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女優列伝Ⅴ 北林谷栄3  役者の文章

2017-07-31 01:26:09 | 日記
A.女優列伝Ⅴ 北林谷栄3  役者の文章
  男優列伝に続き女優列伝をこのブログでは気ままに書いているが、ご本人が著書やインタビュー記録などで自分の言葉を語ってくれている場合は、なるべくそれを引用することにしてきた。劇作家は物書きの仲間になっても、演出家や俳優は舞台の上が仕事場で、文章を書くのは余計なことだから、インタビューを受けて話すのは容易くできても、自分で筆をとるのが得意だという人は多くない。和歌や詩や俳句なども、そう簡単に書けばいいというほど易しいものではないし、なまじ有名になってしまった人なら、うかつに自分の文章を世間に発表など怖くてできないかもしれない。
 散文を人が読んで楽しめる域にまでいくには、多くの文章を読んでいるだけではなく、自分でたくさんの文章を書いてみる訓練が必要だろう。文才というのは、韻文では天性の発露もあるだろうが、長い散文では天性よりは思考力と広い教養、そして推敲の技が必要だと思う。そのような意味で、北林谷栄さんの書く文章は、良い文章をたくさん読んでいる教養と、全体を眺めた構成力と、江戸っ子ならでは口調のリズムがあって、かなり読ませる味のある文章だと思う。たとえばこれ、映画のロケでのエピソードなのだが、ただふつうに書き起こすのではなく、自分の犬の姿態から話を始めている。
 
 「尚半  だいぶ前、うちにいた犬はおかしなやつで何か失敗をすると股の間に顔を突っ込んでしまい、ほとぼりがさめるまでその恰好をやめない。駄犬の羞恥というのは不憫なものだった。彼奴(そやつ)の気持ちもわからないではないという気分を味わったのは、ごく最近のことだ。
 今年(九〇年)の初夏、「大誘拐」という映画のロケーション撮影で吉野山の奥に長滞在したときのことである。
 緒形拳という方と宿の部屋がむかいあいになり、演技のほうも相棒ということなので、ついお茶などを共にする機会があり、その際緒形さんから何か好きな言葉を書いて、と軽く言われてその気になったのが右の駄犬シュウ太郎(漢字で書くとかわいそうなのでやめる)と同じ肢態に私を追い込む羽目になろうとは。
 好きな言葉は考えるまでもなく、すぐに出てきた――「以紅専深」
 一九六〇年、初回に新中国にお招きを受けたとき賓館の壁に見た清雅な書の一句だった。通訳さんに意味を確かめたところ「コレワ眞ゴコロヲ以テ熱烈ニ自分ノ専門ノ道ヲベンキヨシ、ソレヲ深メテイキマショウ。デスカラタイヘンイイコトバデス。ナント、ヨクコレニ注意シマシタデスネ」と讃めてもらった。無邪気に受けとってみると、なんら不遜な意などはない。その文字もとても素朴でいい感じだった。これよこれよと膝を打つような気持になって手帖に書きとめて帰国してから三十年近くなる。それ以来何か書けと命ぜられるたびに「以紅専深」とつつしんで悪筆をふるうことで切り抜けてきた。
 さてそのときの撮影も終り緒形さんと惜しくもお別れをした。緒形さんは数日後にお仕事で急遽中国のほうに出発されるときいて、私も記念に何か書いていただきたいと願った。場所柄吉野の手すきの紙を探し求めた。緒形さんは良い字を書く方で、ロケ先といえども中国製の古陶らしい美しい小さな陶硯と本式の筆を座右に用意しておいでなのを私は見とどけていたから。
 その後、二三カ月たち自分も二つばかり大仕事を終えたつい先日、緒形さんかられいの吉野の手すき紙がヒラリと一枚送られてきた。前後無言、ただ紙の中心に淡い墨色で「尚半」とそれだけがある。尚なかばなり。なんという上質な風韻のことばだろう。このたびの中国の旅でどこかで心にとめて戻られたものとみえる――。私は自分の書いた例の「以紅専深」を閃光のように思い出した。真心を以て道を深めたい。深めたいとは何だ。私のような者が猪口才にも大まじめで、そんな口真似をしたことの恥ずかしさよ。
 緒形さんの「尚半」の前に、私は毛並みまで赤くなって後肢の間に顔を突っこまねばならなくなった――。シュウ太郎の真似をして私もほとぼりのさめるのをしばらく待って、これからは尚半、尚半とつつしんでこれにしたがうより道はないだろう。自分の言葉を見つけるまでは。
 そして、そのうちには誰も何も書けと言わなくなるだろう。眠るはよき哉。」北林谷栄『蓮以子 八〇歳』新樹社、pp.150-152.

