古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

大津皇子の祟り Ⅱ

2010年03月29日 13時30分10秒 | Weblog


二上山(大津皇子墓)-長谷寺(桜井)―室生寺は正確には一直線上ではありません。


室生寺の位置


薬師寺の位置


高市皇子(天皇)は大津皇子の祟りで亡くなったと考えられたのではないか、と以前考えました。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/7798550bb0a34c95a4abfa7ae3bc95c8

しかし、検索してみますと、一般的には、草壁皇子の亡くなったのが大津皇子の祟りと考えられているようです。
大津皇子が移葬・改葬されたことが、万葉集の大伯皇女 ( おほくのひめみこ )の歌から推定されるそうです。

ウィキペディア(Wikipedia)大伯皇女 から
《(大津皇子を二上山に移葬したときの歌)
うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む
宇都曾見乃 人尓有吾哉 從明日者 二上山乎 弟世登吾將見》

http://www008.upp.so-net.ne.jp/yatsuri/onryou.html
《謀反の罪で死を賜った大津皇子の亡骸は二上山に移葬されることとなりました。
 大津皇子の墓の位置を二上山雄岳山頂と断定するには記録がなく、考古学においても実証されていませんが、『万葉集』大伯皇女の歌の詞書に“大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大伯皇女の哀しび傷む御作二首”とあるところから、大津皇子の屍は二上山に移葬されたと考えられます。二上山の麓、当麻側に鳥谷口古墳と呼ばれる千三百年ほど前の石室の剥き出しになった古墳がありますが、未だ埋葬者が判明していないことから、ここが大津皇子の本当の墓ではないかという説も浮上しています。》

http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-75.html

《大津皇子「悲劇の皇子」伝説の解剖》
・・・・・
《万葉集には「二上山に移し葬る」とあった。改葬があったのだ。では、どこから二上山へ? 一説によると、藤原京にあった薬師寺あるいはその隣接地からだと言う。その真偽は不明だが、薬師寺(注2)には確かに大津皇子にまつわる言い伝えがある。「薬師寺縁起」(1015年成立)によると、大津皇子は祟り霊として顕れた。ともあれ薬師寺は今に至るまで、大津皇子と因縁を持ち、彼の鎮魂寺の役割を担っている(注2)。》・・・・・

大津皇子が移葬・改葬されたのは、草壁皇子の崩は大津皇子の祟りのせいだと考えられたからだ、というのです。
そこで、大津皇子の霊を慰めなければならない、ということで改葬したということのようです。

ですが、草壁皇子は存在しません。
草壁皇子=高市皇子(天皇)のはずです。
もしかすると、高市皇子(天皇)のもともとの呼び名は草壁皇子(日下部皇子)だったかもしれません。
大津皇子の祟りを恐れて名前を変えた可能性はあります。
大津皇子の祟りを未然に防ぐ、つもりだったかもしれません。
あるいは既に祟りの予兆があり、草壁皇子(高市天皇)の生命にまで危険が及ぶ怖れがあったのかもしれません。

ともかく草壁皇子は689年に亡くなったことにされています。
大津皇子は草壁皇子に祟り、復讐した、ことになります。
大津皇子の霊は安んじられるはずです。
しかし、大津皇子の霊は、実体のない身代わりに取り付いたのです。
正確に言えば、身代わりに取り付かせた、または、取り付くものなら身代わりに取り付いてほしい、と考えたと思われます。

薬師寺と大津皇子の因縁が深いそうですので、まず位置をみます。
薬師寺旧境内
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344006&l=1354705

