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アイデンティティの現在・・吉田秀和のこと

2015-11-17 20:22:04 | 日記
A.「アイデンティティ」のこと
  エリクソン(Erik Homburger Erikson, 1902- 1994)の『アイデンティティ』という本を、ぼくが最初に読んだのは、20歳のとき、入院中の病院のベッドの上だった。そのとき山から転落して骨折した脚をコルセットで固められ歩けなかったぼくは、時間がありあまるほどあったので、いくつか買ってあった本を読むために枕辺に積んであった。丸山真男『現代政治の思想と行動』、吉本隆明『共同幻想論』などと一緒に、当時の新刊『主体性――青年と危機』(岩瀬庸理訳、北望社、1969年)もあった。これはIdentity: youth and crisis, Norton, 1968.の邦訳なのだが、綺麗な装丁に「主体性」と大きな字で題名が書かれていた。
   ぼくの担当医の整形外科医は、アメリカ留学から帰ってきた人で、診察に来た際、この本に目を留めてこう言った。「主体性、っていう訳はちょっと違うな。アイデンティティだろ」それまで、アイデンティティという言葉はほとんど聴いたことがなかった。本の紹介ではエリクソンが精神分析や発達心理学の専門家で、青年期の自我意識についてあたらしい概念を提起しているとあった。ぼくがこの本を買ったのは、たぶん江藤淳の『成熟と喪失』で、江藤がこのエリクソンの本に触れていたからだろう。
  エリクソンは、ドイツのフランクフルト生まれ。母はユダヤ系デンマーク人で、父親は定かではないが、デンマーク人芸術家だったのではないかと言われている。母親は、最後まで息子にその父親の名を明かさなかった。母は小児科医と再婚し、カールスルーエに引っ越す。ギムナジウム卒業後は、芸術学院に進学するものの卒業はせず、その後各地を転々とし放浪生活を送った。エリクソン自身は画家を目指していたと語っている。アンナ・フロイトがウィーンの外国人の子弟を対象に始めた私立の実験学校で、教師を勤め、アンナの弟子となり教育分析を受ける。その後、エリクソンはウィーン精神分析研究所の分析家の資格を取得する。1933年、ドイツでナチスが政権を掌握すると、エリクソンはウィーンからコペンハーゲンへ、そしてアメリカへと渡り、1939年にアメリカ国籍を取得する。問題行動を起こす青年達の心理療法に従事し、高い治癒率を上げて精神分析家として注目を集め始めたという。
  エリクソンが有名な「アイデンティティ」の概念を思いついた背景には、マサチューセッツのオースティン・リッグス・センターにて同一性に苦しむ、境界例の クライアントに会っていた事が契機とされている。エリクソンは「アイデンティティ」という概念を極めて多義的、動的なものとして捉えており、著作でもくりかえし概念定義を試みている。これは、エリクソンがidentificationとidentityを並列し、「果たして identityがidentificationの総体なのか」と問うている部分にも窺われる(青年と危機)。しかしその後、心理学のみならず社会科学やあらゆる学問分野でアイデンティティ概念が多用されている事態を受け、エリクソン自身が困惑を隠し切れなかったと語っている。大学の学位を持たずして、発達心理学者として知られ後に、エール大学、カリフォルニア大学バークレー校、ハーバード大学の教員を歴任する。発達心理学者としては、幼児の心理の研究から始め、青年期、成人期、老年期へとその関心を移していった。(経歴はWikipediaなど参照)
 
   アイデンティティ概念は、いろんな現象に応用できる使い勝手のよい言葉で、その後の日本でもモラトリアムと並んでメディアでも普通に使われるようになった。ただ、「青年期と社会」でエリクソンが論じていたのは、青年期のアイデンティティ・クライシス、つまり人は青年期に自分がいかなる存在か見えなくなり、またそれを再構築し据え直すプロセスである。1960年代には、アイデンティティは「若者の自分探し」という話でしかなかった。しかし、半世紀後の21世紀では、もっと幅広くあらゆる世代、あらゆる人間にとって自分が社会に生きていることの意味や価値に結びつく問題を、アイデンティティの捉え直しとして考えることができそうである。
  たとえば、性同一性障害やLGBTの問題、障害者差別や民族差別の問題、非行や犯罪の更正処遇の問題、高齢者の生死の充実ケアの問題、どれも「自分探し」や「心理療法」というようなレベルを超えた、人としての根元に触れる問題である。



