梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

元役員との邂逅(その1)

2018年03月31日 05時47分38秒 | Weblog
「これは梶社長の宿業です」、「この試練を乗越えれば後々活かされます」。今から16年ほど前、わが社がある取引先に多額の不良債権を抱えた直後、自分を見失いかけて、私はこの出来事をどう捉えたらよいかの問いに、投げ掛けられた言葉です。

当時わが社は鋼板販売専業で、その取引先である溶断加工業者への売上げは、全体の約15%を占めました。会社は墨田区の街中にあり狭い工場には在庫スペースが無く、その会社が鉄鋼メーカーにひも付き注文した材料を、わが社は江戸川区葛西の自社倉庫に一旦入れて、伝票上では売上げを立て、日々切断する材料だけをその会社に搬送していました。

その会社は千葉県の八街にもう一つの工場を所有していました。建築関係の仕事が中心で、使用する材料はユーザーからの支給材でしたので、わが社は八街の工場へは材料を販売はしていませんでした。墨田区の工場が手狭で、近隣へは騒音や振動が気になる街中であり、将来的にはその八街へ集約する計画がありました。

隅田区の工場へは、わが社の補完機能がありましたので、そこで使用する材料のほぼ全量を販売していました。手形決済販売で、月々使用する材料の二か月分は常にわが社で保管・販売していましたので、債権額としてはわが社の当時の月商に匹敵しました。そして突然、手形決済日の二日前、経営者から手形が落とせないとの連絡が入りました。

わが社のメインの販売先であり、破綻をすれば回収不能の負債も抱えるので、経営支援の申し出もしましたが、二転三転した挙句、決済日に手形は不渡りとなりました。経営者は以前より溶断業の先行きを悲観していました。会社自体の脆弱な財務も否めず、決済不能を直前に告知してきたことを推察すると、計画倒産と考えられました。

冒頭で引用したものは、その事件の3年まえに入社して、後にわが社の役員(常務)になってもらった方の言葉です。その会社は結局、二回の不渡りを出して実質破綻しました。常務と私はその直後、二日間墨田区の会社に行き、経営者に詰め寄って話し合いをしました。二日目の夕方わが社へ帰る車の中で、私は思わず常務にそのような問い掛けをしていました。

宿業とは、その事象に遭遇すべく持って生まれた私の運命であった。今回の試練は、私が代を引き継いで最大の試練であろうが、これを乗越えることが出来れば、それは貴重な経験となり後々梶哲商店に必ず活かされる。そのような説明を受けました。

常務は私より歳は九つ上で、わが社の仕入先の商社マンで、長年わが社の担当者でした。50歳半ばで関連会社に出向となり、その後早期退職をされて、そして縁がありわが社に入社することになります。担当者の時から、色々なアドバイスや示唆を受けました。商社で長年鉄を扱ってきており、素材販売や溶断加工においても熟知して、会社経営や経営者とはについても洞察力は鋭く、人生経験も豊かでした。

そのような常務でしたので、破綻した会社を、約一週間の期間で精査してもらうことしました。わが社が経営を引き継いで存続は可能か、切捨てて損害を覚悟するのか。そしてわが社は、ある決断をすることになります。

その過去の出来事が、つい最近のように想い出されます。先週の3月21日の夕刻、その元役員が亡くなられたと、奥様から電話で知らせをもらいました。わが社を退職されて10年の歳月が経過していました。
~次回に続く~
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小泉元総理

2018年03月24日 06時21分36秒 | Weblog
“日本の進むべき道”と題した講演会が、新宿の紀伊國屋サザンシアターでありました。一週間前にそのシアターで演劇を観賞した際、フロアに掲示してあったそのポスターを見て、その講演を是非聴きたいと申し込みました。

それは小泉純一郎元総理の講演で、集英社から出された本『決断のとき-トモダチ作戦と涙の基金』の刊行記念を兼ねたもので、開催された日は3月9日。二日後は東日本大震災の、七年目を迎えようとしているタイミングのものでした。

