書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

尾佐竹猛 「元老院の性格」

2016年06月18日 | 抜き書き
 尾佐竹猛編者代表『明治文化の新研究』(亜細亜書房 1944年3月)、同書117-146頁所収。

 此頃の政情としては、〔略〕封建割拠の遺習を打破する為の行政協議会的のものを要望する気運が漲つて居つたのである。而して当時勃興しつゝあつた憲政思想が、これを組織化すべく地方官会議の開催となつたのである。
 されど、その憲政思想というものゝ、幕末以来発達しつつあつた議会思想は、西欧思想を採り容れつゝあつたとはいへ、本来の三権分立思想は、充分発達せず、折からの中央集権化の方策と、対蹠的の存在となつて居つたのであり、その議会思想といふものも、議決機関と諮問機関との区別も明白ならざるときであつたから、こゝに、官吏を以て、民論の代表者と見做すといふ官選議員論は、最も存在の妥当性を有して居つたのである。 
 こゝへ、大阪会議に出発した新なる三権分立に立脚した地方官会議論が、今や発達しつゝあつた土壌に立つて元老院と共に上下両院論に彩られて登場したのである。
(131頁。原文旧漢字。下線は引用者)

徳冨蘆花 「謀反論」を読んで坂本龍馬に想いを致す

2009年11月04日 | 思考の断片
 「謀叛論(草稿)」 (部分)
 〈http://www.aozora.gr.jp/cards/000280/files/1708_21319.html
 *末尾の注釈によれば、本来講演原稿であった「謀反論」には決定稿が存在しないらしい。

 諸君、僕は幸徳君らと多少立場を異にする者である。僕は臆病で、血を流すのが嫌いである。幸徳君らに尽(ことごと)く真剣に大逆(たいぎゃく)を行(や)る意志があったか、なかったか、僕は知らぬ。彼らの一人大石誠之助君がいったというごとく、今度のことは嘘から出た真(まこと)で、はずみにのせられ、足もとを見る暇(いとま)もなく陥穽(おとしあな)に落ちたのか、どうか、僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死物狂(しにものぐるい)になって、天皇陛下と無理心中を企(くわだ)てたのか、否か。僕は知らぬ。冷静なる法の目から見て、死刑になった十二名ことごとく死刑の価値があったか、なかったか。僕は知らぬ。「一無辜(いちむこ)を殺して天下を取るも為さず」で、その原因事情はいずれにもせよ、大審院の判決通り真に大逆の企(くわだて)があったとすれば、僕ははなはだ残念に思うものである。暴力は感心ができぬ。自ら犠牲となるとも、他を犠牲にはしたくない。しかしながら大逆罪の企に万不同意であると同時に、その企の失敗を喜ぶと同時に、彼ら十二名も殺したくはなかった。生かしておきたかった。彼らは乱臣賊子の名をうけても、ただの賊ではない、志士である。ただの賊でも死刑はいけぬ。まして彼らは有為(ゆうい)の志士である。自由平等の新天新地を夢み、身を献(ささ)げて人類のために尽さんとする志士である。その行為はたとえ狂(きょう)に近いとも、その志は憐(あわれ)むべきではないか。

 諸君、幸徳君らは乱臣賊子となって絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。諸君、西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんで、その志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研(みが)くことを怠ってはならぬ。

