山岸さんが写真を素材にした作品による個展を開いています。とてもかっこよくまとまっています。会場は、渡邉麻生展が開催中のOKUI MIGAKU(奥井理)ギャラリーから徒歩4、5分のところにあり、連休を利用して両方を見てほしいと思います。
ギャラリー門馬の本館のほうでお会いした山岸さんは
「最初の個展から10年ですよ」
としみじみ話していました。
それを聞くと、その個展(ギャラリーユリイカで開催)を見た筆者も、なんだかしみじみしてしまいました。
時は流れる。その感懐は、今回の個展のタイトル「ツヅクコト」と、共通するものがあります。
会場に入ると、入り口附近に、山岸さんが数年前までよく制作してきた、絵の具の飛沫を全面に散らした平面作品が展示されています。
その向かいには、詩のような短い文章が書かれ、貼られています。
かつてご本人からお聞きしたところでは、飛沫のひとつひとつの点は、魂や意思をあらわしているとのことでした。魂を浄化、昇華させたい-という思いが、点にはこめられているのです。
詩の横から、細長い会場の奥までは、デジタルのカラー写真が横1列に、透明なアクリルのパネルに挟まって、ならんでいます。
どの写真も、漠然とした色や、延びる線が映っているだけで、被写体ははっきりしません。
車を運転中にシャッターを押して撮ったものだそうです。
わざと手ぶれ、長時間露光の状態にして撮影していたのです。
「窓の外には 過ぎてゆくものばかりが見えている」
というような詩が鈴木志郎康にあったと記憶していますが、通り過ぎていくものの姿を前にして、筆者はいささか感傷的な気持ちにならざるを得ませんでした。しかし、その感傷性におぼれることなく、作品はきちっと仕上げられています。
同様の、透明板に挟んだ写真は、ギャラリー門馬・本館のほうにもありました。
また、「氣」と題した写真帳も置かれていました。こちらもおなじような写真がプリントアウトされていますが、どこを撮ったのかがわかる、やや鮮明な写真もふくまれています。画面が正方形なのは、トリミングしたためで、ハッセルブラッドなどで撮影したのではないそうです。
山岸さんの肩書はフォトグラファーで、最初の個展も、印画紙ロールに現像液をぶちまけて露光させた作品がメインでした。
その後、インスタレーションや陶芸、立体なども手がけたこともあり、2001-02年ごろはほとんど毎月のようにグループ展に参加していました。筆者はそれを「月刊山岸」と呼んでいました。
この3年ほどは、発表の数を控え、本来のフィールドである写真を使った作品に絞っています。
それも、はっきりと被写体がわかるものは少なく、ブレやボケを利用して、見る人の感情に訴える作品が多いです。
「そっかー、10年かあ」
と、今はなきShiRdiの古いほうの店舗やアルテピアッツァ美唄でのインスタレーション、北海道抽象派作家協会展に出品した巨大な平面作品などを想起しながら、今回の個展は、山岸さんにとって、表現活動をつづけていくこと、すなわち、生きつづけていくことの、一種の決意表明なのではないかと、ひそかに思う筆者なのでした。
28日(金)-5月7日(日) 11:00-19:00
ギャラリー門馬ANNEX(中央区旭ヶ丘2-3-38 地図E)
ギャラリー門馬の本館のほうでお会いした山岸さんは
「最初の個展から10年ですよ」
としみじみ話していました。
それを聞くと、その個展(ギャラリーユリイカで開催)を見た筆者も、なんだかしみじみしてしまいました。
時は流れる。その感懐は、今回の個展のタイトル「ツヅクコト」と、共通するものがあります。
会場に入ると、入り口附近に、山岸さんが数年前までよく制作してきた、絵の具の飛沫を全面に散らした平面作品が展示されています。
その向かいには、詩のような短い文章が書かれ、貼られています。
ツヅクコト
愛(カナ)シミノ果テ
何処(イヅコ)ナレ
宙(ソラ)ノマバタキ
時ヲ得ルナリ
かつてご本人からお聞きしたところでは、飛沫のひとつひとつの点は、魂や意思をあらわしているとのことでした。魂を浄化、昇華させたい-という思いが、点にはこめられているのです。
