梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

傾聴(その4)

2022年01月29日 06時23分10秒 | Weblog
三日間の傾聴の講義を、初日出ただけで二日目を休んでしまったその後です。微熱や喉の違和感で、参加者に迷惑がかかると大事を取った次第です(数日を経て現在は通常の状態に戻っています)。二日目のホテルの宿泊をキャンセルして家に戻る選択肢もありましたが、ゆっくりと体を休めるために結局その日もホテルに連泊しました。

二日目は声もかすれていましたので、受講者も発言をしなくてはならない勉強会でしたので、実質的には参加は無理だったと思います。二泊したホテルの部屋は快適で、倦怠感は無く食欲はありましたので、本を読んだりBSテレビの特集を観たり、時間を持て余すことなく過ごせました。三日目のホテルのチェックアウトは昼の12時でしたので、ギリギリ滞在して午後帰宅しました。

さて、この傾聴サポート養成講座は、東京と大阪と交互で毎月行われています。私のように三日目連続で受けられなくても、月日や場所を変更して補講が可能です。次回の東京開催は3月になり、大阪は2月に行われ、なるべく早く受けた方が良いと思い大阪の12日と13日の講義を改めて申し込みました。大阪のホテルに前泊して翌日も泊まり万全を期すことにしました。

ということで大阪の講義にしても時間がありますので、協会の会長が講義で薦めていたカール・ロジャースに関連する本を取り寄せ読んでおこうと思ったのです。三日間講義を続けていたら、ロジャースに関する知識がないままで終わっていたところでした。また初日でダウンしたことは、二日三日と未消化で講義を詰め込むことなく、一旦腑に落とせたのは良かったのかしれません。

その本のタイトルは『カール・ロジャース カウンセリングの原点』、「本物の“傾聴”とは何か? カウンセリングの新たな地平を拓いた希代の実践家の実像に迫る」と、本の帯にそう書かれています。著者は諸富祥彦(もろとみよしひこ)という方で、本は角川選書から出版されています。一般教養書というよりは、どちらかといえば専門書ないし学術書に近いかもしれません。

著者の諸富氏(1963年生れ)は、心理学者で明治大学文学部教授です。専攻は、カウンセリング心理学、心理療法、臨床心理学、学校カウンセリングなどで、日本トランスパーソナル学会会長を務めています。氏の大学の卒論はロジャースのカウンセリングについてであり、昔ロジャースが来日し講演したのを直に聴いているようで、ロジャースの文献の翻訳も長年携わってきた方です。

その本は、ほぼロジャースの全貌を伝えていました。ロジャースを理解するための基礎知識から始まり、彼のカウンセリングにおける変化の過程、彼の生い立ちから生涯にまで及んでいます。傾聴は何のために行うのか、ロジャースから改めて学び直す点や、心理療法としてのカウセリングの捉え方などにも多くの紙面を割いています。

ロジャースの弟子の中で、余人をもって代えがたい逸材がいます。ユージン・ジェンドリンという人物で、師より24歳年下で元々哲学専攻でした。ロジャースはジェンドリンとの出逢いによって(1955年)、それまで構築した心理療法にも変革が起こります。それ故に、二人で一つのものをつくりあげた同士ともいわれています。本はそれを包括し、1950年代半ば50歳代のロジャースに特に焦点を当てています。

しかし著者は、ロジャースは今読んでも決して古くないと言います。カウンセラー、心理療法士、コーチ、キャリアコンサルタントのみならず、教師、保育士、福祉関係者、医療関係者など、人を援助する立場にある人が立ち入るべき「原点」がここにはあると強調します。そればかりか夫婦、親子、上司と部下などなど、お互いがより自分らしくあることを尊重しあえる関係を求める全ての人が立ち入るべき「原点」もまたここに示されていると、著者は言葉を重ねます。

