梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

歎異抄(その3)

2022年07月30日 04時31分24秒 | Weblog
今回のテーマ(その1)で紹介した高森顕轍著『歎異抄をひらく』の序文には、次のように書かれています。「“善人なおもて往生を遂ぐ(とぐ)、いわんや悪人をや”、これは歎異抄第三章の一節である。日本の古典で、もっとも知られる一文であろう」と。「鴨長明の『方丈記』、『歎異抄』、吉田兼好の『徒然草』の順で、ほぼ六十年間隔で成立している。これは三大古文として有名だが、なかでも『歎異抄』の文体には引き込まれるような魅力があり、全文を暗唱する愛読者のあるのもうなずける」とも、あります。

そもそも古典とは、どういう書物をいうのでしょう。ずっと昔に書かれて、今でも比較的読まれている書。古い時代の作品ではあるが、現代人にも何か共感をよぶ書。このようなことが浮かびます。しかし、昔とか古い時代とかはいつのことなのか、よく読まれているとか共感をよぶとは曖昧さが残ります。古典についてある見識者は、時代的な古さは少なくとも第一義的な意味を持たないと指摘します。そうではなく、その書物の中に揺るがない基準とか模範を備えていることが、古典の第一条件だといっています。

当然一定期間の風雪をくぐらなければ、基準や規範は確立しませんから、出たばかりの新刊書が直ちに古典になるわけではありません。また古典を読むことは、歴史を学ぶこととよく似ています。昔は歴史書を「鑑(かがみ)」と呼んだように、歴史を学ぶのは知識や教養を増すことよりも、過去の出来事を鑑(鏡)として照らし合わせ、現代に生きる自分という存在を知り自分を磨くためといえます。『吾妻鏡』は鎌倉幕府の前半を扱った歴史書です。徳川家康はこの吾妻鏡を愛読したことは有名であり、鎌倉幕府の出来事を鏡として、江戸幕府の治世に実際に活かしたことになります。

親鸞の弟子の唯円が書いたとされる歎異抄を、後の浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如(1415〜1499)によって、親鸞の教を誤解させる恐れがあると封印しました。明治時代に宗教哲学者によって封印が解かれ、世に知られるようになります。その歎異抄は今から七百年以上前に成立しましたが、風雪の空白期間があるのです。しかし宗教古典として確固たる地位を占めているのは、揺るがない基準とか模範を備えていたからに他なりません。

しかしその不変の基準や模範も、浅く捉われてしまうと、今なお誤解を生じさせてしまいます。歎異抄の解説書が現在数多あるとのことは、その証左です。つまり歎異抄は取扱説明書がないと、我々には通じないのです。トリセツがあるということは、今なお取扱い注意とのことです。無人島に一冊だけ書を持っていくなら歎異抄といわれているのは、取扱い注意の恐れがあり、でも正しい解釈ですっきりするその落差であり、なにはともあれ人の生き方や死に方が書かれているからではないでしょうか。

更にこの古典には、師弟関係が三代にも亘るドラマが織り込まれています。浄土宗の開祖となる法然から、浄土真宗の開祖となる親鸞へ、歎異抄を書いたとされる唯円へと、繋がっていく師弟関係です。法然と親鸞との年の差は40で、親鸞と唯円の年の差は49です。歎異抄一節で、「法然に騙されて念仏を称えて地獄に堕ちても私は後悔しない」といっているほど、法然を生涯の師として親鸞は信頼していたのです。約90歳離れた唯円が、間接的に法然の教えの確かさを語っていることになります。

どのような人でも救う法然や親鸞の念仏に多くの人々が帰依し、他宗から強い反感をかい、ついに朝廷が弾圧に踏み切り、法然は土佐に親鸞は越後へと流罪になります。5年後越後で流罪の刑が解かれた親鸞は、一足先に京都に戻っていた法然の元に馳せ参じようとします。そこへ、高齢と配流による疲れで病床に伏し、その後亡くなった法然の知らせが届きます。茫然自失となった親鸞です。もはや生涯の師である法然がいない京都は未練はないと、東国(常陸)へ行くことになります。

