「謀叛論(草稿)」 (部分)
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http://www.aozora.gr.jp/cards/000280/files/1708_21319.html〉
*末尾の注釈によれば、本来講演原稿であった「謀反論」には決定稿が存在しないらしい。
諸君、僕は幸徳君らと多少立場を異にする者である。僕は臆病で、血を流すのが嫌いである。幸徳君らに尽(ことごと)く真剣に大逆(たいぎゃく)を行(や)る意志があったか、なかったか、僕は知らぬ。彼らの一人大石誠之助君がいったというごとく、今度のことは嘘から出た真(まこと)で、はずみにのせられ、足もとを見る暇(いとま)もなく陥穽(おとしあな)に落ちたのか、どうか、僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死物狂(しにものぐるい)になって、天皇陛下と無理心中を企(くわだ)てたのか、否か。僕は知らぬ。冷静なる法の目から見て、死刑になった十二名ことごとく死刑の価値があったか、なかったか。僕は知らぬ。「一無辜(いちむこ)を殺して天下を取るも為さず」で、その原因事情はいずれにもせよ、大審院の判決通り真に大逆の企(くわだて)があったとすれば、僕ははなはだ残念に思うものである。暴力は感心ができぬ。自ら犠牲となるとも、他を犠牲にはしたくない。しかしながら大逆罪の企に万不同意であると同時に、その企の失敗を喜ぶと同時に、彼ら十二名も殺したくはなかった。生かしておきたかった。彼らは乱臣賊子の名をうけても、ただの賊ではない、志士である。ただの賊でも死刑はいけぬ。まして彼らは有為(ゆうい)の志士である。自由平等の新天新地を夢み、身を献(ささ)げて人類のために尽さんとする志士である。その行為はたとえ狂(きょう)に近いとも、その志は憐(あわれ)むべきではないか。
諸君、幸徳君らは乱臣賊子となって絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。諸君、西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんで、その志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研(みが)くことを怠ってはならぬ。
文中、は「乱臣賊子」を「謀反人」と言い換えている(たとえば「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された」のごとき)。つまり、「乱臣賊子」とは謀反人、すなわち国家に対する反逆者の同義語である。手元にある辞書類を見ると、「乱臣賊子」とは「国を乱す臣下と親にそむく子」と定義されている。もともとは『孟子』にある言葉である。「孔子春秋を成して乱臣賊子懼る」(「滕文公下」)。不忠不孝の徒を指す。前近代中国において、忠は主君による統治の、孝は社会の根幹を支える倫理であることを考えれば、不忠不孝が謀反をも同時に意味したことは容易にみてとれる。くりかえすが、「乱臣賊子」とは、謀反人の謂なのである。
そして「乱臣賊子」でも、「謀反」でもよいが、要するにこれらの語は中国においては皇帝その人への反逆であったが、日本においては当然のことながら天皇その人への反逆を意味する。第二義的意味として皇帝もしくは天皇を戴く国家体制――つまり国体――への反逆という意味にもなるが(蘆花は「謀反論」でこの意味でも使っている)、とにかくそれくらい深刻な言葉なのであった。こんにちの日本語における「反逆(もしくは叛逆)」のような、「目上や周囲にさからう」というほどでしかない、そんななまぬるい言葉ではない。
さて、横井小楠(1809- 1869)が幕末に坂本龍馬に会った際に、「好漢、惜しむらくは乱臣賊子となるなかれ」と言ったという有名な逸話がある。横井はその急進的な思想と物言いによって、のち共和主義者(それも米国式の)と目されて――誤解だったが――暗殺されることになる人物だが、彼は本当は儒学者であった。だから彼の「乱臣賊子」という言葉がその正式な用法に沿ったものであることは言うまでもない。つまり横井は、坂本に、天皇(制)廃止論者・運動家になるなと言ったのである。
このエピソードが本当にあったことかどうかは知らない。私には出典もつまびらかにしない。しかし考えてみれば、この挿話が実話であるかどうかはたいして問題ではないようにも思える。坂本龍馬の偉人たる所以は、日本を統一された近代国家にしようとした点にこそあるからだ。彼の著作「船中八策」(疑問を呈する説もあるが、私は彼の思想が反映したものと見なす)が、それを明らかに示す。
船中八策
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及(および)天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新(あらた)に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内(うだい)万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟(いやしく)も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難(かた)しとせず。伏(ふし)て願(ねがは)くは公明正大の道理に基(もとづ)き、一大英断を以て天下と更始一新せん。
(「青空文庫」から)
