今回のテーマ(その1)で紹介した高森顕轍著『歎異抄をひらく』の序文には、次のように書かれています。「“善人なおもて往生を遂ぐ(とぐ)、いわんや悪人をや”、これは歎異抄第三章の一節である。日本の古典で、もっとも知られる一文であろう」と。「鴨長明の『方丈記』、『歎異抄』、吉田兼好の『徒然草』の順で、ほぼ六十年間隔で成立している。これは三大古文として有名だが、なかでも『歎異抄』の文体には引き込まれるような魅力があり、全文を暗唱する愛読者のあるのもうなずける」とも、あります。
そもそも古典とは、どういう書物をいうのでしょう。ずっと昔に書かれて、今でも比較的読まれている書。古い時代の作品ではあるが、現代人にも何か共感をよぶ書。このようなことが浮かびます。しかし、昔とか古い時代とかはいつのことなのか、よく読まれているとか共感をよぶとは曖昧さが残ります。古典についてある見識者は、時代的な古さは少なくとも第一義的な意味を持たないと指摘します。そうではなく、その書物の中に揺るがない基準とか模範を備えていることが、古典の第一条件だといっています。
当然一定期間の風雪をくぐらなければ、基準や規範は確立しませんから、出たばかりの新刊書が直ちに古典になるわけではありません。また古典を読むことは、歴史を学ぶこととよく似ています。昔は歴史書を「鑑(かがみ)」と呼んだように、歴史を学ぶのは知識や教養を増すことよりも、過去の出来事を鑑(鏡)として照らし合わせ、現代に生きる自分という存在を知り自分を磨くためといえます。『吾妻鏡』は鎌倉幕府の前半を扱った歴史書です。徳川家康はこの吾妻鏡を愛読したことは有名であり、鎌倉幕府の出来事を鏡として、江戸幕府の治世に実際に活かしたことになります。
親鸞の弟子の唯円が書いたとされる歎異抄を、後の浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如(1415〜1499)によって、親鸞の教を誤解させる恐れがあると封印しました。明治時代に宗教哲学者によって封印が解かれ、世に知られるようになります。その歎異抄は今から七百年以上前に成立しましたが、風雪の空白期間があるのです。しかし宗教古典として確固たる地位を占めているのは、揺るがない基準とか模範を備えていたからに他なりません。
しかしその不変の基準や模範も、浅く捉われてしまうと、今なお誤解を生じさせてしまいます。歎異抄の解説書が現在数多あるとのことは、その証左です。つまり歎異抄は取扱説明書がないと、我々には通じないのです。トリセツがあるということは、今なお取扱い注意とのことです。無人島に一冊だけ書を持っていくなら歎異抄といわれているのは、取扱い注意の恐れがあり、でも正しい解釈ですっきりするその落差であり、なにはともあれ人の生き方や死に方が書かれているからではないでしょうか。
更にこの古典には、師弟関係が三代にも亘るドラマが織り込まれています。浄土宗の開祖となる法然から、浄土真宗の開祖となる親鸞へ、歎異抄を書いたとされる唯円へと、繋がっていく師弟関係です。法然と親鸞との年の差は40で、親鸞と唯円の年の差は49です。歎異抄一節で、「法然に騙されて念仏を称えて地獄に堕ちても私は後悔しない」といっているほど、法然を生涯の師として親鸞は信頼していたのです。約90歳離れた唯円が、間接的に法然の教えの確かさを語っていることになります。
どのような人でも救う法然や親鸞の念仏に多くの人々が帰依し、他宗から強い反感をかい、ついに朝廷が弾圧に踏み切り、法然は土佐に親鸞は越後へと流罪になります。5年後越後で流罪の刑が解かれた親鸞は、一足先に京都に戻っていた法然の元に馳せ参じようとします。そこへ、高齢と配流による疲れで病床に伏し、その後亡くなった法然の知らせが届きます。茫然自失となった親鸞です。もはや生涯の師である法然がいない京都は未練はないと、東国(常陸)へ行くことになります。
常陸で親鸞は約20年間布教を続けますが、その地で唯円と出遇います。唯円の俗名は北条平次郎とされ、元来信仰心のかけらもなく、自分勝手で殺生を好む荒くれだったそうです。ですが、妻は熱心な浄土宗の信者であり親鸞の元に足しげく通い、阿弥陀仏の名前を書いた札である「お名号」をいただくほどでした。しかし、そのお名号を平次郎は浮気の相手の恋文と勘違いして激怒、妻を切り殺して家の裏の竹やぶに埋めてしまいます。
ところが家に帰ると妻はいつものように平次郎を出迎えたのでした。仰天した平次郎が妻を埋めた竹やぶを調べると、そこには「お名号」が埋まっています。このことに驚いた平次郎は妻を切り殺した行為を心から反省し、妻と一緒に親鸞の元に行ってこのことを話すと、親鸞は「阿弥陀如来の作られたお名号は、悪人を救う働きのあるものだから、その表れであろう」と語り、それを聞いて平次郎は今までの悪行を悔い改め、親鸞の弟子になったのです。法然と再会出来なかった親鸞が、常陸に行って唯円と出遇い、その唯円によって歎異抄が今の世にあります。 ~次回に続く~
