梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

利他という考え方(その3)

2022年06月25日 04時40分57秒 | Weblog
「内容が難しい!」と、前回のブログを読んだ妻に言われました。1200年も前の仏教に関することで、現代人にとって親しみのない「利他」がテーマで、人が書いた本を要約しようとしたので、そうだったのかもしれません。その反省も踏まえ今回は私なりに整理して、自分で調べたことも加味して、まとめました。

日本的利他の起源は仏教であったことは事実です。利他という言葉を使いその教理を実践しようとしたことは、空海と最澄であることも歴史に刻まれています。二人の仏教は平安仏教です。それ以前の奈良仏教は、中国伝来の仏教そのものの導入で、どちらかというと為政者が国を治めるためのものでした。それに対し空海と最澄に代表される平安仏教は、原理や経典は中国のものでしたが、一般衆生を救おうとしたことに大きな改革がみられます。衆生を救う目的の利他であり、空海は「自利利他」であり最澄は「忘己利他」を唱えました。

もう一度、「はじめての利他学」を著わした若松英輔氏の日本的利他の解釈です。西洋思想にある利他的な言葉は「愛他」であるが、「利己主義」(エゴイズム)の対義語として派生したものであり、日本の利他とは全く違う。愛他の思想は、自と他が別々の二者で分かれている。その自が他の立場に立って、相手本位になろうとするあり方や生き方なのだ。一方日本の利他の思想は、自と他が一体である。自利から入ろうが、忘己から入ろうが、目指すところは利他、唯一無二の自分と他者である。若松氏の論調でした。

やはり、西洋思想と仏教思想とは根本的に違います。私は、日本的利他が西洋的愛他を包括しているように思えます。愛他の対局の利己は、自分が強過ぎるがための利己であり、それを省みる他者への愛です。利他の対局には、強過ぎる利己の姿はみえません。最澄は、困難は自分に、喜びは他者へ、忘己による利他はこの上ない仏心 (慈悲)であるとしました。空海は、仏の教えは二利に尽き、一つは永遠の安楽をのぞむ自利、もう一つはこの世の苦しみの原因を取り除くことを利他としました。空海の自利は、自分の利得との意味ではなく、自分を極めることでした。

最澄は、「自分を忘れる」ことに利他とは何かを考えるところに力点を置いた。空海は、「自他ともに」というところに力点を定めた。これを再認識したいと思います。最澄は己を忘れ他者を第一に、空海は自己を極めることと他者の救済は一つであるとし、二人は共に仏心で世の中の衆生を救いたいと願ったのです。仏教において「利」とは、対象がどうあれ、よいことをする営みを意味していました。

そもそも今回のテーマは、わが社の社訓が、自分も他人も繋がっていて利他を大事に、とのことから取り挙げました。その社訓は“蓮華泥中”と“良樹細根”でした。私が書いたブログ「企業と人材(その5)」で、その二つを次のように紹介しました。“蓮華泥中”とは、「人の目に映る部分が大事である」とのことで、汚い水を吸っても自ら浄化して毅然としている、人の器量とは自分より他者の立場に立てるかどうか、感謝の気持ちを忘れない、忘己利他の精神である。“良樹細根”とは、「人の目には見えない部分が大事である」とのことで、私達の努力も普段人目にはさらされず、継続は力なり、自分を極める為に、正しい事を日々コツコツと積み重ねる、自己研鑚の精神である。そのように表現しました。

こう書いた後で、若松氏の「はじめての利他学」を読み、最澄は己を忘れ他者を第一に、空海は自己を極めることと他者の救済は一つ、を知りました。わが社で、“蓮華泥中”は忘己利他の精神、“良樹細根”は自己研鑚の精神、と解釈したのが奇しくも最澄と空海に繋がっていました。気宇壮大な仏教を社訓に取り入れていた重さをことさら感じます。

利他という考え方が分かっても、それでも利他の実践は難しく、忘己といわれても消滅しない自分があります。それに対して、若松氏の著書「はじめての利他学」の第4章:利他のための自己愛、にヒントがありました。利他が生まれるためには「愛」の力が必要である。それも自己愛である。自己愛は利己的な営みではない。利己的な人は他人を愛せないが自分も愛せない。利他には等しさが必要で、他者を愛するように自分を愛し信じることが大切。自分自身が唯一無二の存在であると認められれば、人は、他者もまた唯一無二の存在が理解できる。このような主旨となります。

「受け入れ難い自分も受け止める」、ここからの出直しであると思います。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

利他という考え方(その2)

