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「能」を知る 5 三代将軍の偉業「道」  昭和のオヤジ論  

2024-03-20 13:48:08 | 日記
A.武家文化は「自然力」
 室町幕府三代将軍の足利義満(1358~1408年)は、わずか10歳で将軍になり、36歳で将軍職を息子の義持に譲ったあとも実権を握り続け、人臣初の太政大臣に就任。1395(応永2)年には仏教勢力にも影響力を及ぼすために出家。明との交流や金閣寺の造営、多方面にわたる絶大な権力を確立した人として知られる。天皇が二人いる南北朝時代を終わらせた義満は、政治の安定とともに「北山文化」と呼ばれる和風の世界を築くもととなった。それは、現在も日本独特のさまざまな「道」につながっている。茶道、華道、香道、書道、剣道、弓道、柔道(武道の技は、当時は剣術、柔術、槍術などと呼ばれた)などの「道」が、家元制度で代々伝承される流派になったのも、この15世紀初めごろだと考えられる。その義満が愛好保護したのが、能だった。

「―-それにしても、よく能楽はあの時代にあの完成度まで辿り着いたなって、思いますよね。
観世 足利義満公が建立した相国寺の有馬頼底館長にお話をうかがうと、義満公は幼少のころから参禅をしていたそうです。導師について、お経の勉強をしたりするなかで、払子の振り方とか、錫杖のつき方とか、法具の扱い方などについていろいろと質問していたのだそうです。さらに、払子はこう振ったらどうかとか、錫杖を普段ですとこう立てるところを、「どんっ」とやったらどうかなど、ご自身の考えを話されたりもしたようです。お師匠さんは、義満公がよく勉強なさったことに感心して、「非常に奇抜な演出だけれども坊主たちの眠気を覚ますのによいかもしれません」なんて答えていた(笑)、そういう問答が残っているのだそうです。
 そこから推論していくと、やはり観阿弥も世阿弥も、かなり芸術的に昇華したものをやらないと義満のお気に召さないという状況をよくわかっていたはずです。だから彼らの時代に能は飛躍的に熟成を遂げるのです。年月をかけて熟成していったのじゃなく、あの時期にいきなり昇華させた。
――あの時期はあらゆる意味で、日本の根っこができあがっていくじゃないですか。禅も茶道も花道も香道も何もかも今につながってくる、文化の根っこができあがった時期、特別な時代だったなって思うんですよ。
内田 あの時代、今から約650年前は、日本社会の一大転換期だったと思うんです。どういう転換があったかというと、これは僕や中沢新一さんが好んで語る仮説なんですけども、平安時代っていうのは完全に都市文明なんですよ。都市文明が解体していって何が浮上してくるかというと、日本史で習ったとおり、貴族文化に代わって登場するのは武家の文化なんです。武家の文化っていうのは、要するに「自然力」を応用する技術のことなんですよね。自然の力、野生の力を人間が自分の体を、導体、媒介物にして、外在化してゆく。武家の時代というのは、どのようにしてこの自然力を自分の身体を通路にして表出するかという技術と儀礼が発達していった時代のことだと僕も思っているんです。
日本の場合は、源平っていう二大勢力が平安末期からあって、その戦いが中世社会の基本をかたちづくることになる。で、僕の仮説はこの源平という二大勢力は、それぞれ別種の自然力の媒介者だったというものなんです。
源氏とは何かというと、これは関東の騎馬集団ですね。一方の平家は瀬戸内海や伊勢を根拠にする海民集団です。一方は野生の馬という自然力を借りて驚嘆すべきパフォーマンスを実現できる特異な技能集団、一方は海と風の力を使って操船する特異な技能集団。馬の力を利用して身体能力を爆発的に開花させる技術というのは、今は競馬以外にはほとんど伝わっていませんけれど、実際には兵器の操作には馬の力を巧みに利用していたはずなんです。騎馬武者が使う槍ってたいへん大きくて重いものなんです。人間の腕くらいの太さがあって、長さ何メートルもあるような槍を騎馬武者はぶんぶん振り回すけれど、馬から降りたらこれが人間には持てないくらい重い。ということは、あの槍という武器は馬に乗って扱うことが前提になっている。おそらくは馬に乗って、馬の筋肉を人間の筋肉に連動させて、その力を使って動かしている。