法然上人
そもそも古典とは、どういう書物をいうのでしょう。ずっと昔に書かれて、今でも比較的読まれている書。古い時代の作品ではあるが、現代人にも何か共感をよぶ書。このようなことが浮かびます。しかし、昔とか古い時代とかはいつのことなのか、よく読まれているとか共感をよぶとは曖昧さが残ります。古典についてある見識者は、時代的な古さは少なくとも第一義的な意味を持たないと指摘します。そうではなく、その書物の中に揺るがない基準とか模範を備えていることが、古典の第一条件だといっています。
当然一定期間の風雪をくぐらなければ、基準や規範は確立しませんから、出たばかりの新刊書が直ちに古典になるわけではありません。また古典を読むことは、歴史を学ぶこととよく似ています。昔は歴史書を「鑑(かがみ)」と呼んだように、歴史を学ぶのは知識や教養を増すことよりも、過去の出来事を鑑(鏡)として照らし合わせ、現代に生きる自分という存在を知り自分を磨くためといえます。『吾妻鏡』は鎌倉幕府の前半を扱った歴史書です。徳川家康はこの吾妻鏡を愛読したことは有名であり、鎌倉幕府の出来事を鏡として、江戸幕府の治世に実際に活かしたことになります。
親鸞の弟子の唯円が書いたとされる歎異抄を、後の浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如(1415〜1499)によって、親鸞の教を誤解させる恐れがあると封印しました。明治時代に宗教哲学者によって封印が解かれ、世に知られるようになります。その歎異抄は今から七百年以上前に成立しましたが、風雪の空白期間があるのです。しかし宗教古典として確固たる地位を占めているのは、揺るがない基準とか模範を備えていたからに他なりません。
しかしその不変の基準や模範も、浅く捉われてしまうと、今なお誤解を生じさせてしまいます。歎異抄の解説書が現在数多あるとのことは、その証左です。つまり歎異抄は取扱説明書がないと、我々には通じないのです。トリセツがあるということは、今なお取扱い注意とのことです。無人島に一冊だけ書を持っていくなら歎異抄といわれているのは、取扱い注意の恐れがあり、でも正しい解釈ですっきりするその落差であり、なにはともあれ人の生き方や死に方が書かれているからではないでしょうか。
更にこの古典には、師弟関係が三代にも亘るドラマが織り込まれています。浄土宗の開祖となる法然から、浄土真宗の開祖となる親鸞へ、歎異抄を書いたとされる唯円へと、繋がっていく師弟関係です。法然と親鸞との年の差は40で、親鸞と唯円の年の差は49です。歎異抄一節で、「法然に騙されて念仏を称えて地獄に堕ちても私は後悔しない」といっているほど、法然を生涯の師として親鸞は信頼していたのです。約90歳離れた唯円が、間接的に法然の教えの確かさを語っていることになります。
どのような人でも救う法然や親鸞の念仏に多くの人々が帰依し、他宗から強い反感をかい、ついに朝廷が弾圧に踏み切り、法然は土佐に親鸞は越後へと流罪になります。5年後越後で流罪の刑が解かれた親鸞は、一足先に京都に戻っていた法然の元に馳せ参じようとします。そこへ、高齢と配流による疲れで病床に伏し、その後亡くなった法然の知らせが届きます。茫然自失となった親鸞です。もはや生涯の師である法然がいない京都は未練はないと、東国(常陸)へ行くことになります。
常陸で親鸞は約20年間布教を続けますが、その地で唯円と出遇います。唯円の俗名は北条平次郎とされ、元来信仰心のかけらもなく、自分勝手で殺生を好む荒くれだったそうです。ですが、妻は熱心な浄土宗の信者であり親鸞の元に足しげく通い、阿弥陀仏の名前を書いた札である「お名号」をいただくほどでした。しかし、そのお名号を平次郎は浮気の相手の恋文と勘違いして激怒、妻を切り殺して家の裏の竹やぶに埋めてしまいます。
ところが家に帰ると妻はいつものように平次郎を出迎えたのでした。仰天した平次郎が妻を埋めた竹やぶを調べると、そこには「お名号」が埋まっています。このことに驚いた平次郎は妻を切り殺した行為を心から反省し、妻と一緒に親鸞の元に行ってこのことを話すと、親鸞は「阿弥陀如来の作られたお名号は、悪人を救う働きのあるものだから、その表れであろう」と語り、それを聞いて平次郎は今までの悪行を悔い改め、親鸞の弟子になったのです。法然と再会出来なかった親鸞が、常陸に行って唯円と出遇い、その唯円によって歎異抄が今の世にあります。 ~次回に続く~
法然上人