常陸で親鸞は約20年間布教を続けますが、その地で唯円と出遇います。唯円の俗名は北条平次郎とされ、元来信仰心のかけらもなく、自分勝手で殺生を好む荒くれだったそうです。ですが、妻は熱心な浄土宗の信者であり親鸞の元に足しげく通い、阿弥陀仏の名前を書いた札である「お名号」をいただくほどでした。しかし、そのお名号を平次郎は浮気の相手の恋文と勘違いして激怒、妻を切り殺して家の裏の竹やぶに埋めてしまいます。

ところが家に帰ると妻はいつものように平次郎を出迎えたのでした。仰天した平次郎が妻を埋めた竹やぶを調べると、そこには「お名号」が埋まっています。このことに驚いた平次郎は妻を切り殺した行為を心から反省し、妻と一緒に親鸞の元に行ってこのことを話すと、親鸞は「阿弥陀如来の作られたお名号は、悪人を救う働きのあるものだから、その表れであろう」と語り、それを聞いて平次郎は今までの悪行を悔い改め、親鸞の弟子になったのです。法然と再会出来なかった親鸞が、常陸に行って唯円と出遇い、その唯円によって歎異抄が今の世にあります。  ~次回に続く~ 

 法然上人
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歎異抄(その2)

2022年07月23日 05時32分35秒 | Weblog
今回は歎異抄の主人公、親鸞聖人についてです。親鸞は今からおよそ850年前平安時代の末期に、京都に生まれ、越後へ流罪となり、常陸で布教し、再び京都へと、旅多き生涯を送りました。法然上人との出遇いにより他力本願の教えに目覚め、その教えを広めました。他力本願とは、厳しく自ら修行することこそが極楽浄土への道と言われた時代に、「どのような人であれ念仏を称えれば阿弥陀仏によって救われる」という教えです。では親鸞の一生を、四つに分けタイトルと年代をつけて振り返ります。

[迷いと苦しみの中生涯の師法然上人と出遇う/1173~1207]。親鸞は9歳で得度し、比叡山で20年間厳しい修行を積むものの、迷いは晴れず、下山して聖徳太子ゆかりの六角堂に百日籠ることとなる。この時、夢のお告げに導かれ、法然に出遇う(伝承)。法然の教えは、先述した通りです。親鸞はこの教えに深く共感し、生涯にわたり「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、一途に信奉し、さらに高めます。

[流罪となって越後へ/1207~1214]。知識のない者や修行をしない者でも、専修念仏で救われるとする他力本願の教えは、多くの人々に救いの道を示しましたが、一方で当時の仏教界においては異端視され弾圧を受けることになります。ついには朝廷への訴えによって、法然は土佐へ、親鸞は越後へと流罪になります。しかし流罪になった後も親鸞は、みずからを「非僧非俗」(僧ではなく、俗人でもない)として、民衆に寄り添います。

[常陸へ旅立ち関東一円に教えを広める/1214~1232]。流罪が解かれた親鸞は常陸(茨城)へ移り、20年にわたって布教します。親鸞は自坊を持たず、各地に簡素な念仏道場を設けて教えを説きます。そのもとには多くの人々が集い、専修念仏の教えは関東一円に広がり、二十四輩と呼ばれる高弟たちも生まれました。他力本願の教えを大系的に著したのが『教行信証』で、浄土真宗の根本聖典とされています。

[京都へ戻り執筆活動に心血を注ぐ/1232~1263]。晩年の親鸞は京都へ戻り、執筆に心血を注ぎます。また、親鸞の言葉は、弟子の唯円が記したとされる歎異抄に伝えられ、今も多くの人々に影響を与え、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(悪人こそが救われる)の一文は「悪人正機」の思想としてあまりにも有名です。親鸞は80歳を過ぎてなお筆を取り続け、御年90歳にて仏の本願に生き抜かれたその生涯を閉じます。