B.吉田秀和について高橋悠治が語っている
 吉田秀和(1913-2012)は音楽評論家。日本橋人形町生まれ。父が北海道の小樽で病院長になったため、小学校6年で小樽に転居。伊藤整に英語を教わる。ヴィオラを弾く小林多喜二が吉田家を訪れ母と合奏したこともあるという。1930年旧制成城高校に入学し、ドイツ語の教師阿部六郎宅に寓居。中原中也にフランス語を習い、小林秀雄や大岡昇平とも交遊した。1936年東京帝大仏文科を出て、帝国美術学校(現・武蔵野美大)でフランス語を教える。戦時中は情報局内の日本音楽文化協会に嘱託で出向。敗戦後の混乱期に「自分の本当にやりたいことをやって死にたい」という思いが募って勤めを辞し、ある女性雑誌の別冊付録『世界の名曲』に寄稿したことが契機となって音楽評論の道に入る。斎藤秀雄、井口基成、伊藤武雄と「子供のための音楽教室」を作り初代室長。小澤征爾、中村紘子、堤剛らを育てる。桐朋学園で教えていたドイツ人女性と結婚して、数年ベルリンで過ごす。クラシック音楽批評家として、長年の活動により2006年文化勲章受章。
 NHK・FMで亡くなる直前まで音楽時評を担当していた番組は、ぼくも愛聴していた。1983年、ヴラディーミル・ホロヴィッツが初来日した際、その演奏を「なるほど、この芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は──最も控えめにいっても──ひびが入ってる。それも一つや二つのひびではない」(『音楽展望』1983年6月17日「ホロヴィッツを聴いて」)と評した文章は記憶に残っている。その吉田の音楽批評について、高橋悠治がこんなことを書いている。
 
「ソファーにねころんでいても、ものをかんがえることができる。むしろその方がかんがえやすいことをしめしたのは、デカルトだった。これはどういうことだろう?
 ここにおいて、知識は肉体からはなれたのだ。精神をはたらかせるとき、肉体はやすめなければならない。あるきながら対話によってかんがえたプラトンやアリストテレスの古いやり方は否定される。「われおもう、ゆえにわれあり」というのは、ひとりひきこもって体をうごかすことなくかんがえる知識人のやり方である。
 この思考法は分析的・否定的である。対話ではなく、ひとりごと、「あれかこれか」ではなく「あれでもない、これでもない」である。
 吉田秀和はデカルトの血すじをひいている。彼のどんなにみじかい文章でさえ、だが・しかし・逆に・ところがのような否定のための接続詞、といっても・それにしても・それでも・ただ・少なくとも・一つには・もっとも・ことわるまでもあるまいがのような条件づけのためのことばではじまる転換をもたないことはない。人のかんがえたことや、世間一般にかんがえられていることでは満足できないというだけではない。自分でかいたばかりの文章もよみかえし、こまかい訂正に心をくばらないではいられないようだ。
 彼の文章をよむのは、遊園地によくある鏡の家に足をふみいれるような経験である。二、三歩ごとに道がわかれてゆくようにおもい、そのくせ出口にはちゃんとたどりつく。かんがえてみれば、出口はまよっていたときからそこにあり、みえていたはずなのだ。
 森でまよった旅人は、ひとつの方向をえらび、どこまでもすすむことによってそこからぬけだす。このデカルトのたとえは、知の目標にむかって一歩一歩ちかづく論理的推論をよしとする。感覚的嗜好は、これとはちがう。目標は目の前にある。外側をまわりこみながら時をかせぎ、一気に内部へふみこむ。彼の目にうつる風景がかわってゆくとすれば、まわるのは世界ではなくて彼の方である。

