コダワリの女のひとりごと

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軍師 官兵衛ゆかりの城めぐり1 /兵糧攻めの鳥取城に立つ

2014-02-17 | 旅 鳥取県

軍師 官兵衛ゆかりの城めぐりは、鳥取の飢え殺し (とっとりのかつえごろし)と呼ばれる、兵糧攻めの鳥取城跡からスタート!

お城は好きだけど、実は歴史に詳しいわけではない私。
詳しくない歴史の中で、乱世の戦国時代は特にも苦手。

史実がどこまで事実なのか。


私もゆかりのある地、鳥取市からスタートした旅です。
実は、偶然にも、昨年9月にちょっとした空き時間にこの城跡を訪れました。

2013年9月30日の鳥取城跡
用事があって4年ぶりに訪問した鳥取市は、弾丸で滞在時間がほとんどなかったのですが、せっかくなので、仁風閣くらいは見ておこう!わずかな時間に循環バスで行ってみました。

そこで、発見した烏取城跡。

鳥取へは何度も行っているけれど、観光をすることはなかったので、こんな城跡があったことを知らなかったのでした。
登ってみようと石段を上がってみましたが、ヒールの靴では無理でした。
登ってみたかったな。。。そんな思いが通じた?突然、黒田官兵衛の旅のお話をいただきました。
びっくり!まさに、私が登りかけてやめたその場所が旅先。ご縁を感じました!


黒田官兵衛ゆかりの地めぐりは、鳥取城跡からスタート!
鳥取の飢え殺し (とっとりのかつえごろし)といわれる、鳥取城の兵糧攻めの地です。

鳥取城跡は30年計画で、江戸時代の姿へ復元する計画が進んでいるそうです。
登城ルートの整備、三階櫓などが近い将来復元される予定とのこと。


天球丸の巻石垣(復元)
亀の甲羅状の石は、設置された石垣がくずれそうになったのを
防ぐために置かれた ものだそうです
巻石垣」ともいわれ川の護岸や港の突堤に関わる職人さんが
築いたとされているそうです。
このよう石垣は日本で唯一、鳥取城のみなのだそうです。

絵図を元に復元されたそうですが、日本の城というより、西洋風な趣もあります。

鳥取城は、久松山(きゅうしょうざん)の山頂と山麓に城郭が築かれ、山頂の戦国時代の山城(山上の丸)
麓の近世城郭の平城(山下の丸)からなる城なのだそうです。
復元工事様子も楽しめるようになっています。



この二本の松は昔からこの場所にあるそうです。
復元工事中なので、クレーンが見えていますが、この対のように寄り添ってそびえたつ松がなんとも不思議で、何か訴えている気さえしました。

二の丸に上がると標高50メートルくらいですが、かなり眺めがよくなり鳥取市内を眺望できます。

仁風閣が下に見えます。




城跡は運動公園だったり、動物公園もあったそうです。
なんと、この辺りはイノシシが出るそうです。
びっくり~~~だって、ここから5分もかからず県庁もあるんですよ!




天守は久松山(きゅうしょうざん)の頂上付近にあったそうで山城。
山城は敵の攻めに対して、眺めがいいけれど、攻められたときに食糧の調達が大変なわけで...

そこを、秀吉が狙って、 「兵糧攻め」 という、流血の戦いはしないけれど、飢えで死ぬという、もっとも残酷な手段で攻められてしまったのです。

烏取城があった久松山の近くには、現在の太閤ヶ平、本陣山があり、羽柴秀吉は本陣を構えました。
久松山とは、直線距離で1.5キロ。

黒田官兵衛ゆかりの地をめぐる旅④太閤ヶ平から鳥取城跡と鳥取砂丘を望む
本陣山の記事はこちら

烏取城のあと、太閤ヶ平を案内していただいたので、別記事にします。
が、太閤ヶ平からは、手に取るように鳥取城の様子が見え、声さえも聞こえる距離です。

秀吉は、烏取城の周囲に14~15の砦を築きました。
農民だった秀吉は土木工事を得意としていたので、その砦を築くのも素早かったようですが
築いた砦の中のひとつを、黒田官兵衛も守っていたそうです。
その砦の場所は、現在の鳥取市内湯所の辺りの要所、そこを守っていたと史料があるそうです。

兵糧攻めが始まった時、鳥取城には食糧が20日分。
吉川経家が城主になって、あまりの食糧の蓄えのなさに驚いたそうです。
秀吉がすでに高額で、米などを買い占めてていたそうで、城から持ち出して売られていたとか。。。

