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男優列伝Ⅱ 三國連太郎3 ・・絵の値段について

2017-02-25 19:59:43 | 日記
A.男優列伝Ⅱ 三國連太郎3 
  俳優という職業は、多くの人に自分の姿を見せてなんぼ、という仕事である。しかしそれは演技なのだから、自分自身を見せているわけではなくて作られた役の人物を演じているに過ぎない。それは〈虚〉なのだが、嘘に見えたのではダメである。見る人に〈実〉を感じさせないといけない。この〈虚〉と〈実〉が皮膜の間にある、つまり生きている人間の表面と内実の間にある、という演技論を唱えたのは18世紀初めの浄瑠璃作者の近松門左衛門である。近松は人形が演じる芝居の作者であって、役者でも人形遣いでもなかったが、観客に芝居を見せるという行為の意味について深く考えたと思われる。
 自分自身の人生が、〈実〉を隠した〈虚〉を演じていると考えた20世紀の俳優、三國連太郎は、近松や世阿弥を読むことで演技者としての脱皮を図った。

「何のために数多くの映画に出て、その役を演じているのか。
 悩んだ末に、人生の〈実〉を真面目に、真正面から見つめてみたいと思うようになりました。そして、〈実〉に生きることを決めたのです。
 〈実〉に生きる手段として、他人にウソをつくことは、自分に対して実体の分別がつかなくなる第一歩だと考えました。
 ウソで人生を生きつづけていると、人間関係に皹(ひび)が出来てしまって、結果として怪しげな情炎の淵に溺れ込んで自滅することになってしまう。
 しかしウソをつかない方法を求めて、ずいぶん無理してまいりました。
 最初はせめて形だけでもいいからと、及ばぬ知識を無理に詰め込んでみたりもしました。
 いわば自分が生きるためにまき散らしてきたウソに、自分がきりきり舞いさせられた、そのような舞い上がり方が、まったくムダであったかというと、私はそれほどムダではなかったという気持ちがあります。つまり、そのムダこそ実態に精神を摺り寄せる架け橋ではないかと……。
 正直言って私の半生はまったく〈虚〉で埋め尽くされていました。
 小手先の〈虚〉と、そして見せかけの〈実〉で生きるのは、仲々に苦痛なものでした。〈虚〉に目覚め、〈虚〉から抜け出すことを目指した私は、その解決法を書籍に求めます。
 むさぼるように、あらゆるジャンルの書籍を読みあさりました。
 その中でもとくに、その本質をズバリと指摘していると実感したのが、まず近松門左衛門の有名な芸についての「虚実論」でした。
 ご存知のように近松門左衛門は、江戸時代中期に生きた浄瑠璃・歌舞伎作家です。
 「芸というものは、実と虚との被膜の間にあるものなり。……虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあったものなり」
 皮膜の「皮」は、身体を包んでいる細胞のことですね。
「膜」とは、つまり臓器を包んでいる薄い皮です。
つまり、私たちの身体はまず、外皮に覆われており、その内部に臓器を包んでいる薄皮がある。皮膜の間の意味は、
「区別することが困難な、ほんの少しの違い」
だそうです。
〈虚〉と〈実〉は、区別するのが難しいほどの、わずかな差しかない。
この間の線の引きようが、〈虚〉と〈実〉の微妙な間合いに存在し、人の心を和やかにさせる。また、楽しくさせる。それが芸だというのでしょう……。
 ここまでが〈虚〉で、ここまでが〈実〉だと決定的に線を引くことはできず、その絶妙な間合いが、ないまぜになっているところに真実がある。
 私のように〈虚〉の人生を歩んできた人間には、この言葉は深く身にしみました。私自身の生きざまを変えただけでなく、役者としての再認識をうながした画期的な言葉となったのです。