詩の横から、細長い会場の奥までは、デジタルのカラー写真が横1列に、透明なアクリルのパネルに挟まって、ならんでいます。
どの写真も、漠然とした色や、延びる線が映っているだけで、被写体ははっきりしません。
車を運転中にシャッターを押して撮ったものだそうです。
わざと手ぶれ、長時間露光の状態にして撮影していたのです。
「窓の外には 過ぎてゆくものばかりが見えている」
というような詩が鈴木志郎康にあったと記憶していますが、通り過ぎていくものの姿を前にして、筆者はいささか感傷的な気持ちにならざるを得ませんでした。しかし、その感傷性におぼれることなく、作品はきちっと仕上げられています。
同様の、透明板に挟んだ写真は、ギャラリー門馬・本館のほうにもありました。
また、「氣」と題した写真帳も置かれていました。こちらもおなじような写真がプリントアウトされていますが、どこを撮ったのかがわかる、やや鮮明な写真もふくまれています。画面が正方形なのは、トリミングしたためで、ハッセルブラッドなどで撮影したのではないそうです。
山岸さんの肩書はフォトグラファーで、最初の個展も、印画紙ロールに現像液をぶちまけて露光させた作品がメインでした。
その後、インスタレーションや陶芸、立体なども手がけたこともあり、2001-02年ごろはほとんど毎月のようにグループ展に参加していました。筆者はそれを「月刊山岸」と呼んでいました。
この3年ほどは、発表の数を控え、本来のフィールドである写真を使った作品に絞っています。
それも、はっきりと被写体がわかるものは少なく、ブレやボケを利用して、見る人の感情に訴える作品が多いです。
「そっかー、10年かあ」
と、今はなきShiRdiの古いほうの店舗やアルテピアッツァ美唄でのインスタレーション、北海道抽象派作家協会展に出品した巨大な平面作品などを想起しながら、今回の個展は、山岸さんにとって、表現活動をつづけていくこと、すなわち、生きつづけていくことの、一種の決意表明なのではないかと、ひそかに思う筆者なのでした。
28日(金)-5月7日(日) 11:00-19:00
ギャラリー門馬ANNEX(中央区旭ヶ丘2-3-38 地図E)
露光時間が長ければ、「瞬間」ではなく「時間」が記録される。高速度で運動しているものを低速度でシャッターを切れば、「瞬間」が「時間」になる。「時間」を写しこむことが可能になる。
2次元の「平面」に4次元の「時間」を記録することは原理的に不可能であるが、しかし、流体のように運動の軌跡が写っている限り、眼と脳はそこに「時間」をりあるに感じる。その写真映像は肉眼ではけっしてとらえれない、肉眼の視力の限界を超えている美しい世界を見せてくれる。ちょっと信じられないくらいに美しい世界である。
視覚的映像の美が生みだす快楽・愉悦・快感のエレメントがここに映像化されている。
過去のドローイングが、日本人離れしていてかっこよかったです。
わたしは、たしかに美しいとは思いましたが、快楽とか愉悦という受け取り方はしませんでしたが。
>yasashikimidoriさん
ちょっとポロックを思い出しますが、もっと静かな感じがしますね。
現実を映したと思えないほどの光景で、振り返って見る現実も、こういう風に美しいのかもしれないと目を凝らしました。
彼自身が存在のあり方として「空」と「無」のあり方を心がけているからだと思う。彼の存在感がもっているあの雰囲気は誰しもが感じると思うがまさに「雲」のように「風」のようにとらえどころのない「真空」のポジションにある。それは彼自身がある時期に決断してすすんで選びとった生き方の方向であって、それは実のところ決定的な「精神の死」の体験をかいくぐっている事による決断であると思う。
そのような「空」「無」の視線で世界と関係するというあり方で写真表現を突き詰めていくなら、やはり、あのようにも、あやしい、美しい、この世のものとは思われない映像が結果としてあらわれてくる。
私はそのように受け取っている。
