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画家・芹田英治さん死去

2016年04月04日 23時06分53秒 | 情報・おしらせ
 2016年4月4日付の北海道新聞朝刊「おくやみ」面の冒頭に、芹田英治さんが3月30日に亡くなったという記載がありました。81歳。
 葬儀は終了しているとのことです。
 喪主が奥さまの綾子さんとありますので、画家の芹田英治さんと思われます。

 芹田さんが華々しく活躍していた時期については筆者は直接存じ上げないので、吉田豪介さんの名著「北海道の美術史」(共同文化社)をもとにまとめてみます。

 戦後の1953年(昭和28年)、既成の団体公募展や画壇に飽き足らない活動を模索していた菊地又男さんらの前衛画家が「ゼロ展」を旗揚げし、大丸ギャラリー(現スカイホール)で展覧会を開きます。
 とりわけ、丸善の大ホール(後のアップルストアの位置)で開いた55年の第3回展は、入場料20円を徴収したにもかかわらず行列ができる人気だったといいます。芹田さんはこの「ゼロ展」に参加していました。
 ゼロ展は「前衛展」と名を変えて年1ないし2回の展覧会を開き、57年の第6回まで存続しました。

 引き続き芹田さんは、沢田哲郎さん、小松清さん、高橋由明さんとともに4人で「北海道青年美術家集団」の発起人となり、団体公募展の枠を超えて若い美術家の糾合を図ります。
 第1回展は1960年10月24~30日、「'60年展」と題してそうごデパート5階(南2西2にあった大型店。「そごう百貨店」とも「YES そうご電器」とも別)で開かれました。
 吉田豪介さんの本には参加30人のうち20人の名が挙がっているので、参考までに書き写してみます。

 浅野、伊藤隆一、一ノ戸善徳(ヨシノリ)、大田幸雄、菊地日出男、木村訓丈、小松清、更科秀、沢田哲郎、菅野充造、芹田英治、高橋昭一、高橋由明、田村宏、野宮武明、野本醇、福井正治、谷口丞、米坂ヒデノリ、渡辺真利

 筆者が知らない人もいますが、その後の道内美術界で活躍した名が多くならんでいます。ただ、女性がひとりもいないというあたりは、時代を感じさせます。
(おそらく、現在も活動しているのは野本醇さんただひとりでしょう)

 北海道青年美術家集団はその後も65年まで毎年展覧会を開きますが、芹田さんは62年の「'62青年展」を最後に出品をしていません。

 この集団は、公募展に出している人と、反公募展の人が入り交じっており、芹田さんも、道展では1954年に知事賞を受賞。翌55年に道展が30周年を記念して、当時としては破格の賞金5万円をつけた「新人賞」を受けて会友になり、57年には早くも」会員に推挙されています。
(ネット検索すると「道展記念大賞」という記述が散見されますが、これは、この年の新人賞の特別扱いをさしているものだと思われます)

 以上が吉田豪介さんが記録しているところです。

 その後、芹田夫妻はニューヨークに拠点を移します。
 道展は69年に退会しています。

 筆者が知っているのは1997年、31年ぶりに帰国して苫小牧市植苗にアトリエを建てて、札幌時計台ギャラリーで個展を開いた芹田さんです。
 当時の道新には、こうあります。

 今春三十一年ぶりに米国ニューヨークから帰国、苫小牧にアトリエを建てた画家の芹田英治さんが、「城砦(じょうさい)マンハッタン-光と影」と題した油彩の連作三十三点を個展で発表している。

 ニューヨークの摩天楼が、まるで難攻不落の巨大な城のように迫ってくる。タッチは写実的だが、鮮やかな色彩が施され、心象風景のようだ。白い部分にはエナメル絵の具を使用している。「僕の心の中にあるマンハッタンです」(以下略)


 その後、98年4月に「サロンギャラリーどらある」で個展、2000年3月に主体美術北海道展に招待作家として出品、2002年4月に東京・虎ノ門のギャラリー樋口文庫で夫妻展を開いています。
 また、2001年11月にも札幌時計台ギャラリーで夫妻展を開いていますが、その後は、活動の話を耳にしなくなりました。

 帰国後の芹田さんの絵は、写実的でありながら、強く迫ってくる摩天楼が主題でした。
 それはどこか、「宇宙戦艦ヤマト」の続編に登場する暗黒星団の都市要塞にも似ていました。

 ご冥福をお祈りします。



芹田英治・綾子展 (2001、画像なし)


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