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男優列伝Ⅶ 高倉健3  ダンスの誇り

2017-04-14 02:43:26 | 日記
A.男優列伝Ⅶ 高倉健3
 1960年代後半にブレイクした任侠ヤクザ映画のヒーローとして活躍する前の高倉健は、ほとんど語られることがない。とくに東映時代劇に出ていた高倉健は完全に忘れられているといってもいい。でも、ぼくには若い高倉健の颯爽とした姿が目に焼きついている。「宮本武蔵」連作で最大の敵役、佐々木小次郎を演じたのが高倉健だった。後年の無口で渋い忍従のヒーローではなく、ここでの佐々木小次郎は、傲慢で女たらしで出世欲や自己顕示欲にあふれたサディスティックなまでに派手な剣客である。吉川英治の「宮本武蔵」という国民的小説を映画化したシリーズ作品は、すでに稲垣浩監督三船敏郎のものが先にあったのだが、そこでの佐々木小次郎は鶴田浩二が演じていた。
  鶴田浩二という人と後輩になる高倉健は、同じ映画スターとして共演もしているが、その俳優としてのイメージはかなり違い、それが微妙な確執を含んでいたと思う。鶴田浩二の佐々木小次郎は剣豪の強さより女好きの甘い柔らかさが勝つ。しかし高倉健の小次郎は、女優と絡んでも甘さは皆無で、硬い表情には武蔵に匹敵する剣への燃えるような一途の自信を湛えて、軽薄なところがない。それは、高倉健という人の変わらぬ本質が、すでに若いこの佐々木小次郎にも自ずと出ていたということだろう。それを導いた監督、内田吐夢はさらにあの名作「飢餓海峡」でも、高倉のストレートな融通の利かない演技を、活用している。

 「内田吐夢は昭和初期の映画創成期から骨太な作品を撮り続けた人だ。デビュー3年目の高倉健を主演に据え、香川京子、三國連太郎らで撮った「森と湖のまつり」の時はちょうど50歳。すでに「巨匠」の風格があった。
  24歳のときに監督デビューを果たした後、放浪生活に身を投じ、旅役者や肉体労働者として4年あまり暮らした経験もある。不器用にしか生きられない男たちに混じって生きたことがあったからだろうか、小芝居をせず、監督の指示にはじっと耳を傾ける高倉はお気に入りの俳優であった。
  東映で撮った作品では1963年(昭和38年)の「宮本武蔵 二刀流開眼」、翌年の「――一乗寺の決闘」、さらにその翌年には名作「飢餓海峡」と「宮本武蔵 巌流島の決闘」という具合に立て続けに高倉を起用している。
  当時、任侠映画をメーン路線に据えつつあった東映だが、単調になりがちな編成に骨太な内田の時代劇を織り込むことで、メリハリが付いた。前に触れたように任侠映画の起点となったのは、1963年の「人生劇場 飛車角」だが、その5年後の1968年、続編「飛車角と吉良常」の製作が決まる。プロデューサーの俊藤浩滋は監督に内田を指名する。
  内田にとっては初めての任侠映画であり、俊藤にとっても冒険だった。5年の間に初期の勢いを失いつつあった任侠路線のカンフル剤となれば、との思いがあったのかも知れない。
 巨匠を招くにあたり、俊藤は京都の料亭で一席をもうける。主演の鶴田浩二も同席した。鶴田は内田を前に正座すると、深々と頭を下げた。
   (中略)
  「健さんはこの監督なら身を任せられる、といったん思うとそこからは余計なことは考えない。だから、監督にもの申すところを見たことがない。どうしても合わなかった深作欣二監督でさえ、現場では黙々と従っていましたからね」
 と吉田は言う。
 監督に任せたら、もう考えない。この割り切りも高倉の強みの一つだろう。高倉には自分は監督にとっての「素材」である、という思いが強い。」相原斎と日刊スポーツ徳別取材班『健さんを探して』青志社、2015、pp.134-137.