2022年06月18日 05時17分39秒 | Weblog
本の帯に“日本初/利他の入門書”とある、若松英輔氏の著書「はじめての利他学」を読みました。第0章:なぜ今「利他」なのか、第1章:利他のはじまり、第2章:「利」とは何か、第3章:利他を生きた人たち、第4章:利他のための自己愛。構成はこのようなものでした。

第0章です。今私たちはコロナ危機を経験して、かつてよりずっと他者との「つながり」を実感している。私たちがもう一度他者と共に生きるため何が必要なのか、この問題を解くキーワードとして考えてみたいのが、本書の主題である「利他」なのだ。と、書かれています。

私が特に取り挙げたいのは第1章です。この章は日本的「利他」の起源についての解説です。「利他」を「他を利する」と書くことから、対義語は「利己」あるいは「利己主義」(エゴイズム)と日本人は考えてしまいがちだが、若松氏はそうではないといいます。「利己主義」は西洋思想における言葉で、その対義語は「愛他主義」であり、日本の利他と西洋の愛他とは違う。愛他の思想は、自他が別々の二者で分かれている。その自が他の立場に立つ、相手本位のあり方や生き方なのだ。との主張です。それでは日本的利他の起源とは何か、以下第1章の要約です。   
 
「利他」という言葉を日本で最初に用いたのは、平安時代における真言宗の開祖・空海である。そして、利他という言葉を用いず、利他の実践の意味を語り始めたのは、天台宗の開祖・最澄である。二人は平安仏教を象徴する巨人であり、同時期に唐に留学していて、とても深いつながりがあった。空海が追及したのは「自利利他」、最澄が重視したのは「忘己利他」である。

まず日本における利他の始まりを考えていくために、最澄の言葉を読み解いていく。仏教に帰依し修行する人の多くは自分の救いの為に、戒律や荒行に耐えようとするが、最澄の志は違うところにあった。その功徳を独り占めするのではなく、修行に時間を割くことのできない人々ばかりか、全ての「命」あるものと、共に分かち合いたい。これが最澄のゆるぎない念願である。悟りの妙味を自分だけのものにせず、他に苦しむ命があるなら、自分もそこに留まりたい。最澄にとって重要なのは、誰かに良いことをするのではなく、共に苦しむことであった。

晩年の最澄は、嵯峨天皇に天台僧の行動や生活様式を定めた文書を上奏するが、そこに「忘己利他」という表現が用いられた。“悪事を己に向へ、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり”。困難は自分に、喜びは他者へ、忘己による利他は、この上ない仏心 (慈悲)である、との意味。慈悲とは、他者を本当に愛し、他者の悲しみを我がことのように感じることで、それは私がしているのではなく、仏が私を通じて行っていることである。

先に述べたように、最澄以前に利他の言葉を用いたのは空海である。最澄に先んじること12年、空海が記した書に、仏の教えはとてつもなく大きくそれをあえて一言でいうならば、“二利のみにあり、常楽の果を期するは自利なり、苦空の因をすくうは利他なり”と表している。仏の教えは二利に尽き、一つは永遠の安楽をのぞむ自利、もう一つはこの世の苦しみの原因を取り除きたいという利他である、との意味。二利の二は複数ではなく「不二(二つにあらず)」の一つの意味である。自利利他が一つになるとき、自利も利他も同時に成就される、とのこと。

最澄は、「自分を忘れる」ことに利他とは何かを考えるところに力点を置いた。空海は、「自他ともに」というところに力点を定めた。最澄と空海の利他観は、似ているともいえるが、同時に似ても非なるものだともいえそうである。異なることが優劣を決めるのではなく、問題はそれぞれの道がどのような姿をしているかなのである。

最澄は空海よりも年齢が上で、僧としても高い地位にいる人物であった。最澄はそこにおごることなく、大事な弟子を空海のもとへ送ることにした。それは最澄自身が空海に学ぶことである。ところがその教えを弟子は持ち帰らず空海のもとで学び続け、最澄に決別の手紙を送る。弟子は最澄に「己を忘れ他者を第一によ」といわれていた。しかし、空海からは「自己を深めることと他者の救済は一つである」と告げられた。最澄は自分の利他観を否定されたように感じたに違いない。しかしながら最澄が率いた比叡山天台宗から、法然、親鸞、道元といった仏教を改革する人物が排出された事実は、歴史の物語るところである。

第1章はまだ続きますが、私の心に残ったのは最澄と空海の対比での利他です。私なりにこれを、次回で整理してみたいと思います。 ~次回に続く~
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

利他という考え方(その1)