 文中、は「乱臣賊子」を「謀反人」と言い換えている(たとえば「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された」のごとき)。つまり、「乱臣賊子」とは謀反人、すなわち国家に対する反逆者の同義語である。手元にある辞書類を見ると、「乱臣賊子」とは「国を乱す臣下と親にそむく子」と定義されている。もともとは『孟子』にある言葉である。「孔子春秋を成して乱臣賊子懼る」(「滕文公下」)。不忠不孝の徒を指す。前近代中国において、忠は主君による統治の、孝は社会の根幹を支える倫理であることを考えれば、不忠不孝が謀反をも同時に意味したことは容易にみてとれる。くりかえすが、「乱臣賊子」とは、謀反人の謂なのである。
 そして「乱臣賊子」でも、「謀反」でもよいが、要するにこれらの語は中国においては皇帝その人への反逆であったが、日本においては当然のことながら天皇その人への反逆を意味する。第二義的意味として皇帝もしくは天皇を戴く国家体制――つまり国体――への反逆という意味にもなるが(蘆花は「謀反論」でこの意味でも使っている)、とにかくそれくらい深刻な言葉なのであった。こんにちの日本語における「反逆(もしくは叛逆)」のような、「目上や周囲にさからう」というほどでしかない、そんななまぬるい言葉ではない。
 さて、横井小楠(1809- 1869)が幕末に坂本龍馬に会った際に、「好漢、惜しむらくは乱臣賊子となるなかれ」と言ったという有名な逸話がある。横井はその急進的な思想と物言いによって、のち共和主義者(それも米国式の)と目されて――誤解だったが――暗殺されることになる人物だが、彼は本当は儒学者であった。だから彼の「乱臣賊子」という言葉がその正式な用法に沿ったものであることは言うまでもない。つまり横井は、坂本に、天皇(制)廃止論者・運動家になるなと言ったのである。
 このエピソードが本当にあったことかどうかは知らない。私には出典もつまびらかにしない。しかし考えてみれば、この挿話が実話であるかどうかはたいして問題ではないようにも思える。坂本龍馬の偉人たる所以は、日本を統一された近代国家にしようとした点にこそあるからだ。彼の著作「船中八策」(疑問を呈する説もあるが、私は彼の思想が反映したものと見なす)が、それを明らかに示す。

 船中八策

 一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
 一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
 一、有材の公卿・諸侯及(および)天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
 一、外国の交際広く公議を採り、新(あらた)に至当の規約を立つべき事。
 一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
 一、海軍宜しく拡張すべき事。
 一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
 一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
  以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内(うだい)万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟(いやしく)も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難(かた)しとせず。伏(ふし)て願(ねがは)くは公明正大の道理に基(もとづ)き、一大英断を以て天下と更始一新せん。
(「青空文庫」から)

 日本を統一国家に生まれ変わらせるというだけなら、維新の志士はみなそうであったので、なにも龍馬だけの専売特許ではない。維新後、体よく神祇官に押し込められた平田国学系の志士や、それすらも与えられずに文明開化の世の中から取り残された(そして横井小楠を殺したような)草莽の志士なら、古代的な天皇親政の統一王朝国家を再興するつもりであったのだろうから(これを王政復古という)、ますます間口が広くなる。近代的な統一国家、つまりは国民国家ということになるが、そこまで絞れば、ようやく幕末明治初の段階で、坂本龍馬、木戸孝允、大久保利通あたりにしぼられてくるだろう。幕末だけに限れば、おそらく龍馬ただひとりということになろうかと思われる。
 こうしてみると、龍馬という人間を評価するうえで最大の鍵となるのは(あたかも福澤諭吉における1万5,000ドルの件のように)、彼が、議会を、単なる諮問機関ではなく立法機関であるということを理解していたかどうか、そしてそのうえで憲法の制定および議会設立を主張していたかどうか、という点にあるのではないかと思えてくるのである。ただ福澤の場合、私の評価の軸足が主としてその人物にあるのに対して、龍馬の場合、その業績に置かれるという違いはあるが。

 同時期の中国(清)では、鄭観応(1842-1922)はすでにこの点について理解していた。
 鄭は、1893年に書かれた『盛世危言』で、共和制国家を「民主之国」、立憲君主制国家を「君民共主之国」、君主専制国家を「君主之国」ときちんと分けて認識して呼び分けている。

 蓋(けだ)し五大洲には君主の国有り、民主の国有り、君民共主の国有り。君、主ならば権上に偏り、民、主ならば権下に偏る。君と民と、共に主ならば権は其の平(ひと)しきを得(う)。  (「巻四 議院下」)

 凡そ事は上・下院の議定に由ると雖も、仍(な)お其の君に奏して裁奪〔裁決〕せしむ。君然りと謂(おも)わば即ち簽名し准(ゆる)して行わしむ。君否と謂わば則ち発下〔命令〕し再議せしむ。  (同上)