  俳優は、監督や原作者という表現の創作者にとって、ただの「素材」でしかない、ということに自分は実力があると信じている俳優は満足できない。世間で認められた大映画スターは、自分の演技で大衆は歓喜しているのだと思うから、監督や脚本家の指示に甘んじるのは耐え難い。いっそ自分でプロデュースして気のすむまで主演映画を作りたい、と願って、三船敏郎も、勝新太郎も、石原裕次郎も、中村錦之助も映画会社を離れて独立プロを立ち上げて、自分の映画に夢を描いた。しかし、高倉健はそんな傲慢なことはしない。自分はただの「素材」にすぎないことを謙虚に納得していたからだ。それは、映画やテレビの仕事などアルバイト程度にしか考えていない新劇の舞台俳優とは出発点から違っているし、そもそも俳優の劣等生だと自己規定してる高倉さんは、親しさを感じた監督の「素材」であることに満足していたのだろう。そのことは、のちに海外での体験にいろいろな変奏として奏でられた文章にも、確実に反映している。例えば、1990年の7月末から8月にかけて中国の内モンゴル自治区で開かれた日中映画祭で訪中した際の回顧。

 「最後の晩餐会、北京人民大会堂と同様フフォホトでも、やはり歓迎ぜめであった。つまり完全なVIP扱いで、日本でいえば、宮中で催される晩餐会と同じ格式であるとのことだ。
   記者会見には、内モンゴル自治区のテレビ、ラジオ局、新聞社のほかに、北京からの記者団も加わっていた。しかし、だれが何を質問するか、前もってきちんと決められていたようで、この国の持つ複雑な事情があるんだなあと感じた。
 インタビューが終わって席を立つとある女性の人が、こうなにかポッと絵ハガキみたいのくれたんです。僕は絵ハガキでもくれたのかなあって、「どうもありがとう……謝謝」なんて言って、部屋に帰って見たら、赤ん坊……とっても可愛い。赤ん坊の写真の裏に、こう書いてあって。
    遨是我的宝宝。願他至純至真的笑容帯給伃一仐美好的祝福。
 ぼくが同行の中条富蔵君(僕がしょっちゅう行く中華料理屋の若社長)にそれを見せたらなにか見たまま黙っちゃったんですね。で、なんて書いてるのって、僕は軽い気持ちで洋服を着替えながら聞いても返事がないんですよ。
  いつもなら即座に「ハイ」と明るく返事するはずの彼が、様子がどうもおかしいんですね。それで、
 「トミゾー君、なんて書いてあるんだよ?」
 で、こちらを振り返った彼の顔がおかしいんですよ。それで、
「どうかしたの?手紙、なんて書いてある」
「ええ、訳します」って、訳してくれました。

 “これは私の宝の宝物です。この彼の純真な笑顔で貴方の幸せをお祈りします”

