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男優列伝Ⅴ 仲代達矢3  演劇・弟子・金銭・桜

2017-03-27 14:41:50 | 日記
A.男優列伝Ⅴ 仲代達矢3
 俳優という仕事は、人に自分の姿や声を見せてなにかを感じさせるという、かなり恥ずかしい仕事だ。ただ、自分のありのまま、素の自分を晒すわけではなくて、あくまで自分とは別の役柄の人物を、演技として見せるわけだから、むしろ自分ではないものに変身しているわけだ。そんなことをやりたいと普通は思わない。自分のことを振り返っても、小学生の時、学芸会で芝居をすることになって、白い衣装を着てチョウチョになって短いせりふをしゃべった。一緒に並んだクラスの女の子たちははしゃいでいたが、ぼくはこんなことをやっているのが恥ずかしくて、早く舞台から降りたいと思った。人前で嘘の涙や笑いを見せるなんて、とてもできないし、それを喜んでやっている奴は自己顕示欲の目立ちたがり屋としか思えなかった。そのときに主役のミツバチを演じた同級生は、これに味を占めたのか後年、本物のプロの役者になった。
 俳優として世間に名を成した人は、もともと人前で注目されるのが嬉しくてたまらない、という人間なのだろうか。演劇に関わる仕事には、俳優だけでなく演出家、脚本家、照明、衣装、小道具、大道具など舞台に関わるさまざまな技術者が必要である。いわば独りでは成り立たない仕事でもある。むしろひとつの作品を上演するという行為全体からは、俳優などその道具のひとつに過ぎないともいえる。道具に飽き足らず、俳優をやっていた人が、演出家や映画監督やプロデューサーなどをやりたくなるのも、当然かもしれない。仲代達矢さんの場合は、自分で芝居を企画・主演するだけではなく、弟子を養成する教育者としての仕事でも成果を残すことになった。

「幼かった我が子がいつの間にか自分と肩を並べ、やがて追い越していく時の心境に近いのだろうか……。
 原田眞人監督の映画『金融腐蝕列島―呪縛―』(一九九九年)で、弟子の役所広司と共演した時、その演技力に目を瞠った。
 不良債権処理で揺れる銀行の再編で、役所演じる人物はミドル層と呼ばれる中堅行員のトップに立ち、銀行再建を目指し立ち上がる。悪しき因習を断ち切り、旧態依然とした経営陣に総退陣を促す。その経営陣を牛耳る最高権力者の相談役が私に回ってきた。
 映画のラストで、役所は相談役に引導を渡す。もちろん、はいそうですか、とはいかない。追い越そうとする者、トップの椅子に固執し続けようとする者の戦いだ。
「スタート」
 原田眞人監督の声がかかる。
 教え子と共演する時、私は一切、駄目を出さない。それをやると自分の役を失ってしまうし、言ったことを他ならぬ自分ができないこともあるからだ。言うは易し、行うは難し、である。
 この時も、まっさらなつもりで演技に取り組もうと決めていたが、カチンコの瞬間、その瞬間、冷静さはどこかに吹っ飛んでしまった。その代わりとばかり、役者根性というような気概があふれてきた。負けてたまるか、と思った。
 役所は無名塾二期生で、二二歳で千代田区役所土木工事課を辞めて、役者を志した。毎朝五時からランニングや発声練習に励み、私たちと一緒に稽古を重ねてきた。
 稽古後はよく一升瓶を囲んだ。「宴会塾」と言われるくらい、当時はよく飲み、演劇論を交わした。役所はギターを掻き鳴らして、誰彼ともなく優しく接していた。
 感性が鋭く、当初から良い演技をする役者だったが、無名塾の三年を終えてもすぐには売れなかった。それでも腐らず、怯まず、へこたれず、アルバイトに精を出し、夢を追いかけた。一九九六年の映画『Shall we ダンス?』の主演で映画賞を総なめにし、翌年主演した『うなぎ』はカンヌ映画祭パルム・ドール。入塾から『Shall we…』まで十八年、コツコツと積み上げた実力は紛れもない本物であった。
 素敵な役者を見るのが大好きだ。それが教え子なら喜びもひとしおだ。そう思っていたのだが、いざ面と向かうと、弟子の成長だとか、そんな悠長な気分ではいられなかった。
「芝居がどういうものか分かるには、二〇年はかかる。そう仲代さんが言っていた意味がとてもよく分かります」
 そう、役所は言っていたという。
 充実した、売れっ子の顔をしていた。
 そう言えば、妻が身内以外で最後に会ったのも役所だった。故郷長崎県諫早市の初物の西瓜を抱えて訪ねてくれたのだ。葬儀でも柩を担いでくれ、
「本格的な俳優を目指して修行していきます」と、誓っていた。」仲代達矢『未完。仲代達矢』KADOKAWA. 2014. pp.234-236.