 というくだりを見れば、鄭が、立憲君主制国家においては主権が君主と国民の間で共有されること、そして共和制国家においては主権がまったく国民に在ることを正しく理解していたと分かる。ただし彼の著者のこのくだりは当時の中国においてはあまり理解されなかったようである。(日本では幕末の時点で加藤弘之がいち早くこの点を正しく把握していたが、彼は明治後、国権主義者となってその理解を封印した。)

 ともあれ、鄭の言う「君民共主」を、幕末明治初の日本においては「君民共治」という言葉を用いた。しかし、その意味するところの立憲君主制国家において議会が諮問機関ではなく議決機関であり立法機関であることを正確に認識されていたかどうかは、非常に怪しい。そもそも彼らの念頭にあったのが果たして本当に立憲君主制だったかどうかすら、疑問をはさむ余地があるのである。尾佐竹猛などは、日本では明治中期にいたるまで、官・民をとわず、いわゆる自由民権派を含め、議会は単なる諮問機関として理解されていたと断じている。たとえば板垣退助率いる自由党系の民権派などは、議会開催を激しく主張する一方で憲法制定にはそれほど熱意がなかったが、これは彼らの議会政治やそれを成り立たせる立憲君主制に対しての理解があまり深くなかったことの証拠と見ることができる。英国には憲法がないというが、それは、憲法としてまとまった形で条文化されていないというだけで、憲法自体の概念と実体はちゃんとある。憲法=constitution、すなわち「くにのかたち」であるから、ない方がおかしいのである。板垣とその一統は、そのくにのかたちを持つ前に議会を開けと主張していたわけで、本末転倒である、というより、何のための議会かということを考えていなかったのでないか、実は議会とは何をどのようにするところかすら解かっていなかったのではないかと、極端にいえば疑うこともできる。
 坂野潤治氏によれば、1871年の廃藩置県によって、木戸孝允は政権の正当性の根拠として、はじめて憲法制定の必要性を痛感したというのだが、その木戸にしてみたところで、議会が立法機関であり従って国家(天皇)の持つべき主権が一部ではあるが国民に移ることまではどうも理解が十分には行き届いていなかった気配がある。もしかしたら木戸は(そして当時の政権担当者や在野の識者たちは)中世フランスの三部会のような、もっぱら課税審査権だけをもった、封建議会を考えていたのかもしれない。このことに関しては彼が本来プロシア式の君主専制体制の信奉者だったことも関連しているであろう。木戸が近代国家の根本律法としての憲法を必要としたにすぎないのであれば、議会に対する無理解と冷淡は当然ではある。
 この点、議会の持つ意義についてはかえって廃藩置県に消極的だった大久保のほうがよく分かっていたようである。彼の「君民共治」論は木戸のプロシアとは異なりイギリスのそれを念頭に置いたものであった。しかしその大久保としても幕末の時点では議会についての理解はあやしいもので、彼の場合、廃藩置県のあと、岩倉使節団の副使として西洋諸国を広く巡りその現実をしたしく見聞したことが大きいと思われる。彼の発言に、将来の目指すべき日本の政体として「君民共治」の語がしばしば見えるようになるのは帰国後である。「政体ニ関スル意見書」(明治6・1873)年がその代表的なものである。
 そんななか、もし坂本が、幕末の時点ですでに、西洋語も知らず、西洋諸国へ行くこともなく、それでいて近代議会政治の本質をただしく理解し、そのうえに立って憲法の制定を主張していたとすれば、彼はまさに当時の日本において古今独歩の存在だったということになるだろう。憲法の意義も議会の意味も正確には理解されていなかった幕末の日本においては、坂本の唱える立憲君主制は、共和制と区別されることなく、横井に限らずそれを聞いた人間には皆、上を無みする「乱臣賊子」の言と思われたに違いない。

