かぶれの世界(新)

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赤ちゃんあやしの達人

2019-01-30 21:48:17 | 日記
改札口の向こう側の娘と孫に手を振ると、もうすぐ3歳になる孫は大声で泣き出した。私が行ってしまうのが悲しい様子だった。初めてのことだ。8年前に最初の孫が生まれた時は赤ちゃんのあやし方が分からず戸惑った。幼児がそんなに私になついてくれていると知り驚き嬉しかった。

結婚して世田谷に住む娘と一昨日烏山駅で待ち合わせし、駅周辺のカフェで孫と一緒に小一時間過ごした。娘がお裾分けしてくれたシャケをお土産に、下り電車のプラットフォームを上った。振り返り母子に手を振ると、突然孫が顔をくしゃくしゃにして泣き始めたという訳だ。

カフェで孫はミルクを少しずつ飲みながら母親に甘えたが、ご機嫌取りした私に対して特別に反応しなかった。娘によると孫は恥ずかしがっている訳ではない、私の顔はよく覚えているという。私がナオミ大阪選手の叫び声から、孫が好きな曲U.S.A.をもじって「カモン ベイビー アメリカ!」を連発したがあまり受けなかった。変顔やダミ声で怖がらせた時の方が反応して母親の後ろに隠れた。

帰宅してから受信した娘のメールによると、その後孫は「アメリカ」を連発したらしく、一緒にいたのに私に理由を聞いてきた。彼はU.S.A.がかかると自然に体が動いて歌いながら踊り始めるくらい好きなので、私が言った「アメリカ」に反応し記憶したのだろう。

この8年で私の子供のあしらい術は達人レベルまで上達した。毎日の散歩や買い物などで出会う人達に挨拶し世間話を繰り返すうちに、変なオジサンと警戒されず親しく会話出来るようになった。美人ママさんと話せるのは最高だが、声をかけるのは老若男女を問わない。美人ママさんでも連れの子供や愛犬から入ると、ほぼ例外なく仲良くなれる。

先日いつものように体育館でバドミントン練習の準備を始めた時、子供みたいに若い奥さんが体育館に響き渡るような声で泣く赤ちゃんを抱えて困っていた。私は躊躇いなく近寄って行き慣れた感じで話しかけると、赤ちゃんはたちまち泣き止んでニコニコした。奥さんは大感激で感謝してくれた。

暫く経って同じ方向から赤ちゃんの声が聞こえた。同じ赤ちゃんだった。今度は夫君らしき男性と一緒で困った様子、おせっかいな私は直ぐに近づいて行き一言二言声をかけると泣き止んだ。これはもうマジックだ。夫婦は又もや助けて貰ったと「感謝感激雨あられ!」、言い過ぎですが。

これ程劇的ではないが幼児とか犬を連れた人に声をかけ、「とても可愛い、大きい、孫と同い年・・・」というと例外なく喜んでくれる。何故か警戒されない。そのあと幼児と話して笑わせてサヨナラする。私は気分良くなって「赤ちゃんあやしの達人」になったと自画自賛する。

私は誰彼かまわずネーチャンに声をかけると義弟は言いがかりをつけるがそうではない。私は時と場合によって相手を見て景気とか介護とか話題を選んで話をする。道路工事中の土方とか、大工さんや庭師によって邪魔にならないよう声をかける。決してネーチャンだけではないのだ。好きだけど。■
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キツイ一言

2019-01-28 14:51:32 | スポーツ
「ここはそんなレベルでやるところではない!」とバドミントンクラブのリーダーからキツイ一言を受けて私はギョッとした。土曜日の練習ゲームで彼と組んだ時のことだ。ゲームでミスが続きリードされた中盤、相手チームから比較的緩いクロスがコート左奥に打たれた。

後方センターにいた私が必死で左側に動き何とか返球したが、前衛で待っていた相手チームに軽く右コートに返された。私は打ち返した位置で「一歩も動けず」1本取られた。参った、という感じだ。私が反転できずコートの端に突っ立っている様子を見て、パートナーが怒って放った言葉だった。