興味深いところは、親鸞は比叡山で20年間厳しい修行を積むものの、迷いは晴れず下山したということころです。つまり悟れなかったとのことです(一説には、堕落しきった先輩僧侶たちに失望)。流罪を解かれた後、親鸞は越後の豪族の娘恵信尼と結婚します。僧侶の妻帯に関して親鸞が初めてではありません。当時の仏教界の支配層は貴族出身で、真剣に仏道を求める者もありましたが、裏で妻を持ったり女性をかこっていたりする僧侶も多くあったようです。

肉食妻帯を堂々とする親鸞、どこか人間味を私は感じます。いよいよ念仏成仏の在家生活を送ります。親鸞のこの生き方は、浄土真宗と言う宗教にとっては必然でした。生涯、罪業をかかえた凡夫として、煩悩のままに生き、阿弥陀様によって救われてゆく念仏成仏の教えは、親鸞の妻子ある生活において、さらに深められたと言えます。

親鸞と恵信尼には6人の子供があり、歴史的に重要なのは長男の善鸞と、末娘の覚信尼です。覚信尼は、関東の門弟たちと共に、親鸞の廟所(墓)を護り、後にそれが本願寺へと発展します。一方善鸞は、父親鸞と共に越後から関東へ、そして京の都へと付き従い、父より直接に念仏の教えを伝えられます。誰よりも、父を理解しているはずであったのです。

親鸞の帰京後、関東の門弟達の間には、親鸞の念仏の教えを巡って、理解の相違が生まれ、どんな罪を犯しても念仏で救われると言った極端な主張をする者も出て来ました。それを収拾するために、親鸞の代理として関東に善鸞が使わされますが、父ほどのカリスマ性はなく門弟たちを統率する力もなく、逆に親鸞の教えとは異なることを説き始め、火に油を注ぐ結果となりました。そして父は子との縁を切るという不幸な結末になります。

親鸞にとって義絶事件は断腸の思いであり、自ら開顕した念仏の教えを正しく継承するには、止むを得ない処置でした。妻子を持ったが故の悩みは、在家仏道を歩む者にとっては必定のことです。親鸞が晩年に著わした書には、煩悩に苦しむ人間の素の姿が描かれ、またそのような罪業の身が、阿弥陀様の本願に救われてゆく喜びが、切々と綴られているそうです。その悟りは人生最終章でのことです。矛盾を抱えながら生きた親鸞の、これも人間らしさではないでしょうか。   ~次回に続く~

 親鸞聖人
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歎異抄(その1)

2022年07月16日 05時05分06秒 | Weblog
NHKのEテレで毎週日曜日の午前5時から、『こころの時代/宗教・人生』という番組が放映されています。「人生の壁にぶつかったとき、絶望の淵に立たされたとき、どう生きる道を見いだすのか。経済的合理性や科学的思考が判断基準となりがちな現代。それだけでは解決できない生老病死の問題に、いかに挑むのか。先人たちの知恵や体験に耳を傾け、考えていく」、番組の紹介にはこうあります。

4月23日に放映されたのは、『歎異抄にであう/無宗教からの扉』のテーマでした。このテーマでの放映は、月一回9月まで、めずらしく6回にも亘るものです。NHK出版からこのテキストブックが出されていて、買い求め、第6回分まで読み終わりました。テレビでの解説者もテキストを著わした人も同一で、阿満利麿(あま・としまろ)という方です。

氏は1939年生まれ、京都大学教育学部卒業後、NHK入局。社会教育チーフ・ディレクター、明治学院大学国際学部教授を経て、明治学院大学名誉教授。日本宗教思想史専攻。著書に『行動する仏教』『法然の衝撃』『親鸞からの手紙』『日本人はなぜ無宗教なのか』、等々があります。そのテレビ番組は、NHKの二人のディレクターが阿満氏から講義を受けるような形で、二人が時折質問しながら、それを受け歎異抄のイメージ映像も挿入され進んでいきます。