 エッセイとしてよくできているうえに、緒形拳という人の書家の腕への讃仰を、それとなく効果的に描き出す。こういう技はなかなかできるものではない。次は若いときの出来事を回想しながら、太宰治と心中死した女に会ったという話を出しながら、いつのまにかその人物よりも当時のお茶の水の風景とそこで祖母と生きていた自分を、懐かしく振り返っているが、考えてみれば昭和15年という戦争になだれ込む直前の時代を書きとめることになっている。

 「山崎富栄のこと  彼女が太宰治と死をともにした相手と知ったとき、私はなぜだか、なるほどと思った。つまり、どうしてもイメージがつながらないところが、なるほどなのかもしれなかった。おかしなことに、当の彼女よりも、その母親のほうの顔や姿態が私にはさきに思い浮かび、それが心中死体として水から引きあげられたもののように二、三日、目の先にチラついて困った。母親という人は金色のつるの眼鏡を細い鼻すじにのせた、貧血性体質の小柄な女性で、私は彼女からキンキンした苦情を何度か浴びせられたことがある。もう二十年ばかり前になるが、ある短い期間、私は彼女のいわば店子であった。そして太宰と死んだ富栄さんも、私の見知っているかぎりでは母親そっくりの面だちで、ただし眼鏡はフチなしの近眼鏡であったことをおぼえている。
  昭和十四年から五年にかけて、私はある事情からしばらくの間、演劇の仕事を退いて、八十近い祖母と二人で逼迫した暮らしをしていた。新聞広告でありついた仕事というのが上の鴬谷にあったある講義録の発行所の事務員で、その講義録というのは「正規の学歴ナシで普通文官の試験をアナタモ受ケラレマス」式の、地方の青年たちをカモに刊行されているものであり、普文大学などと大ソレた名のりをあげていた。講義録一巻ごとにトジこまれた答案用紙と称するものに、購読者が克明に回答してくるのを、虎の巻と照らしあわせて赤インキでこまかい書き入れをし、もっともらしく送り返すのが事務員の仕事であった。昼も伝統をつけるしめっぽい部屋で、机上に山をなす質疑応答をバカ正直にていねいに果たしているうちに、私は夕方になると目がかすみ、トリメのような症状になった。
 ちょうどその頃、部屋借りしていたのが、お茶の水美容洋裁学院と名のるものの三階の、空教室を貸間にしているガランとした奇妙な一室で、山崎富栄さんの家というのがそれだったのである。ねずみ色のコンクリートの建物で、屋内の空気はいつも澱んでいて、三階の寄合世帯の共同流し場にはしばしば、なめくじがいた。高橋是清を職人風にしたようなのが富栄さんのお父さんで洋裁部の校長さんであり、はじめにのべた神経質な小柄なお母さんが美容のほうの校長さんであって、そのほかには先生というものはいなかったようである。祖母にきいたところによると、男の校長さんは洋服屋の職人さんから財をおこし、女の校長さんは日本髪の髪結いさんから叩きあげた人なのだそうであった。それはそれでまことに結構なことだが、それだけあって、電気、ガス、水道のメートルの計出の仕方など、一代でとにかく、小なりといえども事業というものを築こうとするには万事このようにやらねばならぬものかいな、と憮然とさせられることもあったわけである。
 私の借りた部屋の、教室づくりの窓から見下ろすと、彼方にお茶の水の駅があり、そのむこうにニコライ堂のドームが望まれた。窓の下は本郷三丁目につうじる広いアスファルト道路で、ちょうど順天堂病院の横手通用門と向きあっている。
