梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

毎年の株主総会

2018年06月30日 09時52分23秒 | Weblog
この時期の恒例で、名古屋に出掛けます。わが社の仕入先の鉄鋼メーカーが名古屋にあり、その株主総会に先週出席しました。新幹線名古屋駅から在来線に乗換えて、最寄りの駅で降りてその会社に向いますが、徒歩で20分位は掛かります。午前10時開催ということもあり時間に遅れない為に、行きは名古屋駅から楽なタクシーを利用しています。

今回は、地元の地理に詳しくない運転手さんでした。ナビを入れるとのことで、画面の道に従って行こうとすると、通行止め等のアクシデント。それに気を取られ、しばらくメーターを降ろさず走行して、料金が可也安くなりました。「その料金で大丈夫ですか」と尋ねると、「自分のミスですから」と運転手さん。15分前に株主総会の会社へ。

わが社はこの電炉メーカーから、厚板材料の供給を毎月受けて、取引をスタートしたのは30年以上前になります。そして窓口の商社に勧められ取引先の持株会に入り、株数は少ないものの株主となり、株主総会に毎年出席させてもらって12~13年になります。

今週は、他の大手企業の株主総会のピークでした。アクティビスト:物言う株主といわれ、上場企業の経営に自らの考えを表明したり役員等を送り込んだり、経営改革を迫る株主が最近話題になります。また事前に所与の条件のもとに、株主総会の場で議案を提案する、株主提案権を行使する株主も年々増えているようです。

このメーカーの株主構成は、取引先の商社や銀行そして関係先高炉メーカー、更に取引先持株会が加わると、半分近くを占めます。その他は退職者OBの株主が多く、所謂一般投資家は多くないようです。当日の会場の、約200名の出席者のほとんどがOBの方々で、とてもアットホームな感じを受けました。

それでも、議案事項が決議されていく中で、二人の株主から突っ込んだ質問が出されました。「なぜ御社は、これほどまで内部留保を高める必要があるのか」。当期の株主資本利比率(自己資本比率)は80%を超えています。「どうして御社は、東証を目指さないのか」。現在は名古屋証券取引所一部上場ですが、前から株主には指摘されていました。

要点を絞ると、次のようなことが株主の主張です。株主(投資家)は、やはり配当が第一である。株価をもっと上げる努力をして欲しい。株価が安く会社の総資産に含みがあれば、そのアンバランスを突かれ、常に大規模買付行為を仕掛けられる危険性がある。(議案である買収防衛策は継続決議されましたが)

これに対し会社側の、議長である社長が答弁されました。勿論配当性向は今後とも高めていきたいとしながらも、会社の過去、資金不足により経営破綻した話から始めました。装置産業である電炉メーカーの宿命の巨額な設備投資、街中に近い立地ゆえ環境整備や不慮の天災・災害、それらに備えなくてはならないと切々と話されました。そして培った企業価値を死守する、とのトップの重みのある言葉で場の雰囲気が変わりました。

私自身は、地元に根を張った経営で東証上場の必要性は無いと考えますが、投資家には違った見解もあります。大型再編や巨額買収の懸案を抱える、昨今の大手企業の株主総会のような緊迫感はないかもしれませんが、この会社の株主総会の株主の皆さんは真剣に将来を見守っていることは確かです。

私は次に行く予定も迫ってしまい、株主総会の後の社長による会社説明会や、工場見学には参加できませんでした。帰りはその会社から歩いて最寄りの駅へ。昼に近い時間帯の名古屋の日差しは半端ではありません。会社は誰の為にあるのか、ステークホルダーの存在とは。色々なことを考えながら最寄り駅に着いた頃は、額から大粒の汗、ワイシャツまで汗が染み出ていました。
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経営者の引き際

2018年06月23日 09時29分06秒 | Weblog
「1000億円以上だったものが40億円に」。この異常な値差は、一体何なのでしょうか。今年の秋までにシャープに売却されることが決定した、東芝のパソコン事業の売却額が40億円です。7~8年ほど前であれば、この額を下らないと言われた1000億円です。

東芝は1994年から2000年まで、7年連続でノートパソコン市場では世界首位を独走しました。世界を席巻した事業は、陰りが明らかになったものの1911年前後、世界最大のPCベンダーであるレノボは東芝に事業の買収の打診をしますが、東芝はこれを断ります。当時であれば、売却額は1000億円以上だったのではとの推定でした。

その絶頂期にPCの事業部長をしていた人が、後にPC部隊の社内カンパニーの社長に就任し、そして遂に東芝本体のトップとなります。2005年IBMがレノボにPC事業を売却、2011年日本のNECもレノボにPC事業を売却します。その頃から東芝の財務部門は、PC事業は企業価値を毀損する“破壊事業”に分類しています。