ロジャースは1950年代半ば、理論家としても脂がのっていた50歳代を境に、アカデミックな立場を去り目指す方向を大きく転換しました。以降、個人カウセリングの場からエンカウンター・グループ(集団での対話を通して経験・考えなど共有)の活動に没頭し始めます。そして晩年、人口問題、結婚制度や教育制度の問題、人種差別やマイノリティの問題など、社会問題に本格的に関心をもつようになります。同時に、スピリチュアルな次元への目覚めを通し残された最後の課題に入ります。    ~次回に続く~  


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傾聴(その3)

2022年01月22日 06時13分23秒 | Weblog
去年の年末、ある社団法人の協会が開催している傾聴基礎講座(一日)を受講しました。その上のコース(三日間)を、思い切って新年早々受講することをお伝えしました。今回はそこからの続きとなります。三日間のコースは「傾聴サポーター養成講座」というものです。協会として傾聴の啓蒙活動を行なっているので、一人でも多くの傾聴を理解したサポーターを養成したいとの意味合いのようです。

1月8日からの三日間の会場は、前回の基礎講座と同じく協会がある事務所内の別室でした。前回は女性の講師でしたが、今回の講師は協会の会長(40歳代後半の男性)です。講義の時間は10:30~18:40と、昼休みや他休憩はありますがかなりハードなものです。会場は都心で交通の便が良い所にあります。しかし三日間集中するために、私は近くのビジネスホテルを予約して、初日と二日目は泊まることにしました。

さて初日です。会長と私は初対面ですけれども、協会のホームページには会長が話している動画もあり、事前に観ていましたので親近感がありました。どうして傾聴に関心を持ったのか、どのような思いで協会を作るまでになったのか、自身の半生を振り返って、その動画で語り掛けていました。師となる存在の教えもあったのでしょうし、会長が構築したプログラムも盛り込まれているようで、それらが実際の講義で展開されていました。

今回も他の参加者は二名でいずれも女性でした。講義では、設問が出され参加者が答える場面もあり、講師による一方通行を避けるように工夫されています。参加者がペア―を組んで、あるテーマでロールプレイングをする課題もあり、参加者のキャラクターも講義の一つのファクターとなります。設問や課題は考える時間を与えられますが、即応的に話さなくてはならず、各自の体験や経験が反映され、価値観が違う人の話を受け入れる訓練にもなります。

初日のプログラムは、レッスン1:傾聴とは何か/傾聴の全体像、レッスン2:傾聴の知識/基礎&上達のための知識、レッスン3:傾聴マインド/心理の理解、となっています。基礎講座と重複するところもあるものの、時間を掛けてより深く学べました。レッスン1でカール・ロジャース(1902~1986年)なる人物が登場します。アメリカの臨床心理学者で、心理学の分野ではフロイトやユングに並ぶほどの人で、カウンセリングや傾聴技法では開拓者的な存在です。当協会が推し進める傾聴能力開発プログラムは、彼の論理が根底あると思いました。後述しますが(次回)、私はその時は考えてもみなかったのですが、ロジャースに関する分厚い本を後日取り寄せ勉強してみようとなりました。

『他者の話しを聴こうとの目的は色々あるはず。「気分をよくさせる、喜ばせる、気付かせる、分からせる、誘導する」これらは、相手を変えようとしている。「支える、寄りそう、そのまま理解する」これらは、相手の理解者になろうとしている。前者は傾聴とは言わず、後者が傾聴となる。傾聴した結果前者のようになることはあっても、初めに傾聴の目的を明確にすること』。例えば、このようなことをレッスン2で学びました。傾聴しているつもりで、そうでなかったことが、私の頭に浮かんできました。

『傾聴力を高めていくためには知識やスキルだけではなく傾聴マインドが必要であり、これが整っていてこそ知識やスキルを十分使いこなせる。傾聴マインドとは聴く人(自分)の心の状態を整えられること。例えば次のような能力、「心が乱れず穏やかな状態でいられる力。心が乱れていても短い時間でもう一度整え直せる力。うまくいかないことがあっても自分を責めない力。うまくいかないときこそ自己肯定感を保てる力」が必要とされる』。レッスン3での講義です。つまり、自分がありのままの自分の理解者になることが、先決であるとのことなのです。