 前にも書いたように、文章を読んで「この人なら信用できる」と思った『朝日ジャーナル』の編集長との対談の機会をいただいて、〈虚〉の部分を自ら打ち壊し、「実」の自分を世間にさらしたのです。
 人間としての自覚に目覚めた私は、まず役者として新たな第一歩を踏み出そうと心に誓いました。
 当時、スクリーンという限られたワクの中で、歌舞伎のように(ちょっと失礼ですが)正面切って芝居することが、何となく違うという基本的な疑問が湧いてきたのです。
 描かれる人格の関わり合いがもっと大切ではないのか。(人工的な舞台環境から生まれた表現手法だと思います)
 その仮説のもとに、私の信念が正しいことを実証してみようという、だいそれた決意が沸々と湧いてきました。与えられた領域で、〈実〉の自分を生きるためには、自分の主張(人生観?)をはっきりと通すべきだと考えるようになったのです。(笑)
 そうなると何を置いてもやらなければ気のすまない私の性格が、むくむくと頭をもたげてきました。せめて俳優という仕事だけでも、世の中の柵について、自分で消化しておきたいという気持ちになりました。
 とくに、「なぜ、おれは芝居をするのか」について考え始めたのです。
 当時、世阿弥の芸術論、鶴屋南北の芝居の世界とか、それにちなんだ関連書物を集めては、憑かれたように読み耽ったものです。
 自分の役者人生は、虚構の上に成り立っている事実の実体を探るために。
 これを打ち破るには、まず、直接、間接を問わず、観客の方々からお金をいただくわけですから、害毒を垂れ流す片棒担ぎにはなりたくない。どうせなら清流に向かって胸を張って歩みつづけていきたい、と柄に似合わず、一寸思った訳ですよ。(笑)
 そのためにも、改めて勉強し直す以外ないではないか。まずそんな気持ちで、先達に学び、実体を見きわめ、私の役者人生を見直していくことにしたのです。」三國連太郎『生きざま死にざま三國連太郎』KKロングセラーズ、2006.pp.86-90.

 俳優三國連太郎がこのような自分のリセットを決意したのは、おそらく1960年代はじめで、それが映画の中ではっきりと表に現れたのは、内田吐夢監督「飢餓海峡」(1965)の犬飼太吉という〈虚〉を生きる人物を演じたときだろう。この男は、極貧の境遇から各地を転々とし、北海道である犯罪に関わり、逃亡の途中で下北の娼婦と出会い大金を与え、その後、戦後の混乱の中で別人の人生を歩んで山陰の町で成功者として地位と名声を得る。水上勉の原作は、この男の数奇な運命をたどりながら、一人の女の無私の再会を願う行為が悲劇的な結末を招くサスペンス・ドラマである。三國連太郎は、この犬養太吉に自分を重ねることで、〈虚〉の人生が破綻に至る内面の〈実〉を描き出そうとした。愛とか誠意とか同情とかが意味をなさない過酷な現実を、人はどういう形で生きられるのか?最後に彼は連絡船から津軽海峡に身を投げる。観客にこの非情で酷薄な男を一種の共感的理解に導く演技。それはかなり成功したと思う。
  この過激な試みは、それに続く今村昌平監督の「神々の深き欲望」(1968)で、南海の架空の島クラゲ島の神事を司る太根吉という男を演じたことで、さらに展開する。構想6年、撮影は孤島南大東島で2年を費やした。高度経済成長が進行する日本で、原始的な農耕社会がまだ残る土俗的離島にも観光開発の波がやってくる。東京から来た測量技師刈谷は、根吉の父山盛、妹のノロのウマ、根吉の息子亀太郎、そして太古のエロスの象徴のような娘トリ子などに接しているうちに、文明世界とは異質なクラゲ島の世界に巻きこまれていく。
  現実の沖縄の離島社会をそのまま現実として描くのではなく、監督の今村はかなり強引に、プリミティヴな人間の欲望がそのままに表れる世界と、消費文明に捉われた空虚なモダン日本を対比させて、主人公の根吉を穴を掘る無為な行為のあげく最後にその穴に生き埋めにされることで、経済的に豊かな日本が何を抹殺しているのかをあぶり出す。これを演じられるのは、もはや三國連太郎以外にはありえない。



B.美術の社会学:「絵画のお値段について」                    
 ふつうに考えれば、好きな絵を描いて生きていくのは、難しい。自分は絵を描くのが得意だと思っても、人のご注文で売れる絵を描けばなんとか生きていくことはできるだろうが、自分の中の芸術的理念だけで作品が認められることはまずない。だから画家になろうなんてふつうは考えない。美大に行って画家で一生過ごそうなんて考えるのは、よほどのばかか、親が大金持ちで遊んでいてもいい恵まれた境遇にある道楽者だけだろう。だから純粋な芸術家は貧乏で当たり前というイメージができてしまった。しかし、美術界の現実はもっと違った美術市場という社会システムができあがっている。これはほとんど世間の注目を集めることはないが、実は莫大な利益を生む美味しい世界で、そこはほとんど札束が飛び交う投機的ギャンブル世界である。売れない画家はとても貧乏だとしても、もしこの美術市場で脚光を浴びれば、一躍たかが絵一枚が自動車の値段よりも高くなるのだ。有名画家のほんものの名作を一枚持っていれば、いざというとき家一軒買えるほどの価値をもつ。瀬木慎一先生は、そこいらへんのことをデータで裏付ける。