騎射もそうですね。普通に考えると、地面の上に立って、静止状態で射るほうが正確に的を射ることができるだろうと考えてしまうけれども、おそらくそうではない。騎乗したまま射たほうが、人間が地面に立って静止して射るよりも、弓の大きさも、矢の速度も、命中精度も全部上がる。人馬一体の身体能力として騎射という技術があったんだと思います。
そういうふうに自然力を馬とか船とかいう媒介物を利用して操作するノウハウがその時期に確立した。能の修羅物(二番目物)の原風景っていうのは、「陸には源氏、沖には平家」ですよね。岸には騎馬武者たちが居並び、沖には船が展開している。だから、源平の戦いは海と陸の境界線である浜辺で行われることになる。那須与一は騎馬のまま海にわけいって沖の船に掲げられた扇を射落とすわけですけれど、別に浜から射てもいいのに、そうしない。必ず馬に乗って、海に乗り入れる。たぶん浜に立った人間の力だけではその射程距離を射ることができなかったからでしょう。馬に乗ってはじめて引ける強弓があり、馬に乗ってはじめて的を射抜くことができる運動精度がある。板東武者というのはそういう特殊技能の持ち主だったんだと思います。
 源平合戦では、それぞれ異なる自然力を操作する二つの技能民集団が登場してきて、覇権を競った。結局源氏が勝つわけですけれど、源平の覇権闘争を機に、日本社会全体が根底から激しく流動化してゆく。彼らに続いて、自然力を巧みに取り込んで活用する技能を持った集団が次々に出現してくる。能に出てくる芸能民たちもそういう中のひとつだと思うんです。憑依的な芸能というのは、言葉を換えて言えば、自然力を人間の身体を通して外在化する芸能ということですから。そして、能がその中でもきわだって突出していた。
 もちろん能以前にも呪術的な儀礼はさまざまなものがあったと思うんです。でも能がすぐれていたのは、能舞台という定型を決めて、謡や囃子や舞や面や装束や物語や、使える道具を全部使って、強烈な自然力を「おろし」てきて、それを存分に発動させることができたからだと思うんです。それができたのは能楽には「おりてきたもの」をもとの世界に戻すノウハウがあったから。憑依したものを適切に解除する装置を整えていたからだと思います。ブレーキが効けば、アクセルも踏める。様式と枠組みがきちんと出来上がっていたから、ふつうでは簡単に呼び寄せることができないような巨大な自然力、荒ぶる力、禍々しい力までをも舞台上に出現させることができた。ふつうの人間が単独では絶対に制御できないような巨大な力が呼び込まれ、舞台を縦横に動き、また去ってゆく。「荒々しい自然力を制御する技能」である能は、平安末期から中世初期にかけて日本人が見出した特異な技能の一つの到達点だったんじゃないかと思います。
 剣術もそうなんです。日本刀の操剣技法そのものは戦国時代には完成するわけです。剣の斬撃力というのは、すごいものなんです。人間の腕で振った刀にどうしてそんな強大な力が発揮されるのかわからない。それくらいにすさまじい力が出る。剣もまた、それを通じて荒々しい自然力が発動してくる一つの通路なんですよ。ただの道具じゃない。人間が筋肉を使って振り回すものじゃない。人間の手足の延長じゃなくて、逆なんです。剣を手に持つと、自然力が人間の身体を通じて発動してくる。だから、太刀を扱うときの人間の仕事というのは、振り回すことじゃなくて、太刀の動き出しと刀筋を決めること、あとは仕事が終わったときに、太刀を止めること。それだけなんです。自然力を「おろして」、それが縦横に動き回った後に、また「上げる」。その点については、剣と能は原理的には同一の技能だったと思います。