 その順天堂の通用門というのは、いまから三年前の一九五八年、私の恩師と呼ぶべき久保栄先生が入院中、窓に帯をかけて縊死を遂げられた病棟へとひらかれている。後年、そのような宿命的なツナガリを、その病棟と自分との間に生じようとは露しらず、ニ八歳の私は無造作に朝夕、その棟と対していたわけだ。一階が洋裁学校、二階が髪結い学校だったので、うす暗い階段からいつも髪の毛のこげる匂いがのぼって来たといっても、決して気のせいではなかった。ある夜、山﨑富栄さんが初めて、私の部屋の教室風引き戸を叩いた。紙を貼ってはいけないというので、私が大和糊を塗りつけて又おこられたという重たい硝子戸である。私はそれまで富栄さんを見たことがなかった。
 とにかく一階二階と女ノ子が右往左往しているので、どれがこの家の娘だか考えたこともなかったのである。富栄さんは祖母から、孫はいまはやめているが、新協劇団の女優で――というようなお喋りをきいて、アラ、遊びに行きたいワ、と言ったとかで祖母が是非きてください夜なら居ります、などとおせじを言ったもののようであるが、トリメになるほどくたびれている私には夜更けのお客は迷惑であった。しかし、彼女は部屋に入ってきてなんだか話していったが、話の内容は私も忘れてしまった。が、彼女も、女優になりたい、というようなことをたしかに言ったのはおぼえている。そのとき彼女が、ステージ、ステージという言葉を使うので、私はオヤオヤと思ったことをおぼえている。たいした本ではなかったが、とにかく並んでいる蔵書というものに一ベツも払わなかったことも妙に印象的におぼえている。それ以後、私がこの部屋を追い立てられて中野に移るまで、彼女は一度も訪れなかった。私に叱られた祖母は二度とおせじを言わなかったのだろう。
 彼女についてはこれだけだが、このときから二、三年のち、私は宇野重吉、信欣三などの先輩たちがおこした瑞穂劇団という移動演劇に参加した。時は戦時体制の急激に苛烈化したときで、男女ともにダンブクロと命名された、スフ国防色のズボンに、おなじスフ国防色のリュックを背負った。当時、瑞穂は大政翼賛会傘下の移動劇団として、しかし仕事の実質としては、後退の最後の一歩だけはなんとか踏みとどまりながら演劇の灯を絶やすまいとする、くるしい手品のような活動を山村につづけていたもののようであった。ようであったというのは二人の先輩も一言もそれを、それとして口には出さなかったからである。
 こんな時期に、私は、いくらか痛快な気持ちで太宰治の小説集というものを二、三冊つづけて読んだ。たしかに四国巡演のときで、春であった。汽車のなかで、私は宇野重吉とむかいあっていた。宇野さんは自然科学的な(たしか魚類についての)本を読んでいた。いまになって私は、ワカルナ――と、ときどき思い出す。私は私で、ちょうどそのとき、そのダンブクロ姿で太宰の「服装について」という小説を読んでいた。読むすすむうちに、なんのこと、私にはその向こう側にボードレールのピモダン館時代の回想録がハッキリと姿を現してきて、そうなるととても読めない。一言にして言えば――いや、言わないにしても、それ以来、汽車のアミ棚においてきてしまってそれ以来、私は太宰の作品というものを手にしないで今日にいたった。
 先日、順天堂の横を、知人と久保さんの話をしながら通った。見ると山﨑学校のあとは報徳なにやらという胃腸病院になっていて、昔とおなじ三角形の地形に、まるで新しい建物がのっていた。それを私は横目に見ながら通りすぎたものである。」北林谷栄『蓮以子 八〇歳』新樹社1991、pp.170-175.