七年前の3月11日、アメリカの空母ロナルド・レーガンは日本の東方約1500kmの海を航海して、韓国軍との共同軍事演習のため朝鮮半島沖に向かっていました。同日東日本大震災が起こり、空母は急遽トモダチ作戦に合流するため東北沖に針路を変更し、被災地での救援活動に従事します。ここまでは、我々日本人も周知の事実です。

この作戦に参加した空母の米兵がその後帰国しますが、年月が経つにつれて体の異常を訴えます。体の色々な部分が傷み、出血し、勤務に支障をきたし除隊します。福島県沖でメルトダウンした東電原発の放射能を浴びて、健康被害を受けたのです。

しかしはっきりとした医学的因果関係が証明されず、母国から医療費すら補償されず、作戦時放射能の危険性が正しく伝わらなかったと、東電や原発のプラント建設に関与した日米の企業を相手取り、サンディエゴ(米海軍の基地の街)連邦地裁で集団訴訟を起こします。

この裁判を支援するアメリカ人とある人を介して日本で出逢い、もとより義理人情に厚い小泉氏は強い関心を抱き、5年後サンディエゴで被害を受けた米兵12名と面会します。この直後現地で涙を流した小泉氏の記者会見で、米兵に被害者がいたことが、多くの日本人にも知れ渡ることになります。この段階で死者が10名近く、異常を訴え普通の生活に戻れない元米兵は300名近くに及んでいました。

そして小泉氏は「トモダチ作戦被害者支援基金」を設立。訪米からわずか一ヵ月半のことでした。そして国内で募金活動に専念します。目標額は一億円。講演を中心に基金を募りますが、最初は遅々として進まないものが、政界や財界に頼らず最後は尻上がりで三億円に達します。

このようなことを通して、徹底して小泉氏は原発を勉強されます。政界引退後、悠々自適の生活を望んでいたそうですが、これを切っ掛けに細川護熙元総理と共に、世間に“原発ゼロ”を強く訴えます。実は小泉氏は現役の時は原発推進派であったのです。その講演でも、深く反省し、過ちを修正されていました。

講演会の後、私はその本をいち早く買い求めました。変人と呼ばれた元総理の、36年7か月の政治遍歴をも辿ります。若き日の挫折、師匠や盟友との出逢いと別れ、総理の座から見えた景色、抵抗勢力との暗闘、そして家族の事など。決断のときに、つど小泉氏が貫いてきたものとは何か。喜寿を前にして世に問う、初の回想録です。

「過ちては改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」。本の中でも引用されていますが、孔子の『論語』にある格言で、小泉氏は好んでこの言葉を使われています。今回私が一番感動したのは、ご自身の過去の過ちを素直に認め、変貌されている小泉元総理の歳を感じさせない御姿でした。


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後継者未定(その3)

2018年03月17日 09時58分50秒 | Weblog
たまたま、関満博(せき・みつひろ)という方が書かれたものを読みました。今回のテーマに相応しく、“中小企業の競争力”と題して、中小企業それも製造業を中心に長年調査し研究した、小論文的なものでした。関氏は明星大学経済学部の教授です。

専門は産業論、中小企業論、地域経済論。現場主義を標榜し「日本の製造業が危ない、体系だった後継者育成をしなければならない」と、何年も前から全国の工業集積地などで私塾を展開。現在では13の都市・地域で塾が動いている。教授のプロフィールです。

このブログのテーマの初回、「国内の全事業所では、1991年の655万件を頂点に2016年に約2割減り、中でも製造業は1986年の87万件のピークから同じ2016年には半減した」と記しました。しかし半減どころではない製造業があると、関教授は指摘します。 

それはアパレル産業だと。アパレルはニット生地の縫製が主体で、戦後工程の分業を徹底した生産システムにより日本の縫製業は世界的な生産力を形成し、特に対米輸出の担い手の一つになった。ただし70年代以降の円高で対米は一気に消滅。更に90年代中ごろに、低賃金労働力を求める中国移管が進んだ。

東京ニットファッション工業組合の前身は80年代組合員数が3千を数えたが、現在380社に減った。製造が縮小すると関連産業も多大な影響を受け、特に染色は下請け仕事であり一気に仕事を失う。80年代糸染色主体の工場は全国に約1100工場あったが、現在は77工場しかない。半減どころではない。仕事も最盛期の3%以下、廃業が重なる。

