柄目木庵

良寛さまに思いをよせながら。

お彼岸の墓参り

2012年03月25日 | 良寛さまのことなど
 20日のお彼岸の中日(春分の日)は、予期せぬ「なごり雪」で、家の中で過ごしてしまいました。
その翌日21日の午前、私は長岡市和島島崎の菩提寺「隆泉寺」に、お墓参りをしてきました。

 いつ来ても、なんとなくうれしくなる「お墓参り」なのです。
ご先祖へのお参りであることの他に、ここには「良寛さまのお墓」もあるのです。
そして、いつもいつも代わり映えのしない「良寛さまゆかりの写真」などを撮っています。
今年も、同じことでした。そしてなんとなく満たされてしまっています。




 訪れるたびに、「良寛さまの銅像やお墓」を撮っています。
「禅宗のお坊さん」であった良寛さまのお墓が「浄土真宗のお寺」にあるというのも、何と言うかいい感じに思われます。
たぶん、最後まで良寛さまを面倒見られた「木村家」の菩提寺にお墓があると言うことでしょう。
おそらくそのことは、良寛さまも「お願いします」ということであったろうと思います。
「良寛さま」というのは、そういう「おおらかな、とらわれのない人柄」であったと思っています。






 境内には戊辰戦争の戦火を逃れた「経蔵」が残っています。




 お墓参りの後先に必ず通る「木村家」の裏を通る道、そこに「良寛さま」が最晩年を過ごされた「終焉の地」の碑があります。
ここには「貞心尼と語り明かした」庵があったのだ、そう思うと胸に迫るものがあります。

五合庵に遊ぶ

2012年03月21日 | 良寛さまのことなど
 この日(16日)は、私の希望で家内には「五合庵」にお付き合いをしてもらいました。

 「ホテル飛鳥」からはほんのちょっぴりの距離です。
今年は残雪も多いであろうと、いつものコース国上寺(こくじょうじ)経由をあきらめました。
そこで、国上山(ぐがみやま)の麓をまわり、中腹までの細くぐにゃぐにゃ曲がる道を上りました。
やがて「本覚院」の駐車場に到着です。私には初めてのコースでした。

 じつは、「本覚院」のすぐ上が「五合庵」であることだけは知っていました。
ちょうど、ご住職が駐車場の雪を駐車場に広げて、消雪の作業をされていました。
ご住職から、「山頭火の句碑」のあることや「五合庵への道」を、とても親切に教えていただきました。
 



「山頭火」の「青葉分け行き良寛さまも行かしたろ」には、すっかりうれしくなりました。
私たちも、残雪を踏み分けて「五合庵への道」を登りました。
いつもとは違ったアングルからの「五合庵」に、これまたうれしくなりました。








 存分に満足して、ぐにゃぐにゃ道を下りました。

 海岸道路を新潟市方面に走り「カーブドッチ」で休憩、おいしい「パン」で昼食としました。
その間、じっとしてくれていた「猫ちゃん」を、お礼にパチリ。


 今度は、どんどん北上して「村上・瀬波温泉」を目的地としました。
泊まる宿が見つかれば宿泊もよし、その宿探しと交渉は家内に任せました。

小さな旅のはじまり2

2012年03月19日 | 良寛さまのことなど
 15日のお昼近くに、改めて「寺泊」から「出雲崎」に向けて海岸線を走りました。

 寺泊をはずれると、そこは「郷本」です。「郷本空庵跡の石碑」を発見、危うく通り過ぎるところでした。
岡山県「円通寺」での修行を終えられ、さらに諸国行脚の後、北国街道を通り越後に戻られた「良寛さま」でした。
生まれ故郷「出雲崎」ではなく、そこを通り過ぎ、
しかしあまり離れていない「郷本空庵」に落ち着かれた心中はいかばかりだったでしょうか。




 やがて車は「出雲崎」でした。この日は風が強く、海は荒れていました。
防波堤を乗り越える波としぶきからカメラを防御しながら、シャッターチャンス狙いました。




 ここからは「弥彦山」がまるで海に浮かんでいるように見えました。
いつも新潟平野の方から見ている「弥彦山」でしたが、海岸側から見る「弥彦山」は美しく堂々たるものでした。


