「内容が難しい!」と、前回のブログを読んだ妻に言われました。1200年も前の仏教に関することで、現代人にとって親しみのない「利他」がテーマで、人が書いた本を要約しようとしたので、そうだったのかもしれません。その反省も踏まえ今回は私なりに整理して、自分で調べたことも加味して、まとめました。
日本的利他の起源は仏教であったことは事実です。利他という言葉を使いその教理を実践しようとしたことは、空海と最澄であることも歴史に刻まれています。二人の仏教は平安仏教です。それ以前の奈良仏教は、中国伝来の仏教そのものの導入で、どちらかというと為政者が国を治めるためのものでした。それに対し空海と最澄に代表される平安仏教は、原理や経典は中国のものでしたが、一般衆生を救おうとしたことに大きな改革がみられます。衆生を救う目的の利他であり、空海は「自利利他」であり最澄は「忘己利他」を唱えました。
もう一度、「はじめての利他学」を著わした若松英輔氏の日本的利他の解釈です。西洋思想にある利他的な言葉は「愛他」であるが、「利己主義」(エゴイズム)の対義語として派生したものであり、日本の利他とは全く違う。愛他の思想は、自と他が別々の二者で分かれている。その自が他の立場に立って、相手本位になろうとするあり方や生き方なのだ。一方日本の利他の思想は、自と他が一体である。自利から入ろうが、忘己から入ろうが、目指すところは利他、唯一無二の自分と他者である。若松氏の論調でした。
やはり、西洋思想と仏教思想とは根本的に違います。私は、日本的利他が西洋的愛他を包括しているように思えます。愛他の対局の利己は、自分が強過ぎるがための利己であり、それを省みる他者への愛です。利他の対局には、強過ぎる利己の姿はみえません。最澄は、困難は自分に、喜びは他者へ、忘己による利他はこの上ない仏心 (慈悲)であるとしました。空海は、仏の教えは二利に尽き、一つは永遠の安楽をのぞむ自利、もう一つはこの世の苦しみの原因を取り除くことを利他としました。空海の自利は、自分の利得との意味ではなく、自分を極めることでした。
最澄は、「自分を忘れる」ことに利他とは何かを考えるところに力点を置いた。空海は、「自他ともに」というところに力点を定めた。これを再認識したいと思います。最澄は己を忘れ他者を第一に、空海は自己を極めることと他者の救済は一つであるとし、二人は共に仏心で世の中の衆生を救いたいと願ったのです。仏教において「利」とは、対象がどうあれ、よいことをする営みを意味していました。
そもそも今回のテーマは、わが社の社訓が、自分も他人も繋がっていて利他を大事に、とのことから取り挙げました。その社訓は“蓮華泥中”と“良樹細根”でした。私が書いたブログ「企業と人材(その5)」で、その二つを次のように紹介しました。“蓮華泥中”とは、「人の目に映る部分が大事である」とのことで、汚い水を吸っても自ら浄化して毅然としている、人の器量とは自分より他者の立場に立てるかどうか、感謝の気持ちを忘れない、忘己利他の精神である。“良樹細根”とは、「人の目には見えない部分が大事である」とのことで、私達の努力も普段人目にはさらされず、継続は力なり、自分を極める為に、正しい事を日々コツコツと積み重ねる、自己研鑚の精神である。そのように表現しました。
こう書いた後で、若松氏の「はじめての利他学」を読み、最澄は己を忘れ他者を第一に、空海は自己を極めることと他者の救済は一つ、を知りました。わが社で、“蓮華泥中”は忘己利他の精神、“良樹細根”は自己研鑚の精神、と解釈したのが奇しくも最澄と空海に繋がっていました。気宇壮大な仏教を社訓に取り入れていた重さをことさら感じます。
利他という考え方が分かっても、それでも利他の実践は難しく、忘己といわれても消滅しない自分があります。それに対して、若松氏の著書「はじめての利他学」の第4章:利他のための自己愛、にヒントがありました。利他が生まれるためには「愛」の力が必要である。それも自己愛である。自己愛は利己的な営みではない。利己的な人は他人を愛せないが自分も愛せない。利他には等しさが必要で、他者を愛するように自分を愛し信じることが大切。自分自身が唯一無二の存在であると認められれば、人は、他者もまた唯一無二の存在が理解できる。このような主旨となります。