講師の熱い思いも伝わり、第一日目の講義は終了となりました。その日の午後から、私は喉に違和感を覚え少し声がかすれてきました。そして受講中はマスクをしたままでしたが、鼻水が止まりませんでした。ホテルに行きチェックインをして部屋に入ります。外食しようかと思いましたが、体調のこともありコンビニで食べ物を買って部屋に戻りました。体温計を持参していて、寝る前に測ると平熱の36.5度でした。

翌朝起きて熱を測ると36.7度です。鼻水は小康状態でしたが、声が殆ど出なくなってしまいました。実は数日前の早朝ウォーキングで、風がとても冷たく寒気を感じていたのです。それでも二日目は講義に出るつもりでした。ホテルを出る直前体温を測ると、何と37.2度です。この時期ですので、万一の場合参加者には迷惑が掛かると考え、講師に緊急連絡を取って講義は断念することにしました。   ~次回に続く~

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ペリリュー島(その2)

2022年01月15日 05時52分04秒 | Weblog
友人が送ってくれた動画の内容の続きですが、前回を少し振り返ります。『太平洋戦争時、日本が統治していたパラオのペリリュー島での日米対戦。米軍兵約4万に総攻撃され、島を守備していた日本兵約1万は73日の死闘に耐えるも全滅。日本軍隊長が島のパラオ現地民を事前に避難させ、ただの一人も死者・負傷者を出さなかった。戦後現地民が島に戻り日本兵を埋葬し碑を造り、その感謝の気持ちはパラオの国旗に現れてる。その日本の人道的行為は、「欧米列強による人種差別、植民地支配からアジアを守る」という大義を持っていたから』。以下、またその続きです。

当時一番強かった米国に日本が立ち向かいアジアのリーダーとして戦った。もし当時、日本がアジアのリーダーとして立ち向かってなければ、今もなお欧米による植民地支配、白人による人種差別が続いていたかもしれない。それぐらい、私たちの先人は世界にインパクトを与え、世界の歴史を変えたのだ。日本は自国のためだけではなくアジアの国を仲間と思い、その仲間のために尽くした。そして日本だけじゃなく世界の国々が今もなお、その恩恵を受け続けている。

戦後の教科書やメディアが言うような、今までの私達にもたされた史実。「その当時の日本は狂った野蛮な国」「アジアの解放ではなく、アジアを侵略したのだ」「自分たちの父祖は侵略者であり犯罪者である」。仮にそうであるなら、あなたはこのパラオの真実をどう読み解きますか。なぜ日本は自らの命を顧みず他国のために尽くしたのでしょうか。パラオの真実のような、かつての素晴らしく尊敬された日本人の精神性が徐々に失われている。そんな状況、もうやめにしませんか。

米国は戦後、日本が再び立ち上がって復讐できないように、特別な占領政策を実行した。日本との戦闘は3年半で終わったのに、占領期間にはその二倍もかけたのはなぜか。米国が行った「人種差別、人種戦争」という真実を日本人の記憶から消し去り、でっち上げの米国の都合の良い記憶に塗り替えるため、それだけの時間が必要だった。私たちの父祖が乗り出して行かざるを得なかった、この時代の「人種差別、人種戦争」の視点を持たないと、なぜ日本は台湾や朝鮮を統治したのか、これらの真実が見えてこない。

しかしながら、「日本はアジアを侵略した悪い国だ」と日本人自身が言い続けている。戦後GHQによって刷り込まれた、自虐史観が続くせいで今の若い人は日本人としての誇りを失って、「金だけ、自分だけ」の個人主義に走っている。戦前の日本人を擁護すると、すぐに極右だの戦争主義者だのと、冷たい視線を浴びせられる。これは戦後、GHQによって骨抜きにされた自虐史観の結果なのだ。日本人の尊厳を侵し、思考を歪めた米国。正しい歴史認識を取り戻し、私たちの先人がやってきた事を後世に継承していく。それを語り継いでいくのが私たち使命ではないか。