 神崎愛をはじめ隆大介、役所広司、益岡徹、若村麻由美、真木よう子など無名塾出身の俳優は、演劇の基礎を鍛えられて舞台、映画、テレビで活躍している人も多い。子どもがなく妻に先立たれた仲代達矢には、教え子を可愛がる気持ちもひとしおである。しかし、しだいに老いてゆく肉体と、予期せぬ困難は試練を招く。

「「テオ、テオ、テオ、兄さんは気が狂いそうになっているよう!」
 そう言って、天を仰ぐ私。オランダ生まれの天才画家、ヴィンセント・ヴェン・ゴッホを演じる無名塾公演『炎の人』(二〇一〇年)の一場面である。
 描いた絵はたったの一枚しか売れず、世間から狂人扱いされ、友人のゴーガンにも去られて途方に暮れるゴッホ。孤独と貧困の中、ほぼ唯一の理解者である弟テオの支えで命をつなぎながら、人はなぜ生きるのか、花はどうして美しいのかといった根源的な問いに、あまりにも真っ向から立ち向かった人だった気がする。
 二〇一〇年の冬。時に私も、気が狂いそうになった。
 ゴッホという役柄を演じると決めた時点から、分かっていたことでもある。
 真っすぐで、一直線で、野球の投手で言えばカーブではなく、直球で勝負するタイプのキャラクターだ。役者の言葉で「堪え役」といって、人物から働きかけて物語を動かすのではなく、環境などからのカセに対するリアクションで見せていかなければならない。この頭のてっぺんから爪先までの全身を使って、である。
 アプローチの仕方は、俳優座の頃から変わらない。それは「if」というものだ。もし自分がゴッホであったらどうするか、自分をゴッホだとした上で、こういうことがああったらどうするか、と突き詰めていく。
 ゴッホという役が、六〇年の役者人生で培った技術だけでは到底処理できないというだけではない。老いさらばえた身体には若い頃は思いもしなかった変化や徴候が出てきて、上手く演じたい、芝居を成功させたい思いは変わらなくても、いよいよ身体が付いていかなくなってきたのだ。
 台詞覚えひとつとっても、かつての一〇倍くらいの時間と労力がかかってしまう。
 もともと覚えるのが得意な方ではない。そのため台本の台詞を筆で書き写した半紙を家中に貼り巡らし、一言一言頭に叩き込む方法で何とか食いつないできたのだが、それももう、立ち行かなくなってきた。
 トイレの壁にも台詞が溢れ、真夜中でも懐中電灯で寝室の壁を照らす。そうやって何度も何度も声に出しても、出てこないのだ。夜中にうなされて、「助けてくれ」と叫んだこともある。ベッドの下に台詞を書いた半紙がハラリと落ちていた。
 稽古では付箋だらけの台本に鉛筆で描き込みを入れ、もう一度見直そうとすると、今度は目が霞む。こんなはずではなかったと嘆いてもどうしようもない。横殴りの雨が稽古場のガラス戸に叩き付けられる音が響いていた。
 顔を上げると、稽古場に掲げられた妻の写真がある。
――どうしたものか。
 知らず知らず、語りかけてしまう。
 最後の瞬間まで、燃え尽きるまで走りたいが、走り続ける努力は途方もない。
 そうやって迎えた翌二〇一一年三月の東京公演初日、日本を、、未曽有の天変地異が打ち負かした。東日本大震災であった。
 私は池袋のサンシャイン劇場にいた。開演に備えて待機していた。劇場のシャンデリアが振り子のように揺れ、今にも落ちてきそうだった。立っていられないほどの揺れの中、ホワイエに出ると、初日祝に頂いた花輪などがすべて倒れ、散乱し、花畑のようになっていた。遠く、お台場の辺りから煙が上がっていた。何かが爆発したのだった。天井から水が滴り、床や非常階段に水溜りができた。上階のスポーツジムのプールの水道管が破裂したようなのだ。劇場のモニターが映し出すテレビのニュース映像を見て、我が目を疑った。急きょその日の公演を中止して池袋のホテルメトロポリタンで待機した。水浸しのビルを出るのに三〇分、ホテルまで一時間以上かかった。
 休演した初日と二日目、何人かのお客様が来場したことを聞き、ひとりでもお客様がいるのであれば、幕を開けるべきなのではないかと逡巡した。プロとして、ものづくりの基本的精神は私にだってある。興行に関わる劇場やスタッフのことを考えて、公演を強行する劇団もあると聞いた。しかし、熟慮の末、東京公演すべての中止を決断した。日本中が恐怖し混乱し、何万人もの人たちが生死を彷徨っているという危急存亡の秋だ。無名塾の公演を見に来て、怪我や命に関わるようなことになってしまったら申し訳が立たない。
 劇場日も負担させて頂いた。完売だったチケットをすべて返金するのに半年かかった。何より、稽古を積み重ねてきた大切な芝居をお客様の前で演じられなかったのは悔しかった。本当に無念で、何度も地団太を踏んだ。
 それでも、被災地に比べれば、大したことではない。たかが芝居じゃないかと出演者やスタッフに言い、自分自身にもそう言い聞かせて悔しさを押し殺した。あの太平洋戦争下の空襲を逃げ惑った経験もあり、終始冷静に対応できていたと今は思う。しかし、しばらくは自宅で放心状態になった。
 日本から音も光も途絶えてしまったような極限状態の中、演じようという気力すら、削がれていくようであった。ただチケット代を払い戻す際に返金を拒否されるお客様がいて、中には「被災地に送ってください」と言われたお客様も少なからずいたらしい。胸が熱くなった。」仲代達矢『未完。仲代達矢』KADOKAWA. 2014. pp.247-251.