「受け入れ難い自分も受け止める」、ここからの出直しであると思います。
日本的利他の起源は仏教であったことは事実です。利他という言葉を使いその教理を実践しようとしたことは、空海と最澄であることも歴史に刻まれています。二人の仏教は平安仏教です。それ以前の奈良仏教は、中国伝来の仏教そのものの導入で、どちらかというと為政者が国を治めるためのものでした。それに対し空海と最澄に代表される平安仏教は、原理や経典は中国のものでしたが、一般衆生を救おうとしたことに大きな改革がみられます。衆生を救う目的の利他であり、空海は「自利利他」であり最澄は「忘己利他」を唱えました。
もう一度、「はじめての利他学」を著わした若松英輔氏の日本的利他の解釈です。西洋思想にある利他的な言葉は「愛他」であるが、「利己主義」(エゴイズム)の対義語として派生したものであり、日本の利他とは全く違う。愛他の思想は、自と他が別々の二者で分かれている。その自が他の立場に立って、相手本位になろうとするあり方や生き方なのだ。一方日本の利他の思想は、自と他が一体である。自利から入ろうが、忘己から入ろうが、目指すところは利他、唯一無二の自分と他者である。若松氏の論調でした。
やはり、西洋思想と仏教思想とは根本的に違います。私は、日本的利他が西洋的愛他を包括しているように思えます。愛他の対局の利己は、自分が強過ぎるがための利己であり、それを省みる他者への愛です。利他の対局には、強過ぎる利己の姿はみえません。最澄は、困難は自分に、喜びは他者へ、忘己による利他はこの上ない仏心 (慈悲)であるとしました。空海は、仏の教えは二利に尽き、一つは永遠の安楽をのぞむ自利、もう一つはこの世の苦しみの原因を取り除くことを利他としました。空海の自利は、自分の利得との意味ではなく、自分を極めることでした。
最澄は、「自分を忘れる」ことに利他とは何かを考えるところに力点を置いた。空海は、「自他ともに」というところに力点を定めた。これを再認識したいと思います。最澄は己を忘れ他者を第一に、空海は自己を極めることと他者の救済は一つであるとし、二人は共に仏心で世の中の衆生を救いたいと願ったのです。仏教において「利」とは、対象がどうあれ、よいことをする営みを意味していました。
そもそも今回のテーマは、わが社の社訓が、自分も他人も繋がっていて利他を大事に、とのことから取り挙げました。その社訓は“蓮華泥中”と“良樹細根”でした。私が書いたブログ「企業と人材(その5)」で、その二つを次のように紹介しました。“蓮華泥中”とは、「人の目に映る部分が大事である」とのことで、汚い水を吸っても自ら浄化して毅然としている、人の器量とは自分より他者の立場に立てるかどうか、感謝の気持ちを忘れない、忘己利他の精神である。“良樹細根”とは、「人の目には見えない部分が大事である」とのことで、私達の努力も普段人目にはさらされず、継続は力なり、自分を極める為に、正しい事を日々コツコツと積み重ねる、自己研鑚の精神である。そのように表現しました。
こう書いた後で、若松氏の「はじめての利他学」を読み、最澄は己を忘れ他者を第一に、空海は自己を極めることと他者の救済は一つ、を知りました。わが社で、“蓮華泥中”は忘己利他の精神、“良樹細根”は自己研鑚の精神、と解釈したのが奇しくも最澄と空海に繋がっていました。気宇壮大な仏教を社訓に取り入れていた重さをことさら感じます。
利他という考え方が分かっても、それでも利他の実践は難しく、忘己といわれても消滅しない自分があります。それに対して、若松氏の著書「はじめての利他学」の第4章:利他のための自己愛、にヒントがありました。利他が生まれるためには「愛」の力が必要である。それも自己愛である。自己愛は利己的な営みではない。利己的な人は他人を愛せないが自分も愛せない。利他には等しさが必要で、他者を愛するように自分を愛し信じることが大切。自分自身が唯一無二の存在であると認められれば、人は、他者もまた唯一無二の存在が理解できる。このような主旨となります。
「受け入れ難い自分も受け止める」、ここからの出直しであると思います。