古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

馬子・入鹿・薬猟

2006年06月10日 00時13分07秒 | Weblog
 馬子と入鹿の名前は薬猟からきているのかもしれません。
 合わせて「馬鹿」になるように名前をつけたと初めは考えました。それを否定するのではないのですが、もう一つ考えようがありました。
 この「馬」と「鹿」は天智天皇が崩御する原因となったものと考えられます。
 薬となる鹿の角をとるために5月5日の薬猟は行われました。天智天皇は、その時、馬上にいたはずです。
 ここに「雷」と「鳥」を付け加えれば、「薬猟」の場面になります。
 前にも書いているかもしれませんが、前よりはっきりしてきた気がします。

 以前は、天智天皇に直接雷が落ちたと考えていましたが、そうではなさそうだという気持ちが強くなってきました。《2005年11月29日~のブログ》
 
もし、天智天皇に雷が直接落ちた場合、天智天皇は衝撃によって、落馬することになったとしても、腰・背中を打つとは限りません。打ったとしても腰・背中の打撲がそれほど致命傷になるような状態にはならなかったかもしれません。一瞬のうちに脱力状態になっていたでしょうから、その場合は雷のほうが致命傷になるでしょう。
阿武山古墳の被葬者は即死ではないが落馬のようなことが原因でなくなったとされています(2006・1月3日のブログ)

 そこで、勝手に解釈しますが、天智七年(668)の5月5日薬猟で落雷の音に馬が驚き暴れたとします。馬は暴走を始めたでしょう。すると馬上の天智天皇は、馬を抑えようと手綱を引き、あぶみにかけた脚を突っ張ります。その時、片一方のあぶみが切れたのではないでしょうか。
 その時、馬上の天智天皇はバランスを崩しもんどりうって腰・背中から地上に叩きつけられる可能性は大きいはずです。
 阿武山という名前から、あぶみを連想してしまいました。
 また、書紀では、蘇我入鹿は鞍作(くらつくり)とも書かれています。
あぶみは鞍に付いているもののようですから、鞍の不具合で落馬したと暗示しているかもしれません。
 また、乙巳の変で、天智天皇は入‘鹿’を仕留めたことにしたのは、天智天皇の無念を晴らしたものかもしれません。(諏訪大社の御頭祭もそうではないか。12月20日のブログ)

さて、阿武山古墳の位置を見てください。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=345148&l=1353410

阿武山古墳の西側に書かれた地名に注目してください。
桑原とあります。
ここでは‘くわのはら’と読まれているようです。しかし、雷除けの地名ではないか、思いつきました。
雷よけの呪文として「くわばら、くわばら」というものがあります。
その語源は「桑原」という地名からきているとされていると聞いた事がありました。
調べてみますと、
兵庫県の三田市の桑原の欣勝寺、大阪和泉市桑原に同じ様な言い伝えがありました。
 
http://www.geocities.jp/mizu69room/kuwabara.html
《「くわばらくわばら欣勝寺」という民話。
むかしむかし、いたずら好きの雷の子が欣勝寺の古井戸に落ちてしまいました。
住職はいたずらばかりする雷の子をこらしめるために古井戸にふたをしました。
雷の子は「桑原へは二度と雷を落とさないから助けてくれ」と言ったので、
住職が二度とこの土地に落ちないことを約束させて助けてやったそうです。
それ以後一度も欣勝寺や桑原には雷が落ちないそうです。 》

その他の説として、仏教用語「クワンバラン」(からきているという説もあるようです。

http://www.hyogokenshin.co.jp/discover/Sanda/Sanda2/sanda2.htm
《「クワンバラン」(インド、サンスクリット語で、いやな事や、恐ろしい事を避けるときに唱えるおまじない)がいつの日か「くわばらくわばら‥」となり》

ともあれ、阿武山古墳近くの桑原は雷除けの地名の可能性が高いと思われます。

その桑原に古墳が発見されたようです。

(2006年04月20日 読売新聞)ですが、時間がたつと消えてしまう記事のようです
http://www2.odn.ne.jp/kofun/kuwanohara.htm