以上、おおよそ動画はこのようなものを伝えています。送ってもらった友人も、日本人は敗戦の負い目を重く受け止める罪悪感だけで、戦前から日本が持っていた気高い精神まで忘れ去ることを憂いているのでしょう。欧米列強による人種差別・植民地支配から祖国やアジアを守るために散っていった先人に最大の敬意を表し、日本人であることに誇りを持って生きたいとの思いは私も変わりません。

「勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方が良い結果を生み出すことはない」。マッカーサーは自らこうも語っています。「あの戦争によって世界の至る所で、植民地支配が打ち壊されました。これは日本が勇敢に戦ってくれたおかげです」。タイ元副首相タナット・コーマンの言葉です。この二つは動画に出てきます。他国の思惑で奪われかけている歴史認識、日本自らも封印しようとした歴史認識。日本人100人に3人しか知らないと言われてしまう、失われかけている日本人のための歴史を取り戻さなくてはなりません。

私も調べてみました。『ペリリューの戦いを現地で指揮したのは中川州男(くにお)大佐。中川は明治31年熊本県の玉名郡で生まれで、代々熊本藩の藩士という家系。陸軍士官学校を卒業した中川であったが、一時は学校の配属将校に回されるなど言わば「閑職」へと追いやられる。しかしその後に勃発した日中戦争時に華北に派遣された中川は、大隊長として的確な手腕を発揮し、多くの戦功を残し上官達の目にとまる。こうして中川は、陸軍大学校の専科へと推薦され入学を果たすことができた。つまり中川という人物はエリート街道を順調に歩んだわけではなく、まさに「現場からの叩き上げ」であり「挫折を知る人」であった。その後第14師団歩兵第二連隊の連隊長となった中川は、満洲の北部に派遣された。しかし戦況の悪化に伴い、同連隊は激戦の続く太平洋戦線へと転進することが決定。こうして南洋に向かうことになった同連隊の赴任地が、パラオ・ペリリュー島だった』。武士の家系である中川大佐が、パラオの島民を自分たちの戦力として使わず救ったのは、大義の為に戦う(武士道)、日本が持っていた気高い精神を発揮したのだと思いました。
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ペリリュー島(その1)

2022年01月08日 06時28分59秒 | Weblog
年賀状ではなく、LINEでお正月の挨拶をもらう人が最近増えています。そのような知人から、挨拶に添えて動画が送られてきました。タイトルは、『日本人が忘れた天皇島の日米決戦/全滅した日本兵と姿を消した1000人の島民の謎』でした。約20分の動画を見終わって、「その史実の全容をそこまで知らなかった」と返信しました。「日本人であることに、誇りをもって生きていきたいですね。もしよろしければ拡散して頂ければ幸いです」との言葉が、彼から返ってきました。それは太平洋戦争時、日本が統治していたパラオのペリリュー島で起こった日米対戦に関するものでした。

戦後70年という節目の平成27年に、天皇皇后両陛下(現・上皇上皇后両陛下)は戦没者慰霊の為この島へ訪れました。80歳を超えるご高齢でありながら、ホテルではなく海上保安庁の巡視船に宿泊されました。以前よりパラオ訪問を熱望していながら、宿泊の警備の都合で実現してこなかったことを受けての決断だったようです。なぜ両陛下はそこまでしてペリリュー訪問にこだわったのか。それは太平洋戦争において、「最も血なまぐさい戦い」とされる最大の激戦地が、このペリリュー島だったからです。私はこの島の名をその時知りました。以下、送られた動画の内容です。

この戦いは1944年9月15日、米軍約4万の兵力で島に上陸しようとしたことで勃発する。島を守備していた日本兵約1万は持久戦に持ち込むも、桜の花のごとく散り全滅。しかし日本兵は勇敢に戦った。日本軍に対し、戦車10倍、重火器100倍、航空機200倍の力を有している米軍は、当初戦闘は2~3日で終わると考えていたが、日本は73日の死闘に耐えた。