東芝はこの事業の再編の波に乗れずに、またその部門は不正会計の温床となり、後にこれが発覚し社会問題に発展します。かねてより財務部門は経営企画部門に、毎年PC事業を「売れるなら売るべきだ」と指摘していましたが、営業企画はPC出身の当該社長の意向を忖度し危機感が共有されることはなかったのです。(ここまでは新聞の記事を参考に)

新将命と高田明との両氏の共著である、タイトル『まかせる力』という本を読みました。新氏は数々の大企業の社長を歴任し、様々な会社のアドバイザーや経営者のメンターを務めています。高田氏はジャパネットたかたの創業者です。数年前高田氏は新氏の経営書を読んで感動し、社内に新氏を迎え講演を開催し指導を受け、以来経営の師と仰いでいます。

創業から30年近く、カリスマ性を発揮して、ジャパネットたかたをあそこまで築き上げた高田氏は、2年前会社を息子にまかせ完全に引退します。会長にもならず、以後会社にも一切顔を出さず。高田氏の引き際の美学について、私はかねがね感服していましたが、高田氏には新氏という師匠がいたことを、この本を読んで知りました。

この本で高田氏が執筆した章の冒頭で、「まかせることはラクではない」との言葉が出てきます。まかすことが大変だと実感した末に、いっそまかさずに自分でやってしまおうとする人もいるが、まかすことを掉尾(ちょうび)の勇を奮って行っていかなければ、組織は回らない。完全に任せることを成し遂げるためには、自らの信念や入念な準備、潮時を計る確かな眼が要求される。と、書かれています。

危機を切り抜ける時、経営者の絶対的カリスマ性は必要かもしれません。過去儲かった事業が凋落し出した時、見切る経営判断は、確かに難しいかもしれません。成功体験は、その時代や環境によってなされる過去のもので、不易のものではありません。

東芝の今回の出来事は、トップが「まかす」ことや「引き際の美学」を度外視したように思えてなりません。「院政を敷く」とは言いますが、その陰を後継者や社員は気にしないわけがありません。人間の情動として、かつての権力や名声にしがみつきたがります。その点、高田氏はそうならない為にも、今は全く新たな事業に専念しています。

わが社において私は、横から口を出さない、命令をしないことを、常に念頭におく努力をしています。何故ら、私がそれをされたら嫌だからですし、部下の自主性を奪うことに他なりません。私にも、いずれ後継者にバトンタッチをする時期は訪れます。今から、この訓練をして、退く覚悟をしておかなくてはなりません。
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二つの映画が奇しくも(その2)

2018年06月16日 09時33分48秒 | Weblog
裁判にかけられるマクベイ。ジグザグに艦を指揮すれば、魚雷を避けられたのではと尋問されます。裁判には意外な証人、日本軍の潜水艦の艦長であった橋本が証言台に立ちます。伊58とイ艦の距離からして、たとえジグザグに動いていたとしても、イ艦を撃沈できたと証言する橋本。マクベイに一部無罪、一部有罪の判決が下されます。

裁判後、橋本と対面するマクベイ。軍人としてイ艦を攻撃せざるをえなかったが、人間としては後悔があるとする橋本に、マクベイは橋本に敬礼をします。しかしマクベイは苦悩から開放されることはなく、数年経ったある日軍服に着替え、拳銃を持ち、自らの死で責任をとるのでした。

前回に続き以上が、映画“パシフィック・ウォー”のあらすじです。この映画には、乗組員の運命や友情も織り込まれ描かれています。映画ではこのようなストーリーでしたが、インターネット上で色々と調べてみると、悲惨な事実や秘話が明らかになります。

重巡洋艦インディアナポリス(イ艦)の乗組員は1196人。沈没の犠牲者となったのは約300人と言われ、翌朝の時点で約900人が海上で漂流していたことになり、最終的に救出されたのはマクベイ艦長以下316人ですので、つまり5日間の漂流中に約600人が亡くなったことになります。

漂流中に亡くなったその約600人は、少ない救命ボートにも乗れず鮫の襲撃はもとより、ある者は沈没時の怪我などが悪化し、ある者は海水を飲み脱水症や低体温で、ある者は精神的恐怖から幻覚に襲われながら、命を落としたのです。日本に投下する原爆を運ぶため、合計すれば米兵約900人も犠牲になったのです。