言い換えれば、「お前はこのクラブでやるレベルではない、他のクラブに行ってやってくれ」と言っているのと変わらない。私の老化が進みいつかプレー出来ない日が来ると覚悟し、その日を遅らせようとトレーニングを続けてきた。その日が来たかも知れないと思った。

同時に、今のはそれほど悪いプレーではなかったという気持ちもあった。その場では彼の言うことを黙って聞き、ゲームに戻った。その後も他の人達と組んでゲーム練習を続け、何時ものように正午前に練習を終えた。だが、私は次週も練習に参加していいのか確認しなければならなかった。

帰る支度中のリーダーの下に行き「キツイ一言」のメッセージは「もう来るな」という意味かどうか確かめた。彼は「あの時一歩も動かなかったのは、パートナーには私がやる気が無い様に見えるはず。私がもう動けなくなっているのは皆も知っているが、努力する姿勢を見せろ。」と言った。

私がやる気がない様に見えるのはマズイ。せめて何とかしようというジェスチャーだけでもしてくれというのが彼の言いたいことだと説明してくれた。私に対しては誰も遠慮して言わないだろうから指摘したのだと彼は言った。言い訳はあっても私に反論する気持ちが起こらなかった。

次のゲームを待っている間に他のゲームを見ていると、彼も含め一歩も動けず失点する例も何度も見かけた。だが、私の場合はそれが目立って多いのだろうと理解した。失点した時に別のパートナーから私の問題を指摘されたことは何度もある。今迄は単なる失敗と片付けていた。

何時かはその日が来るとしても、なるべく長くこのクラブで練習を続けたいと思い、彼には素直に分ったと応えた。バドミントンを始めた若い頃から長年にわたりこのクラブに参加し、シニアの日本選手権に参加する人達もいる中、実力差が大きくても公平で楽しく運営され愛着がある。途中中断し今も年の半分は田舎だが、私は最古参のメンバーの一人でもある。

私に出来ることは体力の衰えを補い弱点をカバーしつつ、少しでもパートナーの足を引っ張らず楽しくバドミントンをすることだ。いつも早朝のテレビ体操や柔軟体操と昼間のウォーキングや素振りをしているが、昨日から弱点をカバーするためフットワーク練習に反転動作を追加した。

今日は少し足に張りを感じる。たった一日数分のトレーニングを追加しただけでも、歩く時の足元が微妙にしっかりして来て手応えを感じた。来週の練習で効果かあればこのまま強化を続けてみる。自分が納得するまではチャレンジしてみて、ダメならその時の覚悟をしておこう。■
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司法の独立はあり得るのか

2019-01-26 18:25:53 | ニュース
韓国の前最高裁長官が元徴用工訴訟の判決を遅らせた疑いで昨日逮捕されたというニュースを聞いて驚いた。前大統領と前最高裁長官、つまり行政と司法の前トップが逮捕された。私は以前「韓国はそういう国」であり、国と国の約束などすべきではないと投稿したことがある。

私の印象は日本のマスコミ報道を通じて得た韓国司法の印象なのだが。司法だけではない、大統領が変わる度に正義の定義が変わる。その度に大統領及びその周りの人達が罪を問われ獄に繋がれる。そんな国と苦労して国論を纏め約束しても無駄、と多くの日本人は思っているはずだ。

最近の米中・米ロ関係の悪化に伴い、当局が多数の紛争国人を逮捕拘束したというニュースを聞く。韓国よりも恐ろしいことが起こりうる、中ロなど強権的政権下の司法に一貫した「法の下の平等」など期待するのは難しい。寧ろ「法を使った報復」を濫用している様に感じる。

韓国は強権的政権ではなく建前は三権分立の民主主義国家だが、時々の政権を選んだ民意に配慮した司法が見受けられるのは不可思議だ。予想が出来ないことがある。であれば、次の大統領に替わった時に何が起こるのか静かに見守るべきだと私は思う。

