(長文です)
東京在住・高橋龍太郎氏が1997年以降に収集した日本の現代アート作品から32人の作品をよりすぐって並べる展覧会。
コレクションは、ご本人も正確な数をつかんでいないというが、1000点はあるというから、主催者が「精選して」というのは、看板にいつわりなしといったところだろう。
第一に筆者がいだいた感想は
「よく個人がここまで集めたものだ」
というもの。
個人のコレクションというと、どうしても
「売り絵」
というのを思い出してしまうのだが、それはたぶん筆者が裕福ではないせいだろう。
ここに集められた絵画や彫刻は、デカイのが多い。
天井が高いゲーモリの空間に、まったく負けていない。
だいたい、100号超の絵を、個人が買う-という事態を考えただけで、頭がクラクラする。
どこに飾るんだよ。
開業医って、ロレックスやベンツをあきらめさえすれば、大作がばんばん買えるのかなあ。すごいな。
先日の読売新聞のインタビューで、高橋さんは、このままでは日本の現代アートの最良の部分がどんどん流出してしまう、浮世絵の二の舞は避けねば-という意味のことを語っていた。
わが国の貧乏くさい文化行政を補おうとする彼の使命感に対しては、率直に尊敬してしまう。
もっとも、一納税者としては、ここに陳列された作品に税金を使われてもなあ-という複雑な思いがないでもない(笑)。
それぞれの作品についての感想はのちほど述べるとして、筆者の思考パターンとして、「ここにないもの」について考える。
図録に高橋さんご本人が書いている、いわば序文である。
(話はいささかそれるが、この図録は資料的価値がけっこう高い。買い、だと思います)
しかし、この歴史認識はほんとうに正しいのだろうか。
この展覧会に出品されている作家は、世代的には村上隆や奈良美智がいちばん上である。
図録を見ると、辰野登恵子の絵が飾られている室内の写真が載っているし、最初に買ったのが草間彌生らしいから、「村上・奈良」以前の作品をまったく収集していないわけではないらしい。
とはいえ、ここには、白髪一雄や田中明子など「具体美術協会」の面々をはじめ、李禹煥(リ・ウファン)といった「もの派」の作家、さらに、川俣正や遠藤利克といった人々の存在が、まったく欠落している。
日展や二科展といった「洋画壇」が、世界との接点をあまり持っていないのは確かだと思われるが、戦後の日本美術が海外と隔絶された歴史を歩んでいるというのは、いま挙げた作家たちの存在を無視した、誤った認識でしかない。
(さらにいえば、「ドメスティック(=国内限定)だからダメだ」というよくある認識は、まさか高橋さんはそこまで単細胞ではないと思うが、端的に誤りであろう。こちらを参照)
20世紀半ば過ぎぐらいまでは、美術品というのは、売買が可能な形態であることが大半だった。
(もちろん、もっとさかのぼれば、美術品は建築と一体化していたので、後世ほど自由に流通していたわけではない)
しかし、現代アートは「絵画」「彫刻」という形態をとらないことも多いので、かならずしも市場で流通可能なものばかりではない。市場で買ったもので展覧会を構成すれば、必然的に、パフォーマンスやインスタレーションは手薄になるだろう。
この展覧会では、最後のほうのブロックが、鴻池朋子の映像をインスタレーションふうに展開しているので、それなりに健闘しているとはいえる。
ただ、絵画や彫刻といった旧来の形式に現代アートが回帰していっている近年の現象が、内発的な必然性よりは、市場の要請による部分が大きいことを、図らずも露呈している展覧会とはいえるだろう。
逆に言えば、川俣正や遠藤利克の代表作を市場で購入して所有することは、形式上は困難なのである。彼らの不在は、マーケットで組み立てたというコレクションの由来と、表裏一体であるのだ。
最後は、このブログは「北海道美術ネット別館」であるので、当然、北海道の不在について言及しないわけにはいかない。
作品の水準的な部分で、たとえば伊藤隆介や鈴木涼子や端聡の作品がここに並んでいても、なんら遜色はないだろうと思われる。
そうなっていないのは、彼(女)らの作品が東京の「現代アート」マーケットで流通していないからという理由にすぎないだろう。
