手当てなど経費が発生しますので、その面でも往復の荷は必要です。地元の荷主の依頼で長距離運送をする時にもらう運賃を、仕立て運賃と言います。地方の上りの仕立て運賃が6とすると、帰り荷の相場は4です。逆に東京の荷主が地元の運送会社を仕立てる場合の運賃も6となりますので、帰り便取扱業者としては5の運賃を提示することで、割安感を強調することができます。
わが社は昭和40年代伸鉄メーカーに材料を売っていました。伸鉄メーカーとは電炉を持たず、ビレット(鋼片:電炉メーカーの半製品)や上級屑を加熱しロール圧延して、主に鉄筋丸棒を製造していた小規模のメーカーのことです。わが社で市中からスクラップを集め、上級を選別し、それをシャーリングで切断して、伸鉄メーカーの加熱炉に入るような一定のサイズに揃え供給していました。
最盛期は東北地方の大手のスクラップ業者まで出向いて、上級屑を買い集めていました。その屑を積んで、江東区東雲のわが社の工場に地方のトラックが降ろすのですが、たまに帰り荷のタイミングが合わないので工場の前で一泊や二泊していく運転手がいました。また、先代は運転が好きで、東北や北陸に車で旅行をしていましたが、そんな土地で東京ナンバーのトラックが結構走っているのよく見ると言っていました。動物的な感で、帰り荷の斡旋業が成り立つことを先代は確信していたのだと思います。
さて、荷主の開拓をどのようにしていったかの話しに移ります。梶哲商店は昭和27年にスケール集荷を目的で興した会社です。創業当時より、電炉メーカーや伸鉄メーカーから圧延過程で発生するスケールの集荷が主で、わが社がスケール事業を撤退する昭和50年当初まで、それらのメーカーと取引が続きました。そのような関係で、帰り荷の下払い運賃を調査し、受け払い運賃表が完成して、初めて回り出したのがそれらのメーカーでした。
回り出してから、物の流れが分かってきたことがあります。同じく丸棒を製造する電炉メーカーが宮城県仙台近くにあり、そこから近隣の県へ供給されていました。余分な運賃をかける東京のメーカーには、価格競争力がありません。他の鋼材においても、仙台に鉄鋼メーカーがなくても、大量輸送するならば東京から仙台港に船積で送り、そこから東方地方の県へ再送されるような物流ルートが既にありました。
それでも初仕事が舞い込みます。過去梶哲商店が材料を納めていた、江東区にあった伸鉄メーカーからです。ここは、伸鉄メーカーでは珍しく平鋼を製造していました。営業に行ってからから一カ月後です。持ち込み先は秋田県の八郎潟で、鋼製工作物を作っている会社でした。持ち込み先の会社名は今でも覚えています。そこへ平鋼30t納入です。東北に出張し、訪問した秋田市の運送会社が喜んで引き受けてくれました。
しかしこの仕事はスポット的なもので、継続することはありませんでした。一方地方の運送会社から、「明日自社のトラックが東京に行くけれど、何か帰り荷はありませんか」など、複数の会社から声が掛かるようになりました。鋼材ばかりをあてにしても埒が明かないと判断し、建材関係のメーカー等へ、徐々に対象を広げていきました。その荷主を探し出すために、考えた方策(下調べ)が次第に効果を上げていくようになります。 ~次回に続く~
例えば飼料や肥料などは、地方の農協の依頼で地元の運送会社が、首都圏のメーカーに引き取りに行くのが大半で、つまりメーカーの置き場渡しとなります。上り荷を積んで東京で降ろしても、地元の買い主の引き取り依頼もあるので、帰り荷が全く無いわけではありません。どこからの依頼でも、長距離運送会社は往復の荷物は確保して、片荷で走ることはありません。
中距離であれば日帰りは可能で、片荷でも採算が取れます。長距離で車中一泊をする2日運行の場合は、運転手の手当てなど経費が発生しますので、その面でも往復の荷は必要です。地元の荷主の依頼で長距離運送をする時にもらう運賃を、仕立て運賃と言います。地方の上りの仕立て運賃が6とすると、帰り荷の相場は4です。逆に東京の荷主が地元の運送会社を仕立てる場合の運賃も6となりますので、帰り便取扱業者としては5の運賃を提示することで、割安感を強調することができます。
わが社は昭和40年代伸鉄メーカーに材料を売っていました。伸鉄メーカーとは電炉を持たず、ビレット(鋼片:電炉メーカーの半製品)や上級屑を加熱しロール圧延して、主に鉄筋丸棒を製造していた小規模のメーカーのことです。わが社で市中からスクラップを集め、上級を選別し、それをシャーリングで切断して、伸鉄メーカーの加熱炉に入るような一定のサイズに揃え供給していました。
最盛期は東北地方の大手のスクラップ業者まで出向いて、上級屑を買い集めていました。その屑を積んで、江東区東雲のわが社の工場に地方のトラックが降ろすのですが、たまに帰り荷のタイミングが合わないので工場の前で一泊や二泊していく運転手がいました。また、先代は運転が好きで、東北や北陸に車で旅行をしていましたが、そんな土地で東京ナンバーのトラックが結構走っているのよく見ると言っていました。動物的な感で、帰り荷の斡旋業が成り立つことを先代は確信していたのだと思います。
さて、荷主の開拓をどのようにしていったかの話しに移ります。梶哲商店は昭和27年にスケール集荷を目的で興した会社です。創業当時より、電炉メーカーや伸鉄メーカーから圧延過程で発生するスケールの集荷が主で、わが社がスケール事業を撤退する昭和50年当初まで、それらのメーカーと取引が続きました。そのような関係で、帰り荷の下払い運賃を調査し、受け払い運賃表が完成して、初めて回り出したのがそれらのメーカーでした。
回り出してから、物の流れが分かってきたことがあります。同じく丸棒を製造する電炉メーカーが宮城県仙台近くにあり、そこから近隣の県へ供給されていました。余分な運賃をかける東京のメーカーには、価格競争力がありません。他の鋼材においても、仙台に鉄鋼メーカーがなくても、大量輸送するならば東京から仙台港に船積で送り、そこから東方地方の県へ再送されるような物流ルートが既にありました。
それでも初仕事が舞い込みます。過去梶哲商店が材料を納めていた、江東区にあった伸鉄メーカーからです。ここは、伸鉄メーカーでは珍しく平鋼を製造していました。営業に行ってからから一カ月後です。持ち込み先は秋田県の八郎潟で、鋼製工作物を作っている会社でした。持ち込み先の会社名は今でも覚えています。そこへ平鋼30t納入です。東北に出張し、訪問した秋田市の運送会社が喜んで引き受けてくれました。
しかしこの仕事はスポット的なもので、継続することはありませんでした。一方地方の運送会社から、「明日自社のトラックが東京に行くけれど、何か帰り荷はありませんか」など、複数の会社から声が掛かるようになりました。鋼材ばかりをあてにしても埒が明かないと判断し、建材関係のメーカー等へ、徐々に対象を広げていきました。その荷主を探し出すために、考えた方策(下調べ)が次第に効果を上げていくようになります。 ~次回に続く~