「これは梶社長の宿業です」、「この試練を乗越えれば後々活かされます」。今から16年ほど前、わが社がある取引先に多額の不良債権を抱えた直後、自分を見失いかけて、私はこの出来事をどう捉えたらよいかの問いに、投げ掛けられた言葉です。
当時わが社は鋼板販売専業で、その取引先である溶断加工業者への売上げは、全体の約15%を占めました。会社は墨田区の街中にあり狭い工場には在庫スペースが無く、その会社が鉄鋼メーカーにひも付き注文した材料を、わが社は江戸川区葛西の自社倉庫に一旦入れて、伝票上では売上げを立て、日々切断する材料だけをその会社に搬送していました。
その会社は千葉県の八街にもう一つの工場を所有していました。建築関係の仕事が中心で、使用する材料はユーザーからの支給材でしたので、わが社は八街の工場へは材料を販売はしていませんでした。墨田区の工場が手狭で、近隣へは騒音や振動が気になる街中であり、将来的にはその八街へ集約する計画がありました。
隅田区の工場へは、わが社の補完機能がありましたので、そこで使用する材料のほぼ全量を販売していました。手形決済販売で、月々使用する材料の二か月分は常にわが社で保管・販売していましたので、債権額としてはわが社の当時の月商に匹敵しました。そして突然、手形決済日の二日前、経営者から手形が落とせないとの連絡が入りました。
わが社のメインの販売先であり、破綻をすれば回収不能の負債も抱えるので、経営支援の申し出もしましたが、二転三転した挙句、決済日に手形は不渡りとなりました。経営者は以前より溶断業の先行きを悲観していました。会社自体の脆弱な財務も否めず、決済不能を直前に告知してきたことを推察すると、計画倒産と考えられました。
冒頭で引用したものは、その事件の3年まえに入社して、後にわが社の役員(常務)になってもらった方の言葉です。その会社は結局、二回の不渡りを出して実質破綻しました。常務と私はその直後、二日間墨田区の会社に行き、経営者に詰め寄って話し合いをしました。二日目の夕方わが社へ帰る車の中で、私は思わず常務にそのような問い掛けをしていました。
宿業とは、その事象に遭遇すべく持って生まれた私の運命であった。今回の試練は、私が代を引き継いで最大の試練であろうが、これを乗越えることが出来れば、それは貴重な経験となり後々梶哲商店に必ず活かされる。そのような説明を受けました。
常務は私より歳は九つ上で、わが社の仕入先の商社マンで、長年わが社の担当者でした。50歳半ばで関連会社に出向となり、その後早期退職をされて、そして縁がありわが社に入社することになります。担当者の時から、色々なアドバイスや示唆を受けました。商社で長年鉄を扱ってきており、素材販売や溶断加工においても熟知して、会社経営や経営者とはについても洞察力は鋭く、人生経験も豊かでした。
そのような常務でしたので、破綻した会社を、約一週間の期間で精査してもらうことしました。わが社が経営を引き継いで存続は可能か、切捨てて損害を覚悟するのか。そしてわが社は、ある決断をすることになります。
その過去の出来事が、つい最近のように想い出されます。先週の3月21日の夕刻、その元役員が亡くなられたと、奥様から電話で知らせをもらいました。わが社を退職されて10年の歳月が経過していました。
~次回に続く~
当時わが社は鋼板販売専業で、その取引先である溶断加工業者への売上げは、全体の約15%を占めました。会社は墨田区の街中にあり狭い工場には在庫スペースが無く、その会社が鉄鋼メーカーにひも付き注文した材料を、わが社は江戸川区葛西の自社倉庫に一旦入れて、伝票上では売上げを立て、日々切断する材料だけをその会社に搬送していました。
その会社は千葉県の八街にもう一つの工場を所有していました。建築関係の仕事が中心で、使用する材料はユーザーからの支給材でしたので、わが社は八街の工場へは材料を販売はしていませんでした。墨田区の工場が手狭で、近隣へは騒音や振動が気になる街中であり、将来的にはその八街へ集約する計画がありました。
隅田区の工場へは、わが社の補完機能がありましたので、そこで使用する材料のほぼ全量を販売していました。手形決済販売で、月々使用する材料の二か月分は常にわが社で保管・販売していましたので、債権額としてはわが社の当時の月商に匹敵しました。そして突然、手形決済日の二日前、経営者から手形が落とせないとの連絡が入りました。
わが社のメインの販売先であり、破綻をすれば回収不能の負債も抱えるので、経営支援の申し出もしましたが、二転三転した挙句、決済日に手形は不渡りとなりました。経営者は以前より溶断業の先行きを悲観していました。会社自体の脆弱な財務も否めず、決済不能を直前に告知してきたことを推察すると、計画倒産と考えられました。
冒頭で引用したものは、その事件の3年まえに入社して、後にわが社の役員(常務)になってもらった方の言葉です。その会社は結局、二回の不渡りを出して実質破綻しました。常務と私はその直後、二日間墨田区の会社に行き、経営者に詰め寄って話し合いをしました。二日目の夕方わが社へ帰る車の中で、私は思わず常務にそのような問い掛けをしていました。
宿業とは、その事象に遭遇すべく持って生まれた私の運命であった。今回の試練は、私が代を引き継いで最大の試練であろうが、これを乗越えることが出来れば、それは貴重な経験となり後々梶哲商店に必ず活かされる。そのような説明を受けました。
常務は私より歳は九つ上で、わが社の仕入先の商社マンで、長年わが社の担当者でした。50歳半ばで関連会社に出向となり、その後早期退職をされて、そして縁がありわが社に入社することになります。担当者の時から、色々なアドバイスや示唆を受けました。商社で長年鉄を扱ってきており、素材販売や溶断加工においても熟知して、会社経営や経営者とはについても洞察力は鋭く、人生経験も豊かでした。
そのような常務でしたので、破綻した会社を、約一週間の期間で精査してもらうことしました。わが社が経営を引き継いで存続は可能か、切捨てて損害を覚悟するのか。そしてわが社は、ある決断をすることになります。
その過去の出来事が、つい最近のように想い出されます。先週の3月21日の夕刻、その元役員が亡くなられたと、奥様から電話で知らせをもらいました。わが社を退職されて10年の歳月が経過していました。
~次回に続く~