イ艦が沈没直後に発したSOSは米海軍では各所で受信していました。しかしイ艦の任務が極秘事項だったため、テニアン島からフィリッピンに向かうことは事前に通達されていなかったのです。更に言えば本土からテニアン島に出航していたこと自体、米海軍の極一部しか把握しておらず、イ艦遭難の発覚を遅らせてしまうことになりました。

米海軍は第二次大戦で700隻の艦艇を喪失しましたが、艦の喪失の責任の追及を受けたのはマクベイ艦長唯一人です。なぜそこまで艦長に責任を負わせなければならなかったのか。「極秘任務を終えたその後に、無防備な回航を行わせ途中で魚雷を受けた軍の不手際を恐れた」「戦争終結に功績のあったイ艦乗員・遺族の怒りをマクベイ氏に負わせざるを得なかった」。ということ等が浮かび上がります。

不遇な人生を送ったマクベイ氏が自殺をしたのは1968年です。それから7年後、映画“ジョーズ”が封切られます。鮫に恨みを持つ漁師は、このイ艦に乗っていたことが設定なのです。この映画の描写を食い入るように観ていた、当時12歳のハンター・スコットという少年がいました。

少年はこのことを徹底調査し、元イ艦乗員の証言、さらに軍法会議での橋本氏の予備審問での発言が再発見され、それを受けてマクベイ氏の名誉回復運動が高まり、2000年米国議会で「マクベイ艦長の責任は無く、一部の有罪も改めて無罪である」とする決議が採択、当時のビル・クリントン大統領が採決にサインを行いました。

イ艦沈没から55年、ようやくマクベイ氏の無罪は証明されることになりました。橋本氏もマクベイ氏の名誉回復を心から願っていた一人です。マクベイ氏の無罪決議の、その5日前に橋本氏は亡くなっていて、その朗報を聞くことは遂になかったのです。

たまたま観ていた“ジョーズ”と、録画して観た“パシフィック・ウォー”とが、奇しくも私の中でも繋がりました。二つには壮大な、ドラマチックな史実が隠されていました。因みに“ジョーズ”に出演していた、元海兵隊・漁師役のロバート・ショウは、私の好きな役者の一人です。

重巡洋艦インディアナポリス
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二つの映画が奇しくも(その1)

2018年06月09日 10時20分31秒 | Weblog
映画“ジョーズ”はおおよそ誰もが知っているストーリー、平和なビーチを襲う巨大人食い鮫の脅威とそれに立ち向う人々を描いた作品です。1975年の公開ですからもう43年前の映画ですが、人食い鮫が何時現れてくるのか、恐怖を増幅するあのサウンドは耳にこびり付いています。

夜間、テレビのチャンネルを何気なく回していると、その“ジョーズ”が放映されていました。途中からでしたが、過去観たことがあるにもかかわらず、見入ってしまいました。海岸の田舎町の警察署長が、今までの二人の犠牲者を鮫の襲撃と断定して、ビーチの人達を守る為、鮫の専門家の海洋学者に協力を依頼するところからでした。

一方市長は町の観光収益を優先して、予定通り海開きの実施を決行します。そして観光客にまた犠牲者が出る、という最悪な事態が発生します。警察署長は地元の荒くれの漁師を雇い、海洋学者と3人は鮫退治に漁船で大海原に乗り出して行くのです。

その漁船の中で、荒くれの漁師はかつて太平洋戦争で軍艦に乗り込んでいて、日本の潜水艦の魚雷で撃沈されたことを話し出します。漂流している仲間が次々に鮫に襲われ、多くの命が奪われた。その惨状が、漁師に鮫への強い憎悪を植え付けたとの印象的な内容。巨大人食い鮫との戦いの結末は、映画を観たことがある人の知るところです。

このように時間の余裕があって、映画を観るのはたまで、いつもは先の番組表をチェックして録画しておきます。戦争物は録画する対象となり、中でも好きな配役が登場する映画となれば、必ず録画となります。

題名は“パシフィック・ウォー”、主演はニコラス・ケイジ、その録画を観ました。観終わって、この映画は史実に基づくものだと分かり、興味が湧きインターネット上で色々と調べてみました。日本での公開は2017年、以下あらすじです。〔最初から映画でご覧になりたい方でしたら、この箇所は見ないで下さい〕

太平洋戦争末期の1945年7月、マクベイ艦長(ニコラス・ケイジ)率いる重巡洋艦インディアナポリス(以降:イ艦)は、トルーマン大統領の極秘指令により、テニアン島を目指しアメリカを出港します。極秘なので護衛の艦は一隻も付かず、広島へ投下される原爆を運ぶ命です。テニアン島に到着、原爆を陸揚げし任務を完了します。

