古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

神武・敏達・天武崩御後の後継争い、大津皇子を殺したのは高市皇子でしょう

2007年05月29日 18時13分07秒 | Weblog
これまでに、天武天皇と敏達天皇の似ている点はさんざんあげてきました。(2006・8月や9月あたりで)
そして、神武天皇崩御は西暦紀元前585年であり、敏達崩御は西暦585年であり、天武崩御は西暦686年であることから、神武=敏達=天武天皇の部分があることをみました。(ただし、紀元前585年と紀元元年を軸として対称になるのは紀元586年です。ともあれ西暦を利用しないとこんな芸当はできません)
 天武崩御後の大津皇子謀反と敏達崩御後の穴穂部皇子の謀反は同一のもの判断したのですが、此処に神武崩御後の手研耳命(たぎしみみのみこと)の謀反も同一の事件、すなわち大津皇子の事件が繰り返し書かれたものだと判断して追加します。

焼津という地名を考えていた時に、神武天皇の皇子の日子八井命(ひこやゐのみこと)、神八井耳命(かむやゐのみこと)神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)を思い出していました。≪これは古事記で、日本書紀では神八井命と神渟名川耳命(かむぬなかはみみのみこと)の二人≫
 
 三天皇崩御後、同じように後継争いが起きていますが、表向きの事件の内容に同一の事件だと思わせるものはありません。
 しかし、もし同一の事件が繰返し記述されていたとすると、大津皇子を殺したのは、巷間言われているような、持統の陰謀というだけではすみません。
 大津皇子殺害の第一人者は高市皇子にならざるをえないのです。

(そして、むしろクーデターを起したのは高市皇子たちの方かもしれません)

一応、手研耳命(たぎしみみのみこと)の反逆をウィキペディア(Wikipedia)から引用します。
タギシミミの反逆 ・・ウィキペディア(Wikipedia)
≪あらすじ
天皇(神武天皇)にはヒメタタライスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)との間の子の他に、日向にいたころにアヒラヒメ(阿比良比売)との間にタギシミミ(多芸志美美命・手研耳命)、キスミミ(岐須美美命)の二柱の子をもうけていた。天皇が亡くなった後、タギシミミはヒメタタライスケヨリヒメを妻にし、その3人の御子を殺そうと計画していた。それを知ったイスケヨリヒメは3人の御子にそれを知らせようと、「狭井河から雲が立ち登って、畝傍山では大風が吹く前触れとして、木の葉がざわめいている」という内容の歌を詠んだ。その歌の意味を解した御子たちはすぐにタギシミミを殺すことにした。

カムヌナカワミミ(神沼河耳命)は、兄のカムヤイミミ(神八井耳命)に武器を渡してタギシミミを殺すように言った。しかし、カムヤイミミは手足がわなないて殺すことができなかったので、カムヌナカワミミが兄の持っている武器を取ってとどめを刺した。そこで、それを賛えてカムヌナカワミミはタケヌナカワミミ(建沼河耳命)とも言う。カムヤイミミはこの失態を恥じ、弟のカムヌナカワミミに皇位を譲り、自らは神官となって仕えた。≫

まず、大雑把に話を進めます。
手研耳命(たぎしみみのみこと)の反逆は本当に反逆なのでしょうか。
神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)たちにすれば、手研耳命は自分たちを殺そうとしているのは事実なのですから、その前に手を打つのは正当防衛でしょう。
しかも、手研耳命は九州生まれで、生母も皇后ではなく、正統なる出自ではなさそうです。

 大津皇子も663年九州の那大津の生まれです。母は大田皇女です。
663年は白村江の戦いがあった年で、斉明天皇に随行して九州に行き、そこで生まれたことになります。(これもおかしいです。大海人皇子(天武天皇)に同行するならわかりますが。しかも、白村江の戦いには大海人皇子の名前は見えないようです。おかしい。)
 
 さて以前にも書きましたが、大田皇女が天武天皇の最初の皇后であるべきです。その時、皇太子は大津皇子になります。文献上は、持統が最初の皇后となっていますが、それはおかしいはずです。
 そして、大田皇女が天武天皇の最初の皇后ならば、たとえ大田皇女が早死にして、後に皇后を迎えるとなっても、皇太子は大津皇子でなければなりません。
 皇太子を、後の皇后の持統を母とする草壁皇子に変えたならば、もめることは必死です。天武天皇が草壁皇子を皇太子にすることはありえないことです。(チャングムでもそうでした)
 ただ文献上、持統が最初の天武の皇后となっているから、皆様は惑わされているだけです。

震えている兄の手から矢を奪い、自ら手研耳命(たぎしみみのみこと)を射殺した神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)が二代目の天皇の綏靖(すいぜい)天皇になります。

2006・9/15に書きましたが
≪敏達天皇・・・渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)
天武天皇・・・天渟中原瀛真人天皇(あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)
「渟中」という字が使用されているのも、敏達・天武天皇の御二人だけです。≫

しかし、綏靖天皇にも「渟中」が使われている写本があるそうです。
綏靖天皇・神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと・これは古事記)
神渟名川耳天皇(かむぬなかはみみのすめらみこと・これが日本書紀)
神渟中耳天皇と書く写本もあるそうです。(第一巻・綏靖天皇即位前紀p247注)

高市皇子はウィキペディア(Wikipedia)によると、
≪高市皇子は天武天皇の第一皇子で、胸形尼子娘を母とする。母の父は胸形君徳善である。≫

神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)の「む(ぬ)なかは」は「胸形・むなかた」と似ていないでしょうか。
 
ただし、繰り返し記述されているということが信じられないと意味はありません。

まとまっていないままに書いていますので、わかりにくいかもしれませんが、ご容赦願います。この項、続けられたら続けます。
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