 やがて良寛さまの生家・橘屋跡に建つ「良寛像」と「良寛堂」です。


 その「良寛像」はじっと海の方「佐渡島」を見やっています。
良寛さまの母親は、「佐渡相川」から橘屋に嫁がれています。肩を落として海を見る姿が、なんとも寂しそうでした。


 出雲崎からの帰り道、雲間から漏れる陽射しにギラつく海水面が印象的でした。


 この日は、さらにもう1泊の「ホテル飛鳥」でした。
じつは、久々の「良寛さま」でした。明日はどうしても撮りたい「五合庵」、その近くで泊まりたかったのです。

再びの3.11

2012年03月11日 | 良寛さまのことなど



 これは今日の夕方、「阿賀野川堤防」の上からの「飯豊山」の様子です。
あの白い峰の向こうは、山形県それに福島県です。

 今日は、朝からTVで「東日本大震災3.11特集」番組を、ずーっと見続けてしまいました。
立ち直ろうとする現地の人々の様子に、何度も涙しました。
また、多くのボランティアの方々の活躍やご苦労を思って、頭が下がります。
私は何もしてあげることができなかった、無力感と後ろめたさを感じていました。

 文政11年(1828)11月12日午前8時、新潟県三条市を震源とする「三条大地震」が起きました。
当時の「三条」はほとんど壊滅状態となりました。
そのとき「良寛さま」は何人かの親しい方に見舞状を出されました。

 その中に「しかし災難に逢時節には災難に逢がよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、
是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と書かれました。

 災難防止、災難予防、減災の工夫など数々の工夫や努力は当然のことながら、一度噛みしめてみるべき
言葉ではないかとおもっていますが、いかがでしょうか。

 それに引き替え、「原発事故と災害」はまことに看過できることではありません。
いまにして思えば、あまりに「自然のパワー(地震津波、核エネルギー)」を見損なっていた知識や技術の浅はかさを、
いやと言うほど知らされました。「想定外」とはなんたることでしょう。
このことは、人の無知であること、人の愚かさを表している何ものでもありません。謙虚さが足りませんでした。

 ふたたび「良寛さま」の辞世の歌とも言われている
「形見とて何残すらん春は花 夏ほととぎす あきはもみぢ葉」があります。
「原発」は、未来に何を残すことができるのでしょうか。
このへんで、むなしい廃墟と隣り合わせの繁栄ではなく、花を愛でる心づくりこそ目指すべきではないでしょうか。
どうも、あたらしい豊かさの「スケール」がほしいですね。

ふるまち良寛てまり庵

2011年12月03日 | 良寛さまのことなど

 この日(12月1日)、私は中央区白山公園の駐車場に車を止めて、上古町を下(しも)に向かって歩きました。

 数日前に、この「上古町」に「良寛さんのことを気軽に話し合えるスペース」が誕生したことが広報誌に載っていました。

 白山神社の鳥居をくぐり歩いて行くと、ほどなく「ふるまち良寛手まり庵」を発見できました。
とても素敵な佇まいだったので、思わず「すいと」気兼ねなく入ってしまいました。
「良寛さま」に関する書籍がどっさり、展示棚には「良寛さまの書」などがありました。
「心月輪」の一幅もありました。




 さっそく、お茶と茶菓をいただくことができました。何人かの係の方がボランティアとしておいででした。
続いて、5,6人ほどの年配の女性達も、この庵に入ってきました。



 良寛さまのことなどを話題にしながら、お茶をいただきました。
手まりをついてみせていただいたり、そして、「良寛さまの紙芝居」が始まりました。



 じつは、この紙芝居を、とてもわかりやすく読み進めてくださっていたのは、前新潟市長の「長谷川」さんでした。
現在は「全国良寛会会長」もされている方です。
その柔和な表情や語り口から、良寛さまを深く敬慕なさっているのだなあ、と思いました。





 すこぶる居心地がよくて、ついつい長居をしてしまいました。
帰りにはお土産に「心月輪(しんがちりん)」が印刷されているクリーヤファイルをいただきました。

 じつは、我が家の茶道具の「茶托」には、この「心月輪」と彫刻されたセットが、それこそ私の物心ついた頃には
すでにありました。
この文言の書かれた事情や深い意味を知ったのは、最近のことでした。