予想通り、二上山(大津皇子墓)-斎宮跡の直線、いわゆる太陽の道と関係付けられそうです。

室生寺の位置
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343216&l=1360226

見るからに直角三角形になりそうです。
 薬師寺旧境内→二上山(大津皇子墓)
  ①211.487度 ②31.4269度 ③18.60108km
  Ⅰ211°36′12.62″  Ⅱ31°32′35.72″ Ⅲ18,590.781(m)
 薬師寺旧境内→長谷寺(桜井)
  ①142.819度 ②322.889度 ③18.47324km
  Ⅰ142°41′39.00″  Ⅱ322°45′48.29″ Ⅲ18,470.803(m)
 二上山(大津皇子墓)→長谷寺(桜井)
  ①86.8041度 ②266.933度 ③20.91057km
  Ⅰ86°49′06.12″  Ⅱ266°56′51.51″ Ⅲ20,967.954(m)
 薬師寺旧境内→室生寺 
  ①121.725度 ②301.870度 ③27.53491km
  Ⅰ121°36′32.03″  Ⅱ301°45′15.06″ Ⅲ27,576.167(m)
 二上山(大津皇子墓)→室生寺
  ①87.5501度 ②267.755度 ③33.16482km
  Ⅰ87°33′39.05″  Ⅱ267°45′57.67″ Ⅲ33,256.029(m)

 薬師寺旧境内-二上山(大津皇子墓)と薬師寺旧境内-長谷寺(桜井)はほぼ同じ距離です。


薬師寺旧境内-二上山(大津皇子墓)-長谷寺(桜井)の二等辺三角形
 薬師寺旧境内での角度
  211.487-142.819=68.668度
  211°36′12.62″-142°41′39.00″=68°54′33.62″=68.909度
 二上山(大津皇子墓)での角度
  86.8041-31.4269=55.3772度 
  86°49′06.12″-31°32′35.72″=55°16′30.40″=55.2651度
 長谷寺(桜井)での角度
  322.889-266.933=55.956度
  322°45′48.29″-266°56′51.51″=55°48′56.78″=55.8157度

薬師寺旧境内-二上山(大津皇子墓)-室生寺の三角形
 薬師寺旧境内での角度
  211.487-121.725=89.762度
  211°36′12.62″-121°36′32.03″=89°59′40.59″=89.9946°
 二上山(大津皇子墓)での角度
  87.5501-31.4269=56.1232度
  87°33′39.05″-31°32′35.72″=56°1′3.33″=56.01759度
 室生寺での角度
  301.870-267.755=34.115度
  301°45′15.06″-267°45′57.67″=33°59′17.39″=33.9881度

薬師寺-二上山-室生寺は直角三角形ですが、とりたてて特別な直角三角形に見えません。
薬師寺-二上山-長谷寺(桜井)は二等辺三角形です。
(今気がつきましたが、多神社の真北が薬師寺です。時間がありませんから次回にします)

さて、亡くなったとされる草壁皇子は、その時点では架空の存在に変わっていたはずです。
高市皇子(天皇)の身代わりとして草壁皇子は存在したはずです。
大津皇子を殺した犯人(草壁)は、確かに、祟りによって亡くなったのだから、もう大津皇子は祟らないだろう、祟る必要はないだろう、と虫のいい願望をしたわけです。

卑弥呼トヨには、本当は子がいましたが、若紫には子は授からなかったこととしたことと、ちょうど逆のことをしたわけです。
若紫(卑弥呼トヨ)に子がいなければ、子孫に祟りようがありません。
同じように、祟りが成就し、草壁皇子が亡くなれば、その時点で祟り・復讐は終わるはずです。

ですが、高市天皇の崩御は大津皇子の祟りと考えられたことでしょう。
いや、さらに、文武天皇も長屋王の悲惨な死も、大津皇子の祟りと考えられる可能性はあります。

まぁ、しかし、文武天皇・長屋王の殺害を大津皇子の祟りにするのは、藤原氏の作戦かもしれません。
そうすれば、やむを得ず起こしたクーデターにしろ、藤原氏の、自分たちの心理的負担はやわらぐことになります。
ですが、そうはしても、今度は、自分たちが長屋王の祟りに苦しむことになります。

また、先祖の霊はその子孫が祀らなければならない、ということがあります。



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