歎異抄を読んだのは、私は今回が初めてです。難しい書との先入観がありました。新聞に載る歎異抄解説書の広告に“無人島に一冊だけ書物を持っていくとすれば「歎異抄」”と書かれていますが、司馬遼太郎が言ったとされています。それだけ他を寄せ付けない書なのでしょう。我が家の仏教宗派は浄土真宗です。浄土真宗の宗祖は親鸞です。この歎異抄は親鸞の言行録です。恥ずかしながら、ようやく親鸞聖人を知る好機となりました。

阿満氏のテキストの他に、広告で気になっていた、高森顕轍(たかもり・けんてつ)著『歎異抄をひらく』も読んでみました。今回のブログは歎異抄がテーマで、シリーズが何回になるか分かりませんが、書きながら勉強していきたいと思っています。歎異抄には三代にわたる師弟関係のドラマがあります。歎異抄の解釈が誤解を招きやすいともいわれますが、二冊の解説書を読んで、深さとその真意が少し分かったよにも感じています。それでは、歎異抄の成り立ちです。

歎異抄は、今から七百年以上前に書かれたといわれ、作家は今日では唯円とされています。その内容は、法然から親鸞へ、親鸞から唯円に伝えらえてきた、本願念仏の真髄が記されています。歎異とは異なるを嘆くということ。唯円は同時代の念仏者の間に、親鸞から伝えられた教えと異なる諸説が広まり、多くの仲間が動揺する様子を見聞きして、あらためてそれらを親鸞の教えに照らして批判し、真実の教えが伝えられることを願う為にこの書を著わしたとされます。

歎異抄の全体の構成は、漢文の序文に続いて、第一章から第九章までは親鸞の語録が列挙されており、そこまでがいわば第一部です。そして、第十章の冒頭に「念仏には、無義をもて義とす」云々という歎異抄の要となる、法然から親鸞へと伝承きた最も大事な言葉が示されて、その理解の至らなさが異義を生んだとして、以下、第十一章から第十八章まで、異義とその批判が述べられています。ここまでが第二部。そして結文となる、第三部です。

歎異抄は久しく本願寺教団に私蔵されてきましたが、その枠を離れて一般市民に広く知らしめたのは、明治時代の浄土真宗の僧侶であり、日本で最初の宗教哲学者であった清沢満之(きよざわまんし)の紹介によります。清沢は自らの求道の過程で歎異抄を重用し、人々にも広く薦めました。その結果、歎異抄は特に知識層に知れわたり、今や日本を代表する宗教古典となるに至りました。

つまり、この書が世に知られるようになってから百年も経っていないのです。それは五百年前、浄土真宗中興の祖蓮如上人が、親鸞聖人を誤解させる恐れがあると、「仏縁に浅い人には、披見させてはならぬ」と封印したからです。歎異抄の著者も、唯円と分かったのも大正時代です。それが先述した機縁で、こぞって世の人々は歎異抄を論じ始めました。しかし、蓮如上人の訓戒どおり歎異抄はもろ刃の剣です。親鸞の悪人正機説は、悪を勧めているようにも映り、本願念仏は単に念仏を称えたら救われる、など上辺だけとってしまうと、誤った見方をしてしまう恐れも解説書には綴られています。   〜次回に続く〜




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ブログの苦楽(その2)

2022年07月09日 06時34分07秒 | Weblog
週一回の投稿のブログは書くことに追われ、また書くネタ(題材)探しにも追われます。ヘミングウェイの『移動祝祭日』は、奥さんや友人との人間関係や、また1920年代パリを背景にした生活そのものが、題材になりました。私の知人の女性は、CA 時代から独立起業したまで、その経験が題材になりました。書くには、題材の設定が最も大事です。