 「炎の人」初日幕開け直前に出会った大震災。チケット完売、すべて用意した東京公演が、大地震のために中止になった。しかし、これは仕方がない。被災地では、家が流され人が亡くなり、原発が壊れて放射性物質が舞い飛んだのだから。

「道すがら、曲がった腰に手をやって、杖をつく老翁とすれ違った。軽く会釈を交わし、お幾つくらいなのだろうと、つい想像していた。曲がった腰は、長年の畑仕事のためだろうか。子供を育て、孫を抱き、この晩秋の山々の樹木のように、人生が色づいた証のようにも感じられる。
 翻って、我が身はどうか。畑仕事には収穫があるが、役者という虚業はどうだろうか。人前でものを言う技を身に付けるまで、一〇年も二〇年もかかり、効率的でもなければ、儲かるわけでもなく、ちょっとでもしくじれば罵声を浴びせかけられる。
 もちろん身体はガタがきている。持病の喘息の上、アトピー、間質性肺炎などを患い、医者通いは散歩と同じくらい、日常の中に組み込まれている。薬や養生で何とか凌いでいるけれども、いつ何時、倒れたっておかしくないそうだ。
 はっきりとしているのは、天職ではなかったということだ。子供の頃から引っ込み思案で、学芸会に出たこともないし、卒業写真にも顔が半分しか映っていない。あまりに無口なので、母は吃音症じゃないかと心配したそうだ。不器用で台詞覚えも悪く、周りの役者さんの何倍も努力しなければならなかった。何とかやれたとしても、『乱』のように、一歩間違えたら何億円もの大金が吹っ飛んでしまうような重圧は生きた心地がしない。逃げずに続けてきたのは、食うためだ。
 役者を志した一九歳の時、部屋に岩波文庫三〇冊くらいしかなかった私は、食い扶持を役者に求めた。妻の実家に居候したりして、何とか食べられるようになってからも、箱根に稽古場を作っては借金、自宅隣に仲代劇堂を造って、また借金を背負った。
 ほかに生きようがなかった。そうやって六〇年やってきて、ようやく仲代劇堂を建てた借金返済の目途が立ったところだ。芸能人健康保険なるものが話題になったこともあるけれど、フリーである以上、来年仕事があるという保証はどこにもない。今も万年失業状態である。
 静かな生活に憧れたこともある。家族で朝、夕の食卓を囲み、子供の成長を見守り、慎ましく暮らす。そして子供や孫たちに囲まれて、最期を迎えるのだ。
 フランク・キャプラ監督の映画『素晴らしき哉、人生!』には、二級天使が登場する。不運が相次ぎ、自殺しようとする主人公の前に現われて、彼が生まれてこなかった場合の世界を見せる。もし今、同じ天使が私の前に現われてくれたとしたら、そうしたなだらかな道を歩む人生を見せてもらおうか。質素で無名で終るとしても、そちらを選ぶかもしれない。
 思い通りに行かないのが人生だ。ないものねだりと思われるかもしれない。あれこれ思いを巡らせては、自分で自分の腰を叩いている。」仲代達矢『未完。仲代達矢』KADOKAWA. 2014. pp.272-274.