 それを見たらその人の子供なんですね。で、その写真をまた返してくれって、そういうことなんです。
 “私の祝福を。私は一番の宝物を高倉様にあげたい。私の赤ちゃんの写真、いつも身に着けて離さないもの。写真は3カ月になる赤ん坊のクローズアップ。天真爛漫な笑顔です。息子の笑顔と一緒にあなたの健康とこれからの人生の幸せを祈ります”
  訳しているトミゾー君、涙ぐんでいるんですね。日本人にはわからないって言うんですね。中国では子供は一人しか産めないって。二人生んだ場合には、ものすごく税金かけられたり、その働いている場所が、すごくよくないところへ飛ばされたり、そうやって子供を二人以上産まないようにする国の政策なんですね。
 だから、子供が本当に宝物だという。どんなに子供が大切な宝かっていうことは、日本人にはわからないってね。彼はもう自分も自分の子供たちも日本の市民権とって青山学院に入ってるくらいですから、日本人のことも勿論、十分わかっている。僕には、想像するだけでそんな状況下で子供を持つ気持ちはわからないんですけど……。
そういう思いの伝え方ってあるんだなあっていうことを、僕は感動したんですよね。
 そうしたら突然涙が溢れ出てきたんですよ。その写真をくれるのかと思ったらくれない。そのまま返してほしいっていう……で、何だかわからないけど、とってもなにか不思議なものを感じて。しばらく、ネクタイ締めながら外を見てて、涙が溢れ出て止まらないんで、なんであんなに涙が出たんだか、ちょっとわからないんですけどね。
  ああ、こういう、人に対しての思いの伝え方って日本人は忘れてるな。いや自分が忘れていたなと。この国についた時から、経済的に遅れているなあ、貧しいんだなあと感じてた自分の心が、天と地がひっくり返りました。
  君の宝物は何なの?君は宝物があるのか!
  と、自分自身で考えていた。
  それは理屈っぽくじゃないんですけど、瞬間に感じたんです。瞬間にフワーッと突然来ましたから、あと二人の日本から言った若いプロデューサーを見たら、やっぱり泣いているんですよね。
  日本では何かするというと、すぐ何か品物を優先してあげるんだけど、写真一枚もあげることはできない、ただ見せて、それで返してくださいっていう。
 さっき渡してくれたのは女性記者だったから、その人の子供に違いないからって、探してもらったら、その記者の友人でした。選ばれた記者しか入れないから、記者の友人なんですね。
 公安というかSPが五十人近く配属されてるんですよ。終わったときにビックリしたんだけど、私服着た人がついてきているんですね。二人のSPがいつもそばにいるなあっていうのは、僕も気がついていたんだけど、一番最後の日に記念写真撮らしていただいていいですかって言って、ゾロゾロとこんなにつていたのっていうくらい五十八人だかついていて、それでやっぱりちゃんと見逃さずに見てたんですよ。誰が、どこの記者が渡したかって、それですぐパッと調べてくれたんです。
 ロビーにその記者と一緒に、お母さんがいたんですよ。
 で、トミゾー君がすぐ降りていって、それで‟雷平小姐、我強烈祈願称和称的宝宝幸福(貴女と貴女の宝物の幸せを強烈に祈ります)”っていうのを中国語で教わって、それをこう書いてですね、渡したんですよ。
  若い母親だったですね。ええ、もう顔が引きつっていましたよ。僕が降りていったらね、もう言葉がなく手を合わせて。
  次の日に手紙が来ていて。警備がとってもうるさいですから、部屋には上がってこれないんです。
  ご主人と相談して、その赤ん坊の写真、僕のそばに置いてほしいっていうことで、僕にくれたんですね。
   その方、名は“雷平さん”という。
  それから半年ほどして、僕の手元に中国から一通の手紙と雑誌が届いた。雷平さんが、僕に会ったことを、中国の映画雑誌に書いたものらしかった。
  また富蔵君に訳してもらった。それによると、まだ中学生だった十三年前に『追捕』(『君よ憤怒の河を渉れ』)を見て、ファンになったこと、先の日中映画祭では、テレビ局のディレクターとして、ぼくらを撮影していたこと、そして、「突然、私は彼に何かプレゼントをしたい――私の祝福を。私は自分の一番の宝物を彼にあげたい」と思い、そして、「私の赤ちゃんの写真、いつも肌身につけて離さないもの。三カ月になる赤ん坊の写真をあげることにした」ことが、綴ってありました。
 そして、ぼくから写真を返してもらったときの様子を、こんなふうに書いていた。
“――そのとき私の胸の中には、『海峡』で見た一シーンが浮かびました。生まれたばかりの赤ちゃんに‟峡子”と名づけて、心を込めてその名を書く場面です。
 「私の赤ん坊は、あなたのことは一生忘れません」と、私は言いました。中国語のわからない高倉健様は、富蔵さんの言葉を待っていました。富蔵さんが、私の言葉を伝えると、彼はほほえみながらうなずいて、そのままエレベーターに向かって歩き、振り向いておじぎをしました。
 人と人の間に美しい交流があると私は信じています……”
 なりたくてなった映画俳優ではないのに、こんな瞬間、俳優でよかったと、自分に言い聞かせる。と同時に、映画の力は凄いとあらためて思うのだ。映画は、国境を越えて、人種や民族を越えて、人と人の心を結びつけるのだから。
 この旅で、大切にしていたウサギの御守りを失くしてしまった。
 懸賞つけたり、手を尽くしたが出てこない。しかし、あのようなかたちでいただいた雷平さんの想いによって、御守りに対する気持ちも少しは、あきらめがつく。
 旅とは、なにか別れを決意させたり、新しい感動に出会わせてくれたりするんですね。
“雷平さん、ぼくもあなたと、あなたの宝の宝の赤ん坊のこと、終生忘れません”」高倉健『あなたに褒められたくて』集英社文庫、1993. pp.36-42.

