かぶれの世界(新)

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私的・窮地の15%節電

2011-06-30 14:14:26 | 日記・エッセイ・コラム

梅雨明け前なのに連日暑い日が続いている。この10年間徹底して我家の省エネルギー化を実施してきた。今年の2月にその一端をこのブログに紹介させていただいた。http://blog.goo.ne.jp/ikedaathome/d/20110211 

このところ連日のようにテレビ等で推奨しているエアコンの温度設定見直し・窓ガラスの2重化・部屋の部分照明・テレビやパソコンの低輝度設定・昼間の公共施設利用などやれることは昨年既に殆ど手を打った。そして昨夏の猛暑を節電して乗り切れた。

私にとってみれば、この夏の消費電力をどうやって15%減らすか効果のある対策は実施済みで、正直もうネタ切れ状態だ。京都議定書で日本が落込んだ罠にかかった気分だ。我家の最近の月ごとの電気料金は以下の通りだ。(電気料金の支払い期間は概ね当月の10日から翌月の10日までの使用電力に基づく)

2010年   2011
2
    16,129     14,832
3
     12,141      9,875
4
      8,874      6,923
5
      6,512      6,338
6
月      9,128     △?

7月      11,714     -
8
      13,348     -

ご覧の様に420日迄の電気料金は昨年を下回っていた。だが、5月に入りほぼ前年並みの電気料金になった。私が帰京した今月の半ばから急に気温が上昇した。今からこう暑いのでは、来月はもっと暑くなり電気料金が跳ね上がりそうだ。

このまま猛暑が続けば15%節電どころか、昨年を上回る電力使用になる。家族はまだエアコンなしで頑張っているが、体を壊したら元も子もない。そろそろ限界だ。こうなったら家にいないことだ。昼間は徹底して外出し図書館や体育館の利用しよう。昨日は午後ずっと図書館だった。

だが、同じ年配の老人が所在無さげにソファーに座ってスポーツ新聞などを読んでいる姿を見ると、見栄を張って自分は違うと思いたい気持ちが一方にある。節電できない言い訳を縷々申し上げたが、最後に他のご家庭は昨年まで節電など殆どやらず、この夏にやれることが一杯残っていることを望みたい。■

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QE2の功罪、劇薬か特効薬か

2011-06-26 17:20:07 | 社会・経済

このところ世界の中で注目されていたのは中東革命動向及び欧州の信用危機と並び、米国の金融政策である第2次量的緩和(QE2)の終了とその評価、QE3はあり得るかであった。何れもその動向によっては世界経済に大きな影響を与えるものだからだ。その点では日本の政局など取るに足らないローカルな問題だと見做されている。

そのQE2の効果がどうだったかその評価について、既に内外の多くの識者の意見が公表されている。評者の視点によって見方が違うのは当然で、必ずしも一定の評価を得るまでになってないというのが私の印象だ。そこで、私の見方を整理して紹介したい。

少なくとも当局者にとって中央銀行の最も重要な役割は物価の安定であり、国民が期待する経済回復は過剰な期待と警戒する。実際、住宅市場は低迷し雇用改善は遅々として進んでいない。このところ景気回復は足踏み気味である。FRBの金融政策が一方的に非難されてはいないが、更なる金融緩和を求める声が全く無いわけではない。

FRBにとってQE2はリーマンショック後の世界同時信用不安が引き起こす米国の長期的なデフレを何としても防ぐことであった。換言すると日本の「失われた10年」を防ぐ、よく言われる「米国の日本化」を防ぐことにあった。だが、景気低迷が続くとしばしば目的が変わる。その前に、QE2の評価をきちんとすべきだ。

現状、少なくとも当座のデフレは回避できたといっても良く、彼らにとって本来の目標は達成されたと私は思う。だが、米国内ではインフレリスクを高め将来の資産インフレを招き悪影響が出る前に、異常な超金融緩和を止めるべきとの声がFRB内にもあると報じられている。米国内だけではない、欧州や新興国もQE2を非難する声が続いた。

特に独裁国にとってQE2は劇薬だった。実際のところ、米国内で消化できないリスクマネーが新興国と国際商品相場に向った。ドル安の進行と平行して金や原油・穀物など暴騰しいわゆる過剰流動性相場が作られた。結果としてQE2が世界中の物価高騰を招くことになった。資源高と新興国に流入したマネーは急激な物価上昇をもたらし、新興国は揃って金利上昇や資本流入制限策を打った。

だが、政権基盤の安定しない新興国にとって物価上昇は民衆の不満を暴発させる起爆装置となる。正にQE2は劇薬だった。中東革命も中国の暴動頻発は、失業した若者の怒りを暴発させることになった。米国も例外ではなかった。ガソリン価格の高騰が民衆(というより消費者だが)、彼らの生活を圧迫し間接的に大統領の支持率を低下させた。

だが、米国に他の施策があったろうか。実質ゼロ金利下にあったFRBがデフレ回避のために取りうる対策は他に無かったと私は考える。6000億ドルの国債買い入れは政策金利を0.75%の引き下げに相当する(Jon Hilsenrath)という。だが、薬効は徐々になくなっている。