 演劇は営利を目的にするものではない、金銭を度外視したアートなのだ、という立場に立てば、身銭を切ってでも自分のやりたい芝居をするという意欲はわかる。しかし、やっぱりお金はかかるので、経済的に採算ラインは考えねばならない。中小劇団は、公演をするために劇団員がアルバイトをしたり寄付を募ったりして、ようやく公演にこぎつけても、利益を出せるところまではいかない。名前と顔が売れて、外で稼げるタレントが出ればお客も増えて期待できるが、稼げる俳優になってしまうと劇団のために身を削るよりも、劇団を捨てて独立してしまう。
 俳優仲代達矢という名前は、聳え立つ文化勲章であるから、みんなが敬うだろうが、だからといって大富豪がポンと無名塾のために10億円寄付してくれるわけではないだろうし、無名塾の活動は仲代さんの身銭と借金で続いているようである。それができるというのも、幸福といえば幸福だが、ご本人はまだまだやりたいことが残っているようだ。未完。の人、である。



B.桜と旗と歌
 なぜ、この期に及んでも、「安倍的なもの」を多くの人がおかしい、これはヤバい、と思わないのか?という疑問が、このブログを始めたぼくの一番の動機だった。保守政党自民党が長く持続してきた政治は、既存の価値や慣習を維持しながら漸進的な制度の修正と利害関係者の調整を堅実に行う、ということで国民の支持をつなぐというものだったと思う。時々の政局は転変しても、野党が唱える「大胆な改革」「革命的な変革」などはやらないことをモットーにしていたはずだ。しかし、小泉政権あたりから、野党だけでなくほんらいの保守勢力も全部まとめて固陋な「抵抗勢力」のレッテルを貼り、自分たちはこれまでにない「大胆な改革」をやるのだと唱えれば、国民は拍手してついてくるという手法を手に入れた。
しかし、まだ小泉純一郎という人は、戦前回帰的アナクロ思想に本気で乗る指向はなかったと思う。靖国参拝も、左右バランスの政治的な計算でやっていたように見えた。ところが、安倍晋三という人は、言うまでもなく大日本帝国があるべき理想国家と考え、現行憲法は諸悪の根源と信じている。そういう人が総理大臣になって、この国を動かせば何が起こるか、ある程度は予想ができた。問題は、国民有権者のマジョリティが、この事態になんら疑問を持つことなく、「でもまあ、安倍さんしかいないんじゃないの」と落ち着いていることだ。ナショナリズムとか、ポピュリズムとか、反知性主義とか、いろいろ説明の言葉はあるけれども、この「安倍さんでいいんじゃない」という社会意識の蔓延はなぜなのか?もっと考えないといけない。

