梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

一年後この世に…(その2)

2021年07月31日 03時44分37秒 | Weblog
その私の知人の医者は、O(先生)と言います。会社の定期健診(バリュウム検査)で異常を指摘され、関連の病院で内視鏡で再検査をすると、担当になったT先生から食道にポリープを認めるので、大学病院で更なる精密検査を行いいずれにしてもポリープの除去手術を強くすすめられました。その段階でO氏に相談することで、T先生とは距離を置くことにしました。

O氏に事前に電話を入れて状況を話し、柴又にある病院を診療が終わった時間に訪れました。T先生からもらっていた、内視鏡の写真や簡単な病理検査報告書を手渡してから、相談を持ち掛けますが、話が噛み合いません。O氏は、私が消化器内科(特に食道のがん手術)で評判の医者を、紹介してもらいたいと受け取っていました。

そうではなく、これ以上何もしたくない旨を伝えます。O氏は、医者の紹介の依頼であっても母校の大学病院系統の中で探すのでも難しいと、回答しようと思っていたと言いました。手術を行わなければがんの名医とは言われず、言い換えれば、世間では手術をすすめない医者はがんの名医とは言われない、との意見でした。手術をしなくても治るがんもあれば、手術をしても治らないがんもあり、誰も正確な判定などできないとの私見でした。

実は最近、私の身近でがんに罹って手術をした人が出現しました。仮に私ががんだと言われ、手術をするのかを含め、自分ならどう判断するか想定していました。がんを宣告され余命を告げられたらどう受け止めるのか、そこまでも考えていました。しかし、答えは直ぐに出るものでもありません。そのような経緯から、医者が書いたがんに関する本を何冊か読んでみました。他人事ではなく正に今回私が、その問題に少なからず向き合うことになりました。

これ以上の検査や手術もしたくないとO氏に伝えたのは、事前に考えていた下地がありました。その話しをすると、医者としての立場で同意してくれました。何か自覚症状があったら別だが、O氏自身もここ10年来定期検診はしていないそうです。例えがんが判明したところで、自分も何もしないかもしれないし、再検査のわずらわしさ、手術の成否の心配、その後の放射線や抗がん治療など憂鬱だとのことでした。

「一人で決めないこと」「一回で決めないこと」「専門家の言いなりにならないこと」。読んだ本の中にあった言葉です。ホスピス医が、患者さんの家族に何らかの重大な判断をくだすときに、この3つのポントを伝えているそうです。O氏に相談して決めたことも、更なる検査や処置について直ぐに白・黒つけないで何もしないのも、今の結論だと思いました。今回がんと判明したわけではありませんが、私が40代50代であれば、手術をする決断をしていたかもしれません。

ここで、もう一つ読んだ本について話をさせてもらいます。『もしも一年後、この世にいないとしたら』とのタイトルで、国立がん研究センター中央病院の精神腫瘍科長、清水研さんの著書です。精神腫瘍学とは、がんとこころに関する学問であり、氏はその専門医で、がん研センターでがんに罹患した人とその家族の診療を行っています。

「人生100年時代といわれ、人が長生きすること自体は喜ばしいことだが、真剣に死を考えることなく、日々を粗末にしてしまう弊害もある。日々を粗末にすれば、自分で絶対にやりたいことも先延ばしにしてしまう。毎日の生活に充実感がなく、変わりたいと思っても、そんな無謀なことをしたら人生を棒にふってしまう」。何よりも清水氏自身が、やりたいことを先延ばしにしていたと回顧しています。

「しかし今の仕事を通して、相談に来られた方の役に立とうと全力を尽くす中で、教えてもらうことが山ほどあった。突然がん告知を受け、人生の期限を意識させられる現実はとても苦しいものだと実感し、残された時間をどう生きるべきか真剣に悩まれる人々の語りは力強く、毎日をなんとなく生きてきた私にとって心から畏敬の念を抱く体験だった」。その結果、自身の人生も変わったと語っています。

人が「死」を恐れるのは何故か? それに対し清水氏は、三つの理由(問題点)を挙げています。それぞれに対処の仕方があり、「死」を意識して初めて生きることの「光」に気づくと、氏は言明します。そして期限がある命を自分らしく生きるその手掛かりもあると、氏は説明します。   ~次回に続く~