 終わりの部分に出てくる、太宰の小説を読んで「ボードレールのピモダン館時代の回想録」というのがあり、それで太宰を読むのをやめたという記述。北林さんがその時、何を感じたか判る人には判る文章だが、このへんがさすがである。ちょっと解説してしまうと、ピモダン館というのはパリのサン・ルイ島にある当時の高級住宅地にあった邸宅(オテル・ピモダン、またはローザン公の館という建物)で、詩人ボードレールはここで20歳1843年からの2年を過ごし、詩集『惡の華』の大半を書いた場所。文学者・芸術家とつきあい恋人への詩を書く日々だったが、ぜいたく三昧に借金を重ねたため母から送金を打ち切られ、彼は自殺を図り、命は助かったが母の元に戻った。つまり北林さんは、太宰の放蕩生活をボードレールに重ねて、あいそをつかしているのだ。

 「蓮以子八〇歳  蓮以子は私の本名です。1911年、明治四十四年の、つまり明治の残光のなかに生まれ出た偶然を何故ともなくよろこんでおります。
 生れ落ちて、まだ命名もされぬうちに、ある事情から祖母の手に引き渡されました。
 名無しの赤ん坊は、きっと眠るか泣きわめくかしていたことでしょう。
 祖母は自分の名前の鈴子という字を二つにタテ割りにして鈴の字のツクリの令という部分を私にあたえてくれました。この人は武家の出で、それなりの美意識をもっている人でしたので令という字のそっけなさを女らしくないと感じて連以と万葉仮名ふうに書いてとどけ出てくれたのだとのちにききました。私が少女期をむかえる頃に蓮の花の蓮にかえて蓮以子としたほうがお前にはよかろうとそんなことをつぶやいたのをきいて、それがいいやとおおいに同感してそれ以後この六朝ふうのイメイジのある書き方を自分から使うようにしていきました。少々たおやめぶった風情が気にならないことはないのですが、この種の情感にはどこか憧れるところが私にあるのは本音であります。
 もひとつわざわざ八〇歳と言あげしましたのは、この頃は老齢者に対して子ども扱いをする風潮が目だってきておりますので、八〇歳とはコドモではないんだぞとりきんでいるつもりもあってのことなのです。
 老人に対して優しくして下さっているいたわりの現れかもしれませんが、公共的な集まりとか病院とかなどでは高齢者の人たちに小児ことばで話しかけたり説明をしたりするのが日常ふつうで、こそばゆい感じがつのり、私などは聞いていてどうも閉口してしまうのです。この小児扱いは当人の心もちを稚く退化させていき、むしろボケを誘発するものと思います。八〇歳という年齢は、ふつうのことを考えているし、ふつうの言葉で自分の内面を表白すること位はできるのだし、又、させなくてはならないということを常々から言いたかったので「蓮以子八〇歳」という名のりが、ごく自然なかたちで出てきたまでのことです。ちょっと突拍子もないとお感じかもしれませんが。」北林谷栄『蓮以子 八〇歳』新樹社1991、pp.211-212.

 北林さんのこういう文章を読むと、女優として一流であったことは論を俟たないが、エッセイスト・文章家としても優れた人だったな、と思う。「八〇歳という年齢は、ふつうのことを考えているし、ふつうの言葉で自分の内面を表白すること位はできるのだし、又、させなくてはならないということを常々から言いたかった」という言葉はなるほどと思うけれども、これは北林さんのような人だから言えることだとも思う。このとき80歳の北林さんは98歳まで生きた。



B.ぼくは道徳教育は大事だと思う・ただし明晰な市民としての・・
 この国の為政者はときどき思い出したように、子どもに道徳教育と愛国心をしっかり教え込まないといけないと言い出して、いろんなアイディアを学校教育にもちこんできた。その理由は、いじめ自殺が起きたのは子どもたちに道徳観倫理観が欠けているからだ、少女売春や少年非行が後を絶たないのは誘惑や欲望に流される心の弱さが現われているのだ、北朝鮮の脅威や中国の圧力が強まる中で子どもたちにはしっかり愛国心を植え付ける必要がある、といったようなことを口走って、教育政策に反映させようとする。では、その道徳や愛国の中身はどのようなものなのか?
 まさか、あの19世紀の「教育勅語」なんじゃあるまいな?と危惧したら、安倍晋三総裁や稲田朋美(前)防衛大臣の固い信念はそこにあるらしいのだ。でも、道徳の授業が小学校で教えられるときに、先生たちはなにを手がかりにすれば、教育効果をあげられるのだろうか?まずは教科書。