 いつか、また訪れてみたいものです。新潟に出かける楽しみが、また増えました。

三条の良寛さま2

2011年10月19日 | 良寛さまのことなど



良寛さまは、「宝塔院」のご住職とじっこんの間柄となられて、ここにしばらく逗留されたこともあったようです。






 私たちは、やがて「三条市立図書館」に到着です。
じつは、この地点が「三条の良寛の道」出発点でもあります。
私には、思わず手を合わせたくなる「良寛像」でした。




 図書館の裏手に回ると、小さな神社「日吉神社」がありました。
そこには「焚くほどは・・・」の、あの有名な歌碑がありました。




 この神社の反対側にある小学校は「三条小学校」です。
じつは、紛れもなく私の母校です。
あの木造の校舎のイメージは全くありませんでしたが、「五十嵐川の流れ来て・・・・」と校歌がすらすらと出てきました。
懐かしさも、極まれり、でした。


 改めて、三条の人たちが「良寛さま」を如何に敬慕し大切な人としていたか、と言うことに胸を熱くする思いでした。
訪ねてよかった「我がふるさと」でした。

三条の良寛さま1

2011年10月17日 | 良寛さまのことなど
 すっかり秋も深まってきました。
しきりに良寛さまのことなどに、思いを寄せる今日この頃です。
落ち葉と暮れなずむ「五合庵」の風情を、ぜひ撮ってきたい、そんな気持ちなのです。

 さいわい、今月初め高校の同窓の皆さんからお誘いをいただき、
「三条の良寛さま」の史跡巡りということで、いそいそと出かけていました。
写真などが整理しきれないままに、ここに載せることになってしまいました。

 その日は、三条市「鍛冶道場」に集合、同窓の方のご案内ではじまりました。


八幡宮」、ここは5月の三条祭りでは境内でのサーカス小屋や夜店が並んでいたものでした。
今でも、こころ踊るなつかしい思い出がよみがえってきました。いまは静かな境内がいっそう郷愁を誘いました。






 同じ、八幡宮の一画に、こんな紹介もありました。すばらしくて、すごい人がいてくれたものです。うれしくなりました。
萩の花が、未だに咲いてくれていました。
「泉薬寺「定明寺」「乗蓮寺」「宝塔院」と回りましたが、三条生まれの私にも、あたらしい発見の連続でした。








 訪れる人とて無くなった無縁墓の石塔が、一隅に整理されていました。

ツクツクボウシ

2011年08月17日 | 良寛さまのことなど
 今日の夜半に「にわか雨」が降りました。開け放していた窓を慌てて起き出して閉めました。
そして朝方、もう一度の「にわか雨」のサービスがありました。
でも、もうちょっとたっぷりと降ってほしいところでした。

 そのせいでしょうか、今朝ほどは暑さがほんの少しだけ和らいでいるようです。
そして、「ツクツクボウシ、ツクツクボウシ!」と聞こえてきました。はじめて聞きました。
そしたら、なんと「ウグイス」が近くの竹林で見事に「ホーホケキョ、ホーホケキョ」でした。
ウグイスは秋葉山から、この平場にやってきて、どうしたというのでしょうか。まさか暑さのせいでもないでしょうに。


 とても暑さが身に堪える連日でしたが、予定通り13日には、長男家族と私ども夫婦はお墓参りをしてきました。










 ようやく、BLOGを書こうかという気力が出てきました。
13日、長岡市和島島崎の「泉寺」でお墓参りを済ませました。
ついでといっては失礼ですが、「良寛さま」のお墓にもお参りをしました。

 近くの「良寛の里」に移動して「お休み処・和らぎ家」で昼食としました。
ここは、ギャラリーがあり、いつも素敵な展示があります。
今回は「相沢陽一・にいがた山野の花」「山田 智・星空風景写真」でしたが、とても素敵な展示でした。

 また、「和らぎ家」の大きな障子戸に描かれている「良寛さまの詩やその世界」は、いつ見ても心和みます。

 そんなわけで、よい一日であったと思っています。

五合庵への道

2011年02月10日 | 良寛さまのことなど
 私たち夫婦の「国上山」頂上の断念が、結果的に「雪の五合庵」へと向わせてくれました。
久々に「良寛さまに思いをよせて」となったことに、喜びを感じています。

 「国上寺」の境内を通り抜けると、そこは「良寛さまへの道」となります。
訪れる人も少なく雪道は荒れていました。






 落葉樹が葉を落としスカスカとなっている杉木立の間から、どうも見たことのある屋根が見えるではありませんか。
間違いなく「五合庵」の屋根です。しかも雪を乗せて。
他の季節の時には、絶対に見ることの出来ないポイント・アングルからの「五合庵」なのです。
写真を撮る手が震えていました。