世界を見回せば、司法の独立を云々するのは韓国や強権国家だけではないのが現実だ。日本に関係するところでも、1月11日に五輪招致に絡み贈賄疑惑で竹田恆和JOC会長が仏の予審尋問の対象となったニュースを聞いた時、ゴーン元会長事件をみて政治的に報復されたかもと思ってしまった。

2週間前は日本の検察の取り調べが適切でない(被疑者を長期間拘束するのは欧米流ではない)として、仏メディアが連日のように日本の検察を非難する記事を報じていた時だった。多分、フランスの世論はゴーン会長に同情的だったと思う。だが、現時点で政治的な報復だったという証拠はないし、日本にもそういう論調は無いのが救いだ。絶対に韓国の様な反応をしてはならない。

とは言っても、世界はトランプ大統領や東欧諸国、ブラジルなどポピュリズム時代に向かっている。そうでなくとも司法は政治や世論の圧力をより受けて行くのは間違いないと感じる。ましてや国益にかなっているか問われた時、果して司法の独立を保ち続けることが出来るだろうか。

私は容易ではないと思う。政治家・マスコミだけではない、国民の成熟度が問われるだろう。■
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ブルゴーニュを飲みました

2019-01-23 17:19:41 | 食・レシピ
今朝はいつもよりスッキリと目覚めが良かった。昨夜も頻尿で3度トイレに立ったが、慣れたもので寝不足感はない。降圧剤は計画的に服用しなかったが、血圧は極めて正常(124-81)だった。「もしかしたら昨夜ブルゴーニューを飲んだせいかな?」と家内に言うと、気持ちの問題と片付けられた。

昨日は一昨日からの夜勤明けで午前中睡眠をとった家内と意見が一致して、午後時間潰しにアマゾン会員の無料映画を見た。何も見るか私に任されて15分以上かけて検索した結果、映画「ブルゴーニュで会いましょう」(仏2016年)を見ることにした。

やる気を失った父親のワイナリーを主人公の息子が、父親の反対を受けたが幼馴染の助けを得て昔のやり方で再生していく家族ドラマだった。激しい暴力とか熱愛はなく悪人も出て来ず、物語は静かに進んで行きハッピーエンドで終わる、心がほのぼのする佳作だった。私の選択は正しかった。

映画が終わると家内との会話は映画ではなく、話題はブルゴーニュワインのことばかりだった。最近は私の増えた体重を減らす為に、コンビニの300円台の安価な白ワインを家内に勧められ飲んでいた。節約の為に家内が飲む赤ワインも1000円ちょっと、ブルゴーニュ産には手を出さなかった。

夕方に買物に出掛けた家内がボトルを抱えて帰って来た。映画に触発され今日はブルゴーニュの赤にしたという。心配して値段を聞くと税込で3000円だったという。それに合わせて今夜はハッシュトビーフだという。一言「エーッ!」と言ったが、買ってしまったらしょうがない。ブルゴーニュなら3000円でも高価ではない、どちらかと言えば安価な方だと思ったが。

15年前に早期退職した直後は子会社から招待され、家内と一緒に試飲会に何度か参加しワイン専門家の解説を受けた。その時ブルゴーニュワインを初めて知り、ワインの種類や保存法、飲み方などのうん蓄を教わった。その時は高価なワインを仕入れ価格で手に入れて当たり前のように飲んだのだが。

ピノノアール(タストリュンヌ2016年)は少し酸味があるが口当たりが軽く後味が残らず呑み易い、ハッシュドビーフと良く合っていた。家内も私も美味しく頂き満足した。飲んべーの彼女は後を引かない飲みやすいワインだったと評価した。それが私が朝スッキリ起きた理由ではないかという。

