宗像大社・辺津宮-中津宮-沖津宮
この三地点は一直線にはなりませんでした。
宗像大社・辺津宮
北緯33度49分51.73秒、東経130度30分51.70秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=334951.73&l=1303051.70
宗像大社・沖津宮
北緯34度14分29.9秒、東経130度06分13.2秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=341429.9&l=1300613.2
宗像大社・中津宮
北緯33度53分48.52秒、東経130度25分55.62秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=335348.52&l=1302555.62
辺津宮→沖津宮の延長線は仁川(インチョン)辺りにいきます。
辺津宮→中津宮の延長線は、公州(コンジュ)近くを通りますが、仁川(インチョン)の南の牙山湾の南にいきます。
そこで、私はこの直線は「白村江の戦い」に関連することを表しているのではないかと考えました。
(この二つの直線に挟まれた仁川(インチョン)の辺りは、以前から白村江ではないかと考えていたものですから。
以前書きましたが、インチョン湾での干満の差は大きく、潮流は速いものです。
白村江の戦いでは、日本軍は舳先を変えることもできないで、唐の軍船に突っ込んで行ったようです。そして壊滅しました。その原因は潮流にあったと考えました。再度検索すると、世界最大の潮力発電所がインチョン湾で建設されるそうです。
http://www.bioenergy-info.com/tidal/
インチョン湾が最も白村江にふさわしい、と感じます。)
ご承知のように、663年白村江の戦いでは日本軍は完敗し、船は沈み多くの人が亡くなったはずです。
そこで、「白村江の戦い」で亡くなった人々を慰霊するための社があってもいいのではないでしょうか。
またこの敗北で、当時の人々は「百済復興」を不可能と感じたことでしょう。
そこで、「百済復興」を祈願する社も、あってもいいのではないでしょうか。
宗像大社はその二つのために造られたのではないかと想像してみました。
いや、それ以前から宗像大社はあったのかもしれません。ですが、白村江の敗戦以降、その「慰霊」と「百済復興」の意味を持ったのではないでしょうか。
少なくとも「慰霊」の意味を持つ社がどこかになければならないとすると、宗像大社がその意味を持つべきではないでしょうか。
検索したところ、宗像大社の例祭は毎年10月1日~3日のようです。
白村江の戦いはとみると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
<:663年10月4日(天智天皇2年8月27日)-10月5日(8月28日)>
ということで、8月27日から28日にかけてで、現代に直すと10月4日~5日となるようです。
少し、現代の暦とずれているのか、それとも、呪術的にみると、毎年、白村江の戦い前に勝利を祈願するということになるのでしょうか。
(もちろん偶然で、「宗像大社の例祭が毎年10月1日~3日」というのは他の理由があるのかもしれません。)
この三地点は一直線にはなりませんでした。
宗像大社・辺津宮
北緯33度49分51.73秒、東経130度30分51.70秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=334951.73&l=1303051.70
宗像大社・沖津宮
北緯34度14分29.9秒、東経130度06分13.2秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=341429.9&l=1300613.2
宗像大社・中津宮
北緯33度53分48.52秒、東経130度25分55.62秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=335348.52&l=1302555.62
辺津宮→沖津宮の延長線は仁川(インチョン)辺りにいきます。
辺津宮→中津宮の延長線は、公州(コンジュ)近くを通りますが、仁川(インチョン)の南の牙山湾の南にいきます。
そこで、私はこの直線は「白村江の戦い」に関連することを表しているのではないかと考えました。
(この二つの直線に挟まれた仁川(インチョン)の辺りは、以前から白村江ではないかと考えていたものですから。
以前書きましたが、インチョン湾での干満の差は大きく、潮流は速いものです。
白村江の戦いでは、日本軍は舳先を変えることもできないで、唐の軍船に突っ込んで行ったようです。そして壊滅しました。その原因は潮流にあったと考えました。再度検索すると、世界最大の潮力発電所がインチョン湾で建設されるそうです。
http://www.bioenergy-info.com/tidal/
インチョン湾が最も白村江にふさわしい、と感じます。)
ご承知のように、663年白村江の戦いでは日本軍は完敗し、船は沈み多くの人が亡くなったはずです。
そこで、「白村江の戦い」で亡くなった人々を慰霊するための社があってもいいのではないでしょうか。
またこの敗北で、当時の人々は「百済復興」を不可能と感じたことでしょう。
そこで、「百済復興」を祈願する社も、あってもいいのではないでしょうか。
宗像大社はその二つのために造られたのではないかと想像してみました。
いや、それ以前から宗像大社はあったのかもしれません。ですが、白村江の敗戦以降、その「慰霊」と「百済復興」の意味を持ったのではないでしょうか。
少なくとも「慰霊」の意味を持つ社がどこかになければならないとすると、宗像大社がその意味を持つべきではないでしょうか。
検索したところ、宗像大社の例祭は毎年10月1日~3日のようです。
白村江の戦いはとみると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
<:663年10月4日(天智天皇2年8月27日)-10月5日(8月28日)>
ということで、8月27日から28日にかけてで、現代に直すと10月4日~5日となるようです。
少し、現代の暦とずれているのか、それとも、呪術的にみると、毎年、白村江の戦い前に勝利を祈願するということになるのでしょうか。
(もちろん偶然で、「宗像大社の例祭が毎年10月1日~3日」というのは他の理由があるのかもしれません。)