毛利氏の援助を頼りにしていても
秀吉の陣営に海も千代川、陸も固められ、援軍も頼れず、
一ヶ月で食糧がつきはじめ餓死する者が出始めたそうです。

約4ヶ月後、城主である吉川経家が秀吉に開城を申し出て、
経家など有力者の切腹と引き替えに
兵士たちの助命が聞き入れられたそうです。


吉川経家辞世の句は
「武士(もののふ)の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん」
「もとの栖(すみか)に帰る」という意味。

文武に優れた武将として知られる経家。
毛利側より派遣されてきた経家、秀吉も彼の優れた能力をかっており
自害はしなくていいと言ったそうですが、経家は死を選びました。

時代が必要とした人、いえ、時代に翻弄された人なのですね。。。
経家は鳥取城主となるときに、首桶を用意して来たとも言われ、自分の身の行く末を悟っていたのかもしれません。


本来の鳥取城主は追放された山名豊国ですが
豊国は家康によって取り立てられ、生きながらえました。

吉川経家の像は鳥取城のある久松山を背に立っています。

城跡には昔のままの石垣や、石段も多く残っています。

過去に鳥取城を復元という話もあったようですが、建物は立たない(予算の関係から)ということで、その話はいつしか消えたそうです。

鳥取大地震の影響など、古い石垣が危険なことから工事が必要となり
石垣は修理、復元し、三階櫓は復元予定ということで、今、鳥取城の復元工事が進んでいるようです。



本丸があった久松山は遠足コースにもなっているそうです。




天球丸跡
池田長吉姉の天球院(てんきゅういん)の居所があったことによるそうです


過去に私が制覇した城の中で、一番大変だと思ったのは彦根城でしたが、鳥取城の
制覇の難易度は、国内の城、城跡の中でもトップクラスではないかと思いました。

黒田官兵衛ゆかりでもあり、日本のマチュピチュといわれる竹田城、私は制覇していませんが
その竹田城以上に、難易度が高く、城跡としても面白いと思いました。
次回、鳥取へ行ったら絶対上ってみたいです。


菱櫓跡

復元された場所はまだまだ一部で、昔のままの姿が残っています。

鳥取の名物に「とうふちくわ」がありますが、
このちくわが生まれた背景は、徳川家康の孫に当たる鳥取の初代藩主・池田光仲から始まる池田藩が関わっているとのこと。

池田のお殿様は、江戸に見栄を張るために、倹約、節約。
民に贅沢を禁止し、豆腐を食べていろと強いられたことから、とうふちくわが生まれたらしいのです。



二の丸 走り櫓跡





登り石垣らしいのですが、あまり意味のない場所に残っていました。
なぜここに?烏取城の不思議。



天守閣のあった久松山は263メートルあるそうです。
二の丸で50メートル。
本丸跡までは片道40分。

二の丸から先は、昔のままの急な石段が延々と続くそうですが、地元の方はよく散歩コースにされているそうです。

私は坂を上るのは得意なのですが石段は苦手。
雪が降って滑りやすい状態なので、降りるときが心配で、本丸へ登るはやめました。


この石垣は昔のままの状態。
戦国時代以降の石垣は、主に「空積み」が多いそうです。

大河ドラマ「軍師 官兵衛」の中では、あまり大きく扱われないようで残念ですが
『鳥取城の兵糧攻め(鳥取の飢え殺し =とっとりのかつえごろし)』 
こそは、現代に生きる私たちが、知っておくべき重要な史実ではないでしょうか。

久松山の鳥取城本丸跡には石垣が残ります。

春は桜の名所で、その久松山の麓の広場ではツツジが満開になる、国指定史跡。

〒680-0011 鳥取市東町2
鳥取駅からバスで8分鳥取駅からバスで8分「西町」下車、徒歩5分
(土日祝のみ
ループ麒麟獅子バス「鳥取城跡」下車、徒歩5分、 「西町」下車、徒歩5分

※私はタクシーを利用。
鳥取城の登口まで、鳥取駅から800円でした。

官兵衛の次は、孤独のグルメの谷口ジローさんゆかりの建物へつづく
黒田官兵衛ゆかりの地めぐり②谷口ジローのグランドアパート~鳥取東照宮

 姫路、岡山、鳥取城下町推進協議会 / 黒田官兵衛ゆかりの城をめぐる山陰・山陽の旅
まとめの目次

 

 SPECIAL THANKS
鳥取市教育委員会・文化財専門員 細田
ご案内いただきありがとうございました!



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