『亡くなった人と話しませんか』の本を読みました。著者の名前は「サトミ」とあり、「母子共に命が助からないかもしれないと言われるほどの大難産の末この世に生を享け、その後数奇な道を歩み現在はスピリチュアル・テラーとして活躍」これが略歴です。
テラーとは「届ける人」の意味です。相談者から依頼があると、対面して亡くなった人などから届く言葉やメッセージを伝えたりしている女性のようです。私の先入観や固定観念は捨てて読んでみました。本の主旨は、「死者は存在する、死者と話せる」でした。
死後(あの世)の世界はシンプルに言うと次に生まれ変わるまでを過ごすための場所。亡くなった人たちは、先ず成仏した人と成仏していない人と分かれる。あの世に行けるのは成仏した人だけ。成仏していない人は現世でもあの世でもないところをさまよう。その人たちは死を受け入れられず現世に未練や執着がありすぎあの世へ行くことを拒む人。
あの世は天国と地獄のようなところとに分かれる。成仏した人はそのどちらかに行く。そして天国に行った人は次に生まれ変わるための準備ができる。生まれ変われるのは 現世で徳を積んだ人また現世に学ぶべきことがある人。死んでも魂はそのまま残り今の人生を諦めずに精一杯生きないと生まれ変わってもまた同じ人生が続いてしまう。
著者の「死者とあの世」のイメージは、このようなものでした。多くの相談者のケースを交え、亡くなった人と話せることを本の中で伝えています。しかし亡くなった人と話せるチャンスは一度きり。何度も話せるとしたら残された人は過去(故人)に縛られるし、あの世にいる人も未来に向って進んでいるので、それを遮ってしまうからと説明します。
私はこの本の内容については否定しません。私には見えない・感じないだけかもしれません。信じている人がいることを容認しようと思います。信じる者は救われる、宗教の世界かもしれません。そのような解釈をすれば、迷いや惑いが無くなる事も私の経験則でもあります。
「宗教は壮大な喩え(たとえ)話!」とおっしゃる方がいます。「そのままではにわかに信じ難い絵空事のような表現も、それを現実の比喩として紐解いてゆくと、現実に起こりうる事象と思えることがままある」と話されます。少なくとも長年月を経て現存する世界的な宗教は、死や死後の世界について一つの明確な答を示しています。
サトミ氏の本に戻ります。死んでも魂はそのまま残り今の人生を精一杯生きないと、生まれ変わっても同じ人生が続いてしまう。そのように氏が言ったことは既に伝えましたが、「何かを変えたいと思うなら、行動すべきは“この今”なのです」と、その後に書いています。
同じことを言っている方がいます。前回のブログで紹介しました、『もしも一年後、この世にいないとしたら』を著した、精神科医の清水氏です。癌と対峙した多くの患者さんから、「死を見つめることは、どう今を生きるかである」が何よりも大切だと学んだ方です。「行動すべきはこの今」と「どう今を生きるか」。死を前にして、お二人の考えは全く一致しています。
またサトミ氏は、病気についてこのようなことを話されています。病気だけをみて治そうとするのではなく、病気はこれまでの人生と向き合う絶好のチャンスを与えてくれているのではないか。伴侶が不治の病になったとしても、あらためて家族がどうあるべきか気付かされ、濃密な時間が過ごせれば幸せだったのではないか。
清水氏は、「癌は家族が第二の患者」と表現します。誰よりも親しい家族が癌になると家族も同じ苦しみを味わうが、互いに新しい価値観を見出せるチャンスがあるとの意味です。スピリチュアルと医療(科学)の世界に生きている、別の二人がここでも共通点がありました。
宗教は信じることで真理を求めたことに対して、科学は徹底して疑い法則を求めたものです。この現代の科学の分野で、“死という永遠の終わりが遠のく”可能性が書かれている記事を最近読みました。 ~次回に続く~
テラーとは「届ける人」の意味です。相談者から依頼があると、対面して亡くなった人などから届く言葉やメッセージを伝えたりしている女性のようです。私の先入観や固定観念は捨てて読んでみました。本の主旨は、「死者は存在する、死者と話せる」でした。
死後(あの世)の世界はシンプルに言うと次に生まれ変わるまでを過ごすための場所。亡くなった人たちは、先ず成仏した人と成仏していない人と分かれる。あの世に行けるのは成仏した人だけ。成仏していない人は現世でもあの世でもないところをさまよう。その人たちは死を受け入れられず現世に未練や執着がありすぎあの世へ行くことを拒む人。
あの世は天国と地獄のようなところとに分かれる。成仏した人はそのどちらかに行く。そして天国に行った人は次に生まれ変わるための準備ができる。生まれ変われるのは 現世で徳を積んだ人また現世に学ぶべきことがある人。死んでも魂はそのまま残り今の人生を諦めずに精一杯生きないと生まれ変わってもまた同じ人生が続いてしまう。
著者の「死者とあの世」のイメージは、このようなものでした。多くの相談者のケースを交え、亡くなった人と話せることを本の中で伝えています。しかし亡くなった人と話せるチャンスは一度きり。何度も話せるとしたら残された人は過去(故人)に縛られるし、あの世にいる人も未来に向って進んでいるので、それを遮ってしまうからと説明します。
私はこの本の内容については否定しません。私には見えない・感じないだけかもしれません。信じている人がいることを容認しようと思います。信じる者は救われる、宗教の世界かもしれません。そのような解釈をすれば、迷いや惑いが無くなる事も私の経験則でもあります。
「宗教は壮大な喩え(たとえ)話!」とおっしゃる方がいます。「そのままではにわかに信じ難い絵空事のような表現も、それを現実の比喩として紐解いてゆくと、現実に起こりうる事象と思えることがままある」と話されます。少なくとも長年月を経て現存する世界的な宗教は、死や死後の世界について一つの明確な答を示しています。
サトミ氏の本に戻ります。死んでも魂はそのまま残り今の人生を精一杯生きないと、生まれ変わっても同じ人生が続いてしまう。そのように氏が言ったことは既に伝えましたが、「何かを変えたいと思うなら、行動すべきは“この今”なのです」と、その後に書いています。
同じことを言っている方がいます。前回のブログで紹介しました、『もしも一年後、この世にいないとしたら』を著した、精神科医の清水氏です。癌と対峙した多くの患者さんから、「死を見つめることは、どう今を生きるかである」が何よりも大切だと学んだ方です。「行動すべきはこの今」と「どう今を生きるか」。死を前にして、お二人の考えは全く一致しています。
またサトミ氏は、病気についてこのようなことを話されています。病気だけをみて治そうとするのではなく、病気はこれまでの人生と向き合う絶好のチャンスを与えてくれているのではないか。伴侶が不治の病になったとしても、あらためて家族がどうあるべきか気付かされ、濃密な時間が過ごせれば幸せだったのではないか。
清水氏は、「癌は家族が第二の患者」と表現します。誰よりも親しい家族が癌になると家族も同じ苦しみを味わうが、互いに新しい価値観を見出せるチャンスがあるとの意味です。スピリチュアルと医療(科学)の世界に生きている、別の二人がここでも共通点がありました。
宗教は信じることで真理を求めたことに対して、科学は徹底して疑い法則を求めたものです。この現代の科学の分野で、“死という永遠の終わりが遠のく”可能性が書かれている記事を最近読みました。 ~次回に続く~