日本を統一国家に生まれ変わらせるというだけなら、維新の志士はみなそうであったので、なにも龍馬だけの専売特許ではない。維新後、体よく神祇官に押し込められた平田国学系の志士や、それすらも与えられずに文明開化の世の中から取り残された(そして横井小楠を殺したような)草莽の志士なら、古代的な天皇親政の統一王朝国家を再興するつもりであったのだろうから(これを王政復古という)、ますます間口が広くなる。近代的な統一国家、つまりは国民国家ということになるが、そこまで絞れば、ようやく幕末明治初の段階で、坂本龍馬、木戸孝允、大久保利通あたりにしぼられてくるだろう。幕末だけに限れば、おそらく龍馬ただひとりということになろうかと思われる。
こうしてみると、龍馬という人間を評価するうえで最大の鍵となるのは(あたかも
福澤諭吉における1万5,000ドルの件のように)、彼が、議会を、単なる諮問機関ではなく立法機関であるということを理解していたかどうか、そしてそのうえで憲法の制定および議会設立を主張していたかどうか、という点にあるのではないかと思えてくるのである。ただ福澤の場合、私の評価の軸足が主としてその人物にあるのに対して、龍馬の場合、その業績に置かれるという違いはあるが。
同時期の中国(清)では、鄭観応(1842-1922)はすでにこの点について理解していた。
鄭は、1893年に書かれた『
盛世危言』で、共和制国家を「民主之国」、立憲君主制国家を「君民共主之国」、君主専制国家を「君主之国」ときちんと分けて認識して呼び分けている。
蓋(けだ)し五大洲には君主の国有り、民主の国有り、君民共主の国有り。君、主ならば権上に偏り、民、主ならば権下に偏る。君と民と、共に主ならば権は其の平(ひと)しきを得(う)。 (「巻四 議院下」)
凡そ事は上・下院の議定に由ると雖も、仍(な)お其の君に奏して裁奪〔裁決〕せしむ。君然りと謂(おも)わば即ち簽名し准(ゆる)して行わしむ。君否と謂わば則ち発下〔命令〕し再議せしむ。 (同上)
というくだりを見れば、鄭が、立憲君主制国家においては主権が君主と国民の間で共有されること、そして共和制国家においては主権がまったく国民に在ることを正しく理解していたと分かる。ただし彼の著者のこのくだりは当時の中国においてはあまり理解されなかったようである。(日本では幕末の時点で加藤弘之がいち早くこの点を正しく把握していたが、彼は明治後、国権主義者となってその理解を封印した。)
ともあれ、鄭の言う「君民共主」を、幕末明治初の日本においては「君民共治」という言葉を用いた。しかし、その意味するところの立憲君主制国家において議会が諮問機関ではなく議決機関であり立法機関であることを正確に認識されていたかどうかは、非常に怪しい。そもそも彼らの念頭にあったのが果たして本当に立憲君主制だったかどうかすら、疑問をはさむ余地があるのである。尾佐竹猛などは、日本では明治中期にいたるまで、官・民をとわず、いわゆる自由民権派を含め、議会は単なる諮問機関として理解されていたと断じている。たとえば板垣退助率いる自由党系の民権派などは、議会開催を激しく主張する一方で憲法制定にはそれほど熱意がなかったが、これは彼らの議会政治やそれを成り立たせる立憲君主制に対しての理解があまり深くなかったことの証拠と見ることができる。英国には憲法がないというが、それは、憲法としてまとまった形で条文化されていないというだけで、憲法自体の概念と実体はちゃんとある。憲法=constitution、すなわち「くにのかたち」であるから、ない方がおかしいのである。板垣とその一統は、そのくにのかたちを持つ前に議会を開けと主張していたわけで、本末転倒である、というより、何のための議会かということを考えていなかったのでないか、実は議会とは何をどのようにするところかすら解かっていなかったのではないかと、極端にいえば疑うこともできる。
坂野潤治氏によれば、
1871年の廃藩置県によって、木戸孝允は政権の正当性の根拠として、はじめて憲法制定の必要性を痛感したというのだが、その木戸にしてみたところで、議会が立法機関であり従って国家(天皇)の持つべき主権が一部ではあるが国民に移ることまではどうも理解が十分には行き届いていなかった気配がある。もしかしたら木戸は(そして当時の政権担当者や在野の識者たちは)中世フランスの三部会のような、もっぱら課税審査権だけをもった、封建議会を考えていたのかもしれない。このことに関しては彼が本来プロシア式の君主専制体制の信奉者だったことも関連しているであろう。木戸が近代国家の根本律法としての憲法を必要としたにすぎないのであれば、議会に対する無理解と冷淡は当然ではある。
この点、議会の持つ意義についてはかえって廃藩置県に消極的だった大久保のほうがよく分かっていたようである。彼の「君民共治」論は木戸のプロシアとは異なりイギリスのそれを念頭に置いたものであった。しかしその大久保としても幕末の時点では議会についての理解はあやしいもので、彼の場合、廃藩置県のあと、岩倉使節団の副使として西洋諸国を広く巡りその現実をしたしく見聞したことが大きいと思われる。彼の発言に、将来の目指すべき日本の政体として「君民共治」の語がしばしば見えるようになるのは帰国後である。「政体ニ関スル意見書」(明治6・1873)年がその代表的なものである。
そんななか、もし坂本が、幕末の時点ですでに、西洋語も知らず、西洋諸国へ行くこともなく、それでいて近代議会政治の本質をただしく理解し、そのうえに立って憲法の制定を主張していたとすれば、彼はまさに当時の日本において古今独歩の存在だったということになるだろう。憲法の意義も議会の意味も正確には理解されていなかった幕末の日本においては、坂本の唱える立憲君主制は、共和制と区別されることなく、横井に限らずそれを聞いた人間には皆、上を無みする「乱臣賊子」の言と思われたに違いない。