 僕も居合を少し稽古したことがあるんですけれど、そのとき学んだのは、自分の腕力を使って、速く、鋭く太刀を操ろうとすると必ず身体を痛めるということでした。自分の力で振り回したら,膝を痛め、肘を痛める。だから、今の居合ではたぶん故障を防ぐためだと思いますが、短くて軽い刀が好まれるんです。それは長くて重い刀を扱う技術がもう失われてきているからじゃないかと思います。
 居合を稽古してる時に、長い刀を抜く技術について、これが居合では一番大切な技術だと言う方は僕の周りには誰もいなかった。でも、幕末まではとにかく居合といえば、どれくらい長い刀を抜いたかを競ったわけですよ。『夢酔独言』に出てくる勝小吉(勝海舟の父)の剣術の師である平山行蔵の差料は三尺八寸。福沢諭吉も若い頃はずいぶん居合を遣ったようですけれど、『福翁自伝』には知人の家に飾ってある「四尺ばかり」の長刀を庭先で抜いて見せたという話が出てきます。当時の人の平均身長は五尺ちょっとですから、自分の肩くらいまでの長さの刀を平気で抜いていたわけです。僕がいま稽古に使っている刀は二尺六寸ですが、それでも簡単には抜けない。まして、三尺八寸なんて刀を渡されたら、僕程度の技量ではもう手も足も出ないです。それを抜いたわけですから、幕末までの武士たちは僕たちが知っているのとまったく違う身体の使い方をしていたということですね。おそらく中枢的に体を統御することをしないで、刀が「抜かれたがっている」のに合わせて体をバリバリっと解放してゆくというようなことをしていないと、抜けなかったと思います。
 それほど非常識的に長い刀を抜いたということは、長い刀を使った方が戦闘に有利だからというような実利的な理由ではなかったと思います。そうじゃなくて、人間の賢しらを以ては統御しえないような巨大な力を統御するためには、どこかで人間が自分の限界を壊さなければいけないという、そのことを教えるための長刀だったんじゃないかと思うんです。主体的に道具を操るという発想を捨てて、巨大な自然力を自分の中に受け容れ、それが身体を通過してゆくのに任せるというこの抜刀の技術は、たぶん中世に成立したものだと思うんですけれど、それはどこかで能の原理と通じるものがあるように僕には思えるんです。
――内田先生はそれを実感なさったことってありますか?自分の力ではないものがバリバリっと解放されていくっていうような。
内田 いや。あんまりそういうことってないです。口では偉そうなことを言ってますけども(笑)。そこまでいうならここでやってみろって言われて、すぐに「はい、これです」とお見せすることはできない。でも、長く稽古してきて、稽古のめざす方向としてこれで正しいということには確信があります。剣術でも杖術でも体術でも、人間が主体的に身体を統御する、道具を操作するという考え方を止めて、自然力の良導体になる。回路になる。そうすると巨大な野生の力が身体を通じて発動する。それはもう誰にも止められないという理路はわかります。
――お能においてそのような感覚は、いかがでしょうか?
観世 例えば、お扇子の持ち方というのは、小指を要にあてます。どこが一番力が入るのか、といったら、ほかのどの指でもなく小指です。だから名人になればなるほど、ほかの指は力を抜いてフニャフニャしていていいのです。絶対全部の指に力を入れては持たないのです。やはり小指を意識して構えて、とくに親指と人差し指は自由にしていていい、というふうに教わってます。実際に、私も教えるときには、そう教えます。だから、太鼓もやはり同じ。私は観世流の太鼓のお稽古も受けていましたけど、小指から締める、と。もちろんお流儀によって違いますけれど。
内田 指って、人間がコントロールしやすい部位ですから、どうしても中枢的になりがちなんですよ。でも、小指の動きは五本の指のなかではコントロールがしにくい。体術の経験で言うと、コントロールしにくいところで仕事をする方が出来がいいんです。小手先じゃなくて、体幹から全部使っていかないと小指は動かせないから。人差し指は小手先で動かせちゃいますからね。」観世清和・内田樹『能はこんなに面白い!』小学館、2013年。pp.145-154.