日本産業の変化の先端にあるアパレルで、継承、あるいは新規参入はあるのか。この問いに関教授は答えます。一つは高級品・少量生産に向かい、デザイン力と自前の工場が差別化されていて、ブランドを生み出す。また、この20年ほどの間に「第三者検品機関」という全く新しい領域が登場した。後継者が育つにしても、これがヒントだと。

縫製は90年代に日本から中国に大量進出したが、これに刺激された中国企業は、自国で壮大な生産力を築く。しかし00年代中ごろ中国の人件費が上がり、中国企業はベトナムへ進出するも、その後ベトナムとの政治問題もありミヤンマーに転進していく。

このようにアジアに縫製は移管されたが、不良品の多さに困惑した。当初は縫製企業が検品に取り組んだが十分ではなく、アジア、中国製品は全て第三者検品機関を通すことが必須になった。日本の企業でも縫製から撤退し、この業務を専門にする会社がある。

縮小する事業を抱えた継承の現場では、家族や親族以外に後継者を期待することは考えにくい、と関教授は明言します。しかし中小企業であっても長年築き上げた実績と信頼は貴重な資産であり、継承にあたってはこれをベースに、新たな領域を切り開く努力は怠ってはいけないと断言されます。

この30年の間に、アパレルの国内生産は3%になったといわれます。アパレルからすれば我々の国内鉄鋼流通加工は、まだまだ恵まれています。しかし鉄鋼においても、少なくとも従来事業のままでは将来を期待できません。慢心せず、後継者を見据え、事業を継承していかなくてはなりません。
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後継者未定(その2)

2018年03月10日 09時47分16秒 | Weblog
一週間前の金曜日のこと、鉄鋼業界の会社でその創業者の方が亡くなられて、通夜が上野でありました。家内からその日の夕食はどうするかと聞かれ、「通夜の席で誰かから誘われれば一緒に食事するけれど、それがなければ自宅に戻って食事するかもしれない」と、伝えました。

すると家内からは、できればはっきりして欲しいとの要請でしたので、「では、いずれにせよ外で食事をするから」と返答しました。結局通夜では誰からも誘われず、何処で食べるかはさておき、上野から京成電車で自宅の近くまで向うことにしました。

そして思い出しました。帰る途中に在る高砂駅の、直ぐ近く線路沿いに、前から入ってみたい居酒屋があることを。大きな白い暖簾に“大衆酒場”と書かれていて、電車の中からもよく見える店です。大衆酒場とは何と懐かしく、心惹かれるものがありましたので、そこに行くことに決めました。

初めての店に、それも一人で入るのは勇気が要るものです。暖簾をくぐって、引き戸を開けて中に入りました。L字カウンターとはいえ、手前は2~3人しか座れず、奥行きが長く、全部で20名くらいは座れるでしょうか。空いている席は、ど真ん中の一席のみです。因みに、2階は座敷のようです。

店の人に勧められるまま、その席に座りました。右隣は中年のサラリーマン風の男性二人組み、左隣は若い男性一人。注文した飲み物が出てきて落ち着くと、常連客ばかりのようで、中の作りも老舗を感じさせますが、唯一ミスマッチなのが若い女性3名がカウンター内にいて注文を取っている、そのようなことがようやく見えてきました。
 
そのガールズバーまがいの女性と、左隣の若い男性が時たま会話をしています。男性の顔をまじまじと見られませんので、その会話をそれとなく聞いていると、しっかりした受け答えをしています。「若いのに毎晩入り浸っている?」、その先入観を捨てました。

おおよそ一時間が過ぎ、帰ろうかなと思いつつも、思い切ってその隣の男性に声を掛けてみました。意気投合して、私もお酒を追加注文して、あっという間に約40分が経過してしまいました。以下が、彼から聞いた内容です。

37歳独身で、墨田区八広に父親の工場があって、彼はそこを手伝っている。仕事内容は金属のプレス加工、向け先は主に高級口紅の容器だとのこと。一旦社会人になって他の仕事に就いたが、後に父親の会社に入ったそうです。