そういえば、横長の空間に横に長く伸びた線の写真を繋いで展示するというのは、素敵でしたね。私はこのギャラリーに初めて伺ったのですが、以前にもこのような空間のつかい方をした人はいたのだろうかと、興味が湧きました。
山岸さんはひたすら待ち続けるという方法を生きている。それはやはり独得な生き方である。そこが彼のすべての表現の根拠地であって、そこさえしっかりと体感されているかぎり、表現の方向はおのずと見えてくるに違いない。
このようなタイプの写真家を私は何人か知っている。それらの人に共通するのは心的装置として超高感度の「感受性」を体内に装備していることである。それはきわめて精密かつ精巧にできているせいで、ごく微細な外的刺戟や衝撃に対しても、普通の人の感受性の何倍も増感増幅して感応してしまう。
しかし超高感度のセンサーそれ自体は生きるうえでプラスであると同時にマイナスでもある。その間の絶妙なバランスを維持するためには彼の「精神」がそれをコントロールできるかどうかにすべてはかかっている。その試行錯誤のプロセスにおいて「精神の死」が彼にむかって襲ってくるに違いない。
その一回きりの独得の精神の死と再生のプロセスを首尾よくくぐりぬけることができるか、誰にもわからない。
>超高感度のセンサーそれ自体は生きるうえでプラスであると同時にマイナス
同感です。作家はそれを功利的な小手先の表現でごまかすか模倣や折衷に逃避するかそうでない人は独自の世界を切り開こうと模索し続けるのだと思います。
>試行錯誤のプロセスにおいて「精神の死」が彼にむかって襲ってくる
同感です。大抵の作家はその「死」に打ち勝って自己を超える宇宙の創造に立ち向かうものだと思います。
>一回きりの独得の精神の死と再生のプロセス
これは、不同意。
一回きりではなく、作家は何回も精神の死、自我の否定、現在の表現の斬り捨てなどを経験するものではないでしょうか。作家の仕事とは、その大部分がこの「死」の連続で終わりがないものだと思います。
いかがでしょうか。
それを読みながら、ああ、山岸さんはこの「鉱石ラジオ」をこころの何処かにひそませているのだなのという感想がわいてくる。そして次の瞬間に想像の羽は写真家の浅野さんの「針穴写真機」に移っていく。
「鉱石ラジオ」と「針穴写真機」のあいだにどのような関係がひそんでいるのか、実のところ分からないのに、なんだか、そのふたつが兄弟の関係にあるように思えて仕方がない。
私は2002年からデジタルカメラを操っている。今は2代目の、キャノンのG3(四百万画素)であるが、それを「針穴写真機」みたいに使いたいという夢を最近いだいている。
その上での話であるが、自分の中にも、小さな「鉱石ラジオ」のカケラがあるのか、耳を澄まして聞いているところである。
アネックスを見て、本館を訪ねたら山岸せいじさんがキッチンでコーヒーを入れている最中でした。オーナーの門馬女史もいらして地崎バラ園からどうやって来ればよいのかという電話の対応を山岸さんに任せていました。とても雰囲気の良い、親子かと思ったくらい自然な会話でした。
頂いたコーヒーも優しくかつ芯のあるおいしい味でした。
初期のリコピーらしい機材を使った連作で、自分もコピー機のカバーを外して上からピンポイントで数本のペンライトを当てるという表現をした話をしたら興味深そうにうなずいていらっしゃいました。これは光が闇に流れるような画像になります。底の方で山岸さんの最近の仕事に通じるものがあるのかも知れません。
☆話変わって、「鉱石ラジオ」ですか。今でも身近な材料で作れますね。ただ、ダイオードを使う方が効率は良いようです。どうしても鉱石なら方鉛鉱のかけらを使います。コイルはボールペンの軸にニクロム線を巻いて、鉄心には釘を使うしかないかなあ。この部分が選局部分です。肝心のクリスタルイヤホンが入手できるか否か。
うーん、鉱石ラジオを心のどこかに潜ませているというのは当たっているようですね。
自分を取り巻く世界にある様々な情報や雑音や雑多な事象から、自分の周波数に合う信号をとぎすました感性をもって探り出すという…やはりT.nakamuraさんは詩人だ。
と、勝手に決めつけて不愉快ならごめんなさい。