因みに彼女は最近めっきり弱くなったというが、父上も兄弟も大のお酒好きの家系で結婚して直ぐに気付いた。私がサクラメントに住んでいた頃、彼女が何度も陣中見舞いに来てくれた。空港からワイン産地のナパバレーを何度も通り過ぎたのに一度も連れて行ってくれなかったと未だに何かというと恨み節を聞かされる。蛇足だが、米国にいた時に私の耳には「ピノアール」と聞こえた。■
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昔の女

2019-01-21 17:28:03 | 日記
昔の女と言っても私が40代最後の頃に知り合った女性の思い出だ。NHKのドラマ「モンローが死んだ日」の登場人物と同じ年齢の頃だが、草刈正雄と全く逆のイケてない男の思い出だ。

先日Youtubeを何気なく見ていると見覚えのある名前の美人ユーチューバーに目が留まった。見かけは若くて美人だが、私が記憶している女性とは顔つきが違った。だが特徴のあるイタリア系の名前なので目に留まり、30年近く前に仕事上の知り合いだった八頭身美人を思い出した。

そして、91年にサンフランシスコで約1週間一緒に仕事したことを思い出した。当時の写真を収めたアルバムを引っ張り出し、長身の彼女と一緒に屋上で撮った写真を見て懐かしく思った。彼女のことは2014年5月14日に投稿した記事「西海岸の偽寅さん(追加)」で紹介したことがある。いざとなるとオタオタして何も言い出せなくなった私を「偽寅さん」と喩えた。

その中では彼女のことを"L”と紹介したが、正しくは“R”だった。何故間違えたのだろうか。もしかしたら少し後ろめたい気持ちがあってわざと間違えたかも知れない。だが、私の人生もそう長くはない、間違いは訂正しておきたいと思う。最初に断っておくが、彼女とは何もなかった。

米国のお金持ちの家に生まれ高等教育を受けた彼女がチンチクリンな日本人男性に興味を持った。何故私に興味を持ったのかは未だによく分からない。彼女は当時京都に住み仕事がある時だけ上京して会議に出て私と知り合った。仕事上の会話しかしなかったと記憶している。

彼女がサンフランシスコ会議に参加することは知らなかった。彼女は私の勤める会社と世界的なデザイン会社の仲介役をやった。私はフィッシャーマンズワーフ近くの「ホリデイイン」宿泊し、彼女は実家から通って会議に参加した。工業デザインに専門外の私は会議で無責任で自由奔放に振る舞った。それが良かったのか約1週間の会議で彼女と気が合い急に親しくなった気がする。

彼女は私を個人的にも気に入ってくれたのだと思う。日本では職場の親しい女性といっても一緒に食事し馬鹿を言い合う程度だった私には、彼女がアプローチして来たのを知って驚き困惑した。そして嬉しかった。会議の途中3日目頃から好意を感じ記念写真撮影のあと、彼女から二人だけの写真を求められ体を密着された時の柔らかい感触が普通でない様に感じた。

だが、その後の会議や帰国後も私は何事も無かったように事務的な反応をした。プライベートなカードを貰っても取引先からの挨拶と同じ扱いをした。今から思えば彼女からのアプローチに対して冷た過ぎた。だが、私は3人の子持ちで家庭があった。相手が日本人でも同じことをしたと思う。

白状すると、この辺から私の仕事環境はどんどん変わり、私も変わって行った。会社が部品やユニットを調達する際に技術的な評価をして仕様書を作り承認する部署の責任者になった私には、内外からの過剰な接待が待っていた。それまでの一杯飲み屋から銀座や赤坂などの料亭に場所を変えて連日の接待を受け、眠っていた私の助平心が突然目を覚ましたのだろう。

振り返ると、“R”のアプローチ以降は全てビジネス上の付き合いで、幸か不幸かドキッとして心が乱れるような事態になったことはない。私は元のチンチクリンな田舎者に戻った、というより正しくはずっと田舎者だった。但し、重い後遺症で厭らしい「助平ジーサン」になった。30年近く前の写真を見てあの時のドキドキ感を懐かしく感じた。■
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