 論理的であれ感覚的であれ、否定的思考が必要な時代がある。それまでにきずかれた価値のシステムが変化する現実においつけないとき、誰かが手をかして古い建物をひきたおしてやらなければならない。『現代の演奏』のむかいあう現実は、一九五〇年代から六〇年代にかけての演奏スタイルにあらわれた大きな変化である。
 指揮者ではトスカニーニやフルトヴェングラーにかわってカラヤンが、ピアニストではシュナーベルやギーゼキングではなくベネデッティ=ミケランジェリやグールドというような演奏家の世代交代にくわえて、LPレコードとジェット機が演奏の分野をまったくかえてしまった。スタイルの目あたらしさをよろこんだり、世界中の、名演奏家をいながらにしてきけるたのしみにひたるのは、新人の異常なテンポのとり方をとがめたり、レコードを実演の代用とみなすのとおなじくらい、この変化の性質がわかっていないのだ。単純なよしあしの断定ではなく、判断の基準がかわりつつあることをしめし、変化の実態をあきらかにするのは、音楽批評家のはたすべき役割であるのに、彼らの大部分は古い基準にしがみつき、それと共にひきたおされることしかのぞまない。だから、この変化をテーマにえらんだこと自体は、吉田秀和の批評家としての眼のたしかさをしめす。
 彼がこのテーマにどのように対したかをみるために、批評家としての自分の位置を彼がどのようにかんがえているのか、そのソファーはどこにすえられているかを、まずみよう。
 
 この本のなかで、園田高弘のヨーロッパでのマネージャーの感想が引用されている。「私は、今度、日本にきてみて、なるほどここにいて自分の耳を持つのは、不可能ではないまでも、奇跡に類するぐらい困難なのを知った。ここでは、公衆は何を望んでいるのかわからないし、批評家は何を真に評価しているのか読者にわからせないために書いているかのようだ。そうして教師たちは技術のつみ重ねで音楽を作る気らしい」(21ページ)、このことばが共感をもって引用されるだけではない。吉田自身もおなじ嘆きを、いたるところできかせている。「東京の音楽生活には、私たちが本当に自分たちの音楽、音感、音生活とよんでよいような基準がどこにあるか、簡単にきめられない」(51ページ)とか、「日本という、このヨーロッパからもアメリカからもとびはなれて、とおいところに位置している地域にいて、私は、わずかにその演奏をきいた人びと、それからレコードにたよるほかない」(338ページ)という心ぼそい状況であり、「世界の片隅の音楽文筆者」(363ページ)の孤独と、「私たち、日本人は、いま何をしているのか」といういらだちが、彼のしごとにつきまとう。
 日本の近代化は、《和魂洋才》をスローガンにヨーロッパにおいつき、おいこそうと過去百年走りつづけた。実際には、和魂も道の途中でふりすててきたらしい。そのはてに自分の生活もないということになるのだろうが、文化についてはおいこすどころか、おいつくこともできなかった。アキレスがどんなに走っても、カメはいつも一歩前にいる。この同時性のパラドックスがなりたつのは、カメのすすむ速度の方を基準にするときなのだ。
 この、いつも一歩おくれたとおい土地で、何をのぞんだらよいかおしえてやり、判断の基準を立ててやる、それが啓蒙なのか?
啓蒙ということは、実はものを知っている人間にはできない。ものを知った人間は、人がものを知らないことをねがうのだ。啓蒙はモンテスキューのペルシャ人やヴォルテールのイギリス人が洗練をながめる奇妙な眼つきを必要とする。それはそれまでにつみあげられ、現実からはなれてしまった知識の自己否定であり、革命にさきだつが、革命そのものにはくわわらない。決定的な瞬間には、読んだ本の数だけ、足がおそくなる。」高橋悠治『音楽のおしえ』晶文社、1976. pp.128-133. 

  文学や美術に専門の批評家がいて、新たに発表される作品について深い知識と視野のもと、的確な批評をおこない、その価値をひとびとに知らせることはいうまでもなく重要である。音楽も同じだが、音楽の場合は作曲と演奏が分業だから、批評も作曲家のことだけでなく、個々の演奏をナマの耳で聴き、あるいはレコードを聴いて批評しなければならず、これを読み応えのある文章で書くことは並大抵の能力ではできない。音楽を言葉にするのはそれだけ難しいから、音楽評論家というのはそんなに多くはいない。ジャズやロックや歌謡曲にはかなりいるが、読むべき文章として後世に残るほどの書き手はごく少ない。それはたんに音楽ファンの感想文ではないからだ。
 