もちろん、流通している作品だから良くて、していない作品はダメだと言っているわけではない。
ただ、流通させたいアーティストは、北海道内に住んでいてもあまり意味がないというのが現状だから、どんどん東京に移り住んだ方が良いだろう。
不在なのは道内作家の作品だけではなくて、略歴なども、である。
会田誠や昭和40年会はかつてCAIで展覧会を開いたことがあるし(いま思えば、かなり早い時期の展覧会である)、高嶺格はエスエアの招きで2000年、札幌で滞在制作を行っている。
名和晃平だって、昨年秋、札幌のギャラリー門馬でグループ展を開いたばかりではないか。
これらの事実からわかるのは、現代アートの作家にとって、北海道で何かをやるということは、キャリアにとってなんのプラスとも受け止められていないということではないか。
(この項続く…かも)
2008年11月22日(土)-09年1月25日(日)9:45-17:00(入場-16:30)、祝日を除く月曜休み(11月25日、12月29日-1月3日、13日も休み)
札幌芸術の森美術館(南区芸術の森2)
□高橋コレクション http://www.takahashi-collection.com/
東京在住・高橋龍太郎氏が1997年以降に収集した日本の現代アート作品から32人の作品をよりすぐって並べる展覧会。
コレクションは、ご本人も正確な数をつかんでいないというが、1000点はあるというから、主催者が「精選して」というのは、看板にいつわりなしといったところだろう。
第一に筆者がいだいた感想は
「よく個人がここまで集めたものだ」
というもの。
個人のコレクションというと、どうしても
「売り絵」
というのを思い出してしまうのだが、それはたぶん筆者が裕福ではないせいだろう。
ここに集められた絵画や彫刻は、デカイのが多い。
天井が高いゲーモリの空間に、まったく負けていない。
だいたい、100号超の絵を、個人が買う-という事態を考えただけで、頭がクラクラする。
どこに飾るんだよ。
開業医って、ロレックスやベンツをあきらめさえすれば、大作がばんばん買えるのかなあ。すごいな。
先日の読売新聞のインタビューで、高橋さんは、このままでは日本の現代アートの最良の部分がどんどん流出してしまう、浮世絵の二の舞は避けねば-という意味のことを語っていた。
わが国の貧乏くさい文化行政を補おうとする彼の使命感に対しては、率直に尊敬してしまう。
もっとも、一納税者としては、ここに陳列された作品に税金を使われてもなあ-という複雑な思いがないでもない(笑)。
それぞれの作品についての感想はのちほど述べるとして、筆者の思考パターンとして、「ここにないもの」について考える。
しかしこの100有余年、日本の洋画壇と呼ばれるところから、世界に向かって、何かの作品を発信した、なんらかの運動が生まれたという話は、聞いたことがない。(中略)なぜ美術界だけは、一切発信できなかったという、こんな不可思議なことが可能だったのかと、むしろ当たり前の疑問が浮かぶ。
図録に高橋さんご本人が書いている、いわば序文である。
(話はいささかそれるが、この図録は資料的価値がけっこう高い。買い、だと思います)
しかし、この歴史認識はほんとうに正しいのだろうか。
この展覧会に出品されている作家は、世代的には村上隆や奈良美智がいちばん上である。
図録を見ると、辰野登恵子の絵が飾られている室内の写真が載っているし、最初に買ったのが草間彌生らしいから、「村上・奈良」以前の作品をまったく収集していないわけではないらしい。
とはいえ、ここには、白髪一雄や田中明子など「具体美術協会」の面々をはじめ、李禹煥(リ・ウファン)といった「もの派」の作家、さらに、川俣正や遠藤利克といった人々の存在が、まったく欠落している。
日展や二科展といった「洋画壇」が、世界との接点をあまり持っていないのは確かだと思われるが、戦後の日本美術が海外と隔絶された歴史を歩んでいるというのは、いま挙げた作家たちの存在を無視した、誤った認識でしかない。
(さらにいえば、「ドメスティック(=国内限定)だからダメだ」というよくある認識は、まさか高橋さんはそこまで単細胞ではないと思うが、端的に誤りであろう。こちらを参照)