「道徳教育、大切なことは? 貴戸理恵
 小学校で来年度から「特別の教科 道徳」がスタートする。道徳の教科化は大津いじめ自殺事件などを受け、政府が2013年に提言したものだ。だが、教科化が議論されていた時の疑問は解決されないままだ。
 そもそもいじめの原因は道徳の劣化なのか。価値の押し付けにより個々の内面の自由が侵されるのではないか。現場教師の負担が増えるだけではないか。「決まったことだから」と思考停止せず、本源的に考え続ける必要がある。
 実行の段階では目の前の作業に追われ、視界が狭くなりがちだ。たとえば、教科書検定で、あまりにも表面的な修正が要求・実施されたことは記憶に新しい。「高齢者への尊敬と感謝」が不足しているとの検定意見で「おじさん」から「おじいさん」に表記を変えた教科書。「伝統文化の尊重」の観点から「パン屋」を「和菓子屋」に変更した教科書。「価値の押し付け」以前に、思考停止にも見える。
 この「あまりにも表面的」という印象は、教科書を開くといっそう強まる。全体的に「規則を守れ」「感謝せよ」「挨拶はきちんと」というメッセージであふれているのだ。確かにこれらは、政治的・世代的・階層的な立場をこえて否定されにくいだろう。しかし、大切なのは「無難さ」ではあるまい。
 では、大切なものとは何か。アメリカやオーストラリアなどの教育現場で小学校低学年向けの哲学系の授業などによく使われる絵本に「たいせつなこと」(内田也哉子訳、原題The Important Book)がある。この本では、子どもにとって身近なものから、その本質とは何かを考えていく。
 たとえば、スプーンならば「てでにぎれて/たいらじゃなくくぼんでいて/いろいろなものをすくいとる/でもスプーンにとって/たいせつなのは/それをつかうと/じょうずにたべられる/ということ」という具合だ。靴やりんご、空などが登場し、ラストは「あなた」について考える。「たいせつなのは/あなたが/あなたで/あること」
 他方、日本の道徳教科書すべてに採用された「かぼちゃのつる」は、以下のような話だ。ぐんぐんつるをのばすかぼちゃはハチや犬に「みんなのとおるみちだよ」などと止められるが「こっちへのびたい」と聞かず道路にはみ出す。揚げ句、トラックにひかれて泣いてしまう。テーマは「わがままをしない」である。
 あまりの落差に愕然とする。「たいせつなこと」が存在の本質を見通し子どもの自己を根底から肯定しようとするのに対し、「かぼちゃ」は表層的な寓話を通じて自我を世間にとって都合よく曲げようとするのみだ。後者は子どもをなめていないか。それぞれの教育を受けた人が後に出会ったら、その差は明らかだろう。
 自由で民主的な国の価値教育は一般に「個人のよりよい生」と「社会における共生」を目的とする。だが、共生社会を創るにはまず「自己が自己である」ことを認められていなければならない。そうして初めて「他者が他者である」ことを尊重できるからだ。この重要性に比べれば、感謝や挨拶などは表面にすぎないだろう。
 道徳教育について、子どもの学び・育ちについて、「大切なこと」とは何か。大人の側が問い直し、軌道修正する必要を感じる。 (関西学院大学准教授)」東京新聞2017年7月30日朝刊5面、時代を読む。

 日本の文教政策に関与する保守政治家の表明している道徳教育観は、かなりの程度、憲法と戦後社会で否定されたはずの「教育勅語」を理想のモデルとしていると疑わざるをえない。それは、たとえば学校教育の基本指針に、政治的中立を謳うことで逆に民主主義や自立した市民の自由な意見表明を抑圧し、国家・天皇に異議を唱える者は異端者だと見做す偏見を奨励する。問題は道徳教育のテキストの枝葉末節ではなく、人間がいまの社会のなかでなにを大切にするか、なのだ。幼少期から教育勅語や軍人勅諭を徹底的に叩き込まれたはずの日本軍人が、戦争のなかでどのような行動をとったか、いまの政治家は知らないか、考えようとしない。
 「空気を読まないワガママな自己主張」は、ダンプに轢かれて泣きをみるぞ!が道徳だというのは柔順な臣民を作ろうという意図に基づく。しかし、どうやらそれは定着しているのかもしれない。いずれ平穏な日常すら窒息してしまう。世の中の空気を読んで、ヤバい人間だと思われないように賢く立ち回るには、どんなにバカげていると思われても、とりあえず調子を合わせているほうが安全だと思う直観的に素直な人はこの国の80%になっている。
実はそれは100年前から基本的に変わっていないのだが、これから世界を生きる子どもたちはどう思うのだろうか?日本という稀有な歴史をもった島国が、世界史に新たな可能性を切り拓くとすれば、19世紀半ばに明治維新が達成したアジアでの積極的成功とそれに続く失敗を、いまこそ冷静に、日帝の罪悪を率直に認め、その上で市民としての人権human rightと精神の自由Libertyを自分の国に定着させることに全力を注ぐべきだった。
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