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一年後この世に・・・(その1)

2021年07月24日 03時45分40秒 | Weblog
最新の厚生労働省の資料によりますと、日本人の死因順位の第一位は悪性新生物(腫瘍)、第二位は心疾患、第三位は脳血管疾患です。悪性新生物とは、がんのことです。このデータは年齢や性別に関係なく総数であり、因みに死因の第四位は肺炎、第五位は老衰です。

死因の年次推移をみると、悪性新生物は昭和56年より第一位となり年々増え続け、他の死因は横ばいや減少しているものの、現在日本人の死因構成割合の30%を占めていす。また死因の年齢別推移をみると、悪性新生物は50歳代から他をおさえ第一位となり、60・70歳代ではそのピーク(死因構成のほぼ50%)に達します。

国立がん研究センターの情報によりますと、がんの累計罹患リスクは、つまり生涯でがんになる確率は、男性65.5%、女性50.2%とのことです。またがんの累計死亡リスクは、つまり生涯で死亡する確率は、男性23.9%、女性15.1%としています。今や日本人の二人に一人は何らかのがんに罹る、といわれる根拠がここにあります。

二人に一人とは夫婦であればどちらかかががんになる確率がある、ということです。避けて通れないがんの辛さは、勿論本人自身のものですが、身内に心配や負担を掛けてしまう辛さもあります。誰でもがんになると言われても、実際にその時に、冷静になれるかは問われます。がんを疑われた私の身近な話を、これからさせてもらいます。

会社で健康診断を毎年4月に行っていますので、私も欠かさず受けてきました。受診後に健診センターから出される評価成績表があり、中でも気になるのは、私は長年お酒を飲む習慣がありますので肝臓系の数値です。これは今年も何とかクリアーしました。聴力の低下などは、老化現象と諦め、何も治療をせず受け入れています。

問題は、その成績表で検査項目によってGランクに認定されることです。ランクはAからGまであり、Aは異常なし、BからCまでは軽度の異常で特に支障なし、DからEまでは再検査や治療が必要、Gは異常所見で要精密検査、となります。今回G判定がありました。健診当日のバリュウムによるX線検査で、「食道中部粘膜下腫瘍」と記されました。

実はこの個所は数年前から引っかかっていましたが、判定ランクも下位で、自覚症状もないことから放置してきました。そのバリュウム検査で一回目、食道から胃まで行い終わったのですが、X線の技師はもう一度食道だけをやり直したので、何かあるなとは思っていました。

判定は「G:異常所見要精密検査」でしたので、健康センターの医師に促され、連携(共同運営)している総合病院を訪れます。担当医となったのは消化器内科のT先生です。精密検査は、予期していた通り内視鏡でした。私は30年前十二指腸潰瘍を患った時、何回か内視鏡検査を受けたことがあり、その都度カメラを飲み込む際に七転八倒した経験があります。T先生は即刻検査を受けた方がいいと仰いますが、私はあの痛さのトラウマでためらっていると、検査結果によっては食道がんも疑わなくてはならないと脅かされます。

鼻から入れる方法もあるが、口から入れても鎮痛剤(麻酔)を使用すれば痛みは感じない、との説得に結局従いました。案ずるより産むがやすし。点滴によって打たれた鎮痛剤が効いて、全く熟睡状態で検査は終わりました。内視鏡検査はカメラ撮影と生検(粘膜の一部を採取)とで、別の医師によって行われ、T先生へその結果が送られ、後日再診となりました。

結果を見たT先生の見解です。生検結果では悪性は認められないが、明らかにポリープはあり(私が思っていたより大きく)、今回採取した細胞は表面のもので、上皮内は検査はできていないので更なる精密検査を行い、いずれにしてもポリープの除去手術を薦めるので、大学病院を紹介したいとのことでした。疑わしきものは全て手を打つことを患者に伝える。医者の使命としては理解出来ます。がしかし、これから先は患者の意思も尊重されるのではないかと考えました。