2022年06月11日 01時06分03秒 | Weblog
前回“企業と人材”のテーマで、わが社の社訓についてお話しした際、自分も他人も(自・他は)どこかで繋がってる中で、利他が大事だとお伝えました。しかし私自身、なかなか簡単に利他的に生きられないことも自覚しています。この利他の言葉は仏教に由来しているようで、また解釈も難しいのではないでしょうか。利他について、再度取り挙げます。

この機会に、利他を大事にする“良樹細根”と“蓮華泥中”を、どうしてわが社の社訓としたのかの経緯について話してみます。この二つは、私が過去の勉強会で学び、心に響いた言葉を取り入れ、わが社のものとすべく作り直してきたと、既にお伝えしました。導入の経緯を伝えるとともに、改めて二つの言葉の本来の由来も確認してみました。 

先ず良樹細根です。カー用品を扱うイエローハットの創業者、鍵山秀三郎氏が提唱していた言葉です。創業当時荒んでいた社員の心を穏やかにしたいと、社長自ら態度で示す方法として素手でトイレ掃除を始めます。あてつけがましいと社員の反発にあい、自発的に社員が手伝うようになるのは10年が経過。早朝から自社の車を洗車したり近隣道路を清掃したり、社内に定着するのは更に長年月を要します。これが世間の評判を呼び、後に「日本を美しくする会・掃除に学ぶ会」が創設されます。

今から25年前、私と弟はイエローハットの本社で行われた、トイレ掃除研修に参加しました。研修の後、鍵山社長からの講義も受けました。帰る際、駐車場に止めていた私達の車は、社員の手によって洗車されピカピカになっていました。以来、目立たず地道な努力をする良樹細根が社訓となり、働く社員の環境を自ら整える5Sのルーツともなりました。本来の由来を調べると、中国の思想家荘子が、「良樹細根、高樹深根」という言葉を残しています。いうまでもなく、良い樹には細やかな根がはり、高い樹には深い根がはっているという意味です。

次に蓮華泥中です。私の中で出所が明確ではありません。どこかの勉強会で耳にし、違うセミナーなどで同様の話を聞いて、心に残ったものです。当初経営計画書では、「泥の中にも蓮の華」と表現していました。わが社は鋼板素材販売では後発で、端板からスタートし一級品を扱ったのは昭和50年代半ばです。バブルが崩壊し、販売先の溶断加工業界が成熟から衰退期に入ります。素材販売の同業社には、自社だけよければと市況を乱し、安値先行で売り上げを確保する会社も出てきました。

理想論だけで会社は成り立ちませんが、同業他社の乱売にまみれたらわが社の行く末は無く、確かな指針を模索していました。そのような中、「泥の中にも蓮の華」の言葉に出逢いました。調べてみると、お経に「不染世間法、如蓮華在水」という言葉があることを知ります。「世の中の色々な悪法、誘惑、汚いものなどに染まらないで、蓮華がその汚い泥の中に在るがごとく」という意味でした。不染世間法・如蓮華在水は、日蓮の法華経の講義を弟子が筆録した中にあるとされています。

さて本題の話しです。最近、“利他の精神で生きる”と題した新聞のコラムを読みました。「他者なくして存在し得ない自分、鍵はつながりと弱さ」「温かい言葉をかけてみませんか」との、サブタイトルです。批評家の若松英輔という方が書かれたもの。東京工業大学教授で、宗教や哲学などをテーマに幅広い評論活動を続けていて、先月「はじめての利他学」を発刊された方とあります。以下、その記事の主旨です。

利他は、他者のために行動するということだけではなく、自分も他の人がいなければ存在し得ないという現実を、自覚するところに原点がある。コロナ禍をきっかけに広がった面はあるが、日本では約1200年も前から使われている古い言葉である。競争社会では、暗黙のうちに誰かを蹴落とそうとしている。そうした出口がない状況で待ち望まれた言葉ではないか。利他とは何かを考えるとき、鍵になるのは「つながり」と「弱さ」。大学で若者と接して気付くのは、様々な弱い立場の人のことを考えるのが難しくなっている。頑張れない人に原因があるという自己責任論が深く浸透している。しかし、じっくり対話をすれば若者は変わっていく。「自身は心身ともに強くとも、大事な人が弱い立場になれば、君もまた弱くなるかもしれない」と伝えると、「自分は自力で存在しているのではなく、人とのつながりのなかに生きているんだ」と素朴な事実に気付き、ドキッとしたような実に強い反応が学生たちからあった。しかしながら、他者の視座に立ち続けるのも、利他を実践するのも普通の人には容易ではない。日頃意識していなかった他者とのつながりのなかに自己を見つめ直しつつ、一日のある瞬間、どんな短い間でも利他になればよいのではないか。利他的な人生ではなく、利他的な瞬間を生きることでもある。