 急な階段の雪道を、ようやく降りきることが出来ました。
しばし夢中でシャッターを切りました。ふと、我に返り、ご無沙汰を「良寛さま」にお詫び申し上げました。
厳しい冬を何年にもおよんで過ごされた、ここ「五合庵」です。
訪れる人とてないなかで、どのようにすごされたのでしょうか。きっと、自己充実の日々だったのでしょう。






 駐車場への帰り道は「千眼堂つりばし」をわたり、見晴らしのよい展望公園に出ました。
見渡すと、雪一面のなかに島並みのように見えるところがあります。まるで「松島か象潟」のようにも見えました。




 今日は思いがけない収穫となったような気分でした。
この日は、我が家の大蔵大臣にお願いして、分水河口の野積「ホテル飛鳥」に一泊の大サービスディーとしました。

お盆 2

2010年08月16日 | 良寛さまのことなど
 お墓参りを終えた私たちは「お休み所・和らぎ家(やわらぎや)」で、どっかりと腰を落ち着けて「昼食」としました。

 以前に訪れてはいたのですが、改装されたお店の中は、とても素敵な様子になっていました。
大きな障子戸に影絵のように「良寛さま」と、その詩が紹介されていました。
地元のご婦人たちのグループの皆さんが「手作りの手まり」などを作られたのでしょうか。
 

              

 すっかり有名になっている「良寛と貞心尼との出会い」とよみ交わした詩の数々。
      

 「良寛さま」が長らく住まわれていた「五合庵」でしょう。
右側に紹介されている「月よみの・・・・」は、私のもっとも好きな詩です。
どなたにもストレートに「良寛さまのやさしさ」が、胸に迫るのではないでしょうか。
    

 「良寛さま」といえば、「子供たちと手まりつき」でしょうか。
             

 この日は、台風が接近中でした。
寺泊に到着した私と家内は、早々とホテルにチェックイン。長男家族は「出雲崎海岸」で海水浴の後にチェックインでした。
      

 このホテルを中心にして2泊3日の「夏休み」としました。 


       

お盆 1

2010年08月14日 | 良寛さまのことなど
 今年も「お盆」の時期となりました。
長男家族と私たちは、11日(水)長岡市島崎の「隆泉寺」に、我が家のお墓参りをしました。
「隆泉寺」はまた「良寛さま」のお墓があるお寺です。

 例年、暑さの中でのお墓参りですが、今年は台風4号の影響で異常な暑さでした。
それでも、お墓参りの後は、いつも「良寛さま」に思いを馳せることのできるひと時があるのです。

               
                     

 「島崎」は素敵なところです。「良寛と貞心尼 出会いの地」ということで、良寛縁の記念館などがあります。
その中のひとつ「お休み処・和らぎ家」があります。
ちょうど、そこでは「人形陶芸 廣習作品展」が行われていました。女性ならではの、まさに「やわらぎ」の作品の数々でした。
      
              
                        

蝋梅と良寛さま

2010年03月06日 | 良寛さまのことなど
 実は、3月4日のこのBLOG「柄目木庵」には、普段よりもずっと多くの方からアクセスいただいたようです。

 「良寛さま」などを「キーワード検索」された方が多かった、と「GOOブログで分析」されていました。
最近は「良寛さま」に、すっかりご無沙汰していました。申し訳ないことです。

 そこで、今日は、ちょっぴり「良寛さま」にかかわることの紹介と「枝を取り入れた蝋梅」画像の紹介です。なんか、無理やりのコラボのようですみません。

           
 昨日のことでした。家内が三条市のお友達と久々におしゃべりを楽しんできたようです。
そのときに、いただいてきた銘菓が「五合庵への階(きざはし)・良寛の道」でした。
私の生まれ故郷の三条市には、その昔、「良寛さま」もたびたび訪れていたようでした。

 特に江戸時代末におきた「三条地震」に寄せた良寛の文言は、あまりに有名です。
「しかし災難に逢時節には災難に逢がよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。かしこ」

 三条市には良寛をめぐる「良寛の道」があるようです。いつか、と思いつつも、その思いを果たせずにおります。せめて、銘菓「良寛の道」をおいしくいただきました。

 さて、くどいようですが、私の「枝つきの蝋梅」にお付き合いくださいませ。
              
     
                   
