古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

「秦氏」誕生についての思いつき

2017年08月23日 11時15分53秒 | Weblog
『秦氏』について,突飛な思いつきを述べます。思いつきだけです。
隋書倭国伝に「秦王国」が登場したために「秦氏」が誕生したのではないでしょうか。
秦氏はあまりにも広範囲に顔を出しているために、単一氏族ではないと思われている方が多そうです。

「日本の古代において最も多くの人口と広い分布を誇る氏族はなんだろうか。多くの古代史家のみるところ、藤原氏でも蘇我氏でもなく,物部氏でも大伴氏でもない。おそらく渡来系の秦氏に違いないといわれている。」p9
(謎の渡来人 秦氏 水谷千秋・文藝春秋)
「彼らの多くが中国大陸からやってきたのか、朝鮮半島東部の新羅方面から来たのか、あるいは百済から来たのか,確かなところは今もわからない。「秦」という氏の名からすると中国が祖国のようであるし、「ハタ」が慶尚北道蔚珍郡(ウルチンぐん)の地名「波旦」に由来するのであれば新羅が有力となるだろうし、弓月君が百済から移住したという『日本書紀』の所伝を重視すれば百済出身ということになる。」p38

大きなかたまりとして確かに存在していながら、つかみどころがない、という感じです。
私流に考えますと,「秦氏の誕生」は「隋書倭国伝」に「秦王国」が登場したからだ,ということは充分にありえます。

念押ししますが、私の考えでは、隋書倭国伝の「阿蘇」山とは「アスカ」山のことで中国人は「アスカ」の「カ」が聞き取れずに「阿蘇」と記しました。
そのときまで日本に「阿蘇山」はなかったはずです。
九州に「阿蘇山」を創り出すと、九州とヤマトの混同が起こります。
魏志倭人伝は九州の奴国と近畿の邪馬台(ヤマト)国を混同しましたが、それと同じことが隋書倭国伝にも起こることになります。
(奴国と邪馬台国の混同をした魏志倭人伝は卑弥呼の復活を告げたことから重要になります)
これと似たようなことが『秦王国』にも起きたのではないか。

また、関連でしつこく言い続けますが、
天智天皇《中大兄皇子》が創られたのも、白村江の敗戦以降のことだと考えています。なぜ架空の天智天皇を創りだしたかというと、唐・新羅に逆らったのは、それまでの日本の天武系の政権ではなく、645年にクーデターで政権を奪った天智天皇だったことにするためです。
しかし、その政権は(672年・壬申の乱)で正統な天武政権に戻ったことにします。
そうしないと、唐からの責任追及の恐れがあるからです。
645年乙巳の変《大化の改新》、壬申の乱はなかったことになります。
唐の使者の「郭務悰」はおそらく内情はわかったでしょうが、莫大な贈り物を受け、それは唐の王室に対するものだけでなく、郭務悰の口止め料も入っていたはずです。
《その後天武系が滅び、天智に百済王・豊璋を投影させることになります。そして、正統性が天智にあるように変更します。しかし、「天智」という名前はきわめて悪い名前である,ということを井沢元彦氏が書いておられました。そこは修正できなくなっていたのでしょうか。》

さて「秦氏」も同じで、「隋書倭国伝」に「秦王国」が登場していることにより、
「秦氏」を名乗れば,唐からの戦争の責任追求を防げると読んだのではないでしょうか。
《竹斯国(ちくしこく?)(筑紫)、また東で秦王国へと至る。その人々は華夏(中国人)と同じようでなぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。」》ウィキペディア

608年の倭国のことが記述されていますから、「隋書」の完成はその後であり、日本人がその内容を見ることができたのがいつになるでしょう。
中国の史書は次の国が記しますから、「隋」のことは,次の「唐」の時代に記されることになります。
唐(とう、618年 - 907年)ですから618年以降のことになります。
また、すぐに日本人が閲覧できるものかわかりません。

しかし、重要になったのは「663年白村江の敗戦」以降ではないでしょうか。

秦王国の人は、野蛮人であるわけがなく、同胞の由緒正しい出自のものであるから、唐に逆らって,白村江に出兵するはずがない、と唐は考えるのではないかと、忖度(そんたく)したのではないか,ということです。
『秦氏』であるならば、「秦王国」の人であり、もし仮に戦争責任を追及されたとしても軽くすむのではないか。

『秦氏は巨大なネットワークを構築した日本最大の豪族であった。有名人こそ少ないものの,古代史上に現れる人名では、秦氏関係が最多とされている。彼らは日本各地の治水事業に携わり,開墾事業を展開し,拠点も造っている。記録に残っているものだけでも32カ国81郡に及んでいる。・・・・・東北地方を除けば、秦氏はほぼ全国に拡散していたことがわかる。』p48「伏見稲荷の暗号・秦氏の謎」関裕二・講談社 

秦氏の数がそれだけ多いということは,白村江の戦いに、日本は総力を挙げて望んだのではなかったのか,となります。
また、私の思ったとおりだとすると、逆に「秦氏」を名乗った者の中には白村江の戦いに出兵した氏族・豪族がいたことになるはずです。

宗像氏なんかはそうではないでしょうか。宗像・MUNAKATA→MUNAKHATA→HATA

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/464c0cb11528651145515f4e11a7dd25
白村江の戦いに宗像氏がいないわけがない 2016年09月22日
白村江の戦いで気になったことは、なぜ宗像氏が書かれていないのだろうか、ということです。
結局、大海人皇子も描かれていないのと、理由は同じで、唐の追及を免れるために消したのでしょう。

ということは,秦氏はひとくくりできるようなものではなく、渡来系の影響は大きくあれども,いろいろな人たちが「秦氏」を名乗った可能性があります。

「秦」は「チィン」と発音するのでしょうか。
ローマ字表記
普通話 ピンイン: qín (qin2)
ウェード式: ch'in2
広東語
イェール式: cheun4

中国向けには「秦・qin」で,日本国内向けには「秦・ハタ」とする。


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