「吉田秀和は、日本の音楽批評家にはめずらしく、音楽以外の分野にも広い知識をもっている。文学や美術にはじまり、相撲にいたる時代の文化全体にわたって、いくつかの事実を知っているだけでなく、洗練された好みを身につけるというのは、かんがえてみればたいへんなんことだ。音楽のどこを聞いてよいかわからずにうろうろしている野蛮人に、ピタリときまったことばでみどころをしめすようなことが、誰にでもできるわけはない。「一切は、私たちが、聴き上手であるかどうかにかかっているのであって、わからないけれども感心したとか、つまらなかったということはない。それは、どうきこえたか、他人にも自分にもはっきり再現し、説明できないというだけのことである、つまらなければつまらない理由が、必ず、その人にきこえていたのだ」(306ぺ-ジ)といわれてしまえば、おそれいるほかはない。何ごとも理由なくしては存在しないというライプニッツ的合理主義からみれば、理由がわからないのは「自己欺瞞にすぎない」ということにもなるだろう。
 誰にでも説明がみつかるわけではない。むしろ、みつかってはこまる。「歌舞伎にしろ、能にしろ、見巧者というものがあるだろう。そういう人たちは、未熟無経験な慣習とはちがった見方をする。そうして、こういうよりすぐれた公衆、おそらくいつの世にもより少数の公衆が存在していなければ、舞台芸術の高さ、水準(ニヴォー)というものは、危機に陥るという事情があるだろう」(48~49ページ)。そうだろうか?
 見巧者、聴き上手、選良、精神の貴族たちとは誰か?これは十九世紀にはディレッタントとよばれ、日本では通人とか粋人とかよばれた人たちのイメージにちかい。十九世紀ヨーロッパでは、彼らは「貴族やサロンの名流や医者や弁護士や大学教授」(186ページ)でもあったろう。「こういう人々が室内楽を演奏したことは、貴族の場合でも、市民の場合でも、彼らが社会的身分とは別の世界のなかに自分を置くことができることを、他人に、そうしてことに自分に、証明してみせたかったからではないだろうか。ということは、芸術が、暇つぶしであるというよりも、もっと積極的な、人生のなかでの人生、世界のなかでの世界とでもいったものを作り出す力があることを、彼らが信じていたからではないだろうか」(180ページ)。これは、プルーストが『失われた時を求めて』のなかでえがいた成り上がり者の美学である。美の世界に土足でふみこんできたものたちが逆に美に打たれる。ディレッタントだけではない。ベートーヴェン以後の作曲家、リスト以後の演奏家も、まずは例外なくこれであった。この本に二度も引用されるデュアメルの文章はいう。「名手たちの仕事や影響がなかったら、音楽会の聴衆を形作っているこれら教養ある選良たちがどうして出来あがるのか想像に困難だし、またこの聴衆がなかったら、音楽的創造が、つまり作曲家の芸術が、一体どうなってしまうものやら考えもつかない」(62,133ページ)。音楽家と聴衆はおなじ社会的美学によって、たがいにささえあっていた。正統性、微分の心理学、底しれないものへの「エトス」。ここで有徳(Virtu)の人間である演奏の名手(Virtuoso)(63ページ)が音楽に仕えるための努力をしているというのも、このようにどこといってはっきり定義のできない芸術の永遠化をもとめる態度である。近代市民社会の特殊事情を「文明社会の存続」にかかわる根本問題のようにみせるのもそれだ。その態度が、吉田秀和のいうように何回も「初心にかえる」(49ページ)ことのつみかさねであたらしい美を理解する心のひろさをもっていたとしても、「選良の存続」を前提とした上のことでしかない。」高橋悠治『音楽のおしえ』晶文社、1976. pp.128-133.

  すぐれた音楽が「選良」eliteのための、「有徳」Virtuの人によって想像され享受されるものだ、ということは、とくに西洋クラシック音楽の伝統に繋がるだけでなく、日本という国の音楽事情に特徴的な階級制だといえそうである。吉田秀和が「選良」の一人であったことは疑いないけれども、それは音楽が人民から隔絶した貴族の趣味ではなく、非情な社会の中にもうひとつ別の世界が作れることを知らしめようとした「選良」だったということかな。
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