 高倉健は、中国で最もよく知られた日本の俳優だ。「君よ憤怒の河を渉れ」と「単騎・千里を走る」は、中国全土で多くの人々を感動させたという。確かに、映画の中の高倉健はやたらに群れる日本人ではない、明確な個性をもった単独の人間として、中国の人民の心に響く演技をしているのだが、それだけではただ印象深い外国のスター俳優であるだけだ。この人が、一種のカリスマ性を発揮するのは、ここで語られているような世間の名声や金銭経済の交換価値ではなく、具体的な場面で、フェイス・ツゥ・フェイスのかかわりを涙や怒りを伴って伝えるだけの感性を示したからだろう。確かにこういう誠意の示し方は、なかなかできるものではない。
 でも、そう考えると、高倉健という人は、明治大学は卒業しているけれども、本質的にインテリではない。



B.バレエと舞踊の原理論
 三浦雅士という名前は、あの80年代の『現代思想』ブームの中核を担った編集者であり、仕掛け人だった。サルトル、メルロ・ポンティの実存主義はもう古い、今はフーコー、デリダ、ドゥルーズのフランス現代思想こそが、最新流行のカッコい~トレンドだよ~と囃しまくった一人が三浦雅士だった。ぼくらはまだ若かったので、気分に流されてダサいオールド革命マルクス主義を捨てて、なんだかふわふわスタイリッシュなポストモダンに乗ってしまった。だが、21世紀のこの愚かで草も生えない思想の荒廃を見るにつけ、あの80年代のうわついた知の狂騒はむなしい幻のようにも思えるのだ。
 でも、彼がバレエに向かったのは、血迷いだったのか、しかるべき道行だったのか、改めてぼくもここでダンスについて考察しようなどと企ててしまったために、三浦雅士『バレエ入門』などという本を読むことにしたのだ。