私の知人で、中学校から同期で同窓の医者がいます。社会に出てから縁があって親しくなり、亡くなった両親の健康管理で世話になりました。現在彼は、葛飾柴又で開業(整形外科)し、彼に相談したいと思ったからです。私の足の怪我の後遺症も相談に乗ってもらってきた彼です。T先生にその旨を伝えると、あっさり了解してもらえました。  ~次回に続く~

男性・年齢別に見た主な死因の構成割合(厚生労働省:令和元年)

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過去の体験から(その5) 

2021年07月17日 05時15分12秒 | Weblog
今までは過去私が携わった別会社の話しをしてきましたが、現在わが社で推進している企業内起業の話しも少しふれます。去年の秋ごろから立体加工の取り組みを開始して、今年の4月に独立採算事業とすることを決めました。専任は二人です。今は新た導入するロボット溶断機の機種選定の段階に入っていますが、このロボットは汎用品ではなく特注になることもあり、慎重に進めています。

この立体加工に関しては、パートナー会社(既にロボット溶断機を所有)が存在して、新規に開拓し受注した仕事はそこへ委託しています。わが社で技術を担当する専任の一人が、その会社と深い関係にありました。今回の紙面では省略しますが、パートナー会社の社長と、共同で立体加工に取り組んできた経緯があります。わが社で新たに導入する機種は、パートナー会社のロボット溶断機を参考にして、改善点などがあれば活かそうとしています。

専任のもう一人が私の息子です。大学を卒業してわが社に入社して三年が過ぎました。大学の時にバイトでわが社の現場を経験しています。正社員となり一年はその延長で現場に入り、二年目から営業の仕事に従事しました。今までの担当の得意先は他の営業マンに全て引き継ぎ、わが社の素材販売や従来の溶断事業から一線を画します。現在息子は28歳となり、奇しくも私が別会社を創業した時期と重なります。

起業するのは、誰しもが動機や背景があります。私の父の場合は、「自らの生計を立てる為だった」と言っています。戦争があり祖父が始めた鉄の商売(シャーリング業)は休業状態となりました。大学生で志願し戦争を体験した父でしたが、復員して戦友に誘われ大阪で金融業の手伝いをし、自らも質屋を営みますが失敗します。東京に戻ってきて祖父とは違う鉄の仕事、スケール集荷事業に辿り着き、昭和27年に創業します。既に結婚して姉と私がいたので、祖父に頼ることも出来ず自立するしかなかったのだと思います。

私の場合、鉄とは違う会社を創業したのは、46年前の私の怪我がきっかけとなりました。父のアイデアの具現化が運送取り扱い業でした。運送業に拘っていたのではなく、動機の一つは私の社会復帰する場としての選択でした。父と私の共通点は、自らの働く場を求めての起業であったことは確かです。しかし利己的なスタートであったとしても、世の中で必要とされなければ、その会社は存続しないことも事実としてあります。

現在のわが社の企業内起業の話しに戻します。立体加工に近い溶断は、以前から従来の機械と治具を作り手作業を駆使しながら行ってきました。例えばその加工は、納入先のユーザーが内製化していた手間がかかっていた仕事で、わが社が引き受けられる、世の中で必要とされる分野とも言えます。また目指そうとしている加工は、あまり同業他社と競合しない分野でもあります。

立体加工部の専任となる二人は、機種選定にしてもその機種を導入して活用していくのも、形が無いものを創っていくので苦労すると思います。しかし少しでもその形が見えてくれば、遣り甲斐があるとも言えます。独立採算制は厳しいかもしれませんが、自らの結果がすぐ出ることになりますので、やらされ感ではなく自主性が原動力となるはずです。

新たなものを創っても、世の中の変化と共に陳腐化します。企業においても、新陳代謝は避けては通れない道です。勿論、必要性の存在がある限り、既存のものを守るのも大切です。振り返ってわが社の歴史は、変遷の繰り返しでした。先代の創業のスケール事業は衰退し跡形もなくなりました。第二第三の起業精神は、企業が生き残るための一つのよすがとなるのかもしれません。
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過去の体験から(その4) 