李暁東 『近代中国の立憲構想 厳復・楊度・梁啓超と明治啓蒙思想』

2008年09月11日 | 東洋史
 梁啓超は中国で設置すべき国会の機能を、立法機関から監督機関(=諮問機関)へと捉え直した。この梁の変化を、通常「開明専制論」への後退と呼んでいるというのが、著者の見地。
 日本では議会についての理解は、諮問機関から議決機関・立法機関へと進んだ。だが日本の場合、無知による誤解から知識の増進とともに正確な理解へと進んだのだが、中国の場合、日本という先達もあって、当初から正確に理解していたが、中国の「民情」(あるいは「民度」、あるいは「国情」)にかんがみて(あるいはそれらを口実にして)、故意に理解を歪げたところにあるようだ。著者によれば、この経緯は表題に名が挙げられた厳復・楊度・梁啓超の三名すべてに共通するらしい。

(法政大学出版局 2005年5月)

鄭観応 『盛世危言』

2008年08月16日 | 東洋史
 今年5月22日欄「鄭観応著 野村浩一訳 『盛世危言』(1893年)から」から続く。
 『盛世危言』を、原文で読んでみた。

 議政院〔議院、議会〕というものを考察してみるのに、各国ではいくらか相違があるものの、おおむね上下の両院にわかれるという形からはずれるものはない。近いという点からいえば、上院は、その国の王族、勲功ある親族、及び各部の大臣をばこれに任命する。君主に近いという点を取るのである。他方、下院は、紳士、名望家、士民、商民のうち才能にすぐれ、人望の厚いものをこれに充てる。民に近いという点を取るのである。選挙の法は、ひとえに公衆を中心とする。国事にかかわる事がらが起これば、先ず下院で審議、決定させ、上院に通達させる。上院はこれを審議、決定して、国君に奏上し、こうして採否を決する。もし意見が喰い違えば、両院は重ねて論議し、妥協に達するようつとめて後、これに従う。経費がどれほどになっても、議院がこれを定め庶民はそれに従う。 (野村浩一訳『盛世危言』(抄訳)から)

 『原典中国近代思想史』(第二冊)に翻訳・収録されたこのくだりは『盛世危言』の「巻四 議院上」に見えるものである。
  同じ巻四の「議院下」で、鄭は、世界には「君主之国」「民主之国」「君民共主之国」が存在すると述べている。

 蓋(けだ)し五大洲には君主の国有り、民主の国有り、君民共主の国有り。君、主ならば権上に偏り、民、主ならば権下に偏る。君と民と、共に主ならば権は其の平(ひと)しきを得(う)。  (「巻四 議院下」)

 鄭の言う“君民共主之国”が、幕末明治初めの日本においては“君民共治”という言葉で呼ばれた、立憲君主制国家であることは、続く以下の説明から分かる。

 凡そ事は上・下院の議定に由ると雖も、仍(な)お其の君に奏して裁奪〔裁決〕せしむ。君然りと謂(おも)わば即ち簽名し准(ゆる)して行わしむ。君否と謂わば則ち発下〔命令〕し再議せしむ。  (同上)

 なお“民主之国”とは言うまでもなく民主主義制国家であり、“君主之国”は君主専制国家の謂である。

 其の法を立つるの善なる、思慮の密なるは、皆な上下相い権(はか)り、軽重平しきを得て、乃ち克(よ)く此に臻(いた)るに由るなり。此の制、既に立てば実に億万人を合して一心と為す。  (同上)
 
 これは“君民共主之国”=立憲君主制国家の利点について述べたものである。
 鄭観応は、国家主権の所在について、君主、人民、その双方の場合があることを明確に認識している。
 鄭は、立憲君主制国家においては主権が君主と国民の間で共有されること、民主制国家においては主権がまったく国民に在ることを理解していた、このことはつまり、鄭は議院(議会)が諮問機関ではなく議決機関、立法機関であることを正確に認識していたということである。
 それは、このくだりにつづいて彼がイギリスと日本の例を引いて説明していることからも明らかである。

 試みに英国弾丸の地〔ちっぽけな国〕を観ん。女主国に当たり、人を用いて政を行わせしむるも、皆な上下院議員の経理〔管理運営〕を恃むなり。比年〔きんねん〕人を得、土地は已に其の本国に二十倍す。議院の明効〔明白な効果〕・大験〔顕著な効き目〕、此の如き者有り。日本之を行い、亦た勃然として興起せり。西国に歩趨〔後を追う〕し、中華を陵侮〔蔑み馬鹿にする〕す。而して猶お議院は行うべからざると謂うか。  (同上)