島に住んでいたパラオの現地民に、ただの一人も死者・負傷者が出なかった。日本に支配される前、パラオはスペインとドイツの植民地であった。白人の統治時代は、賃金なしで働かされ、倒れれば鞭打ちの刑を与えられ、暴動を起こせば皆の前で銃殺された。奴隷のように搾取・虐殺されパラオの人口は激減する。第一次世界大戦後、講和条約で日本がパラオ統治権を取得したが、今度は日本人に虐殺されると怯えていた。

しかし日本の統治時代は白人のそれとはまるで違い、パラオに様々なインフラ整備を行った。更に医療・教育の支援をし、パラオ人と日本人は共に暮らし、仲良くなって日本の歌を歌ったりした。米国との戦いに先立って、島民は日本軍と一緒に戦う決意をして、代表数人は日本の守備隊長のいる指揮所を訪れ、自分たちも一緒に戦わせて欲しいとの決意を伝えた。すると隊長は突然激高し、このように叫んだという。「帝国軍人が貴様ら土人と一緒に戦えるか!」と。

島民は日本人が仲間だと思っていたのに、自らの耳を疑った。日本兵の思いは見せかけだったのか。やはりこいつらは自分たちを見下しているのだ。島民は裏切られた思いでみな悔し涙を流した。船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。しかし船が島を離れた瞬間、多くの日本兵が浜に走り出して来て、かつて一緒に歌った歌をうたい手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。それを見て島民は悟る。あの隊長の言葉は、戦火に巻き込まれないよう自分たちを救うためのもの。結果、日本兵が全滅するほどの激しい戦いであったが、現地人には戦死者が一人もでなかった。

「もし残っていたら死んでいた!」。避難した島民が2年半ほどして島に戻り、草木がなくなり石だらけの島を見て思わず出た言葉だ。彼らは島中に散らばる日本兵の遺骨を一つ一つきれいに片ずけ埋葬した。島には戦死した日本兵を祀る「西太平洋戦没者の碑」が造られた。その碑は、3200km先の靖国神社に向かい合っている。戦後パラオは米国に統治されるも1994年に独立を果たす。パラオの国旗(下に添付)は、月章旗。日本が日章旗の太陽なら、私たちは月で日本がいて初めて輝ける。月を中央にするとおこがましい。パラオ人の日本への心からの感謝の気持ちが表れている。

なぜ、日本はパラオを植民地として搾取の対象にしなかったのか。メディアの報道では、「日本は大東亜共栄圈という大義名分を掲げ、アジア各国を侵略し、植民地支配を行った」という声しか聞こえてこない。現地の証言・事実を紐解くとパラオを始め台湾や朝鮮や満州などに対し日本は立派な統治をしていたし、現地の人たちからはとても感謝されていたという真実が見えてくる。もちろん日本もただの援助目的でやっていたわけではなく、「自国の利益のため」と言う側面もあるだろう。しかしなぜ、日本は他の欧米列強の国とは違い、獲得した領土をから資源やカネを搾取しなかったのか。そしてなぜ、終戦前で戦力が足りなかったにも関わらず、守備隊長はパラオ人の協力を断ったのか。当時の欧米列強は統治した先の現地民を兵士として戦わせることは普通だった。

その理由は、「欧米列強による人種差別、植民地支配からアジアを守る」という大義を持っていたからだ。その当時の欧米人は、アジア人(有色人種)を人として扱っていなかった。「有色人種は人間ではない、白人だけが人間である」。このような狂った思想で、白人は450年間もの間、世界を支配下に置いていた。日米衝突が始まる前、日本とタイを除くアジアの国はほぼ全て欧米に植民地支配されていた。アジアで唯一まともに欧米と立ち向かえるのは、日本だけだった。   ~次回に続く~



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傾聴(その2)