「日曜に想う:満開の桜と城山さんの気骨 編集委員 福島 申二 
 演歌のいいところは、同調を強要しないことだろう。例外もあるかもしれないが演歌に斉唱は似合わない。
 〽お酒はぬるめの燗がいい 肴はあぶったイカでいい……。たとえば八代亜紀さんの「舟唄」など、独りの低唱こそ似つかわしい。国家や社歌のように拳を振って士気を鼓舞する曲でもない。
 「個」を消してしまうような歌は苦手だと言いながら、カラオケに誘われると軍靴を歌っていたのが作家の故・城山三郎さんだった。すすんでではない。ほかに知らなかったからだ。歌いながら、若くして死んでいった者への哀惜にぽろぽろ涙をこぼしたという。城山さん自身も海軍の特攻要員だった。
 忘れ得ぬ体験を文学の原典として、戦争と人間を見つめた気骨の作家が世を去って、この22日で10年がたった。
 一度だけ話をうかがう機会に恵まれたのは、亡くなる前年の早春のことだ。桜の季節を前に「散華の花」への思いなどをお聞きした。かつて、ある絶対的な価値観を伴って日本人を束ねたその花について、城山さんは「いまだに気楽に眺められない。満開の横を通るときはつい早足になってしまう」と訥々と話した。
 そんな城山さんから、桜への思いに通じるところがあると言って教えられたのが「旗」と題するご自身の詩である。
 旗振るな/旗振らすな/旗伏せよ/旗たため
 社旗も 校旗も/国々の旗も/国策なる旗も/運動という名の旗も
 ひとみなひとり/ひとりには/ひとつの命……
 昭和の戦争で、おびただしい命を戦場に散らす象徴の役を担わされたのが桜だった。旗もまた、使われ方しだいで個を消す装置と化してしまう。だから油断がならないのですよと、過去を振り返るように城山さんは言葉をつないでいた。
 城山文学の深部には、「暖かい生命を秤売する」(別の詩の一節)ように人間を一絡げに軽んじた戦争指導層への憤りと、苦難の時代を引き受けて命を散らしていった名も無き個々への畏敬とが、複雑な潮となって流れている。
 歿して10年。「戦争で得たものは憲法だけだ」と語っていた城山さんが健在なら、憲法をめぐる今の状況をどう見るだろうと想像する。この間に自民党は、現行憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される」の「個人」から「個」を取り去って「人」に変えるといった、復古色の強い改憲草案をかかげている。
 現行の憲法は、個性や考え方の違いを尊重し、どう生きるかを個人にゆだねている。それはまた、「個」を「全体」は吸い上げる国には二度とならないという歯止めでもあろう。たった一文字の削除ながら、いわば演歌が国家に変容するほどに、もたらされる違いは大きい。
 今年も桜の季節が巡ってきた。
 桜ほど日本人からさまざまな思念やイデオロギーを託された花はない。国家主義的な哲学者で戦前の東大教授だった井上哲次郎は大意こんなふうに述べている。
 「一つの花より一枝の花の集合体、一枝よりは一樹、一樹よりは全山の花の集合体の方が美しい。これは日本民族の長所が個人主義にあるのではなく、団体的活動にあるのを表現して余りある」。このくだりは教科書にも載っていた。
 憲法施行から70年。多大な犠牲と反省の末に封印したものへの郷愁が、ここに来て急に濃度を増しつつあるようだ。そうした復古の上げ潮に乗るように、自衛隊員の命をあずかる防衛大臣が「教育勅語」を国会で平然と擁護するのが、今という時代である。
 「自由に生きるとは、これほど清々しく、心ときめくものかと、涙の滲むほど嬉しく感じた」と、城山さんは終戦の夏の感慨を残した。その自由を享受したあげく、むしろ居心地よく束ねられたい欲求が、私たちの中から湧きだしてはいないか。古い価値観や体制へのタイムマシンのような政治への支持は高い。
 遠い記憶に根を伸ばす桜に、忘るべからざるものは何かを聞きたい春だ。」朝日新聞2017年3月26日朝刊、3面総合欄。

 自立した「個人」の自己決定に、正当性の根拠を置くという西欧近代のもたらした価値観を、日本に定着させることにはなかなか困難がある、というのは近代日本思想史の課題だが、では、それを捨てて回帰する場所となると、いきなり日の丸君が代の集団主義、国家主義、天皇主義に没入するのは、何も考えていないと言わざるをえない。法より勅語が優先する国家は、古代の専制支配である。そんな方向に「大胆な改革」を行なおうというのは、狂気だ。
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