 内田樹氏は、みずから合気道などの道場を開かれて、武道の修行を極めんとしているようだが、同時にレヴィナスなどのフランス現代思想の研究者でもある。その口から、西洋近代の合理主義モダニズムとは真逆の「和の精神のよってきたる身体性」が語られるのも、また面白いことだ。


B.昭和空間
 かつては「明治のオヤジ」が古臭い爺を笑う言葉だったように、いまや「昭和のオヤジ」文化は、満点の物笑いと侮蔑の対象になって久しい。それでも相変わらず、愚かな言動を繰り返す人がいて、その愚かさにご当人が気づいていないことが、また女たちを苛立たせる。これはその被害に遭った女性たちには、そうとう醜く硬い壁だと感じられているはずで、ことが人間の成長過程で刷り込まれた強い感性、情緒の習慣になってしまっているので、年をとればとるほど強化されて、矯正の余地がないといわれても仕方がない。せめて黙っていてほしい、というところだろう。いままで黙ってやり過ごしてきた自分を反省しているのは、被害者の側で加害者ではない。

「角田光代の偏愛日記: 黙認したのは私 時空のゆがみに加担 
 パンデミックの前のことだから、もうずいぶん前の話になる。その日、少し前にオープンしたバル系の飲み屋に、ひとりではじめていってみた。
 ドアを開けると店内はほぼ満席。カウンターに1席だけ空いている。店主らしき若い女性が、空席の両隣の客に「ちょっと詰めてもらえますか」と声をかけた。
 すると空席の隣に座っていた中年男性が「美人なら詰めてやってもいい」と言った。
 「あ、ここだけ時空がゆがんで昭和空間になっている」と思い、「美人ではないので、じゃあやめておきます」と言って店を出ようかと一瞬迷った。でも、そうしたら若い店主のかたに失礼な気もするし、声がみんなに聞こえるほど狭い店だったから、天内の雰囲気もちょっと悪くなるだろうな、などとこれまた秒速で考えて、ひとつ空いている席におとなしく座った。
 その男性客はべつに絡んでこなかったし、料理はふつうにおいしかった。
 以後、その店にはいかないようにしているが、店の前を通るたび、そのときのことを思い出す。
 私はてっきり、あの時空のゆがみが不快だから思い出すのだろうと思っていたが、あるときふと、私が忘れられないのはその男でも昭和空間でもなくて、あのとき黙殺した私自身だと、はたと気づいた。
 店主に悪いから、店の雰囲気が悪くなるから、というまっとうな理由で、私は何も言わずに空いた1席に座った。それは黙殺ではなくて黙認だ。時空のゆがんだ昭和空間に、私も加担した、ということなのだ。
 黙認した理由は言いわけではなくて本心だが、何かもの申すより、、黙認したほうが楽なのはたしかだ。でも、それによって、あの男性はあのおもしろくもない一言を、気の利いたジョークみたいにべつの場所でも使い続けるだろう。
 自分が若かったときには「よくあること」が、時代とともに、ちょっと待て、それは人としてどうか、と問題提起されるようになった。私も自身をつねにアップデートさせねばならんと気をつけている。
 私たちの世代が「よくあること」とのみこんで加担してきたことは、意外に多いのではないかと思うからこそ、意識するようにしている。だが、とっさのときに、黙認することで加担する癖が私にはあるのではないかと、その一件で思うようになった。
 たとえばこれもまた10年近く前に、仕事ではじめて会った企業の役員が、何かの話のなかで、トランスジェンダーの人にたいして今では差別と捉えられる言葉を用いたことがあった。ぎょっとしたのだが、「この人の部下がいる場で指摘したら、この人に気まずい思いをさせてしまう」「初対面だし」と、まっとうな理由がとっさに思い浮かび、私は何も言わなかった。
 10年近くたって、その役員のか思い出せないが、黙っていた自分の姿ははっきり覚えている。これもまた、加担した自分を忘れることができないのだ。
 場の雰囲気をこわさず、発言した人を困らせず、なおかつ時空のゆがみを指摘して現在に戻す、という技を、どうにか取得できないかと、最近ずっと考えている。」東京新聞2024年3月18日夕刊5面。
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