「繰り返しますが、バレエは素晴らしい芸術です。
 あなたならあなたという人間が、今そこにそうして生きていることは、とても素晴らしいことなんだと、全身的に感じさせてくれる芸術は、おそらくバレエのほかにないだろうと思います。
 芸術というと、たいていの人は、まず美術や音楽のことを思い浮かべます。それから演劇や映画のことを考える。でも、そういう意味での芸術という言葉ができたのは、それほど昔のことではありません。西洋でも日本でも、ここ百年、二百年のこと、いわゆる近代に入ってからのことです。
  舞踊も音楽も、もちろん、はるかその昔からありました。呼び方が違っていたのです。たとえばアートという言葉はむしろ技術のことを意味していました。ザ・アート・オヴ・メモリーといえば記憶術のことです。日本語でいえば芸がそうです。習って身につける技のことを芸と言います。文芸とか武芸という言葉があるように、これもむしろ技術のことを意味していました。
  美にかかわるものすべてをひっくるめて芸術というようになったのは、ですから、つい最近のことなのですが、これは舞踊にとってはあまり良いことではありませんでした。美術は絵が残りますし、音楽は楽譜が残ります。演劇ですら台本が残るのです。ところが、舞踊は何も残りません。そこで、芸術として論じられるのが、いちばん後回しになってしまったのです。論じるのが難しいために、芸術の外に置かれてしまった。
  舞踊が本格的に芸術として論じられるようになったのは、十九世紀末にイサドラ・ダンカンが登場し、二十世紀初頭にバレエ・リュスすなわちロシア・バレエ団が登場してからです。その頃になってはじめて、人間は、人間の身体を使ったこの舞踊という芸術が、とても大事なものだったことに、あらためて気づいたのです。
  舞踊を愛するものとしては憤慨にたえません。というのも、考えればすぐに分かることですが、舞踊はもっとも古い芸術だからです。人間は言葉を話す動物だとよく言われますが、舞踊は言葉とともに古いと言っていい。身振りをともなわない言葉はありません。いや、言葉そのものが舌の舞踊なのです。乳幼児はンマンマとかブーブーとか言います。喃語と言いますが、あれは舌の舞踊の訓練です。その訓練のなかから、的確な言葉だけが抜き出されて、いつしか母語を話すようになるのです。
  子どもは笑ったり泣いたり、手を叩いたり、飛んだりはねたりします。そして、そういう仕草のなかから、その社会に合った身振りや仕草を習ってゆく。日本人なら日本語、フランス人ならフランス語といった言葉の習得とまったく同じです。そして、その身振りや仕草のいちばん大事なところが固まるようにして舞踊が作られていったのです。
  文字がない民族があっても、言葉がない民族はありません。同じように舞踊がない民族もありません。舞踊は言葉の兄弟であり姉妹なのです。そしてこの言葉の兄弟姉妹としての舞踊から、音楽や美術が生まれて出てきた。
 音楽のない舞踊はありません。舞踊は音楽を実行することなのですから。いまだってそうですが、昔はもっと、歌も踊りも演奏も入り交じっていて、区別がつかなかったでしょう。演奏は踊りに近かったでしょう。
 また、美術のない舞踊もない。人間の身体そのものが美術作品と同じ意味を持つからです。踊るとき、人は必ず何かを身に着け、たいていは何かを持ちます。あるいはサークルを描いたり、まわりを囲ったりします。これが美術の始まりです。
  舞踊こそ、諸芸術の母であり、女王なのです。人類の歴史と同じほどに古い舞踊という表現が、しかし芸術として脚光を浴びるようになったのは今世紀になってからでした。バレエやモダンダンスが注目されるようになってからでした。そういう意味では、バレエもモダンダンスも、あるいはコンテンポラリー・ダンスも、もっとも古く、かつもっとも新しい芸術であると言っていいのです。
  ダンスというと、なぜか、女性や子どものためのものであると思っている人がいるようです。バレエや日本舞踊は女性がするものだと思っている。男性中心のダンスであるヒップホップなども盛んになってきて、最近ではさすがに少なくなってきましたが、それでもまだ年配の方には、ダンスは女性や子どものためのものと思っている人がいるようです。
  しかし、ダンスに関してこれほど誤った考え方はありません。ダンスはむしろ男性のためにあったといった方がいいくらいなのです。というのも、社会的には、男性のほうがじかに死に直面することが多かったからです。そして、生死にかかわるときに何よりも必要とされたのがダンスだったのです。
                                                    人間は生まれてこようと思って生まれてきたわけではありません。気がついたら、生きていた。生きて、そこにそのようにしていた。それが人間というものです。ほかの動物にしても条件は同じですが、しかし、気がつくということがありません。人間は、自分が今ここにこうしているということに気がついて、たいへん驚く。幸か不幸か、そういう動物なのです。しかも、生きていることに気がつくというのは、いずれ死ななければならないということに気がつくことです。これは、訳が分からないこと、納得できないことです。別に自分が望んで生まれてきたわけではない。気がついたらそこにいた。しかもいずれは死ななければならないらしい。こんな理屈に合わない話はない。理屈に合わないことを不条理と言います。人間の生というのは不条理なものなのです。
  二十世紀は第一次世界大戦をはじめとする戦争の世紀でしたので、こういう人間の条件がたいへん強く印象づけられました。それで、実存主義という思想が生まれたほどです。実存主義というのは、死に直面していることこそ人間の条件なのだということを強く打ち出した思想です。人間の条件は不条理なんだ、それを受け入れて敢然と生きることが人間であるということなんだ。そういう思想です。
  別に実存主義などという必要もありません。そういう人間の条件というのは大昔から変わりません。人類が誕生したのは二百万円前であると言われています。あるいは、現在の人類、現生人類が誕生したのは二十万年前であるとも言われている。いずれにせよ、そのころから、人間は、自分が不条理な存在なんだ、死へ向かって刻一刻と歩んでいくそういう存在なんだということを、強く意識する存在だったのです。
  ダンスはそこから生まれました。」三浦雅士『バレエ入門』新書館、2000.pp.17-22.

 う~ん。ダンスを近代の思想と関連させて社会学的に追っかけてみようと、ぼくはこの春学期の講義で追及することを学生さんたちに言っているわけなのだが、そう簡単な作業ではない。昨年は、履修学生に毎回、プリント・レジュメを作成して配っていたのだが、それも30人ぐらいだからできたので、240人も履修者がいたのではまあ無理だ。しかたがないので、プリント・レジュメの文章は、e-leaningにアップして見せるしかない。大学の講義は、イヴェントでもパフォーマンスでもないけれども、ひとつの表現、伝達行為ではある。何かを若い人たちにどうやって伝えるか、それにはアートが必要だといわれれば、それはウイである。
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