《・・・・大阪府茨木市の桑原(くわのはら)遺跡で、埋もれていた7世紀の群集墳24基が見つかり、うち1基が天皇陵にみられる八角墳(7世紀中ごろ、直径約10メートル)だった、と19日、府教委が発表した。中世の耕作で墳丘や石室などは壊されていた。中臣(藤原)鎌足の墓とされる阿武山古墳(7世紀後半)に近く、有力氏族、中臣氏の墓地だった可能性がある。

 阿武山古墳の西約600メートルの川沿いにあり、八角墳は、調査地東端で確認された。周溝などから八角の形が判明。中央には天井の壊された横穴式石室(幅1・2メートル、長さ5メートル)があった。墳形は、舒明天皇陵とされる奈良県桜井市の段ノ塚古墳に類似していた。・・・》
 八角墳は天皇のみに許された形だそうです。(白石太一郎・奈良大教授(考古学)の話)

この古墳は、天智天皇・不比等の関係者の方のものでしょう。
阿武山古墳とこの桑原古墳は、ちょうど甘樫丘の蘇我蝦夷と入鹿の邸の関係になるように思えます。
 
 また気になるのは、この八角墳が「天井の壊された」横穴式石室であることです。盗掘かなにかで、後になって天井が壊されたものなのか、最初から壊されていたものなのか、気になります。
 天の石屋戸の直前の事件を思い出したからです。
 スサノヲは天照大神が御衣を織っている服屋の頂に穴を開け、斑馬(ふちむま)を逆剥ぎにして落とし入れた、という古事記の話を思い出したからです。

(すみません。この読売新聞の文章からすれば、後から壊れたものであることは明らかでした。そこで消去しようと思ったのですが、思いとどまります。
斑馬というのが、落馬と関係あるのかしら、また斑鳩とも何か関係あるのかしら、と引っ掛かったからです。
馬は午を表しているのならば、南で火を意味するはずです。すると、天智天皇も火が原因で亡くなったことになりますから、卑弥呼の子孫ということになります。6/10午後9時)
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2 コメント

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本当は逆なのです (りんどう)
2008-04-18 10:19:17
>馬子と入鹿の名前は薬猟からきているのかもしれません。
人の名前に「馬鹿」だの「蝦夷」だのはつけないものです(それも実力者に)。これは、この人達の本来の名前じゃなく、後の人が勝手につけてしまった名前なのです。この一族の名前が残った資料は全てこの名前に書き換え、徹底的に名前を潰してしまった。いまじゃこの名前しか残ってない。だからこんな名前なのです。

これは、この一族が相当妬まれ恨まれ憎まれてたって事なんですよね。
渡来人で、飛鳥寺等の優れた寺を全て作った人々。自分の屋敷を盾にして都の防御をしようと都市計画を立てていた優秀な人々。
だからクーデターで中大兄皇子に虐殺されてしまったのです。面白くない、ってね。
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Unknown (go-hot-ai)
2008-05-01 23:06:19
難しいコメントをいただいてしまった、というのが正直な感想です。
全体的に組み立てられていませんから、まだまだコメントを出せる段階ではありませんが、無理してコメントします。
蘇我馬子などの名前の付け方がおかしい、というところは、りんどうさんの考え方と同じです。
ですが、現在、天智天皇(中大兄皇子)や鎌足は実在しなかったと考えています。モデルはいるはずですが、乙巳の変・大化の改新はなかったと考えています。
天智・天武が兄弟であろうと、なかろうと、権力者はあんな閨閥関係をつくらないでしょう。
乙巳の変と似たような事件があったとしても、年代が違っているのではないでしょうか。
しかし、だったらどうなるんだ、というところはまだできません。

ところで『相当妬まれ恨まれ憎まれてた』人物は「あの人」じゃないかなぁ、とひらめきました。このヒント、いずれ使わさせていただきます。
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