2022年01月01日 04時19分46秒 | Weblog
「傾聴することは、言いたいことを言わずに我慢したり同調して見せることではありません。本当に聴けるようになると、聴いている人自身が楽になっていくのです。自己犠牲しない聴き方がわかると、自己犠牲しない生き方がわかります。まずあなたが楽であることではじめて、人のために何か本気でしてあげられることがわかるでしょう」。私が参加した傾聴セミナーを開催している協会のパンフレットに、会長の言葉としてこのようにありました。
 
心療内科医の鈴木裕介という方が書いた、題名『我慢して生きるほど人生は長くない』の本があります。様々な「生きづらい」を抱える人たちの話を聴いてきた氏が、他人の価値観に縛られず、自分らしいルールで、自分のままで大丈夫と思えるにはどうしたらいいかを伝えた本です。本を読み終えて、「我慢して生きなくていい」がキーワードのように私の頭にこびりついてしまいました。

協会の傾聴に対する主旨「我慢することではなく、あなたが楽であること」と、本の「我慢して生きなくていい」との主張が重なり、実際に講義を受けている最中とても納得しました。最大の理解者=自分。とにかくその自分を知ることなのです。ただしその自分をもちいて他人の話を傾聴するには、覚えなくてはいけない知識、そして身につけなくてはならない技法がありました。以下、当日のセミナーでのポイントを少し紹介します。 

傾聴の知識について。その一つは、同感と共感の違いです。話し手の経験や体験をつい「わかる、わかる」と、聴き手が安易に自分の解釈で「わかったつもり」になってしまうのが同感です。話し手の身になって受け止め、自分の気持ちは脇に置いて、聴き手が正確に理解することが共感です。同感は聴き手が感じたこと、つまり私が基準になってしまうこと。共感は話し手が感じたこと、つまり相手が基準でなくてはなりません。同感はまかり間違うと、同情や相手をさげすむ感じ方になってしまうのです。

次に一般会話と傾聴の違いです。例えばAさんとBさんがいて、話題を中心に話が進みますが、その話題はどんどん変わっていく可能性かあります 。これが一般会話です。Aさんが話し手としてBさんが聴き手とすると、あくまでもAさんが中心でAさんだけの話題で、Bさんがその気持ちを聴いていきます。これが傾聴です。Aさんの話題は、仕事や趣味や家族などAさんの関心事を、Bさんが先ほどの共感を持って聴いていくことになります。

傾聴の技法について。その主なものは、うなずき、あいづち、繰り返し、です。あいづちを打つときは、感情を込めることを忘れずに。うなずきは、色々なバリエーションを身につけるように。この二つは言葉を発していなくても相手の話を聴いている、と伝える最良のスキルとなります。繰り返しとは、相手の言葉を繰り返すことです。繰り返さずに、聴き手を励ます言葉など発してしまったら、共感にはなりません。全く同じ言葉を繰り返すことで、相手は気持ちをしっかり理解してくれたと安心するのです。

講義では、その他の知識や技法についても解説があり、そのテーマでロールプレイングがあり、多くの事例の話しなども盛り込まれ、気がついたら終了時間を迎えていました。ともかく傾聴は、寄り添う、支える、そのまま理解、が基本で相手をコントロールしないとのことでした。講義で特に心に残ったのは、自身を褒めてもいい、言い訳を言ってもいい、でした。今までの男の価値観としては、これはノーです。しかし我慢せずに自己犠牲をやめ自分が楽にならないと、他人を楽にしてあげられない。自分自身への傾聴ができなければ、他人の傾聴はできない。そのような考え方が強調されていました。

初めて受ける傾聴セミナー、果たしどんな内容か疑心暗鬼でした。今回は基礎講座でしたが、次のステップは同じく一日の実用講座となります。今回受けてみてためらわず実用講座を申し込みました。改めてこの協会のホームページを見てみると、認定/傾聴サポーター養成講座があることが分かりました。3日間の受講終了後、ここの協会のもので認定資格が授与されます。思い切って、実用講座から養成講座に切り替えました。講座の日程は新年早々(1月8~10日)となります。このテーマでの投稿は今回で一旦打ち切り、次回の講座を受けてからまた再開することにします。
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