闇の中で微かに感じる光。光は多少の変化を繰り返し我々をノスタルジーへと誘う。メールのただし書きのとおり、会場内は真っ暗。
胎児の時の記憶なのか、幼児期に体験した扉越しに見える廊下の明かりなのか?
CAIギャラリーにもう一つの部屋を制作する大がかりな今村育子のインスタレーションは、
誰もが自己の奥に記憶している闇と光の関係を蘇らす装置なのだ。
明かりは使用せず、そして作品内部には自らが現在住む家の壁紙を移植し
新たな my houseが登場している。この機会に彼女の部屋を是非訪ねて欲しい。
※尚、会場内は大変に暗くなっておりますので、入場の際はご注意願います。
ほんのわずか、床と壁のすきまから、ちらちらと揺れる光が漏れ、かすかに音がする。
筆者は、この会場の大きさを事前に知っているから、次の部屋に通じるドアがどこらへんにあるのかも、おおよそ見当がつくけれど、慣れない人はたいへんだろう。
次の部屋は、裸電球がひとつだけついている狭い部屋で、案内状にあった模様が、壁紙として貼られている。壁紙がちょっと古いためか、妙に落ち着く空間だ。
ドアを開けて三つ目の部屋へ。ここも暗い。そして、細長い。
左側の壁の中央にドアがあり、テレビモニターから漏れていると思しき光と音がわずかに見聞きできるのだが、ドアはわずかにあいたところで固定されているらしく、押しても引いてもうごかない。いささか、もどかしい。
突き当たりのドアを開けると、見慣れたCIAの奥の部屋だった。例の壁紙を使った小品が数点と、なぜか「どろんこハリー」の絵本があった。
作者のテキストが貼ってある。
わたしのおうち
闇のなかに光のすじがうかんでいます。
しばらくながめていると、その光は動いています。
小さいわたしは眠くもないのに、母にいわれてベッドに追いやられます。
母が電気を消して、ドアを閉めると、わたしの部屋は闇につつまれます。
眠れない小さいわたしは、闇のなかに光を見つけます。
それは、ドアの隙間からもれる廊下のあかりです。
それは、ときどき、動きます。
それは、父や母が廊下をとおるたびに動いているようです。
光と音と同時に気配まで、いろいろなものをかんじます。
暗いところではとくに、耳や鼻や想像が動きだします。
そしてドアのむこうには、すてきな世界がひろがっている予感がします。
けれども小さいわたしは、そこに行くことができません。
暗い2つの部屋は、記憶の「わたしのおうち」です。
明るい部屋は、わたしが現在住んでいる家の壁紙をはがし、移植しています。
この壁紙は、わたしたちの前に住んでいた住民がはったの(ママ)もので、残されたさまざまなしみやにおいから、彼らのおもいや生活を想像することができます。
そしてそのしみやにおいは、わたし自身の記憶のなかにも存在します。
ここは記憶と現在が同居する「わたしのおうち」です。
わたしたちは、幼少のころを、万能感にあふれた時代というふうに思いがちだ。
でも、この作品のどこかなつかしい闇は、小さいころだって思い通りにならないことは多かったんだという、当たり前のことを思い出させてくれた。
ただ、これは非難しているんじゃないんだけれど、若い世代の作品はどうしてこうもパーソナルなんだろうという思いはする。
社会とか、普遍的なこととかに、ベクトルが向かっていかない。
「じぶんを語ること」イコール「外の世界へと通じること」であれば、なおいいのだが。
今村育子個展「my,house わたしのおうち」
4月22日(土)-5月27日(土)、4月29日-5月14日休み、13:00-19:00
CAI 現代芸術研究所(中央区北1西28 地図D)
> ただ、これは非難しているんじゃないんだけれど、若い世代の作品はどうしてこうもパーソナルなんだろうという思いはする。
これ読んでふと思ったんですけど、若くない世代のパーソナルな作品っていうのも面白そうですね。
トラバ返し、どうもです。
若くない世代のパーソナルな作品といえば、江別つながりで、林田嶺一さんなんて、イイんじゃないですかね。
じぶんの幼少期の記憶に徹底的にこだわってます。
昨年、江別のセラミックアートセンターで個展をやってました。