最盛期の父親会社は社員も多くいて、その容器がプラスチックに変わりだしてから仕事は激減したが、今は少量だが高級品に特化している。「プラスチックのメッキはいずれ剥げる。金属の良さをもっと世間に知ってもらいたい」と彼が語る時、実に良い顔をしていて目が輝いていました。

実はこのテーマで前回書き、一回限りで終わりにしようとしたのですが、彼と出逢って書き続けることにしました。前回「後継者がいない、悩む中小」「70歳以上経営者の半数が後継者未定」と書かれている、新聞の記事を紹介しました。

彼の父親も恐らく70歳近いのでしょうが、息子が後継者として存在ししっかり育っています。先日超有名な化粧品会社に、納めている元請の要請で、金属の凄さをプレゼンテーションしてきたと、彼は話していました。彼の代で、金属プレスの良さを、更に進化させていくことでしょう。
~次回に続く~
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後継者未定

2018年03月03日 09時37分22秒 | Weblog
「後継者がいない、悩む中小」「70歳以上経営者の半数が後継者未定」、このような題目が並びます。「日本の企業数の99%を占める中小企業の多くが廃業の危機に立たされている」「このままでは約22兆円の国内総生産が失われる恐れがあり、日本経済は大廃業時代に足を踏み入れつつある」、最近目にした新聞記事です。

1985年のプラザ合意の頃から事業所の減少が著しく、全事業所では1991年の約655万件を頂点に、2016年には18.3%減の約535万件になったとのこと。中でも製造業の減少は劇的で、1986年の87万件のピークから同じく2016年には45万件と、半減したと言われます。

我々の鉄鋼加工業も製造業の範疇に入ると思われますが、この20年の間でも廃業や倒産の会社が後を絶ちません。わが社の取引先においても、その間廃業した会社は15社近くに及びます。主な廃業の理由は、やはり後継者問題でした。

その記事には、高齢化経営者の後継者問題を解決するために、国や自治体そして商工会議所や金融機関などがタッグを組んで、M&A(合併・買収)が成功した実例が挙げられています。しかし一般の企業においても条件が揃ってスムーズに運ぶのは数えるほどで、ましてや殆ど新規参入がない鉄鋼加工業において、M&Aは極希なケースといえます。

高齢化した経営者に後継者が何故いないのか。その理由を、少し酷な表現になるかもしれませんが、以下私なりに客観的に考えてみました。

今や人生100年時代に突入したと言われ、確かに70歳でも元気な方は多くいらっしゃいます。後継者問題は、いつまでにしなくてはならないとの期限がありませんので、自分はいつまでも元気だからと、判断や決断を先送りにしてしまっている。

足元の仕事はあるものの先は見えないので、将来ある若手を入れることは出来ない。先行き不安なので、設備投資にしても新たな事業展開にしても、中々改革が出来ない。そのうち社員も高齢化してしまい、社員の中にも事業継承させる者がいなくなってしまう。

家業的会社であって、社会的企業の域に達していない。長年の得意先に対する供給責任はこれからもあるが、時間と労力を必要とする後継者の育成まで手が回らない。自分の代まででいい、自身が食べていかれればそれでいいと、無意識に思っている。

経営者に息子がいたとしても自分の会社に入れて、後を継せる説得力(親の威光)を持たない。入ったとしても親子喧嘩などで不仲になって、会社から去ってしまう。会社を経営させ苦労させるならと配慮して、はなから無理に息子に継がせようとしない。

勿論、他にも理由は沢山あると思います。わが社に、身内の後継者がいるのかいないのか、いたとしても将来を全て保証するものではありませんので、敢えてこのようなことを書かせてもらいました。

国の調べでは、休廃業する企業の約半数が黒字だとのことです。にもかかわらず会社を残したくても、後継者を見つけられず廃業せざるを得ない深刻な事態が迫っています。

小さな会社でも、長年築き上げた実績と信頼は貴重な資産です。事業継承はその蓄積したベースを無駄にしないで、新たな可能性に向っていくことでもあり、その視点を忘れないようにしたいと思います。 ~次回に続く~
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