私の題材の対象は、会社関係、外部の集まり(勉強会)、本や新聞やテレビ、日々の生活、などです。一回きりにしても連続のテーマにしても、それを書いている間に次のテーマについての構想を先取りしていないと、いざ新しいテーマで書こうとしても追いつきません。テーマは複数ストックして、そのテーマで書くことを思いついたつどメモしています。今回のヘミングウェイの本や知人の出版の話しは、半年も前からのもので、いつか書こうと思っていました。

司馬遼太郎、山崎豊子、松本清張などの作家は、現地に赴いて地道な取材をしたり膨大な文献を調べ上げたりして、多くの作品を残しています。三人に共通しているのはジャーナリストの視点です。司馬遼太郎は、もともと新聞記者でした。山崎豊子は、新聞社に入り学芸部に配属され記者の訓練を受けています。松本清張は、子供の頃から新聞記者に憧れていて学歴で記者にはなれませんでしたが、一時期新聞関係の印刷工として働いていました。小説のジャンルは違いますが、歴史や事件や社会問題の事実を綿密に積み上げて展開していく姿勢は、三人に貫かれています。

私の場合の題材探しは、事前の取材や下調べに似ています。このベースが無いとブログを書けません。身の回りで起こる現象や見聞きする事柄を、ブログに書こうとする目線で観察している自分に、ふと気付くことがあります。書くために、何かを体験しようとしているようにも感じます。その合間の、例えば読書やテレビを観る(録画)ことやウォーキングは、気持ちをリセットするために行っているともいえます。一週間一回のブログ投稿は、産みの苦しみでもあり、楽しんでいる面もあります。

前回ヘミングウェイの言葉を引用した中で、「不断の努力に加えて幸運をも必要とするような仕事をやりとげて、…」とありました。「不断の努力」とは何か、これは分かります。しかし「幸運をも必要とするような」とは、一体何なのでしょう。前後の文章も読んでも具体的な事例が示されていないので、必要な幸運とは何なのか明確には分かりませんでした。私としては、自ら意図せず話題が勝手に飛び込んでくるようなことではないかと、推測しています。不思議な共時性といってもいいかもしれません。

私の場合ですが、このようなことがあります。あるテーマで書こうとしている時、それに関連する本が偶然新聞広告に載っているとか、その話題をたまたま観たテレビの番組で取り挙げていたとか、このようなことが起こります。それが、私の見方と同じでもまたは違っていたとしても、色々な視点でそのテーマが捉えられ、奥行きが深くなることがあります。しかし前回も書きましたが、私がそのテーマで書くにしても「何故あなたなのか」がなければ、インパクトを与えられないと意識するように心掛けています。

いずれにしても、16年前から書き出して今回で860回目の投稿になるこのブログは、私の生活の一部になって一週間のリズムを刻んでいます。基本的には土曜日の朝自宅からの投稿ですが、国内の旅先から、ある時は海外から発信したこともあります。一旦原稿を書き上げて、その下書きをパソコンからスマホに転送して、外出先(電車の中など)でチェックして書き直すことも可能です。便利なツールがありますので、どこにいても書く環境は整っています。

社会での第一線を退いて自宅にいることも多いのですが、誰かが読んでくれているこのブログの発信は、外部と繋がっているように感じています。何かを学んだり体験したりしても、インプットだけではなくアウトプットができる場を持っていることは幸せです。物忘れも最近多くなっています。忘れた分だけまた覚え直さなくてはいけません。ブログを書くことは、そのくり返しに役立っています。

書くことに苦楽は伴いますが、ネタ切れを起こさないよう、何事にも興味を持ち探究心を失わず、これからもブログを続けられればと思っています。因みにヘミングウェイも新聞記者でした。フリー記者となり特派員となってパリに渡った時の、回顧録が『移動祝祭日』です。

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ブログの苦楽(その1)

2022年07月02日 05時13分57秒 | Weblog
私は作家ではありませんが、書くことに追われます。このブログは週一回(土曜日の朝)の投稿と決めていて、締め切りを常に意識して書いています。ブログを始めた当初、文字数は1000字にも満たなかったものが、最近は2000字近くなっています。新聞の一面の下にあるコラムは、500~600字ほどです。私のブログも、読まれる方にとっては短い方がいいのでしょが、テーマによってはどうしても力が入り長くなってしまいます。今回は、ブログで文章を書くことをテーマにしました。