これ以上の金融緩和(QE3)はすべきではない。特に商品相場が実需以外の要因で左右されると、薬の効きめより害毒の方が大きくなる。FRBも財務省もこの損得計算を十分認識しており、QE3をやることはありえないというのが私の予測である。

蛇足だが、世界の報道からフクシマの名前が余り聞かれなくなった。世界に恥を撒き散らした政局は幸いなるかな殆ど無視されている。もう勝手にやってくれという感じだ。日本の強さはそれでも企業業績は予想を遥かに上回る速さで回復に向っていることだ。一方、国の指針や支援を待ついわば自力では立ち向かえない人達には、長い不満の道のりが待っている。この二重構造が大震災の復興で少しでも改善することを祈りたい。■

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父帰る

2011-06-24 13:58:09 | 日記・エッセイ・コラム

火曜日に帰京以来、急に暑くなってとても知的活動をする気にならない。久し振りに新幹線に乗り新横浜で乗り換えて菊名に行き、武蔵小杉で東横線から南武線に乗り換える距離がやたら長く感じた。3月に東京脱出した時の閑散とした電車の雰囲気はなくなり気だるい雑踏が戻っていた。

その前の日曜日に大阪の妹夫婦宅に2泊した。高速道路無料化期間の最後の日を利用して、義弟の車で大阪まで向った。瀬戸大橋の途中にある予島SAで昼食をしようと下車したが、人出が多くレストランの前は長蛇の列だった。たかがうどんの為に並びたくないと意見が一致し次のSAに向うとガラガラだった。トイレ掃除のオバサンに聞くと、普通の日曜より寧ろ客足は少ないという。

妹夫婦宅に2泊したのは多分初めてのことだ。天候が悪かったので晴れ間の散歩と車で外食した以外は夫君自慢のオーディオを楽しませてもらった。40年もかけた彼のウンチクは留まる所を知らず、実際素晴しいメカと音楽を楽しませてもらった。妹が時々顔を出して音が大きくて近所迷惑だとたしなめに来たが、彼は気にする様子も無かった。

2日もいると何度か妹夫婦の口げんかに遭遇した。私には何でもないことで彼女が突然凄い勢いで悪態をつくので驚いたが、夫君も静かにではあるが負けないで言い返しエスカレートした。彼女が嫌いな50年代のモノラル時代の甲高いジャズがかかっていてイライラしていたせいかも知れない。だが長くは続かなった。新しい展開に再度驚いた。

というのは夫君がショパンのピアノ曲をかけると、全身に笑みをたたえた彼女が現れ冗談が飛び交った。彼によるとショパンは妹の最高のお気に入りだそうだ。厳しい言葉で相手を追詰めるような夫婦喧嘩を目撃して、そのうち熟年離婚なんてことになるのではと心配した。だが、その直後クラシックを聴いた瞬間に緊張が緩む、これがこの夫婦のリズムのようだ。

火曜日の朝ははっきりしない天候だったが、夫婦と一緒に湯豆腐を食いにいこうと出掛け、京都に着いた昼前頃には晴れ間が覗いた。雨上がりの湿度の高い午後の直射日光は余り気持ちよくない。食事が終わると直ぐに京都駅に送ってもらい東京に向った。そして2時間後はもっと暑く感じた。

久し振りに自宅に戻ると、家内が赤飯と鯛のお頭で1週間遅れの誕生日を祝ってくれた。注文通り昔と同じようにささやかにやってくれた。状況は全く違うが、菊池寛の「父帰る」を思い出した。私は家をほったらかしにした訳ではない。「来年は高齢者だね」といわれて少しショックだった。

翌日は全国的に更に暑くなった。私は急な暑さで一日中何もする気にならなかった。だが急ぎ処理をしなければならないことだけはやった。その後年金の現況届けの証明を貰いに市役所に行った。隣に座ったオバサンがせわしなく動かす扇子の風が心地よく、「暑いね」と一言言うとひとしきり天候の話題が続き暑さを忘れた。東京もずっと暑かったわけじゃないようだ。

帰京後3日目の昨日の午後も暑かった。思いついてジョギングをやってみたが身体がついていかなかった。最初の4kmで足が動かなくなり、府中街道が多摩川を渡る是政橋下の日陰で中休みした。結局元気を取り戻せず、そこで折り返し歩いて帰宅した。すぐにシャワーを浴び、夜寝るまでブラブラして1日が終った。情けない「父帰る」だった。■

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田舎暮し雑感11春(6)

2011-06-19 08:08:43 | 日記・エッセイ・コラム

同窓会に出席の為に田舎に戻ってきた義弟と食事をした時、彼の実家は八幡浜市の伊方原子力発電所から20km圏内にあることが話題になった。地図で調べると私の実家も24-5kmにあることが分かった。放射能汚染を他人事のように感じていたのに急に身近に感じた。