20世紀半ば過ぎぐらいまでは、美術品というのは、売買が可能な形態であることが大半だった。
(もちろん、もっとさかのぼれば、美術品は建築と一体化していたので、後世ほど自由に流通していたわけではない)
しかし、現代アートは「絵画」「彫刻」という形態をとらないことも多いので、かならずしも市場で流通可能なものばかりではない。市場で買ったもので展覧会を構成すれば、必然的に、パフォーマンスやインスタレーションは手薄になるだろう。
この展覧会では、最後のほうのブロックが、鴻池朋子の映像をインスタレーションふうに展開しているので、それなりに健闘しているとはいえる。
ただ、絵画や彫刻といった旧来の形式に現代アートが回帰していっている近年の現象が、内発的な必然性よりは、市場の要請による部分が大きいことを、図らずも露呈している展覧会とはいえるだろう。
逆に言えば、川俣正や遠藤利克の代表作を市場で購入して所有することは、形式上は困難なのである。彼らの不在は、マーケットで組み立てたというコレクションの由来と、表裏一体であるのだ。
最後は、このブログは「北海道美術ネット別館」であるので、当然、北海道の不在について言及しないわけにはいかない。
作品の水準的な部分で、たとえば伊藤隆介や鈴木涼子や端聡の作品がここに並んでいても、なんら遜色はないだろうと思われる。
そうなっていないのは、彼(女)らの作品が東京の「現代アート」マーケットで流通していないからという理由にすぎないだろう。
もちろん、流通している作品だから良くて、していない作品はダメだと言っているわけではない。
ただ、流通させたいアーティストは、北海道内に住んでいてもあまり意味がないというのが現状だから、どんどん東京に移り住んだ方が良いだろう。
不在なのは道内作家の作品だけではなくて、略歴なども、である。
会田誠や昭和40年会はかつてCAIで展覧会を開いたことがあるし(いま思えば、かなり早い時期の展覧会である)、高嶺格はエスエアの招きで2000年、札幌で滞在制作を行っている。
名和晃平だって、昨年秋、札幌のギャラリー門馬でグループ展を開いたばかりではないか。
これらの事実からわかるのは、現代アートの作家にとって、北海道で何かをやるということは、キャリアにとってなんのプラスとも受け止められていないということではないか。
(この項続く…かも)
2008年11月22日(土)-09年1月25日(日)9:45-17:00(入場-16:30)、祝日を除く月曜休み(11月25日、12月29日-1月3日、13日も休み)
札幌芸術の森美術館(南区芸術の森2)
□高橋コレクション http://www.takahashi-collection.com/
デジタルカメラは何をお使いなのでしょうか?
いや、そんな大したもんじゃないですよ。
http://blog.goo.ne.jp/h-art_2005/e/d883bc96e651b7bb68b4409979d0495b
カメラはD40です。
買ったのは2007年10月なので、この月のblogを見てると、新しいカメラがうれしくて、「つれづれ写真録」のエントリがたくさんあります(笑)。
わたしは、腕はからきしですけど、外出時はカメラをかならず持っています。もう20年以上の習慣です。
原美術館に行ったら、この展覧会の図録が売っていて、これは買いではないかと、アメリカ人の奥さん(日本語できる)共々意見が一致して購入しました。
作家としては、売ることも大事ですから、マーケットがどうのこうのは、作家活動をまじめに続けている分にはまぁ、どうでもいいんかしら?ってまだ画廊も持たない自分は適当に考えています。報われるか否かは、本人次第で、だからこちらに書かれていたことに(やりたい人は東京に行くべき云々とか川俣さんの作品は買えない云々)うなずきつつ読みました。でも、川俣さんの作品がベネッセ美術館にありましたし、NYの某美術館の館長さんのお宅にも古ーい昔のレリーフがあったので、まぁ売れないこともないのでしょう。(もちろん喰っていけるほどに売れることはないでしょうけど...)