2021年07月10日 06時32分30秒 | Weblog
三週にわたって、私の過去の体験を書かせてもらいました。創業した当時を思い出したのは、今のわが社とある意味で重なるからです。現在わが社は、ある事業をゼロからスタートさせようとしています。法人登記して会社を興すわけではありませんが、その事業は独立採算としますので、企業内起業と言えます。

事業名は「立体加工部」であり、別名「プラス・ワン」と称しています。去年の秋頃からの取り組みで、ロボットガス溶断機の導入になります。従来のように平板を単に上から切るのではなく、素材は(例えば円筒状でも)固定して、ロボットの腕の先の火口が自由自在に動き立体切断をするものです。去年このブログ上で、『プロジェクトとネーミング』と題し紹介させてもらいました。その後の進捗など、次回の紙面に譲ります。

その前に、今回で私の過去の体験の締め括りをします。46年前私は梶哲商店に入社し、2年後に現場で怪我をして後遺症が残って、先代(父親)は現場がつきものの鉄鋼業へは私の復帰はしばらく無理だと判断し、そして興したのが運送取り扱い業の会社でした。私は27歳の時で、それから約10年間その仕事に従事しました。

私一人で始まった会社は、二年目に男性社員を二人採用することになります。その業務は内勤と外交でした。内勤は、荷主から受注した仕事の地方運送会社へのマッチングと、当日その会社の運転手さんから手配先に入る確認の電話対応です。外交は、荷主の新規開拓と、既存の取引先への営業活動でした。内勤は二人とし、後一人は外交へ、私と二人の社員とで交代で行っていました。

荷主からの受注は地域や時間帯によって、一々帰り便に繋がなくても受けていました。例えば、積み込み日の前日の午前中迄であれば、荷主には即答をしました。わが社が既に帰り荷を確保していて、地方の運送会社から荷物がないかとの問い合わせにより、マッチングできれば理想的です。しかし当てが外れ、こちらから車を探す苦労もありました。

荷主が増えると、依頼される配送地域も東北から上信越、そして東海・中部・関西へと広がりました。当初は東北地区でスタートしましたので、都度新しい地域の庸車を開拓しなくてはなりません。学生バイトを長期に雇って、幹線道路の信号機近くで張り込み、手薄な地区のトラックを探し出しました。この商売は、荷と車の両輪のバランスを常にとらなくてはなりませんでした。

私と三つ違う弟は大学を卒業して、同じく梶哲商店に入社しました。私が運送会社を任されている間、彼は先代のもとで働くことになります。そして10年が経ちます。突然先代に私と弟が呼ばれ、早ければ二カ月ほどで、互いに働く場を交換するという考えが打ち出されました。弟は賛同して、私はためらいます。

弟が同調したのは、父親の手元を離れて自由に仕事をしたかったのだと思います。私がこだわったのは、やっと採算に乗り出した会社から離れることです。父親の心中は、「いずれ長男は鉄に戻し、次男は別会社の運送で」と、前々から考えていたのでしょう。それから一年後のこと、先代は他界しました。父親の生前のこの発言がなければ、私達兄弟は、互いに今の仕事に就いていなかった可能性があります。

私が運送会社を退任する直前の2~3年前からは、通期で黒字を出せるようになりました。女性社員も新たに一人採用して、一日の配車の台数もコンスタントに30台を超え、漸く会社の体をなすようになっていました。しかし資本金は、開業して7年目には全て食いつぶしてしまう状況で、私の在任中は内部留保を積み増すことは叶いませんでした。

創業時の社名は「㈱梶哲商店運輸部」でした。私が退任する一年前に社名変更し「総合トラック㈱」としました。総合トラックは弟に引き継がれ、取扱業をしながらも、自社便を持つ一般貨物自動車運送業の認可を受け、既存の荷主から近距離の配送も引き受け、倉庫業なども手掛けるようになりました。総合トラックの体験を活かし、弟は20年前に、鋼材小口混載便に特化した別会社「㈱メタル便」を設立し今日に至っています。   ~次回に続く~

総合トラックに引き継がれた『全国運賃情報』

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過去の体験から(その3) 