彼によると、1号機は福島原発と同じ型であり、東日本大震災のような巨大津波が来れば同様の事故が起こったかもしれないという。既に四国電力は20km圏内の家庭訪問を開始し、地震対策を説明し不安解消に努めているという。

テレビが伝えた家庭訪問用のパンフレットと同じものが、20km圏外の私の実家にも配布されてきた。パンフレットによれば、発電所は海抜10mのところにあるから福島とそう変わらない。福島では耐震構造は機能して原子炉は止まったが、津波でその後の冷却機能が失われたという理解で対策が打たれている。しかし、一旦不安になった住民は容易に理解しないだろう。

今回の事故を受けて、電源確保(32mの高台に電源車4台を配備、配電線2ルート化)、冷却水確保(同じ高台に消防車配備、予備海水ポンプと仮説ポンプ配備)、浸水対策(建屋の扉を水密扉に)などの対策をとり、更に追加対策を計画中という。直ぐ出来る事はやられていると思うが、それで住民や自治体が運転再開を了解するかここ四国でも成り行きは微妙だ。

3段階アプローチが雨で流れる

3週間前頃から帰京の準備を徐々に開始した。ところが今年の梅雨は雨が降り続き、手こずっている。雨間を狙って庭の手入れはほぼ終った。だが、畑は2-3日間続けて雨が止まないと土が乾かずトラクターで耕しても意味がない(と言われている)。この3週間は1日くらいしか雨が止まず、前回投稿した3段階の最初の段階にすら入れなかった。

一昨日決心して小雨混じりの夕方、傾斜地の小さい畑だけ鍬で耕した。もう時間がない、やらないよりましだと。まだ柔らかい土だから桑は簡単に入るけど、表土から20cm下から水が出てきた。畑の8割方残して暗くなり始めたのでギブアップ。昨日の朝も小雨だったが、午後から雨の天気予報を見てコスモスの種まきを強行した。

その後雨が本格的に降り始めた中、10坪もない家庭菜園をついでに耕して同じ種をまいた。3ヵ月後にどうなっているか全く予想がつかない。大草で廃墟みたいになった昨夏よりはマシにしたい。だが、広めの畑は何も出来なかった。私が帰京後の天気の良い日を待って、近所の専業農家の方に機械で耕してもらい、ついでに種まきもお願いすることにした。

挨拶を兼ねてお願いに行くと、母と同じ年配の老農婦二人が何か話していた。私が挨拶すると寂しくなる、特に夕方私の家の明りが見えなくなるのが寂しいと言われた。この二人は毎日のように農作業に出るので良く見かけ、私が田舎で最も多く会話する人達だ。私もそんな気分になったが、早く東京に戻り家族の元気な顔を見たいとも思った。■

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介護録11春(4)

2011-06-18 14:36:54 | 健康・病気

5月初めに母の様子を書き込んでから40日以上経った。バセドウ病の治療効果が出てから母の容態は落ち着いてきたので、格別報告することがなくなったからだ。血糖値は安定しており、時々低血糖になるのでインシュリン投与量を見直すか様子見という。

母の容貌はここ数年ですっかり変わり、80代半ばの頃の祖母の顔の記憶より老けてしまった。適切な表現が見つからないが、不機嫌な時の母の表情は老醜という言葉しか思いつかない。こうなってからの母の写真を一度も撮っていない。スタッフが撮った写真は他人みたいに感じる。近所の同年代のオバサンたちは、10年前と同じような顔をしているのに随分不公平だと会う度に思う。

母は施設に慣れ、スタッフも母の反応に慣れて、昨年春に入所した頃から比べると老人ホームの生活はスムーズに進んでいる、と最近施設のスタッフは会う度に言うようになった。手間がかからなくなったということだろう。

先日、車椅子の母が見たことのない黒の上下を羽織っていた。楽しみにしていた買い物にやっと連れて行ってもらったようだ。連れて行ってくれた介護責任者の方にお礼を言った。明るい爽やかな色を勧めたが母は黒が良いと譲らなかったという。「良かったね、似合ってるよ」と言ったが、母はにこりともしなかった。何でこんなに素直でなくなったのだろうか。

10日前に携帯に電話が入り一瞬不安になった。左目の横と額辺りに出血があったという連絡で、数日後見舞った時は目の周りが少し内出血していただけだった。多分ベッドから車椅子に移る時に転倒したのではないだろうか。看護婦によると自力で立ち上がれた様なので何が起こったか分からないというが、怪我に気が付いたときは車椅子にいたというからそれ程悪い話ではなさそうだ。

今週初めに「東京に戻るよ、秋には又来るからね」といったが殆ど反応が返ってこなかった。実家の庭のシャクヤクが雨で台無しになったとか、サツキに虫除け消毒した報告には表情に少し興味ある反応があった。勇気付けられて、畑や山刈りの話をすると「やかましい(うるさい)」と話を遮られた。「それじゃ又来るね」と言って広間を出た。振り返ると母は窓越しに外を見ていた。■

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