 この記述からは今ひとつ明らかになることがある。鄭観応はよくいわれるような洋務派よりも、変法派に近いスタンスの持ち主だということである(洋務派は、中国の伝統的な君主専制体制以外の国家体制を理解できないか、理解できても、その優越性を認めるような言動は絶対にしない)。議会制を導入せよという鄭の主張は、君主専制から立憲君主制へと清朝の国家体制を変えよという、まさに変法以外の何物でもない。そして鄭は、それが皇帝権力の制限を必然的に伴うことを百も承知していた。

(台湾 学術出版社 1965年11月)

坂野潤治 『未完の明治維新』 (筑摩書房 2007年3月)から

2008年08月14日 | 抜き書き
 議会制自体は王政復古の直前にいったんは成立しかけた。藩主を集めた上院と、藩士の代表を集めた下院の二院制構想がそれである。しかも、それは王政復古の激励の中で突然浮上してきたものではなく、その四年前の文久三年(一八六三)以来、各方面で検討されてきたものであった。
 しかし、封建制の存続を前提にしたこの二院制構想では、「憲法」というものはほとんど論じられることはなかった。考えてみれば、これはある意味では当然のことであった。上院に集まる藩主は領地内の租税と軍隊を握っており、下院に集まる藩士代表は、各藩における藩主のブレイン的存在であった。
 財権と兵権を握った藩主を集めた議会に、政府は何を諮問したらいいのであろうか。憲法というものは、行政府と立法府の権限を明確にするために必要なのであるが、幕末に構想された議会制では、最重要な財権と兵権は、行政府でも議会でもなく議員たる各藩主が握っている。下院のほうも、藩主のブレインたる藩士と決まっているのだから、そもそも下院選挙というのも不必要である。
 議会の構成員はすでに決まっており、その議員各員は各藩の行政権を握っているとすれば、幕末議会論にとって憲法などはほとんど必要なかったのである。そのような議会が仮りに成立したとしても、政府が議会に諮るべき議題は、ごく限られたものにあろう。幕末議会論の首唱者とも言うべき幕臣の大久保忠寛(一翁)が、その会期について「会期は五年に一回これを開き、臨時議すべき事件あれば臨時に開らくべし」と記しているのは、このためである。 
 すでに幕府が調印してしまっている欧米諸国との条約に勅許(批准)を与えるかどうか、合議制の下における将軍職をどう変えるかぐらいが、幕末議会ができた場合の主な議題であったのである。 (「第五章 木戸孝允と板垣退助の対立」、本書123-124頁)

 つまりみな、立法機関ではなく、議決機関でもない、諮問機関としての議会を考えていたわけである。

 しかし一八七一年に廃藩置県を断行して以後は、議会の性格は百八十度変化する。今や財権と兵権は、薩・長・土三藩の御親兵に守られた新政府が握っている。もしこの二権の運用について議会を開いて民意を問うとすれば、政府と議会の権限をあらかじめ明確にしておかなかれば大混乱に陥いる。どうしても憲法が必要になってくるのである。 
 廃藩置県を断行した以上、憲法の制定なしには新政府の正統性を長期的に維持できないことを痛切に感じていたのは、長州の木戸孝允であった。(中略)そもそも木戸は憲法調査を自己の最優先課題として、岩倉使節団の副使となったようである。 (同上、本書124頁)

 木戸は開明派・立憲主義者といわれるが、その由って来たる所をこういった角度から観ると、木戸が実は大久保利通以上に君主権力の強い国家体制を志向していた事実は、それほど理解に困難ではなくなる。木戸は民を愛するがゆえに開明派や立憲主義者だったのではなく、国家の秩序確立のために憲法の必要を唱えたのであろうと。

思考の断片の断片(57)

2008年05月22日 | 思考の断片
 ★中国における憲政思想の発生は何時か。どう展開したか。

 ★中国知識人に、議会について、それが諮問機関ではなく議決機関であるとの理解が行き届いたのはどの時点か。鄭観応か。それとも陳虬か。
   鄭観応 http://baike.baidu.com/view/27622.html
   陳虬 http://baike.baidu.com/view/388617.htm