おおよその内容は以上でしたが、正直理解できない部分もありました。氏の著書「はじめての利他学」を、読んでみることにしました。  〜次回に続く〜
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

企業と人材(その5)

2022年06月04日 06時02分10秒 | Weblog
わが社の毎年作成する経営計画書には、経営理念があり、社訓があり、ビジョンがあります。この順序となっています。前回までで、先にビジョンの話しとなり、次に経営理念の話しとなってしまいました。今回はわが社の社訓についてふれ、本テーマを終えたいと思います。

わが社の社訓に入る前に、社訓と社是の違いは何かについてです。明確にするために調べてみました。それによりますと、社是とは会社が正しいとする経営指針、社訓とは働く社員の守るべき教訓。その違いは主語にあり、社是の主語は会社であり、社訓の主語は社員である。社訓は社員だけに示す教訓なので対外的なものではなく、対して社是は企業が掲げる経営方針なので対外的にも示すものである。と、ありました。

私の解釈ですが、社是と経営理念はほぼイコールでいいのではないかと思います。また社訓は、教訓とか守るべき何々とすると硬くなってしまいますので、「社員としての心構え」「なって欲しい社員の理想像」の表現に留めたいと考えます。仕事上で、何か迷った時の行動の規範となるもの、軸がブレてしまった時の判断の基準となるもの。社員にはそのように、受け止めてもらえればと思っています。

それでは、わが社の社訓です。“良樹細根(りょうじゅさいこん)”と“蓮華泥中(れんげでいちゅう)”です。意味についてはこの後説明しますが、この二つは、私が過去の勉強会やセミナーなどで学んで、心に響いた言葉を取り入れ、わが社のものとすべく何度も作り直してきました。経営者も準ずるものとして、長く社内で掲げてきた心構えです。後継の社長にも、ここ数カ月時間をかけ、継承するかどうか自問自答してもらいました。

“良樹細根”とは、「細根があっての良樹」とのことで、大樹には細かい根がしっかりと支えているとの意味です。つまり主旨は、「人の目には見えない部分が大事である」です。地上に出ている木は立派であれば注目されますが、強風で倒れないのも地中の根が支えているからで、それは人目につくことはありません。私達の努力も普段人目にはさらされません。しかし楽をして手抜きをすれば、いずれ会社はおかしくなり、倒れてしまいます。お客様が評価して下さる商品とサービスを提供するなら、揺るぎない土台作りが必要です。継続は力なり。自分を極める為に、正しい事を日々コツコツと積み重ねる、自己研鑚の精神です。 

“蓮華泥中”とは、「泥の中にも蓮の華」とのことで、泥水の中にあっても綺麗な花を咲かせているとの意味です。つまり主旨は、「人の目に映る部分が大事である」です。汚い水を吸っても蓮は自ら浄化して、水面上の花は毅然として清純です。正に清濁併せのむ姿です。自らの努力を怠り、出来ないことや失敗したことを、私達は往々にして他人のせいにして言い訳をします。また泥の中には養分があり、それを選り分け吸収するかです。他者と自分は繋がっていて、人の器量とは、自分より他者の立場に立てるかです。自分の利益より、先ず他者の為にいかに尽くせるかが大切です。感謝の気持ちを忘れない、忘己利他の精神です。

良樹も蓮華もどちらも一体のものですが、地面と水面にさえぎられて、上下を分けてしまい、私達は隠れているものを見ようとしません。一体のものは、部分で役割は違えども、分離はなく、大自然の摂理に従って生きているだけです。私達はその自然の理から、何を学べるかではないでしょか。他人も自分も、つまり自・他はどこかで繋がっています。片面だけに目を奪われれば、本質は分かりません。わが社の社訓は社員の心構えです。強制的なものではなく、あくまでも理想の姿の明示です。

会社の経営理念と社訓をしっかり伝えた上で、後は社員個々の意志や行動です。経営理念と社訓によって、ビジョンも造られると思います。ビジョンは各部門で、わが社のオリジナリティが出せる未来像です。このビジョンが明確になれば、後はその部門を担っている個人の目標となります。それはマイ・パーパスやエンゲージメントまでリンクしていれば、なお会社は盤石なものとなります。

企業と人材のテーマで書き出した当初は、わが社の社訓まで披露するとは考えていませんでした。話の流れで、書いた方が理解してもらえるとの思いで開示しました。ここで明言してしまうことの、後がないプレッシャーも感じています。人材の成長が企業の発展に繋がることを願って、このテーマを終わります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする