かぶれの世界(新)

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急速に変化する「冠婚葬祭の常識」

2004-09-27 22:02:46 | 社会・経済
生活評論家の辰巳渚さんが構造改革の進展に伴う「日本的雇用」の変化によって、今冠婚葬祭のあり方が急速に変化しつつあるという興味ある記事を書かれた。 娘が昨年結婚した時今までの私の常識とは全く異なる体験をした。 辰巳さんはこの体験が特別なものではなく日本社会の根っこのところでの変化に起因していると興味深い洞察をしている。 

私が会社生活をした35年間に結婚し、部下の仲人を何度も経験したが、基本的にどの結婚式も仲人の人選から祝辞、席順まで会社を基準においたものが多くそれを不思議とも思わなかった。 ところが昨年結婚した娘夫婦は仲人を立てず、両家の家族だけが参加し海外で結婚式を行い、日本で親戚や友達が参加したパーティをした。 いまや日本の結婚は急速にこの新しいスタイルに変化しているそうで、最近リクルートの調査結果がそれを裏付けることになった。
リクルートの「結婚トレンド調査2004」によると、仲人を立てた人は昨年より2.8ポイント減の4.6%と、仲人の習慣がなくなる寸前であることがわかった(共同通信、9月13日)。 仲人を立てた人は、首都圏で1.0%、もっとも多い九州で10.8%であった。 リクルートの分析では、「以前は上司に仲人を頼むのが一般的だったが、終身雇用が崩れ、急速に減っている」としている。

 なぜ転換しつつあるのか。辰巳氏は結婚にかぎらず、贈答、葬儀などさまざまな面で考えても、終身雇用と年功序列の「日本的雇用」が変わったことが、大きな原因だと捉えている。すなわち、「イエ」制度ならぬ「会社」制度が崩れたからなのだと以下に説得力のある議論を展開している。
 そもそも、「しきたり」とは何なのか。冠婚葬祭などについてずっとやりつづけてきた方法、伝統的なならわし、というわけだが、私たちの日常の感覚で「しきたり」だと思ってやっていることは、たかだか数十年の歴史しかないものも多い。お中元・お歳暮、お返し、会社の上司に頼む仲人、結婚式場や葬儀場での儀式……。もちろん、贈答や結婚・葬儀などの行事そのものは延々とつづいてきたものだが、その具体的なやり方については、戦後に大きく変化して今日にいたっている。

 冠婚葬祭は単なる身内の行事であるだけでなく、属する社会における人間関係をうまく維持・発展させていくための手段である面が大きい。その人間関係の基盤が「階級」や「イエ」から、「会社」へと戦後大きく変わった。地域の共同体から「会社」という共同体へ。その転換に対応するには、親から受け継いだ「今までの親のやり方」ではだめだった。それで、1970年代には現状に即した冠婚葬祭事典の類が必要とされ、ベストセラーとなった。 これらの本では、会社の人間関係においてどうしきたりを行うべきかが、詳しく書いてある。上司へのお中元・お歳暮の贈り方、結婚式や葬儀に呼ぶべき会社の人間、そういう行事に招かれたときに包むお金は上司ならいくら、同僚ならいくら、部下ならいくらが妥当なのか、栄転祝いなどの対応の仕方……。当時「会社」を基盤とする人間関係はまだ新しく、しかし無事定年まで務めて昇進していく為に、慎重に考えなければならない人間関係だった。 (私の経験では職場ごとに冠婚葬祭費に差がつかないように相場を決めて運用していたところが多い。 頼まれ仲人の人選、披露宴の席順を見れば何に重点をおいて決めたか明確に判った。) 
 戦後、人間関係の基盤だけでなく生活様式、あるいは家そのものも「和」から「洋」へ変わった。大家族が同居する大きな家から、核家族が住む小さな家へ。戦後になって結婚や葬儀は家で行うものから専用の会場を借りて行うものになった。礼服が和服から洋服へと変わり、「どんな格好をすればふさわしいか」について誰もがわからなくなるなかで、服装はデパートや洋装店で教わったり、本で学ぶものになっていった。

 そして、今日、戦後につづく第二の転換期が来ているといえよう。30年間、「会社」制度にもとづく「しきたり」が行われてきたけれど、この10年間でその基盤が崩れ、より「個人」本位になってきたためだ。
 リクルートの調査によると仲人を立てたケースは、全国で2001年にはまだ18.2%と5組に1組あったのに、この3年で4.6%と20組に1組となっている。首都圏ではもっと古い数字があるので、さらにこの変化がいかに急激に起こったかが見て取れる。10年前の94年では63.9%と、3組に2組は仲人を立てていたのに、1998年には3組に1組に減り、2004年には1%、100組に1組と激減。
 会場も、30年前には先端だった結婚式場はいまや時代遅れ。レストランや都会的なホテルで行うか、身内だけの食事会をしたり、二人だけで海外ウェディングをして、それとは別に友人を招くパーティを盛大にやるスタイルがしゃれている、と捉えられている。この変化も、この10年、いやせいぜい5、6年で急激に進んだ。

 「結婚」は莫大なお金が動く市場だが、冠婚葬祭一般に私たちは日常とは違う金銭感覚で臨むもの。仲人ひとつとってもこれだけの変化が起きている事実は、冠婚葬祭全般に需要と供給のずれ、あるいは常識と現実のずれが起きていることを示している。結局のところ全てはメリットがあるか否かで決まってしまう、例外はないということであろう。


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もう一つの原理主義

2004-09-26 00:04:47 | 国際・政治
9・11以降顕在化した国際テロリズムはアフガンから始まりスペイン、インドネシア、ロシア等に次々と飛び火してとどまることを知らない。地域的な民族紛争とイスラム原理主義が結びついて資金や武器、戦術の支援を得て国際テロリズムネットワークに変化した。しかし、彼らは一体何に対して戦っているのであろうか。共通の敵は誰だろうか。私はもう一つの原理主義、榊原英資氏のいう「市場原理主義」に対する戦いではないかと考える。

70年代の石油危機の結果生じたオイルダラーを西欧諸国に還流する金融資本の移動の仕組が確立され資本主義のグローバル化が始まった。80年代半ばにソ連邦が崩壊、冷戦構造が終結し、国境は資本と情報の移動を塞げる障害ではなくなり資本主義のグローバル化が進展した。金融資本は物質的な投資よりはるかに動きやすくグローバル資本主義システムの中で金融市場の影響力が一段と高まった。レーガン・サッチャー政権は経済から国家を切り離し市場メカニズムの動きに任せる、即ち為替レート、金利、株価が密接に関連して変動する国際金融市場の発達を加速させる決定的な役割を果した。80年代前半から米国経常収支の赤字の推移とグローバルマネーの傾向が見える。日欧の投資はリスクを避け米国に投資し、米国からハイリスクの周縁に投資される傾向があったが、今世紀に入り直接投資が増えてきた。主要投資家は年金、投資信託、保険会社であり、郵貯も民営化されれば市場原理主義のもとで運用されグローバルマネーになる。それ以外に選択はない。

グローバル資本システムは純粋に機能的性格なものであり、生産・消費・モノやサービスの交換といった経済機能である。このシステムにはセンターと周縁があり、センター資本の提供者、周縁は利用者である。資本をセンターに吸い込み周縁に送り出す巨大な循環系のようなものである。不安定な時代には資本は本国に戻る傾向があり、これに対し主権国家は資金の逆流が起こると防ぐ弁の働きをし、システムの崩壊を引き起こしてしまう。システムは完全競争原理に基づくイデオロギーに支えられており、自由競争に対する制約は何であれ市場メカニズムの効率を損なうもので、それゆえ阻止すべきであるという正に市場原理主義そのものなのである。全ては市場価値で評価され決定される。

センターはニューヨーク・ロンドン・東京であり、周縁は効率的な回収が期待できる投資先、例えば資源国である。株主価値重心の経営が示すように、金儲けを唯一の目的とする経済組織がかつてないほど経済生活を支配するようになった。従来市場価値では評価できない文化、政治、環境などの社会的な価値まで経済活動に置き換えその市場価値で判断するようになり、人々の生活や社会を支配するようになった。グローバル資本主義システムを構成する国は民主主義国だが、周縁を構成する国は必ずしも民主主義国ではないし、個々の国を民主的な方向に進める力はない。市場価値を最大にするのは専制体制であっても強力で安定した体制のほうが往々にして好都合である。資本主義では価値基準はマネーであり、民主主義は市民の票である。  

トータルで見るとグローバル資本主義システムは実質的な成果を上げており決して過小評価すべきではない。あまりにも市場原理主義が上手く機能し過ぎたため、システムの参加者が自らの責任と思わない領域でマイナス面が同じように大きくなった。 国際的な債務危機においては貸し手の方がはるかに有利で、会社更生法のような仕組はなく債務国は能力の限界まで返済を求められ何年も重くのしかかる。貧しい国々にとって経済開発に不可欠な外国資本を誘致し、アジアの急成長をもたらし、今も中国に大量の資本が投下され躍進を支えている。同時に特に周縁国家の富の偏在を加速し、市場原理主義は従来社会的価値に脅威を与えることになり別の形で政治問題化したのである。

参考文献
「Time: The Struggle within Islam」9/13/2004
「中国WTO加盟の衝撃」鮫島敬治 2002年 日本経済新聞
「グローバルマネーシフト」野村證券金融研 2000年 東洋経済新報
「グローバル資本主義の危機」G.ソロス 1999年 日本経済新聞


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新メディアの権力(TVとBlog)

2004-09-25 21:49:16 | ブログ
TVの持つ力が最初に認識されたのはケネディとニクソンが争った1960年の米国大統領選といわれている。私自身が実感したのはケネディ大統領がダラスで暗殺された映像を史上初の衛星中継で見た時で、衝撃のシーンを未だに鮮明に記憶している。最近も何度かTVの威力をまざまざと見せ付けられる事があった。一つは、米国大統領選の民主党予備選である。序盤、東部の小さな州でディーン候補が、敗戦を認めた後支持者に向かって奇声を上げて景気付けの演説をしたシーンをスポット広告のようにニュースからバラエティ番組まで面白おかしく繰返し流され、それまで世論調査でトップの支持率を得ていたのに一気に失速した。二つ目は、最近のプロ野球紛争で渡辺オーナが「たかが選手」発言を繰返し放映されて世論の支持が圧倒的に選手会側に向かい、選手会側の要求をのんで終結に追い込まれた。前後を省略して一部のシーンを繰返し報道することにより決定的な結果をもたらす。新聞報道ではこれほどのインパクトは持ちえない。

ところが最近TV以上に影響力のあるメディアが登場した。Blog(Web Log)である。TVは象徴的な場面を即時伝達することには適しているが、奥行きに欠け表面的になりがちである。現在進行中の大統領選の最中にCBSの名物アンカーのダン・ラザーの番組「60分」でブッシュ大統領が若い時軍隊で責任逃れをしたと放送したのが誤った情報に基づいていたと判明したのである。優秀なスタッフが事前調査して判らなかった事が言い訳のきかない誤りと判明し、CBSとラザー氏は誤りを認めたが信頼回復できず未だに苦境に立たされ更に民主党の選挙運動にまで影響を与えている。ラザー氏はこれまでに幾度か修羅場を切り抜けてきたが、今回は短期間にあっけなく誤りを認めざるをえない状況に至ったのは、Blogを経由して全米からあらゆる情報が提供され報道内容が検証されたからである。英国でBBC幹部がイラクの大量破壊兵器に関するニュース捏造事件で辞任に至ったのもBlogで誤報が明らかになった為と言われている。

Blogは短時間で専門家等の関係する人を巻き込み、誰にもわかる透明度の高いプロセスで事実を追求し、新しい事実や見方を提供し、新しい理解や世論を作る。勿論、個人攻撃や偏った意見もあるのだがそれは参加する人が自由に判断して淘汰していけばよいのである。イラク捕虜事件時、自己責任を問う書き込みが急増し世論が急変した。表立って発言するにははばかられる本音をBlogに書き込まれるという日本製Blogのユニークな傾向が指摘されているが、ある意味選挙と同じで民度を反映した結果といえるかもしれない。今後参加者が増えるに従い淘汰が進み、良質のBlogが数多く出て来るものと期待したい。


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サウスウェスト航空

2004-09-19 13:56:07 | 社会・経済
米国航空業界は9・11直後の経営危機から依然立ち直っていない。先週業界7位のUSエアが破産法11条の適用をバージニア州の連邦破産裁判所に申請した。USエアは1年半前に更生手続をしており、今回2度目の破綻は会社清算(破産法7条)の適用による会社存続の危機にある。申告によると米国航空業界の対GDP売上比率は9・11以前の0.75%から翌年0.55%に低下した。03年以降も旅客の回復以上に運賃が低下し、更に売上が下落する見込みだという。既に更生法を申請した業界二位のユナイテッド航空再建は難航、三位のデルタ航空は巨額の赤字を出し破産法申請回避に向けて必死の努力をしている。 

その中でサウスウエスト航空は着々と売上を伸ばし利益を上げている。サウスウェストは格安会社と呼ばれ、輸送単位コストがUSエアより38%も安価、路線距離を補正するとその差は更に広がる(9/14朝日新聞)。 私は96年から98年にかけてサウスウェストを何度も利用してシアトルとサクラメント間を行き来した。座席指定がなく搭乗券の代わりに搭乗口で搭乗順を示すプラスチックのカードを貰い、空いた席に座る。機内食にはサンドイッチの代わりにピーナッツが出てきた。最初ポロシャツ、ホットパンツにテニスシューズ姿の客室乗務員を見た時は吃驚したものである。格好だけを見て素人サービスと思ったがその後彼女達が只者ではないと見直すことになった。 

これらは単にコスト低減を目的にしたものではなく、徹底的に航空機の回転率を上げ定時運行を実現する狙いがあった。主要空港を経由して都市間を結ぶのではなく、近距離の都市間を直接結ぶ路線で航空機を一種類に絞り就航させ、路線展開していき成長してきた。乗り継ぎの為に発生するコストが一切発生しない。又、着陸してから乗客、荷物、食事の積み下ろしと機体点検を終わらせ再び離陸するまでの準備時間を徹底的に短縮し15分で出来るようにした。この結果、例えば他の航空会社が飛行機一機を使って1日3往復している間に、サウスウェストは4往復出来るようになった。生産設備の段取り換え速度と同じでこの差がもたらすコスト競争力は大きい。

従来型の航空会社は退職者に対する年金支払が大きな負担となっている。勿論、他の航空会社もサウスウェストに倣いコスト低減に務めてきたが中々成果が出ていない。これはサウスウェスト独特の風変わりでレイオフしない家族的な企業文化が貢献している。着陸すると機長から地上職員まで一体となって準備時間短縮の為働くといったことが会社運営のあらゆる局面で起こり低コスト体質を可能にしているのである。カンバンなどトヨタ生産方式を導入したが、それだけでは会社全体の業績改善に繋がらない例と通じる。棚卸管理能力が会社の総合力を示すといわれるように、準備時間は航空会社運営の実力を表している。日本の格安会社の苦戦は路線が羽田に一極集中している為と説明されているがそれだけか。サウスウェストは業界トップの格安かつ定時運行をしていると同時にクレーム率が最も少ない航空会社であることを忘れてはならない。

当時、私はアラスカ航空を使うことが多く他に選択がない時サウスウェスト航空を利用した。振り返るとアラスカは遅れが当たり前で、ひどい時は運休になり困った事があるがサウスウェストではその経験がない。それでもアラスカを利用したのは当時便数が多かったのと、サウスウェストの客層がビジネスマンではなく(ヒスパニック系が多かった記憶がある)、又、ロマンスシートに座り書類を開く雰囲気になかったことによる。今では企業の経費節減方針が行き渡り、ビジネス客のサウスウェスト利用が増えたと聞いている。


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大洲人気質

2004-09-15 23:09:57 | 日記・エッセイ・コラム
これは昨年8月に四国愛媛県の大洲市に帰省後書いた小文である。

前日松山のホテルに一泊した翌朝汽車で大洲に向かった。大洲駅からタクシーに乗った。初老の運転手に今年は冷夏で米が不作だろうと天候の話を始めると、話し好きの反応が返ってきた。最近大洲の町を歩くと、かつて賑わった本町あたりの買い物客が郊外に逃げて、歩いている人もお店の人も年寄りばかりが目立つ。市内の立派な新しい建物は医者か公共の物しかないと話を向けると、大洲は病院の数が多い町なそうである。私も自転車やジョギングであちこち走って感じていた。

大洲は病人が多いので病院が多いのだそうである。その理由は天候にあると運転手が突然力をこめて話し始めた。大洲盆地の中央を肱川が東西に蛇行して流れ、冬になると毎日昼頃まで霧が立ち込め日が差さない寒寒として陰鬱な日が続く。午後になると雲一つない快晴になるが、盆地のため日の入りが早い。このため結核の発生率が他の地域に比べ高いのだという。私が小学生の頃、昭和40年代前半のことだが、結核にかかり1年間休学した同級生がいたと言うと、さもありナンとしたり顔で話を続けた。運転手は八幡浜市に住んでいて、朝、真っ青に晴れた空を見ながら大洲に出てくると未だ夜が明けてないかのような「真っ暗な空」に出遭ってこれはどうしたものかと毎日のように思うのだと言う。

この天候は住んでいる人の気質にも影響を与えるだろうなと水を向けると、その通りだとすぐに食いついてきた。大洲の人は性格が暗く陰湿であると言う。何にでも「お」をつけて丁寧に聞こえるように言うが、一度あったことをいつまでも根に持って忘れない。そのくせ聞くと何も言わない。確かに「お死にた」(死んだ)とか「おいでた」(来た)とか「お」をつけて言う。具合の悪いことや不満など口に出して言わないとは私自身出入りの職人さんとやり取りしても感じていたことである。 運転手は本当に大洲が嫌いなようである。

こういう話題に誘導していったのは最近読んだ童門冬二の「中江藤樹」の中で大洲藩士をひどく矮小に描いているのを思い出したからで、現代になってどう変化したか土地の人に聞いてみたかったからである。子供の頃から大洲は伊予の小京都、おっとりして人の良い上品な町とプラスの面ばかり聞いていた私からすると複雑な気持ちであった。塩野七生氏はシーザが「人は聞きたいことのみ聞く」と何度も言わせているが、私自身この56年ずっとそうだったのかもしれない。

母が嫁いできたときどう思ったのか聞いてみると彼女もやはりそう思ったそうである。天候もさることながら特に土地の人の進取の気概のなさを強く感じたそうであるが、長く住んでいるうちに自らもその中に取り込まれ同化して行った気がすると答えた。やっぱりそうなんだ。家内も大洲の気候が嫌いで、大洲の気候に同化した母を感じているようである。

私自身は15歳で大洲を離れ新居浜市に5年間住み、その後もう35年以上東京暮らしをしてきたが、自分のどこかでこのアティチュ-ドがあるのを認識していて、これを克服しようと努力してきたのではないかと思う。私が米国で95年から約4年働いた時、米国人から見ると言葉の上手い下手よりも、物事の考え方・価値観が最も米国人に近い日本人は私だと同僚の小野寺氏に言ったそうである。今から思うとそれは、その裏返しの大洲人気質の自分がいてそれを克服しようという表面の姿を彼らが見たということなのだろう。

想像をたくましくすると、この大洲人気質と仕事で付き合った山形県米沢の人達はよく似ているような気がする。新しい提案をしても自分の考えを中々言わず、反論がないのだけれど同意した訳ではなく、合意したはずの提案が中々進まない。同じ盆地の地勢、天候が人の性格作りに影響するということなのか。大きく括ると愛媛県松山市以南の人は多かれ少なかれ似た性格があるように思う。温暖な気候で食べ物に困らず、飢饉で沢山の人が死んだと言う歴史など聞いたことがない。水争いもあったと思うが、大事になりやくざが活躍したと言う話も聞いたことがない。夏目漱石が東京から赴任してきて松山の人を揶揄している小説を書いても、逆に誇りにして受け止めているのを見て子供の頃は釈然としかった。今でもそういう気持ちがある一方で、家に着くと落ち着いてゆったりした気持ちになるのである。 


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