イ艦は次の目的地フィリピンを目指して出港します。7月下旬、橋本艦長率いる日本の潜水艦伊58は、イ艦を発見します。伊58は特攻兵器、人間が操作する魚雷回天を搭載していましたが、夜間であり距離が近いことから、通常の魚雷で撃沈できると判断し発射します。二本の魚雷が命中、攻撃を受けたイ艦は大混乱になります。

艦内では、火災が発生、海水の侵入、マクベイ艦長は艦を放棄、乗組員は海に飛び込みます。イ艦は沈没、乗組員はボートに乗り込みます。限られた食料、多くのけが人、サメの襲撃で多数の生存者が命を絶ちます。それでも必死にマクベイ艦長は、多くの乗組員を助けようとします。絶望の5日目、海上をさまよう生存者は、米軍の一機の飛行機に偶然発見され、応援要請を受けた飛行機で救出されます。

病院に収容された生存者は300人ほど。戦争は広島、長崎への原爆投下によりアメリカの勝利に終わり、アメリカ本土に帰国する生存者。マクベイは、自宅でイ艦沈没の悪夢にうなされます。また、遺族からの怒りの電話がマクベイの自宅へかかってきます。マクベイは責任を問われ、遂に裁判にかけられます。 
 ~次回に続きます~

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山登りの誇り(その2)

2018年06月02日 09時47分45秒 | Weblog
私が山登りに興味を持ったのは、高校二年の時、姉に誘われて一緒に行った山が切っ掛けです。その山は長野県にある飯盛山です。白虎隊で有名な福島県会津若松にある飯盛山は「いいもりやま」と言いますが、こちらは「めしもりやま」と呼びます。

正に「茶碗に盛られたご飯」のような山です。JR最高地点を通過する、小海線の清里駅から登りました。標高は1,643mですが、既に清里駅付近が標高1,200mほどですので、一時間半くらいで頂上に着いたと思います。

登山道は一面牧草状態の中にあり、視界をさえぎる物も無く、登っている最中から壮大な、裾野からの八ヶ岳連峰が眺められます。山頂からは八ヶ岳の他、富士山、浅間山、秩父連峰まで、360度の大パノラマを満喫することができます。

頂上で八ヶ岳を目の前にして、持参したおにぎりを食べ、大の字で横たわり大空を見上げ、肌には草の香りがする爽やかな風を受け、大休止となりました。この強烈な印象が、私の心の奥深くまで入り込み、一気に山の虜になってしまいました。

実は私は父親の強制で、高校2年の時相撲部に入りました。父親が学生相撲を取っていて、その大学の付属の高校に私は入学したので、その高校にも相撲部があり、そこへ入れと言われたのです。入部したものの、父との約束の一学期だけは辛抱しましたが、早々に退部します。飯盛山には、その直後の姉からの誘いだったと思います。

結局は高校3年までどこのクラブへも所属せず、その大学に進学します。どのクラブにも入らない私を父親が見ていれば、再度大学の相撲部に入らされることになるので、それを見越してワンダーフォーゲルに、入部することにしました。私が山登りをすることになった経緯です。

大学4年間では、一から山登りの基礎を教え込まれ、やがてリーダーでメンバーを募り自分の企画でプランを出せるまでになりました。社会人になってからも大学の同期で山のクラブを創り、登山は続けます。社会人になって2年目、仕事の現場で大腿骨の骨折、そして後遺症が残って、以来山からは遠ざかることになります。

しかし今から3年前、大学卒業40周年を向かえ、ワンダーフォーゲル部の同期で記念登山をすることになりました。皆から誘われたこともあり、思い切って参加しました。自分の目標地点までは到達して、一人途中で下山しますが、38年振りの登山となりました。

前回書きましたが、OB・OGの山登りのプランに参加し出したのもこの記念登山が機縁です。5月に行われたOB・OGのプランの、私達のパーティには82歳の大先輩が元気に参加していました。私よりも10歳位上の先輩が中心でしたが、年代を超えて、しみじみ山の良さを共有できる仲間がいることは、私の誇りです。

長いブランクがある私とは違って、姉は山一筋。これも前回お伝えしましたが、山での事故に遭遇して咄嗟の行動がとれたのは、ただ長い経験の積み重ねによるものではないかと姉は言います。しかし行動をすることで、不思議な力が湧いてきた。その不思議な力は自分以外、いわば“神”からのように感じているとも言っています。

姉が所属している山のクラブは、その後会合を重ね、山での安全確認・事故対策を話し合い、連帯感が強まったとのことです。いずれにしましても、実直に山に向き合っているそのような姉を、私は誇りに思っています。

手前が飯盛山 その奥が八ヶ岳
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