ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

原作読書:フロドのこと

2005年11月07日 | 指輪物語&トールキン
原作読書もさっぱり進んでいないのですが、この間書き忘れていたことがあったのでちょっと書いてみます。
原作では、フロドとサムのやりとりに、ほっと心を和まされるんですよね。暗い状況なのに、軽口を叩くような明るいやりとりに。
キリス・ウンゴルの階段でのやりとりなんかはその最たるものですよね。TTTのラストも悪くないですが、やっぱりあの暗い状況でのあの会話だからこそ、というのはありますよね。
「王の帰還」に入ってからも、ふたりの会話には和まされます。二人とも、むしろつとめて明るくしようとしているからそうなるのでしょうが。それってお互いを思いやる気持ちから、ということですよね。
今回読んでいて心に残ったのが、体力を消耗しきったフロドが、重いからもうオークの鎖帷子は捨てたい、と言うところです。
サムは、生身のまま身を守るものもないのは、と渋るのですが、フロドは懇々と自分には鎧は必要ない、ということをサムに話します。
疲れきっているはずなのに、明るく、それでいて冷静に自分の状況を把握しながら喋るフロド。その覚悟を決めた様に、カッコイイなあ、と思いました。フロドファンの皆さんには申し訳ないですが、5回目にして初めて思いました(汗)
そして、フロドがそんな風に覚悟を決めて、それでいて明るく振舞っていられるのは、サムがいるからなんだなあということも。
このあたりの二人の会話は、主従ならでは、なのかもしれません。
でも、映画のように主従というよりは友情、しかもフロドの方がどうみても若い、という関係だったとしても、原作のようなフロドとサム、というのは可能だったと思うんですよね。聡明なフロドと素朴で質実なサム、という図式さえ崩さなければ。
ま、今更の繰言ですが(苦笑)
そして、フロドはつらぬき丸をサムにあげるといい、「剣をふるって戦うことはもう私のすることではないように思うのだよ」と言います。
ここ、初めて読んだ時から感動したのですが、今回、今までになくフロドがカッコイイ、と思いました。
今まで、映画のフロドの弱いところは、この戦わないフロドを拡大解釈しているのだと思っていたのですが、今更気がつきました。ずっと弱いままのフロドがこの台詞を言っても説得力がないんだということに。
フロドが最初から弱いことで、実はホビット庄の掃蕩での戦わないフロド、にはつながらないことが決まってしまっていたのですね・・・まあ映画ではそもそもホビット庄の掃蕩出てきませんが。だからいいのか・・・(何か違うような(汗))
まだまだフロドについては修行中の身なんですが(笑)少しずつわかって来たかなあと思います。これもまたある意味映画のおかげなんだと思いますが。
コメント
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