                        ありがとうございました。

清貧に生きる

2010年02月15日 | 良寛さまのことなど
 「バンクーバ冬季オリンピック」も始まりました。
大人になれなかった選手、スポーツマンシップを知らない日本代表がいたりして、なかなかの話題となっていますね。

 政治の世界でも、なんともレベルの低い問題で大騒ぎです。
そのような問題からは、さっさと卒業して、政治家は国のありよう、ビジョンを語ってほしいものです。

 このような「貧困」の日々にあって、「心豊かに」生きられた「良寛さま」のことに思いがいきました。
荒れたお天気の日てはありましたが、「良寛さま」が仮住まいされたり、たびたび訪れておいでになっていた寺などに立ち寄ってみました。

 長岡市寺泊野積の「西生寺」、即身仏・弘智法印で知られる古刹でもあります。
この寺の背後にある里山には、春とともに「雪割草」が咲き乱れることになります。

              
 
 この「照明寺」は、寺泊の海を見下ろす高台にあります。
強い季節風対策の「冬囲い」がしてありました。
 私は、若かりしころ自転車で「三条市から、この寺泊まで」、なんども自転車で海水浴に来たものでした。「照明寺」前にたどり着くと、海が見えてきます。
あとは、一気に坂道を下れば海水浴場でした。
  
        
             
 「良寛さま」をしのびつつも、私の「思い出」が脳裏を駆け巡りました。
あるとき耐水ベニヤで作った「カタマラン形・あらよっと号」を寺泊の海に浮かべました。
やがて、4から5人程度乗れるヨットの共同オーナーにもなりました。
ついに「ヤマハ・シーホッパー」というデンギーを購入しました。

 いまでも、寺泊の海に来ると
まぶしく輝く海原を疾走するデンギー「JA0AAQ号」があざやかに蘇ります。、

久々の五合庵

2009年04月19日 | 良寛さまのことなど
 春になったら、早速にも訪れたかった「五合庵」でした。
15日(水)、雨上がりではあるが新緑の五合庵は、とても素敵でした。

 「国上寺山門」あたりは、まだ霧の中でした。
  

 五合庵への道は、落花の道でした。
        

 五合庵の庇に、ひっそりと咲く椿の花。
     

 「鶯に 夢さまされし 朝げかな」 良寛


 帰り道は車で林道を下りました。なんと、いきなり道の駅「くがみ」に出ました。
その直前に、「酒呑童子神社」がありました。なぜか鳥居の奥には立派な(五重)塔が建っていました。
不思議に思いながらも「土門拳」の気分になってカシャリ、でも傾いて写ってしまいました。
             
             

良寛さまを思う

2008年11月02日 | 良寛さまのことなど
 今日は、長いこと「良寛さま」の原風景などを撮ってこられたプロの写真家「羽賀康夫」さんの講演会に行ってきました。
会場は周りの木々が色づき始めた新潟県立図書館ホールでした。

 羽賀さんは「瓢湖の白鳥」「日本海の夕日」「越後路の四季」などを撮り続けてきた過程で「良寛」にたどり着いたそうです。

 講演会は良寛会の「高橋郁子」さんの司会、羽賀さんの(スライド)写真解説という形で進みました。
写真の一枚一枚へのこだわり、苦労の作品であることがよくわかりました。
その結果がNHK出版「良寛街道」となって出版されたのでした。

 「良寛」を育み、修行を終わった良寛を越後に引き戻した「望郷の念」は、
越後の自然、風土、人情によるのではないか、ごく自然なこと、とされました。
 私も、生意気のようですが、まったく同感でした。

 言葉の端はしにプロならではの妥協の無い厳しい目、すばらしい感性のきらめきを感じさせられました。
ただ、お年のせいだと思いますが、さすがに銀塩派ですから、デジカメへの評価は厳しいものでした。
         
         先日、隆泉寺を訪れたときの撮影です。逆光での雰囲気を狙いました。

            
            昨日の帰り道の夕日です。新潟平野、すごい形相の雲と弥彦山、角田山のシルエットなどを大切にしてみました。

                
              リンゴのお土産をいただきました。
「OZE、陽光、4-23、ふじ、千秋」。みなリンゴの名前です。おわかりですか。