喰っていければ、まぁ、マーケットとかってどうでもいいのかも。おまけに、たぶん、僕らがどんなに個人的に気に入っている作家の作品でも、100年後の美術史の本に載っているかどうかとかとは全く別の話しでしょうし。
僕個人的には、アートを一杯見れて幸せ。見ると、視覚的に今の時代の空気が見えてきて楽しいんですね。もちろん、家に飾れたりすればそれも楽しいなぁって思いますけど。
長くなりました。
こっちも寒いです。東京生まれにとって、マイナス15度とかって、耐えられません。地下鉄のプラットホームとかで、ツララをみて、なんでこんな寒いところに住んでいるのかしら?って思います。
自分でやらなきゃダメ??
甘えてる・・???
音楽界はそういう人たちがそろっていますよね。デモテープ(今はテープじゃないのか?)を送れば、拾われる可能性があるのでしょう。
小説界は現在は「賞」への公募が中心になると思いますが、”編集者”という人がそういう役割を果たしているように思います。
美術関係の場合、新人作家の発掘に力を入れる画廊あたりが、そういうことをしているのでしょうか? いずれにせよ、自分で制作からコマーシャル、販売までやらずに、分業制というのはおかしなことではないと思います。
なんだか、話が、「新人発掘システム」のエントリのときみたいになってきました。
http://blog.goo.ne.jp/h-art_2005/e/b22cb0a59503cfe48e9f9d379293a9df
まあ、わたしが、北海道民にはあまり意気の上がらぬ色合いの文章を書いてしまったためなのですが…。
川俣さんや遠藤さんの作品を「所有できない」というのは、正確な言い方をすれば「インスタレーションを所有するのはとても難しい」というべきでした。
もちろん、ドローイングや版画、モケットであれば、マーケットに乗ってくるわけだし、それを非常に自覚的に実践しているのがクリスト夫妻だと思います。
もし、じぶんの絵を流通させたいのであれば、じぶんでポートフォリオを作って、東京の画廊を回らなくてはだめではないかと。
けっきょく、音楽の場合、それを支える人の層が厚いのは、それがメシの種になるからでしょうね。
デモテープ以外にも、ライブハウスで発掘されるというのもアリでしょうし、最近は「Myspace」に登録してる人も多いですね。このごろの流通事情には疎いのですが、CDという形態が急速に売れなくなっているぶん、たとえばYou Tube経由でメジャーデビューなんていうのも出てきているのかもしれません。
よろしくお願いいたします。
遅くなりましたが僕も、ネオテニージャパンを見に行きました。
とても自由が感じられて、伸び伸びしていたと思います。表現の枠に囚われない作品がたくさんあり、とても見ていて不思議な気持ちになりました。
妹たちにもそれが伝わったようですね、普段は全く芸術に興味を示さないですが、画集を翌日じっくりと眺めておりました。現代アートに素晴らしい可能性を感じております。僕も参考にしてより質の高い作品をつくっていきたいと思います。
また今度コメントします
わざわざ見にきた展覧会がおもしろく感じられて良かったですね。
若いころにじっくりと見た展覧会というのは、忘れがたい体験になると思います。
わたしのことで恐縮ですが、小学生のころに見た「ゴヤからピカソ」、高校生のときに行った「ムンク展」などは、強烈な印象です。
またコメントくださいね。
申し訳ありません。
僕もヤナイさんとお話できたみたいで嬉しいです。