古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

平城京遷都はなぜ西暦710年だったのか。

2005年08月19日 23時41分52秒 | Weblog
平城京の位置はきっちりと決定されたものであることは、既に明白となっています。
では、その遷都の時期はどうだったのでしょうか。
これも、たまたま710年になったわけではないと思われます。だいぶ前に決められていたのではないかと思われるのです。
(八月十五日の終戦の日は偶然決まったものでないのと同じと考えています)

なぜならば、710年から120年を引くと590年になるからです。
だからどうしたと、いわれそうです。
しかし、思い出してください。
神功紀(日本書紀の神功皇后のところ)では120年後の人物が、一緒に登場していました。一緒の時代に生きているはずのない人が同居しているのです。
これは‘紀年問題’の最も基本的な部分で、どなたも指摘しているようです。
神功紀では、別時代の人が一緒にいるために、書かれている年代が、確定できないのです。
これは、もちろん「魏志倭人伝」の間違いのとおり書かれているだけのことです。
しかし、そこだけにとどまっていてはだめです。
ここは応用です。
710年に遷都がおこなわれたということは、590年にも遷都がおこなわれていたということなのです。
しかし、590年の遷都は前王朝が滅亡したことによって起こったことのはずです。
(590年あたりで大きな事件・歴史的転換点があったことは確かです。)
ところが前王朝の滅亡は消されなければなりません。
変な表現をすると、710年の遷都は590年の遷都です。
奇妙な発想ですが、710年に遷都をすれば、590年の前王朝の滅亡は消えるのです。(「魏志倭人伝」の間違いから)120年後のことを一緒くたにできるからです。

(藤原京が694年にできていますから、ちょっとわかりにくくなっていました。
 また、平安京は794年でした。この100年の差は意味があるのでしょうか。わかりません)

これからは、(前からそうだったのですが)先が見えませんので、時間がかかりそうです。(まだひっくり返りそうなことが、あるような気がしますし)
それで、更新は週一を目指します。
自分で自分のブログを読み返しても時間はかかるし、疲れます。
他の本も読みたいのに、休みがとれなかったし。夏バテ。
 そこで、もし良かったら月一回でも覗いてください。たぶんそれほど進んでいませんから。
 ただし、執念深いですから、やめることはないです。


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2 コメント

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694年 (いしやま)
2014-11-06 20:54:44
794年と694年 これはどういうことなのでしょうか。
694年から794年が決められたのでしょうか。遷都には時間がかかりますから、しかしどちらでもそうなりますね。何を意味しているのでしょうか。平城京と藤原京の丸瓦の種子模様は違っていましたから違うのでしょうか。
794年と694年 (永岡)
2014-11-09 11:43:28
忘れていました。感謝です。
今は、794年平安京遷都から694年藤原京遷都が創られた、と考えます。(瓦についてはわかりかねます。)
2014年11月9日一項を設けました。

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