「印象派および後期印象派が美術市場で圧倒的な人気を得て価格が高騰した後、それにつづくものを求める人々の強い関心の対象となって、現代絵画も必然的に高騰を始める。
 1960年の時点で見たとき、現代絵画で最高の価格を示した画家はマティス、ピカソ、ブラック、レジェの四人であり、俗にこれを「ビッグ・フォア」と言う。これら四人の間では、いま列記した順に価格の差があるが、最近では、低位のものほど上昇率が大きく、その数値は次のようになる。
100(1945)→1700(1960)・・マティス
        →1200( 同 )・・ピカソ
        →467 ( 同 )・・ブラック
        →4667( 同 )・・レジェ
 この結果として、四人は、1960年頃には、ほぼ同一のレヴェルに並んだと見てさしつかえないだろう。それゆえ、これをトップグループとすると、それにつづく第二のグループとして、次の八人が挙げられる。
 シャガール、ドラン、デュフィ、モディリアニ、ルオー、スゴンザック、ユトリロ、ヴュイヤール。さらに、彼らにわずかの差をもって迫っている第三のグループに、次の10人がいる。
キリコ、グリス、ダリ、キスリング、リュルサ、マリン、ミロ、リベラ、ヴァルタ、ローランサン。これら三つのグループの関係をグラフで見ると、一つの明瞭な関係が得られる。どのグループについて見ても、一九五五年から一九六〇年に至る五年間の上昇が著しいが、とくに第一グループの場合は、306から2009へと急カーブを描いている。
 これは、同時期に印象派が794から1208、そして後期印象派が566から4833へと上昇しているのと比較すると、現代絵画は印象派を凌駕し、後期印象派に接近していることが明白である。この数値を1945年を起点とするものに直すと、次のようになる。
  印象派   ……  589     後期印象派 …… 3021
  現代絵画 ……  2009
これによって、第二次大戦後における現代絵画の価格上昇がいかに著しかったかが、自明となるだろう。それでは、1920年代以来、それが具体的にどのくらいの価格レヴェルで市場において売買されたかを見てみることとしよう。煩瑣を避けるために、マティスとピカソの二人を例にとる。
●マティス 1927 赤いアトリエ … 800
1941 静物      …2600 
1954 開いた窓    …4795
1954 ひじかけ椅子  … 4920
1954 ドランの肖像   … 7035
1957 寝室       … 9000
1958 花と陶器    …23215 (ポンド)
 ●ピカソ 1934 花       …  700
1945 恋人たち    … 1060
1949 気どりや    … 1250
1954 闘牛      …  4410
1956 マンドリン   … 35000
1958 青いストッキングの女 … 54285
1959 美しいオランダ女   … 55000(ポンド)
 こうして見てくると、美術市場は、1920年代以来、いや、もっと遡って、十九世紀以来、一路発展しつづけ、それに関係した人は、すべて潤ったように見える。この事実は基本的にはその通りである。そしてそこにまた、現在に至る盛況と繁栄が生まれているわけである。
 一口に美術市場といっても、そこにはありとあらゆる作品が出入りする。なかには価格が見る見る高騰するものもあれば、無残にも下落し、見捨てられるものもある。それらをすべてならして平均値を求めた場合、どのような結果が現われるかと見てみると、1925年以降の価格の動きは、上のようになる。」瀬木慎一『社会のなかの美術』東書選書、1978. pp.41-42.

 20世紀はじめのロンドンでできあがった美術市場の場所は、オークション・ハウスと呼ばれる。その代表はサザビーとクリスティーズのオークションで、これは現在も続いている。画商を介した個人的取引ではなく、オークションは、公開の場でカタログで提示された美術品・絵画・彫刻・工芸品といった作品を、競り売りにかける。つまり、値段をつけてそれよりも高い値で買う客がいればどんどん上がっていき、それ以上の高値が出なくなったところで落札される。ときどき評価の高い作品がオークションにかかり、驚くような値段がついて競り落とされたというニュースが流れる。
 第2次世界大戦後の好況の時代、ピカソやマチスの絵はどんどん値段が上がって、お金持ちたちは株や商品取引に投資する一方で、資産価値の確実な絵画や美術品は手堅い投資先として争って買いあさった。持っていればやがて10倍100倍の値段で売れるのだから、こんな愉快な金儲けはほかにない。ゴッホなどのように画家が生きていたうちは、一枚も売れずに貧乏だったのに、死んでからどんどん評価が高まり、何億円もの値段がついた例はたくさんある。それは絵画そのもののアートとしての価値を反映しているとはいえないが、美術市場の商品としてはおおいに注目すべき価値が出たのだ。
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