あの『老人と海』で有名な作家アーネスト・ヘミングウェイの著した、『移動祝祭日』という本を読みました。自分の日常を描くヒントが多くありました。また、執筆の楽しみと苦しみが書かれています。この本は、人生の冬を迎え病魔に侵されながら、60歳になったヘミングウェイが、1920年代のパリで過ごした20代の、自らの若き修業時代を回想する傑作とされています。死後に発表され、世界中で論議の渦を巻き起こした、事実上の遺作といわれています。

その中でヘミングウェイはこういっています。
「こんどだって書けるさ。やるべきことは決まっている。ただ一つの真実の文章を書くこと、それだけでいい。自分の知っている一番嘘のない文章を書いてみろ。私はどうにか一つの真実の文章を書き、そこからまた先に進む。そう捉えれば、さほどの難事ではなかった。なぜなら、自分の知っている事柄、見たことがある事柄、他人が口にするのを聞いたことのある事柄を表現する真実の文章は、必ず存在したからである」。
書くことを生業としているヘミングウェイでも、それまでの積み重ねはあるものの、これからもちゃんと書き継いでいく自信が必ずしもあったのではないことが窺えます。

このようにもいっています。
「いったん書くのをやめたら翌日また書きはじめるときまでその作品のことは考えないほうがいい。そうすることで、目下の仕事のことは自分の潜在意識に受け継いでもらい、私はその間、他の人たちの話しに耳を傾けたり、森羅万象の観察に努めたりすることができるだろう。そうして目下の仕事のことを考える余地がないように読書をして、しばし仕事から手を引くのだ。それも、不断の努力に加えて幸運をも必要とするような仕事をやりとげて、階段を降りていく気分は格別だった。そのあとは、パリのどこかを歩きまわろうと自由だったのだから」。
書き続けるには一旦仕事を脇に置いて、読書も人との語らい街に溶け込むのもいい、無になれる時間が必要とのことでしょう。一つを書き終えた達成感や爽快感も伝わります。

私も実感するところですが、凝った言い回しや無駄な装飾の文章は極力避けて、自然体で素直なものにしたいと思ってます。早く書き上げてしまおうと、無理やり詰め込むとギクシャクしてしまい、離れる時間をあえて作ることで、その間が文章にも反映されるように感じます。

話しは変わりますが、私の知っている方が本を出版しました。初めての出版ながら、かなりの冊数が売れたようです。自費出版ではなく、出版社に自ら企画書と原稿を送って、採択されたとのことです。著わした本は、『一流のメンタル 100の習慣』という題名です。航空会社でのCAの豊富な経験を生かし、どんなストレス、クレーム、理不尽にも負けない、身につけたメンタルの話しです。ビジネスの世界でも通用する内容でした。

その女性の略歴です。25年間航空会社に在籍し、国際線チーフパーサーとしてファーストクラスを担当、その間教官として多くのCAの指導教育にあたり、その後人事マネジメントや機内サービス改善向上に従事する。退職後、外資系保険会社で優秀な成績を上げて、独立し起業する。現在は、国交省や外資系ホテルの企業研修などを行い活躍し、経営者を対象とした研修サロンを主宰する。

その出版記念の会があり、私も参加させてもらいました。前半は、彼女と出版社の編集長との対談でした。編集長曰く、「企画書にしても、なにか尖っているものを感じた」と。無数の原稿が届き、殆んどは没で白黒つけるのは数分だが、突出したものが伝わったそうです。この突出とは、その人がそのテーマで書くにしても、「何故あなたなのか」がなければ、読者にインパクトを与えられないとの意味のようです。元々彼女にはその題材で書くネタは沢山あったのでしょうが、その彼女が書く必然性と意義を、編集著は見抜いたのだと思います。   ~次回に続く〜
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