2021年07月03日 04時46分23秒 | Weblog
鋼材の荷主開拓は並行しながらも、徐々に対象を広げる必要性に迫られます。鋼材と同じく、運びやすいものとしたら建築資材関係です。鋼材のメーカーや鋼材加工業者と違って、建材メーカーの所在すらわかりません。しかし我々でもその会社を調べられる、打ってつけのデータが既にありました。

それは、大手の興信所が毎年刊行していた会社年鑑です。一定の規模以上の企業が網羅されていて、所在、扱い商品、役員、従業員数、資本金、売上・利益などが記載されていました。分厚い年鑑で東日本版と西日本版があり、最新の東日本版を二冊買い求めます。年鑑を丁寧に見て、該当する会社を一社一社切り抜いていきました。一頁の裏表に、該当会社があるので二冊買いました。

所在の範囲としては、神奈川県、埼玉県、千葉県、東京都です。営業活動が出来て、地方車がその荷主に入った場合、立ち合いに行ける範囲です。ある程度リストアップした会社が揃い、それからアポを取り付けて実際に訪問です。全く地方発送していない会社もあれば、地方発送をしている会社でも、電話口で断られることも多くありました。

そんな営業を繰り返しながら、地方発送していそうな会社にアポを取らず直接訪問することもあり、千葉県の市原にある大手のセメント会社の子会社で、ALC板を製造している会社に飛び込みました。ALCとは軽量気泡入りコンクリートのことで、中高層建物の外壁や床などの用途で使用されます。工場で仕上げを施したパネル製品なので、現場では取り付けるだけで、施工時間を短縮することができます。
 
その会社の工場には守衛がいて中には入れず、目の前にある運送会社へ行けと言うのです。その配送を一手に引き受けている元請でした。そこに話をすると、地方向けは結構な量があるので、しっかりした車を回してくれれば、仕事を出してもよいと言われまた。運賃も折り合い、仕事が流れてきました。直接メーカーとの取引ではありませんけれど、構内作業も請け負う元締め的な存在で、以来長年にわたり東北地方に多くの量を運ばせてもらいました。

一つ道筋が見えてくれば、後は応用編です。切り抜いた資料に基づいて地道に探すと、一社一社と荷主は増えていきました。建材関係では、合板、スレート、石綿パイプ、フェンス、仮設足場など扱うメーカーと、その後取引が出来ました。飛び込んだ先の担当者の計らいで、自社便を持たずとも、上場している会社とも取引が可能となりました。 

運送取扱業の仕事は電話だけを使って簡単な商売にみられますが、問題は、地方のトラックが上り荷を降ろし、空車になって、斡旋した荷主へ無事に積み込みに入れるかでした。天候や道路事情やトラックの故障や、上り荷を降ろす先で荷が下りないとか、起こり得るトラブルは種々ありました。当時同業他社もありましたが、手配していた地方車が回らないだけの理由で、責任を取らず逃げてしまう業者もありました。

仕事を受けて欠車を出すことは、信用を失う致命傷になります。初期の頃、私の判断の甘さで欠車を出してしまった苦い経験がありました。それを回避する為に、前日地方の運送会社には仕事内容は伝えますが、当日運転手さんからも昼の12時まで、わが社に電話することを徹底しました。この電話が無い場合、万一を想定しました。荷主から荷物を一旦引き取って、わが社倉庫で夜間積み替えたことも何回かありました。

このようなトラブルが発生しなければ、扱い台数も増やすことができますが、手配車でトラブルが多発すると、この仕事のネックとなりました。逆に荷主の都合で荷物がキャンセルになることがあり、殆どのケースで荷主からキャンセル代はもらえませんでした。しかし、あくまでもわが社の手配で車を預けてもらいましたので、わが社が相応のキャンセル代を負担してきました。

創業4年目くらいから、横浜港に上がる輸入品を扱う、通関業務をしている大手倉庫会社から仕事を受注するようになります。輸入品である、アルミインゴット、化成品、合金鉄 食品や雑貨など扱い品種が広がります。鋼材も諦めず営業活動を続けることで、線材、コイル、軽量型鋼、特殊鋼などの品種も加わって、帰り便を手配できる地区も本州全域となり、商売として成り立つ自信が持てるようになりました。 ~次回に続く~
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